古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』シリーズ(7)

2024年01月30日 | 古代史
 すでに述べましたが「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定しています。さらにこれに加え「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性を指摘することができます。
 「伊都国」は「郡使往來常所駐」という書き方から見ていわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのが以下の記事であり、この記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり以下は全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)

東南至奴國百里。官曰?馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳?。可七萬餘戸。

 このうち少なくとも「奴国」「投馬国」「邪馬壹国」は「戸数」が書かれていますから(これは別に述べますが「戸」表記は「戸籍」に基づくものであり、データの開示を受けなければ知ることのできない事柄と思われる)、実際に「魏使」(あるいは「郡使」)がそれらの国へ行き、官吏から説明を受けたと推定できます。
「不彌国」の場合は「家」で表記されていますがこれだけでは実際に行ったのか行かなかったのかは不明です。行ったものの「戸籍」に関するデータの開示がなかったのかもしれませんし、行かなかったために「一大率」から(戸籍に基づかない)情報として「家数」を聞いたのかもしれません。
 ただし「魏使」(あるいは「郡使」)は「伊都国」から直接「邪馬壹国」へ行ったものと推量します。それが彼に与えられた最優先に実施されるべき事項であり責務ですから当然です。そして「伊都国」が「郡使往來常所駐。」と書かれたような位置にあったと見ればここを拠点として行動したであろうと推定するのは当然ともいえます。またそこには「往来」と書かれており、「邪馬壹国」などからの「帰途」にもこの「伊都国」で「駐まり」、ここで小休止の後「魏の都」あるいは「(帯方)郡治」へと出発したものでしょう。
 つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきでしょう。
 またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しており、それはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。
 ところで、このうち「投馬国」の「南至水行二十日」という部分について「帯方郡治」からのものという理解をされる向きがあるようです。 しかしこの行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみられ、そうであるなら「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」への案内をする人間が不在となるでしょう。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。
 そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことが推定され、そのことから「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えにくいと思われます。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで倭地の諸国と「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「国境」である「対馬国」でありまた「外交・軍事拠点」としての「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」を起点とするものではないと考えざるを得ません。
 また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その意味でも「一大率」の検察下にあったものであって、「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「諸国」との間にあったとは思われないこととなりますから、その意味からも「郡治」から直接「投馬国」へという動線があったとは考えられないこととなるでしょう。
 またそれは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

 ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同じです。そうであれば「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「自女王國以北」に含まれることとなります。そのことは「一大率」が「檢察諸國」しているという中に「投馬国」は含まれていると理解すべきこととなるでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。
 (行路記事から見て「伊都国」に行程の集約拠点があるわけであり、そこが「女王国」の北にあるという点が「以北」という表現につながっていると考えられます。)
 この「水行」部分については当時「陸行」の方が日数を要するという点が重要視されていたと思われ、遠距離移動の際にはできれば避けるというのが方針ではなかったかと考えられます。そうであれば「投馬国」への「水行二十日」というのが(当然「沿岸航法」が主体と思われますが)かなり遠距離であるのは確かであり、そのため「陸行」を避けたとも見られると共に、案内役であったと思われる「一大率」自体が「水軍」主体の編成であったと推測され、「魏使」など外国使節の誘導には「水行」を前提としていたと見ることができるでしょう。
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