前回までと同趣旨ですが、別の論考を示します。
「大業三年記事」の「隋帝」の正体 ―「大業起居注」の欠如と「重興仏法」という用語―
「趣旨」
『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること。以上を述べます。
Ⅰ.『隋書』に対する疑い -大業年間の「起居注」の亡失について-
『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたものです。
『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた古田氏においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事については該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については、『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、記事として確実性がやや劣ると見る立場もあるようです。それは「起居注」との関係からです。
『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、本来は皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる重要且つ極秘の記録でした。この「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという考え方があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点(初唐)で宮廷の秘府(宮廷内書庫)に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、亡失しているようです。
また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。(註1)
また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。
「趣旨」
『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること。以上を述べます。
Ⅰ.『隋書』に対する疑い -大業年間の「起居注」の亡失について-
『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたものです。
『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた古田氏においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。
おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事については該当すると思われる記事が『書紀』にないこともあり、特に戦前はその存在は疑問視と言うより無視されていました。近年はこの「開皇二十年」記事についてもその存在を認める方向で研究されているようですが、この「大業三年」記事については、『書紀』との食い違いがあったとしてもそれは『書紀』側の問題として考えられていたものであり、これについては問題視されることがありませんでした。しかし、記事として確実性がやや劣ると見る立場もあるようです。それは「起居注」との関係からです。
『隋書』に限らず、史書の根本史料として最も重視されるのは「起居注」と呼ばれるものです。「起居注」は皇帝に近侍する史官が「皇帝」の「言」と「動」を書き留めた資料であり、本来は皇帝本人もその内容を見ることはできなかったとされる重要且つ極秘の記録でした。この「起居注」については「大業年間」のものが「唐代初期」の時点で既に大半失われていたという考え方があります。たとえば『隋書経籍志』(これは『隋書』編纂時点(初唐)で宮廷の秘府(宮廷内書庫)に所蔵されていた史料の一覧です)を見ても「開皇起居注」はありますが、「大業起居注」は見あたらず、亡失しているようです。
また、「唐」が「隋」から禅譲を受けた段階ではすでに「秘府」にはほとんど史料が残っていなかったとさえ言われています。特に「大業年間」の資料の散逸が著しかったとされます。(註1)
また同じことは『隋書』が「北宋」代に「刊行」(出版)される際の末尾に書かれた「跋文」からも窺えます。それによれば「隋代」に『隋書』の前身とも云うべき書が既にあったものですが、そこには「開皇」「仁寿」年間の記事しかなかったと受け取られることが書かれています。
「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武德五年,起居舍人令狐德棻奏請修五代史。《五代謂梁、陳、齊、周、隋也。》十二月,詔中書令封德彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。…」(『隋書/宋天聖二年隋書刊本原跋』 より)
つまり『隋書』の原史料としては「王劭」が書いたものがあるもののそれは「高祖」(文帝)の治世期間である「開皇」と「仁寿」年間の記録しかないというわけです。
ここで出てきた「王劭」という人物については以下に見るように「高祖」が即位した時点では「著作佐郎」であったものですが、その後「職」を去り私的に「晋史」を撰したものです。しかし、当時そのような「私撰」は禁止されており、それを咎められ「高祖」にその「晋史」を閲覧されるところとなったものですが、そのできばえに感心した「高祖」から逆に「員外散騎侍郎」とされ、側近くに仕えることとなったものです。その際に「起居注」に関わることとなったというわけです。
(以下関係記事)
「…高祖受禪,授著作佐郎。以母憂去職,在家著齊書。時制禁私撰史,為待史侍郎李元操所奏。上怒,遣使收其書,覽而悅之。於是起為員外散騎侍郎,修起居注。…」(『隋書/列傳第三十四/王劭』より)
その後「高祖」が亡くなり、「煬帝」が即位した後「漢王諒」(「文帝」の五男、つまり「煬帝」の弟に当たる)の反乱時(六〇四年)、その「加誅」に積極的でなかった「煬帝」に対し「上書」して左遷され、数年後辞職したとされます。
このことから彼が「起居注」の監修が可能であったのは「仁寿末年」(六〇四年)までであり、「大業年間」の起居注を利用して『隋書』を作成できる立場になかったことが明らかです。彼の「著作郎」としての期間は「仁寿元年」までの二十年間であったと記されていまから、「王劭」はあくまでもその期間である「開皇」「仁寿」という文帝治世期間のデータしか持っていなかったこととなるでしょう。
