古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「天王寺」と「四天王寺」

2018年05月17日 | 古代史

 「天王寺」という寺院は中国南朝に実在していた寺院名でした。
 (以下の記事)

「天王寺 在梅嶺岡《陳云・今之雨花山也》。劉宋時置。梁為昭明太子果園・梅聖?詩所謂宋日天王寺 梁時太子園也。 唐改奉先禪院・内起寶光塔。趙宋為普光寺。明為寶光寺云。

考證 至正金陵新志引乾道志・宋置天王寺 ・梁為昭明太子果園・呉為徐景通園・南唐保大四年更置 奉先禪院・葬曇禪師・起塔・因名寶光塔院・今為普光寺。○宋梅堯臣集有送峙師移居普光寺詩云・宋日天王寺 ・梁時太子園。○明金陵梵刹志・寶光寺・在都門外南城梅岡・劉宋時為天王寺。」(南朝寺考/宋/天王寺 奉先寺 寶光塔院 普光寺 寶光寺)

 これらの資料では「天王寺」という寺院名について「南朝劉宋」の首都である「健康」都城の至近にあった「梅岡」の地に建てられていた寺院を指すものであり、この寺院はその後「唐代」に「寶光塔」を建てられて以来「寶光塔院」と呼ばれていたものであり、変遷の後明代になって「寶光寺」という寺院名となったという経緯が語られています。
 それに対し「四天王寺」は「長安旧城」にあったという寺院であり、「北魏」の時代から存在していたとみられます。
(以下の記事)

「定意天子所問經五卷出大集。天和六年譯。沙門圓明筆受
大乘同性經四卷亦云佛十地經。亦云一切佛行入智毘盧遮那藏經。天和五年譯。上儀同城陽公蕭吉筆受
入如來智不思議經三卷天和三年譯。沙門圓明筆受
寶積經三卷天和六年譯。沙門道辯筆受
佛頂呪經并功能一卷保定四年譯。學士鮑永筆受
大雲輪經請雨品第一百一卷天和五年譯。沙門圓明筆受。初出

右六經一十七卷。武帝世。摩伽陀國三藏禪師闍那耶舍。周言藏稱。共二弟子耶舍崛多 闍那崛多等。為大冢宰晉蕩公宇文護。於『長安舊城四天王寺譯』。柱國平高公侯伏侯壽 為總監檢校.」(大正新脩大藏經/第四十九冊 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十一)

 当時「倭国」においては「寺院名」を付ける際に「中国」の古寺院名からとる例も多かったものと見られ、それを考えると、当初「南朝」から「百済」を通じて得た技術で建てられた寺院であったということからみても「北朝系」と思われる「四天王寺」ではなく、「南朝系」の「天王寺」であったとみるべきこととなるでしょう。

 また「出土」した「瓦」から見て「天王寺」から「四天王寺」という寺院名にどこかの時点で変えられたこともまた確かと思われますが、それは「四天王像」との関係が考えられますが、「四天王像」が当初からあったものかどうかについて疑問と思われ、「四天王寺」という寺院名に改名された時期に作られた(あるいは持ち込まれた)と考えられます。それは「北朝」系の王朝である「隋」との関係が構築された以降のこととみるべきでしょう。
 『三国遺事』という統一新羅時代に編纂された史書にも「文武王」の時「新羅」の首都である「慶州」に「唐」の攻撃から国を守るために「四天王寺」が建てられたとされており、「四天王寺」という寺名および「四天王」による護国思想というものが「唐」やそれ以前の「北朝」系の王朝との関係(確執)の中で受容されたものであることが強く示唆されています。そうであれば「南朝」の影響下創建された「天王寺」には「四天王像」はまだなかったといえるのではないでしょうか。
 さらに「四天王寺」へという寺名の改定の裏に「新羅」の「四天王寺」と同様の事情が存在していた可能性が看取され、「隋」から「宣諭」されると同時に「琉球」が実際に侵攻されるという事変を経験したため、「隋」に対する軍事的脅威を強く感じたことから、それに備える精神的支柱として「金光明経」により「四天王像」が作られ、「四天王寺」と改名されたという経緯が推察されます。

