古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「壬寅年」木簡について

2020年09月20日 | 古代史
 久しぶりに投稿します。四月以降仕事量が急増して全く時間がとれなくなってしまっていました。(現時点においてもあまり変わりはないのですが)

 古田史学の会の古賀氏のブログで「壬寅年」木簡についての記事が出ていました。それによれば滋賀県の「西河原宮ノ内遺跡」から「壬寅年」と書かれた木簡が出ており、それは氏の解釈では「大宝二年」と表記されるべきはずのものが「近江朝廷」の存在が影響して「古制」のままの表記となったとされています。

「・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉」西河原宮ノ内遺跡 滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会

 確かに他の地域の木簡からは「大宝」が紀年に使用されたものが出ており、その意味ではこの「壬寅年」木簡は異例です。しかし「大宝二年」のはずが「壬寅年」という表記になったと見られるのはこれだけではありません。既に指摘していますが『続日本紀』の中に「壬寅年」表記が出てきます。

(七〇四年)慶雲元年…
五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。又免『壬寅年』以往大税。及出神馬郡當年調。…

 この場合は『続日本紀』記事中であり、「近江朝廷」との関連は不明と思われます。少なくとも直接つながらないように見え、古賀氏が考察した理由とは異なる事情を措定する必要があるでしょう。(「詔」つまり「天皇」の言葉の中にあるため「大宝二年」と書き換えることができなかったということが考えられます。「聖武天皇」の詔の中に出てくる「白鳳」「朱雀」という年号表記と同様の事情が考えられます。)
 このことについてはすでに述べましたが( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8afbc1c43dc67eb552a8c4011700b631 )、『続日本紀』の中で「年」が干支で表されているケースはこの「壬寅年」を除けば全て「七〇一年以前」であり、まだ「律令」で「年号」を日付の表記に使用することが決められていなかった時期のものに限られています。そのことからこの「壬寅年」については「七〇二年」ではなく「干支一巡」繰り上がった「六四二年」と推定しました。この「西河原宮ノ内遺跡」から出土した木簡についてもそこに書かれた「壬寅年」という年次の真の時期として「六四二年」と考えることができるのではないでしょうか。

 「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことはこの「壬寅」という干支が表す年次も同様である可能性を含んでいるものです。またこの「西河原宮ノ内遺跡」は「貸稲」という文言が書かれた木簡が出土したことで有名です。その「貸稲」については以前当方も考察したことがあります。( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/08de5a066c092706751c0639de3b5880 ほか)
 そこでは「貸稲」という制度について、用語としては「孝徳紀」に初出するもののそれが運用されていたのはそれをかなり遡上する時期からと考察したものであり、その意味からも木簡に書かれた「壬寅年」が「六四二年」であったとして不自然はないと考えられることとなります。(表記法が古制であるのも当然と言うこととなりますし、同様に「干支」が書かれた他の二つの木簡も干支一巡遡上して考えるべきこととなります)

 繰り返しになりますが、『続日本紀』の「壬寅年」については、この「壬寅年」が「七〇二年」つまり「大宝二年」を表すとして、なぜ「大宝二年」なのか、この年次で区切る意味はどこにあるのか、この年次に何があったのか、これらの疑問を説明できる理由が見当たりません。『続日本紀』を見ても「大宝二年」以前の「大税」を免ずる理由が不明といえます。まして「壬寅年」というようになぜ「干支」で表記しているかという点を誰も説明できていません。
 これらのことから実際には公文書の日付(年)表記に「干支」を使用していた時代の記事を移動していると見るのはそれほど荒唐無稽ではないと思われます。
 すでにこの前年に来訪した新羅使が伝えた新羅王の死去記事について( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/8ff7a32526645aa792979ccb60e0aeb9 他)で考察しており、そこでは一般に理解されている「孝昭王」ではなく四十八年遡上した「真徳女王」であると見たものですが、これと同じ流れの移動記事と考えられるでしょう。(移動年数が異なるのは「孝昭王」の死去年次に無理に合わせたためとみています)

 結局すでに見たように「壬寅年」が「六四二年」を指すとした場合、この「大赦」が置かれてしかるべき年次、及び「大税」を免除してしかるべき年次としては、その「基点」となっている「壬寅年」からそれほど下らない年次を想定すべきであり、『続日本紀』で「慶雲」への「改元」に伴う「大赦」とされていることからのアナロジーとして同様の「改元」時点を措定する必要があるものと思われ、先の論ではこれを「大化」への改元に伴うものと推定したものです。
 (以下該当する「孝徳紀」の記事)

(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…

この中の「貸稲」をやめるという文言(以下のもの)が、「免『壬寅年』以往大税」という表現につながるものとみたものです。

「…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。…」

 この「貸稲」は「吉備嶋皇祖母」つまり「皇極」の母の「吉備姫王」が所有する土地からのものであったものであり、上の「改新の詔により「元本」を(当然「利子」も)「免ずる」としたと見るのが相当であり(「徳政令」と言うべきものとなります)、その表現は「免『壬寅年』以往大税」と書かれた『続日本紀』記事とよく重なるといえるのではないでしょうか。
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