前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。
たとえば「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを示します。
この「教倒」年間は「四七一年~四七五年」のこととなりますが、この「年次」は「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。
「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然同時には亡くなっていないこととなります。しかし、それほど長年月にわたって彼が存命したということでもないものと思われ、その死去した年次は「四六二年」以降の「四七八年」までのどこかと考えられます。そうすると、この『二中歴』に書かれた「舞遊」は彼らの「葬儀」と「鎮魂」あるいは「新倭国王」の即位に関するものと考えることもできるのではないでしょうか。
ところで、「筑紫舞」を伝えた「傀儡子(くぐつ)」の伝承によれば「高貴な方の前で」舞う、あるいはそれら高貴な方の墓である「古墳」で舞うという事が彼らの職掌であったようです。(福岡県にある「宮地嶽古墳」などで実際に行われていたもの)
このことは彼らの舞が、元々高貴な方が主催する「祭祀」などで「舞う」=「歌舞」する、というものであったのではないかと思えます。そもそも、「古墳で舞う」と云うことは「死者」を鎮魂するのが目的であり、さらに新王者への継承を「鬼神」(死者)に対して報告する意義があったものともられ、弥生時代以来の「墳墓」(古墳)設営に必需の鎮魂作業であったと思われます。
「大宝令」の「解釈集」である「令集解」には「遊部」という項目があり、それによれば、「遊」とは天皇の崩御に伴う「殯(もがり)」に奉仕することであり、「鎮魂歌舞」を「殯」の場所で行うのが職掌でした。つまり「舞遊」とは単なる歌舞ではなく、古墳時代以前からの「殯」の儀式につながっていたものです。
『隋書俀国伝』には「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞」と書かれており、葬儀の場で「歌舞」すると書かれています。
これらのことから「舞遊始」とは「葬儀」に関わる儀式であったものが「原初型」ではないかと推察されるものです。
また「本居宣長」の著書「玉勝間」には「東遊」に関して「體源抄」(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。
「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」
ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見えるように、ここに書かれた「天人」とは九州から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったとされていると思われます。
(ただし、「九州年号」の「教倒」は「五年」までで「丙辰」の年は「僧聴」に改元されていることになっています)
ここでは「夕べ」、つまり「日の暮れる頃」になって「海岸」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、前述したように、倭国王「斉」と「興」の「葬儀」や「鎮魂」の儀式と関連して行われたものではないかと思慮されます。(年号の切り替わりと重なっているのもそのことを示唆します)
また、九州に多い「装飾古墳」で描かれる光景として古墳の主である「貴人」の葬儀の場合、「遺体」を船に乗せ「陸上から引っ張って陸地に上げる」という儀式を行っていたと見られ、この「東遊」とされるものも本来、同様の趣旨のものであった可能性が高いと考えられるものです。そうであれば「九州」との関係も理解できるものです。
推測によれば「済」や「興」の生前の業績と関連の深い場所が何カ所か選抜されて各地で「葬送の儀式」が行われたのではないかと考えられ、そこで「歌舞」が行われたものと考えられます。(天女伝説のいくつかは同様の趣旨のものではなかったでしょうか)
このような儀式には参加者(「周瑜」に例えられていますから、「男性」と考えられます)が「白衣」等を身につけ(当時「喪服」と言えば「白」(麻)と決まっていたようです)、「歌舞」するものと思われ、それを見ていたものがいたのでしょう。
このような儀式は(特に高貴な方の葬儀など)、関係者以外は「参加」できないものであったとも考えられ、それを「或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見」ていたことが「丙辰記」に書かれたものと推察されます。
(「常陸国風土記」の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
つまり、この「東遊」の起源となったとされている「教到六年」も「通常の理解」である「五三六年」ではなく、「六十年」過去に移動した「四七六年」である可能性が高いと考えられるわけです。