 そもそも「四天王」とは「金光明経四天王品」にあるように「釈迦」を守護する「持国天」「広目天」「多聞天」「増長天」の四天をいい、「邪鬼」を踏みつけ、武器などをかまえた武将の姿で表わされるものです。
 この「金光明経」は早くに「北涼」の「曇無籤」によって訳されていましたが、これは「倭国」へは伝来したかどうかさえ不明であるわけですが、少なくとも「五九七年」に「隋」の「宝貴」がまとめたものであれば、「遣隋使」によってもたらされたということは充分考えられれます。
 この時点以降の伝来と考えると、「四天王」思想やそれにもとづく「四天王像」は、当初創建された時点では存在していなかったという可能性が高く、「天王寺」として創建された時点では「前倭国王」(これは『書記』で「皇祖」とされる「押坂彦人大兄」に擬された人物)の死を追悼するための寺院であったと思われます。その後「隋」との関係が構築されて以降「北朝」の仏教が伝来し「金光明経」に改めて接し、同時に「隋帝」から「宣諭」された結果(国家守護のため)「四天王像」を配置して「四天王寺」となった(改名された)ものと見られるわけです。(この時に「移築」したものか)
 こう考えると「建築様式」などと「四天王像」の食い違いには説明がつくでしょう。
 ところで、「法隆寺」の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者として「漢山口直大口」という「名前」が書かれています。彼は「難波宮殿」建設の際に「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。

「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」

 このように彼の活躍した時代として六世紀半ばを措定するなら「法隆寺」の四天王像が刻まれたのが同時期あるいはそれ以前である事が推定され、「天王寺」に四天王像が入ったのも同様の時期ではなかったかということが推定されます。
 『二中歴』によれば「倭京」の項に「二年天王寺聖徳造」とあり、これは他の伝承よりもかなり遅いものですが、「移築」という伝承もあることや、発掘の成果としてその年代については「七世紀第一四半期」という想定がされていることなどから、この「六一八年」という年代の記述は「四天王寺」として「移築」したという事実の反映ではないかと考えられます。それが「天王寺」と記されまた「聖徳」と造立者が書かれているのは、「当初」の創建と混乱しているためと思われます。
 ただし、この「四天王寺」の創建を六二〇年付近としているのは単に「笵」の変遷と「一つの寺院への瓦製造に二~三年かかる」ことを時系列に直線的に並べた結果とされます。(※)しかしそれでは最初に「飛鳥寺」に瓦を載せてから二十年も経過してから「四天王寺」に瓦が乗ったこととなってしまいます。『書紀』では同じ時期の創建とされている両寺院の創建時期にそれほどの年時差がつくのは不審といえないでしょうか。
 『聖徳太子伝』には当初「四天王寺」として造られたものがその後「法隆寺」が創建されたと同時に「天王寺」として移築されたとされる伝承が書かれています。そこでは当初「四天王寺」に「物部守屋」の「首」(首級)と太刀などが保管されていた(埋められていた)とされ、「法隆寺」が作られた時点でそれらが「法隆寺」へ移されたとする伝承が書かれています。これらは非常に興味あるものですが、上に見たようにその寺院名の変遷には、その信憑性に疑問符が付くものであり、また「守屋」に関連したものが「法隆寺」に移されたという記録は現在も四天王寺に「守屋」を祀る神社があること、法隆寺には「守屋」に関する何も残されていないことと矛盾するものでもあるようです。

 また、「法隆寺」は当初「元興寺」として「隋」からの協力のもと造られたものとみられ、その意味では「四天王」像については(その形式などからも)、「創建時」のものとは考えられるものの、「移築」時のトラブルのため(「邪鬼」像が破損ないしは紛失したものか)、近畿(明日香)に移築されてからかなりの間「金堂」には「立って」はいなかったのではないかと推察されます。(資材帳に記載がない理由もそのあたりが関係しているのではないでしょうか)
 完成時より後のある時点で「邪鬼」像が他から招来されたものと考えられますが、「四天王」像との組み合わせに難があり、結果的に異質な姿となったと考えられます。
 招来された「邪鬼」はサイズが大きく、これは本来は足を開いて文字通り踏みつけている姿の「四天王」像が乗っていたものと考えられ、(この事から元々この「邪鬼」とそれが乗っていた「四天王」像は「天平」以降のものと推察されます)そのため「推古朝」の姿をとどめていると考えられる「古い」「四天王」像とでは手の位置と「戟」や「鞘」の位置が異なっていると見られます。この素性の異なる「邪鬼」が将来された時点で(眠っていた)「四天王像」が立てられることとなったものと見られ、それはかなり後代のことではなかったかと推定されるものです。

(※)井内潔「屋瓦からみた草創期寺院の創建年代小考--豊浦寺、法隆寺若草伽藍、四天王寺の場合」(『古代文化』61号二〇〇九年六月


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2016/12/24)(ホームページ記載記事を転記)


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