つまり彼の撰した『隋書』は「開皇」「仁寿」年間に限定されたものであったと推定され、やはり「大業」年間の記事はその中に含まれていなかったと考えられることとなります。(「高祖」の「一代記」という性格があった思われます)
その後「唐」の「高祖」(李淵)により武徳年間に「顔師古」等に命じて『隋史』をまとめるよう「詔」が出されますが、結局それはできなかったとされます。理由は書かれていませんが最も考えられるのは「大業年間」以降の記録の亡失でしょう。
『旧唐書』(「令狐徳菜伝」)によれば「武徳五年」(六二二)に「令狐徳菜」が「高祖」に対し、「経籍」が多く亡失しているのを早く回復されるよう奏上し、それを受け入れた「高祖」により「宮廷」から散逸した諸書を「購募」した結果、数年のうちにそれらは「ほぼ元の状態に戻った」とされています。
「…時承喪亂之餘,經籍亡逸,德棻奏請購募遺書,重加錢帛,增置楷書,令繕寫。數年間,羣書略備。…」(『舊唐書/列傳第二十三/令狐德棻』より)
しかしここでは「亡逸」とされていますから、それがかなりの量に上ったことがわかります。それが数年の内に全て戻ったとも考えにくいものです。それを示すのは同じ『旧唐書』の「魏徴伝」です。
「…貞觀二年,遷秘書監,參預朝政。徵以喪亂之後,典章紛雜,奏引學者校定四部書。數年之間,秘府圖籍,粲然畢備。…」(『舊唐書/列傳第二十一/魏徵』より)
ここでは「粲然畢備」とされ、「魏徴」等の努力によって原状回復がなされたように書かれていますが、全ての史料を集めることができたかはかなり疑問であり、失われて戻らなかったものもかなりあったものと思われます。「経籍志」の中に「大業起居注」存在が書かれていないわけですから、これらの資料収集の結果としても「大業起居注」という根本史料は見いだせなかったこととなります。推測によれば「大業起居注」に限らず多くの史料がなかったか、あっても一部欠損などの状態であったことが考えられるものであり、これに従えば「大業三年記事」もその信憑性に疑問符がつくものといえるでしょう。
似たような例としてはこの「貞観修史」の中で『晋書』の再編集が行われていますが、この『晋書』は数々の民間伝承の類をその典拠として採用していることが確認されており、その信憑性に重大な疑義が呈されています。これも同様に「秘府」から必要な資料が散逸していたことがその理由と考えられ、『晋書』同様『隋書』をまとめるための資料も実際には「開皇年間」(及び仁寿年間)の記事しかなかった、あるいは「大業年間」記事はわずかしかなかったと考えられるものですが、それならば、この「大業三年記事」を含む多くの記事はいったい何を元に書かれたと考えるべきでしょうか。
特に「起居注」によるしかないはずの皇帝の言動が「大業年間」の記事中に散見されるのは大いに不審であるわけです。その典型的な例が「倭国」からの国書記事です。そこでは「皇帝」に対して「鴻臚卿」が「倭国」からの使者が持参した「国書」を読み上げ、それに対して「皇帝」が「無礼」である趣旨の発言をしたとされており、そのような「皇帝の言動記録」が本来「起居注」そのものであることを考えると、このときの「記事」が何に拠って書かれたかは不審の一語であるといえます。
『隋書』に関する研究(註2)では、この「大業年間」の記事に関して「『大業起居注』は利用できなかっただろうから、王劭『隋書』がその年代まで書いてあればそれを利用しただろうし、出来ていなければ、鴻臚寺ないし他の公的な書類・記録によっただろう。」とされていますが、上に見たように「王劭」版『隋書』には「仁寿」年間までしかなかったとされているわけですから、それを否定するにはそれなりの証明が必要ですし、「鴻臚寺」他の記録についてもそれが「秘府」に保存されていた限り亡失してしまったと見るのが相当と思われますから、そのような資料があっただろうと言うのはかなり困難であると思われます。(「起居注」に書かれるべき内容は「皇帝」も見る事ができないという性質のものですから、基本的に極秘資料であり、同内容のものが「鴻臚寺」にあったとすると「秘密」が漏れていることとなってしまいます。)
また上に見た『大業雑記』については「煬帝」に関する記事は相当量あったものと思われますが、それが『雑記』という書名であるところから見ても正式な「起居注」やそれに基づく記事は含んでいなかったと見るべきであり、やはり皇帝に直接関わる記事は「大業起居注」を初めとして大業年間のものについては結局入手できなかったと考えられることとなるでしょう。
ではこれらの記事は何を根拠に書かれたのでしょうか。これについては推測するしかないわけですが、「大業起居注」が欠落した中で「史書」を書かざるを得なくなったという事情の中、やむをえず「開皇起居注」や「仁寿年間」の記録から記事を「移動」して「穴埋め」をしたという可能性(疑惑)が考えられるでしょう。その結果「開皇年間」に書かれるはずの記事が「大業年間」に見られるという「事象」が発生していると思われるわけです。
つまり「大業年間」の「皇帝」の言動が直接関わる記事の多くが、本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないかという疑いが生じることとなり、それはこの記事についても「煬帝」ではなく「高祖」の治世期間のものであって、そこに書かれた「遣隋使」はまさに「遣隋使」だったという可能性を考えるべきということになると思われます。
Ⅱ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について
前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」についての信憑性に問題があるという点については、『隋書俀国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興仏法」というものがあることで、更にその疑いが増します。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書』列傳第四十六/東夷/俀国)
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。
