古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭国」から「日本国」へ

2014年11月08日 | 古代史

 『新唐書』には以下のような記述があります。
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
 長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 この『新唐書』のこの部分は「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されているのが注目されます。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、「六六〇年代」という時点で既に「總持」(これは「持統」と思われている)まで、「代」が進行していることとなります。
 また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章中に、「後」という表現がされており、このような書き方は「年次」を表すそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などから切り離すための文言と考えられ、それはこの「後」以降の記事が「咸亨元年」のことではないことをしめしますが、それが「いつ」なのかは明確ではないものの「長安元年」記事の前に挿入されているわけですから、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいと推定できます。そして、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していることとなると思われ、それは「總持」段階であるらしいことが理解できます。
 この『新唐書』に対する理解は『旧唐書』からも裏付けられます。
 『旧唐書』においても、時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、それによれば「国名変更」についての情報は「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれているのが改めて注目されます。つまり『新唐書』においても『旧唐書』においてもいずれも、「長安年間」の事として記された「(粟田)朝臣真人」の遣使以前に「国号変更」が伝えられていたことが推定され、「日本国」への国号変更というものが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものではないという可能性が高いと推定します。
 また『新唐書』や『旧唐書』には「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であり、倭国を併合した」などと各自が答えたとされます。
 重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるでしょう。また各々の答えが一見そのニュアンスが微妙に異なっているかのように見えるのが注目されるところでもあります。その答えから「倭国」から「日本国」への遷り変わりを検出してみることとします。

 この「遣唐使」達が述べた「変更理由」を考察すると、「『倭国』が自ら変更した」という証言からは、「名称変更」した「倭国」は「自分たち(「遣唐使」たち)の王朝」ではない、というニュアンスを感じます。つまり自分たちとは違う「倭国」というものがあって、それが「名称変更」したものを「私たち」が継承したと理解されるわけです。
 また、「『日本国』は、名称変更した『倭国』を『併合』した」と言うわけですが、このことは自分達「日本国」の王朝が「すでに名称変更して『日本国』となっていた」「倭国」を併合した、という意味合いと理解されるものであり、さらに(ここが重要なところなのですが)、「『日本』は旧小国」という表現は、現在の「日本国」の中枢をになう勢力が「元々支配していた地域」というものは、現在の「日本国」の中心地域(「畿内」)ではあるが、それは本来は「倭国」の内包する「諸国」のひとつであったものであり、「大義名分」のある国ではなかった、と言う事を意味すると思われるのです。つまり「現在の」「畿内」は「倭国」が「倭国」として存在していた時代には「旧小国」でしかなかった地域である、と言っていると考えられるわけです。
 以上のことは、「倭国」がその「首都」を移動したこと。移動した先が「旧小国」であった地域であること。移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと。その「日本国」は「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」されてしまったこと。「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること、等々を意味していると考えられます。
 「併合」というような事態が発生するためには「倭国(日本国)」において「血筋」が絶えるような重大な事由が発生したと見るべきであり、そのため有力な諸国王の一つであった「近畿王権」に「大義名分」が移動するという事となったと推定できるでしょう。
 つづいて「日本」という国号と「朱鳥」年号について考察します。

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