古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「壬申の乱」の際の「符」について

2024年08月12日 | 古代史
  「壬申の乱」の前に近江朝廷から各地に「興兵」つまり「軍事行動」を起こすようにという指示が出されています。

「…夜則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國『授苻』之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王『承苻』對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。…」

 これをみると「符」が「筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人」に授けられています。

「…磐手到吉備國『授苻』之日…」、「…時栗隈王『承苻』對曰…」

この両者への「符」は「大友皇子」からの「軍事」に関する執行命令であり、形式的には「勅符」であったと思われます。
 「大宝令」の「公式令」では「勅符」が規定されています。これは中務省を経ずに伝達される形式をいうようであり、「勅旨」が在京の官人、諸司に向けたものであるのに対して、「勅符」は在外諸司に向けたものという性格があるとされています。
 しかし上の記事によればそれ以前にすでに「勅符」が文書形式として成立しているようであり、それは「公式令」様のものがその時点で存在していたことの表れではないかと思われることとなります。これに関してはすでに「大宝令」以前の「古くから存在した勅命伝達文書の系譜」を想定するべきとの説もあり、それは当然「近江令」という存在につき当たることとなるでしょう。
 「天智」が「令」を公布したとすると、これは一種の「受命改制」ではないかと考えられます。
 私見によれば六五四年以降日本国が成立していたと見ていますが、派遣された「遣唐使」の言葉によっても正当な手続きによる王権の交代を反映したものではないと思われ、すると当然その権力移動は一種「革命」であり、「受命」があったということとなります。
 中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。
 ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。この時の「天智」も同様な状況であったと考えられることとなるでしょう。(続く)
 
コメント    この記事についてブログを書く
« 「薩夜麻」達が「唐」の捕虜... | トップ | 「天智」と「受命改制」 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事