さらに、「文帝」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。「北周」の「武帝」は「仏教」を嫌い、「仏教寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「文帝」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「仏教」の回復に乗り出しました。彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。そのあたりの様子は、例えば下記のような経典類にも書かれていますが、その中には「重興佛法」という用語そのものの使用例がいくつか確認できます。
(一)「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」(大正新脩大藏經 史傳部四/二一○六 集神州三寶感通錄卷上/振旦神州佛舍利感通序)
(二)「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。于時赤光照室流溢外戶。紫氣滿庭狀如樓闕。色染人衣。內外驚禁。嬭母以時炎熱就而扇之。…及年七歲告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘歲略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。內著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(大正新脩大藏經 史傳部二/二○六○ 續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一)
つまり、「重興仏法」という用語は「隋」の「高祖」と関連して使用されていると見られます。(育ての親である「尼僧」の予言として「佛法當滅由兒興之」とされたことの現実化としての「重興仏法」ですから、これは「隋代」には「文帝」と強く結びついた特別の用語であったと思われるわけです。)
また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されているのが注目されます。彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「隋」の「高祖」と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例は『隋書』にもそれ以外の書にも確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「文帝」や「唐の宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
古田氏は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「文帝」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「文帝」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「文帝」が在位していると思っていたというようなものまであります。
しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「文帝」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
「隋帝」の存否について言えば、「九州年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「文帝」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「文帝」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「文帝」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。(註3)
以上のような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなります。
1.たとえば「隋代」から「唐初」にかけての人物である「杜宝」という人物が著した『大業雑記』という書の「序」に、「『貞観修史』は「実録」を尽くしていないという記述があり(以下の記事)、「実録」が「起居注」から作成されるものであることを考えるとそもそも「起居注」が不完全であったことが示唆されることとなっています。また『資治通鑑』の「大業年中」の記事に複数の資料が参照されていることなどから「推測」されていることでもあります。
「(大業雑記)唐著作郎杜宝撰。紀煬帝一代事。序言貞観修史。未尽実録。故為此以書。以弥縫闕漏」(「陳振孫」(北宋)『直斎書録解題』より)
2.榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」 (『アリーナ 二〇〇八』、二〇〇八年三月)
3.さらにいえばこのときの「倭国王」の言葉の中には「大國維新之化」や「大隋禮義之国」というものもあり、これらも「煬帝」ではなく「文帝」をさして使用していると見て自然です。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」(『隋書俀国伝』より)
この中の「維新」の語も『隋書』では「煬帝」に対して使用された例がなく、「文帝」に対してのものしか確認できません。この「維新」という用語は「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。さらに「大隋禮義之国」という表現も、「隋代」の中でも「煬帝」よりは「文帝」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。なぜなら「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」など多くの「禮制」が「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「文帝」の時代の事でした。ここで「倭国王」の「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。それも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義」の国と呼称したという可能性が考えられるでしょう。