たとえば「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを示します。
この「教倒」年間は「四七一年~四七五年」のこととなりますが、この「年次」は「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。
「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然同時には亡くなっていないこととなります。しかし、それほど長年月にわたって彼が存命したということでもないものと思われ、その死去した年次は「四六二年」以降の「四七八年」までのどこかと考えられます。そうすると、この『二中歴』に書かれた「舞遊」は彼らの「葬儀」と「鎮魂」あるいは「新倭国王」の即位に関するものと考えることもできるのではないでしょうか。
ところで、「筑紫舞」を伝えた「傀儡子(くぐつ)」の伝承によれば「高貴な方の前で」舞う、あるいはそれら高貴な方の墓である「古墳」で舞うという事が彼らの職掌であったようです。(福岡県にある「宮地嶽古墳」などで実際に行われていたもの)
このことは彼らの舞が、元々高貴な方が主催する「祭祀」などで「舞う」=「歌舞」する、というものであったのではないかと思えます。そもそも、「古墳で舞う」と云うことは「死者」を鎮魂するのが目的であり、さらに新王者への継承を「鬼神」(死者)に対して報告する意義があったものともられ、弥生時代以来の「墳墓」(古墳)設営に必需の鎮魂作業であったと思われます。
「大宝令」の「解釈集」である「令集解」には「遊部」という項目があり、それによれば、「遊」とは天皇の崩御に伴う「殯(もがり)」に奉仕することであり、「鎮魂歌舞」を「殯」の場所で行うのが職掌でした。つまり「舞遊」とは単なる歌舞ではなく、古墳時代以前からの「殯」の儀式につながっていたものです。
『隋書俀国伝』には「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞」と書かれており、葬儀の場で「歌舞」すると書かれています。
これらのことから「舞遊始」とは「葬儀」に関わる儀式であったものが「原初型」ではないかと推察されるものです。
また「本居宣長」の著書「玉勝間」には「東遊」に関して「體源抄」(豊原統秋著)という書籍からの引用として以下の文章があります。
「丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり」
ここには「東遊」の起源が書かれていますが、「教到六年」という「九州年号」が見えるように、ここに書かれた「天人」とは九州から派遣された「哥舞」を為す人たちであり、彼らにより、伝えられたものが「東遊」の起源となったとされていると思われます。
(ただし、「九州年号」の「教倒」は「五年」までで「丙辰」の年は「僧聴」に改元されていることになっています)
ここでは「夕べ」、つまり「日の暮れる頃」になって「海岸」に船が着き、そこから下りてきた人々により「歌舞」が行われたもののようであり、これは「日の暮れる頃」という時間帯でもわかるように「儀式」、特に「葬送儀式」にまつわるものと考えられ、前述したように、倭国王「斉」と「興」の「葬儀」や「鎮魂」の儀式と関連して行われたものではないかと思慮されます。(年号の切り替わりと重なっているのもそのことを示唆します)
また、九州に多い「装飾古墳」で描かれる光景として古墳の主である「貴人」の葬儀の場合、「遺体」を船に乗せ「陸上から引っ張って陸地に上げる」という儀式を行っていたと見られ、この「東遊」とされるものも本来、同様の趣旨のものであった可能性が高いと考えられるものです。そうであれば「九州」との関係も理解できるものです。
推測によれば「済」や「興」の生前の業績と関連の深い場所が何カ所か選抜されて各地で「葬送の儀式」が行われたのではないかと考えられ、そこで「歌舞」が行われたものと考えられます。(天女伝説のいくつかは同様の趣旨のものではなかったでしょうか)
このような儀式には参加者(「周瑜」に例えられていますから、「男性」と考えられます)が「白衣」等を身につけ(当時「喪服」と言えば「白」(麻)と決まっていたようです)、「歌舞」するものと思われ、それを見ていたものがいたのでしょう。
このような儀式は(特に高貴な方の葬儀など)、関係者以外は「参加」できないものであったとも考えられ、それを「或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見」ていたことが「丙辰記」に書かれたものと推察されます。
(「常陸国風土記」の「建借間命」の「国栖」征伐のシーンに出てくる「七日七夜 遊楽歌舞」というものも「葬送」に関わるものではないかと考えられ、これと同種のものであったかと推察されます)(※)
つまり、この「東遊」の起源となったとされている「教到六年」も「通常の理解」である「五三六年」ではなく、「六十年」過去に移動した「四七六年」である可能性が高いと考えられるわけです。