古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「近江崇福寺について」(2)(再度)

2024年02月23日 | 古代史
さらに前回からの続きです

「近江崇福寺について」(2)

 「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。

(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)

 この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
 一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
 また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
 ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。つまり、他の「史料」(前項で例としてあげた『扶桑略記』『元享釈書』等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが『続日本紀』における「崇福寺」の初出時期です。
 「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。

『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」

『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各?二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」

 しかし、ここでもこの「崇福寺」が「天智」の創建である旨の注記等は一切ありません。もしここに以前から「崇福寺」があり、それが「天智」の勅願であったならそれに言及しないというのは考えられません。
 さらにこの「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。

『続日本紀』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 ここにみられる「詔」は「聖武」の「廬舎那佛」を造る意気込みを物語るものとして著名なものですが、これは「紫香楽宮」で出されたものであり、ここでは「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、また「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。
 「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていました。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 この詔でも「削大山講堂」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。文脈からみてこれが「紫香楽宮」の至近に開く予定のものであったことは間違いないものですが、さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できます。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものではなかったと考えられるものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられないでしょうか。
 この「紫香楽宮」は各種資料からここに「正式」に遷都され「都」として機能していたことが明らかとなっています。そうであれば「都」を「鎮護」する「寺院」がなかったはずはないこととなるでしょう。そう考えれば上に見た寺院は確かにこの時点で創建されたものであり、「盧舎那仏像」を造る計画が正式に進行していたこととなります。
 これについては『日本帝皇年代記』にも「紫香楽」に「廬舎那仏」を造ったという記事があり裏付けられます。

「癸未十五(七四三年)十月十五日帝近江信楽京鋳初廬遮那佛銅像/長一十六丈、依良弁勧化也」

 ただしここではなぜか寺院名が書かれていませんし、また「行基」ではなく、彼の弟子である「良弁」の勧化(勧進)であるように書かれています。しかし、この時「行基」と「良弁」はほぼ一体となって行動していましたから、この「良弁」の行動も「行基」の意思を体したものと考えて問題ないものと思われます。
 『日本後紀』には「崇福寺」と「梵釈寺」の両方について「禅侶の聖なる地」であることを述べる下りがあります。

『日本後紀』巻廿四弘仁六年(八一五)正月丁亥十五」「…又崇福梵釋二寺者。禪居之淨域。伽藍之勝地也。今聞。道俗相集。還穢佛地。繋馬牽牛。犯汗良繁。宜令近江国嚴加禁斷。若有不從制者。五位已上録名。六位已下留身。並言上。」

 ここでは、あたかもこの二寺院だけがいわば「特別扱い」されているように見えます。しかし数ある「寺院」の中でこの両寺院だけが「道俗相集、還穢佛地」であったとは思われません。多くの寺院においても同様であったのではないかと考えられます。しかし、「嵯峨天皇」はこの両寺院に限って「淨域」とし、また「佛地」であるとされ、その神聖性を保つようにと言う「勅」を出しているわけです。このことから、「嵯峨」にとって、「崇福寺」と「梵釈寺」は重要な意味を持つものと位置づけられていたようです。
 ところで、「梵釈寺」はその創建が「桓武天皇」の時代とされています。この両寺院が並び称されているように見える事から、「崇福寺」についてもそれほどその創建が遡らないのではないかという推定が出来ると思われます。
 また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。
 上の『日本後紀(逸文)』では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記され、「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと「勅」が出されています。
 この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとすると納得のいく記述であると思われます。
 さらに同様のことは『日本後紀(逸文)』の「嵯峨天皇」の行幸記事からも言えそうです。
 そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」を過ぎた後「梵釈寺」へと行き、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
  
「弘仁六年(八一五年)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」

 この行幸ルートから考えた場合、これを旧「大津京」を経由したとすると、「梵釈寺」へ行く道順が「迂回」ルートとなってしまい、遠回りになってしまいます。そう考えると、これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」を「紫香楽京」付近に措定することが可能であり、また妥当であると考えられることとなります。(「梵釈寺」については創建時の場所は違うという説もありますが、詳細は不明であり、また再建される際に全く別の場所が選ばれる理由も併せて不明ですから、当初からここに存在したという可能性も高いと思料します)
 「嵯峨」の「詔」には「禅侶之窟」という表現がされています。この「窟」は「比喩」ではなく実際に「洞窟」状の地形をしていることを表していると見るべきであり、「崇福寺」がその背後に「崖」のようなものがあり、そこに「窟」があったことを推察させます。しかし「大津京」の至近にある「崇福寺」とされる「寺院跡」は、確かに山中にはあるものの「洞窟状」のものは発見されておらず、合致しないものと推定されます。
 それに対し「紫香楽宮」の「甲賀寺」の後背地には「崖」が存在しそこに「石仏」を刻む予定であったことが推定されています。(「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていたようです。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 このことから「紫香楽宮」至近に「崇福寺」の所在を想定することは可能と思われる訳です。
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