「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」
この斉明の詔からは「新羅」を攻めるという予定であったと思われることとなります。
「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では「薩夜麻」達は「唐軍」の捕虜になっているとされています。「新羅」軍ではなく「唐」の軍に捕らわれたというわけです。しかし当時「新羅」には「唐」の軍はいません。では「百済」にいたのかというと当時「熊津」の城には「唐」の「占領軍」が陣取っていましたが、戦闘らしい戦闘は行われておらず、しかも主力は「百済」の残存勢力でした。
当時唐軍がどこにいたかというと、対高句麗戦に唐軍の主力は参加中でした。
このことから考えて「薩夜麻」達は「高句麗」の応援に行っていたものではないかと考えられるでしょう。
「唐」は「高句麗」を攻める前提でまず「百済」を攻めたものであり、主たる目的は「高句麗」であったものです。とすれば「百済」がすでに滅亡している現在、「高句麗」救援が最優先なのは当然でしょう。つまり「斉明」達が「新羅」を攻めている間に「薩夜麻」達「筑紫王朝」からは「高句麗」へと進攻していたものではなかったかと考えられることとなります。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では「薩夜麻」達は「唐軍」の捕虜になっているとされています。「新羅」軍ではなく「唐」の軍に捕らわれたというわけです。しかし当時「新羅」には「唐」の軍はいません。では「百済」にいたのかというと当時「熊津」の城には「唐」の「占領軍」が陣取っていましたが、戦闘らしい戦闘は行われておらず、しかも主力は「百済」の残存勢力でした。
当時唐軍がどこにいたかというと、対高句麗戦に唐軍の主力は参加中でした。
このことから考えて「薩夜麻」達は「高句麗」の応援に行っていたものではないかと考えられるでしょう。
「唐」は「高句麗」を攻める前提でまず「百済」を攻めたものであり、主たる目的は「高句麗」であったものです。とすれば「百済」がすでに滅亡している現在、「高句麗」救援が最優先なのは当然でしょう。つまり「斉明」達が「新羅」を攻めている間に「薩夜麻」達「筑紫王朝」からは「高句麗」へと進攻していたものではなかったかと考えられることとなります。それを率いていたのが「薩夜麻」であったものと思われ、かれらは「平壌道」を進行してきた「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いとなり、捕虜となっていたものと推測されます。下記によれば「加巴利濱」に「泊った」ようですから百済の東側を海岸沿いに進行していたとみられ、その先で高句麗軍と合流したものと考えられるでしょう。
「薩夜麻」は「筑紫君」であり「筑紫朝廷軍」の総帥と考えられますから、彼とその側近が捕囚となっていると思われる状況を考えると、ほぼ「高句麗」支援として派遣された部隊は全滅したものではなかったでしようか。
(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。
是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。
八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。
…
是歳。…又日本救高麗軍將等。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。
ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、これらの記事からは高麗に軍を派遣しているのが明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記事からも確かであろう」としており、高句麗へも軍を派遣したらしいことを推定しています。
また「日本救高麗軍將等」というのが「筑紫」地域を含む直轄統治領域とその至近の諸国だけの軍であったと思われることは「唐軍」の捕虜となっていてその後帰国した人物として以下の記事の人物が『書紀』『続日本紀』に現ることから推定できます。
①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」
②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」
③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。
彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「筑紫朝廷」からみて「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
彼らはそこで「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いになり捕虜となっていたものと推測されます。このことから「薩夜麻」や「大伴部博麻」達は一時「高句麗」国内の唐軍の支配下領域に軟禁されていたものと思われることとなります。
①(六八四年)(天武)十三年…十二月戊寅朔…癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」
②(六九六年)(持統)十年…夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人?四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」
③(七〇七年)四年…五月…癸亥。讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各賜衣一襲及鹽穀。初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸。歴■餘年乃免。刀良至是遇我使粟田朝臣眞人等。隨而歸朝。憐其勤苦有此賜也。
彼らは「筑後」「筑紫」「肥後」「讃岐」「伊豫」等のほぼ「筑紫朝廷」からみて「直轄統治領域」の人々であり、(「陸奥」(壬生五百足)が入っていますが彼は当時「防人」として徴発されて「筑紫」にいたのではないかと思われ、そのまま遠征軍に参加させられていたものと推定します)あくまでも「筑紫君」の直接統治可能な範囲だけの軍であったらしいことが推定されます。
また③の記事では「初救百濟也。官軍不利。刀良等被唐兵虜。沒作官戸」とされていますから明らかに「白村江の戦い」で捕虜となったわけではなく、それ以前に「唐軍」に囚われていたというわけであり、そのことは「薩夜麻」の指揮下にあって「高句麗」支援の戦いの中で「唐軍」の捕虜となったことが窺われることとなります。同じことは「大伴部博麻」に対する「持統」の「詔」の中にもうかがえます。そこでは「博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。…」とされ「博麻」と「汝」(土師富杼等)とが同じ「本朝」に属していることが窺え、それは即座に「筑紫朝廷」を指すと見られることから、この時の「薩夜麻」と同時に捕囚となっていた人たちもやはり「筑紫君」の統治範囲の外部の人間ではないことが窺え、軍の構成として「筑紫」とその周辺地域からしか編成されていないことが強く推測できます。
彼らはそこで「突厥王子契必加力」が主力の唐軍と戦いになり捕虜となっていたものと推測されます。このことから「薩夜麻」や「大伴部博麻」達は一時「高句麗」国内の唐軍の支配下領域に軟禁されていたものと思われることとなります。
のちに「劉仁軌」率いる「唐軍」に「泰山封禅」に他の半島諸国の王と共に参列させられていますが、その出発地は「熊津」と思われますから、身元が判明した時点で都督府がおかれていた「熊津」に移動させられていたものと推量します。