古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国への仏教伝来について(六)

2015年02月15日 | 古代史
 「二中歴」の「年代歴」について「六十年遡上」という可能性を考察しているわけですが、「明要」の項にある「『明要 十一 元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』という内容について考えてみます。

 すでに「仏法」の伝来を「五世紀初め」であるとしたわけですが、それ以来、倭国内ではその支持がなかなか拡大しなかったとみられます。それは「鬼神信仰」の存在と「対東国」「対半島」というような拡張主義とでもいうべき王権の政治体制と合致しなかったからではないかと考えられます。これらに対して「仏教」はその「不殺生」というような思想でわかるように「武力」と対極にあったと考えられていたものであり、そのため「伝来」後多数の信者を獲得するというような状況にはなかったものと思われます。しかし「五世紀後半」の「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者であると思われる「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものと思われます。
 つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられ、必要な文章は「漢文」として書けばよいとされていたものとみられますが、一般民衆にはその様な事は不可能でしたから、通常は「結縄刻木」(特に「刻木」)によっていたものですが、複雑な内容を伝えようとすると「結縄刻木」では足りず、かといって「漢文」の知識もない民衆達には、それを伝えることも困難なことであったと思われます。

 それまでは、支配者層は民衆に対しては、基本的に「力」を示し「絶対服従」を強制する態度(体制)で接していたと思われ、民衆の文化レベルを上げるようなことは念頭になかったものと思われますが、「武」の時代以降「制度」を整え、文化的側面を強調されるようになったもののようであり、そのような流れの中に「文字文化」の国内への「敷衍」というものがあったと想定されるものです。
 このようにして、日本語を表記する必要に迫られたわけですが、そのために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたのでしょう。そして、一大プロジェクトとして「勅」により「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるのです。
 ここで年号として使用された「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。
 幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。
 「四八一年」という年は「漢和辞典」が完成し、それを参照すれば「結縄刻木」をする必要がなくなったという年であり、そのことを記念して「明要」と改元したものと思われます。そして、この「漢和辞典」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。

 「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などは逆に「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。
 たとえば埼玉の「稲荷山鉄剣」の銘文には日本人の名前と思われるものを「漢字」で書いており、「漢字」を「表音文字」として使用しているのが理解できますが、それに使用している漢字はこの地域で独自の発展したものと推定されるものです。そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「一般的」な「万葉仮名」では使用例の少ない漢字を使用しています。
 この銘文は全体としては漢文ですが、人名は「日本語」を表記したものであり、「万葉仮名」であると言えます。その「万葉仮名」を表記するため選ばれた「漢字」に、後の「万葉集」や「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されることの少ない漢字が使用されているのです。このことは、この「辛亥」の年を六十年後の「五三一年」という意見を否定するものでしょう。それでは「勅」により「統一」されたはずの「万葉仮名」とは違う漢字を使用していることとなってしまい、整合しないと考えられるのです。
 つまり、この「鉄剣」に記された「辛亥の年」は「四七一年」と推定され、日本語を表記するのに「漢字」を使用した例としてはかなり早いものと考えられるものです。

 このように各地で「試行錯誤」があったものと思われますが、いずれも広い範囲で「共通」に使用可能とするのが目的ではなかったため、地域による異同が多かったと思われ、それもあって国家として「共通語」的なものが必要となったということではないでしょうか。
 もちろん、当初目的としては「仏典」の読み書きを容易にする、というものであったわけですが、それ以上に「日本語」を表記できる「文字」が必要であったのは当然とも言えます。このことを「最重要」として「勅」により「標準発音表」とそれを使用した「漢和辞典」が作成されたものと推定されます。

 万葉仮名を見るとかなり難しい字が使用されていることもあり、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
 この時出来た「漢和辞典」は後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われ、これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
 この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、また文字成立以前から存在していたと考えられる「歌謡」(その当時は口伝と考えられますが)を「仮名」(万葉仮名)を使ってさらに発展させていったものと思われます。
コメント    この記事についてブログを書く
« 倭国への仏教伝来について(五) | トップ | 倭国への仏教伝来について(七) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事