以下も前回からの続きとなります。
「『遣隋使』はなかった」か?(五) ―「重興仏法」という語の解釈を中心に―
「要旨」
ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。
Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について
前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興仏法」というものがあることで、更にその疑いが増します。
「要旨」
ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。
Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について
前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興仏法」というものがあることで、更にその疑いが増します。
「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書列傳第四十六/東夷/?国』より)
ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(楊堅)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「楊堅」とは同じレベルでは語れないと思われます。
さらに、「楊堅」であれば「重興仏法」という言葉にも該当すると言えます。「北周」の「武帝」は「仏教」(「道教」も)を嫌い、「寺院」の破壊を命じるなど「廃仏毀釈」を行ったとされます。「楊堅」は「北周」から「授禅」の後、すぐに「道仏二教」の回復に乗り出しました(実際には「仏教」の比重が高かったものですが)。彼は「出家」を許可し、「寺院」の建築を認め、「経典」の出版を許すなどの事業を矢継ぎ早に行いました。そのあたりの様子は、例えば下記のような経典類にも書かれていますが、その中には「重興佛法」という用語そのものの使用例がいくつか確認できます。
(一)「…隋高祖昔在龍潛。有神尼智仙。無何而至曰。佛法將滅。一切神明今已西去。兒當為普天慈父『重興佛法』神明還來。後周氏果滅佛法。及隋受命常以為言。又昔有婆羅門僧。詣宅出一裹舍利曰。檀越好心。故留供養。尋爾不知所在。帝曰。『我興由佛』。故於天下立塔。…」(『大正新脩大藏經/集神州三寶感通?卷上/振旦神州佛舍利感通序』より)
(二)「…帝以後魏大統七年六月十三日。生於此寺中。于時赤光照室流溢外?。紫氣滿庭?如樓闕。色染人衣。?外驚禁。?母以時炎熱就而扇之。…及年七?告帝曰。兒當大貴從東國來。佛法當滅由兒興之。而尼沈靜寡言。時道成敗吉凶。莫不符驗。初在寺養帝。年十三方始還家。積三十餘?略不出門。及周滅二教。尼隱皇家。?著法衣。戒行不改。帝後果自山東入為天子。『重興佛法』。皆如尼言。…」(『大正新脩大藏經/續高僧傳/卷二十六/感通下正傳四十五 附見二人/隋京師大興善寺釋道密傳一』より)
つまり、「重興仏法」という用語は「楊堅」と関連して使用されていると見られます。(育ての親である「尼僧」の予言として「佛法當滅由兒興之」とされたことの現実化としての「重興仏法」ですから、これは「隋代」には「楊堅」と強く結びついた特別の用語であったと思われるわけです。)
また「唐」の「宣帝」についても「重興仏法」という用語が使用されているのが注目されます。彼の場合は「武宗」により発せられた「廃仏令」(「会昌の廃仏」)を廃し、「仏教保護」を行ったとされます。これも「楊堅」と同様の事業であったことが知られ、「重興仏法」の語義が「一度廃れた仏法を再度興すこと」の意であることがこの事から読み取れます。
これに対し「煬帝」に関連して「重興仏法」という用語が使用された例は(『隋書』以外の書にも)確認できません。彼は確かに「仏法」を尊崇したと言われていますが、「楊堅」や「唐」の「宣帝」のような宗教的、政治的状況にはなかったものであり、「重興仏法」という語の意義と彼の事業とは合致していないと言うべきです。このことから考えると、「倭国」からの使者が「煬帝」に対して「重興仏法」という用語を使用したとすると極めて不自然と言えるでしょう。
古田氏は「大部写経」などの実績からこの「重興仏法」した天子を「煬帝」であるとして疑ってはいないようですが、上に見るように「楊堅」を差し置いて「重興仏法」という用語を「煬帝」に使用したと理解するのはかなり困難であるように思われます。
この点については、多元史論者以外でも従来から問題とはされていたようですが、その解釈としては「煬帝」にも「仏教」の保護者としていう面はあるということから「不可」ではないという程度のことであり、極めて恣意的な解釈でした。あるいは「楊堅」同様の「仏教」の保護者であるという「賞賛」あるいは「追従」を含んだものというようなものや、まだ「楊堅」が在位していると思っていたというようなものまであります。
しかし、上に見るように「重興仏法」などの用語が「楊堅」に即した使用例しかないこと考えると、その用語を「煬帝」に向けて発しても「賞賛」にはならないのではないでしょうか。それは「煬帝」にも、その言葉を直接耳にすることとなった「裴世清」にも(彼が「煬帝」から派遣されていたとすると)、「違和感」しか生まないものであったと思われます。
「倭国年号」のうち「隋代」のものは全て「隋」の改元と同じ年次に改元されており、それは当時の「倭国王権」の「隋」への「傾倒」を示すものと思われますが、この当時「百済」は「隋」から「帯方郡公」という称号を与えられており、ちょうど「魏晋朝」において「倭国」が「帯方郡」を通じて「中国」と交流していたように「百済」を通じて「隋」の情報を得ていたとして不思議はありません。そうであれば「高祖」の存否の情報などを「倭国王権」が持っていなかったというようなことは考えにくいと言え、この「重興仏法」という言葉は正確に「楊堅」に向けて発せられたものと考えるしかないこととなるでしょう。つまりこの「倭国王」の話した内容は「隋」の「高祖」の治世期間であれば該当するものと思われるのです。
以上のような思惟進行によれば、この記事については『本当に「大業三年」の記事であったのか』がもっとも疑われるポイントとなるでしょう。
Ⅱ.「大隋禮義之国」と「大國維新之化」という語について
「大隋禮義之国」という表現は、当然「隋代」の中で有効な言辞ですが、特にその中でも「煬帝」よりは「楊堅」の時代にこそふさわしい表現であると思われます。
ここでいう「禮義」とは「禮制」(儀礼など)を言うと思われますが、それらは「禮制」は「北魏」以降「南朝」の制度を取り込んで体系化していったものですが、「北齊」である程度の完成をみた後、「隋」がさらに継承・発展させたものです。例えば「朝服制度」や「楽制」更には「軍礼」など多くの「礼制」が主に「北齊」の制度を継承しながら「隋代」にまとめられたとされていますが、それらは全て「楊堅」の手によるものであり、「開皇の初め」に定められたものがほとんどであったものです。
「禮義」とは上のように「禮制」と同義と考えられますが、またそれ以外の「道徳律」なども含んだものと思われ、「隋」時点ではさらに「刑法」と関連したものとして考えられていたようです。
「夫刑者,制死生之命,詳善惡之源,翦亂誅暴,禁人為非者也。聖王仰視法星,旁觀習坎,彌縫五氣,取則四時,莫不先春風以播恩,後秋霜而動憲。是以宣慈惠愛,導其萌芽,刑罰威怒,隨其肅殺。『仁恩以為情性,禮義以為綱紀,養化以為本,明刑以為助。』…」(『隋書/志第二十/刑法』より)
ここでは「仁恩」と「養化」、「禮義」と「明刑」とが対句として使用されています。「養化」が「本」であり、「明刑」はその「補助」であるというわけですが、その「養化」の為には「仁恩」が必要であり、「明刑」が生きるためには「禮義」が「綱紀」とならなければならないというわけです。
このような例から考えると、ここで「倭国王」が述べているのは「隋」には「綱紀」の基準として「刑法」がしっかり機能しており、その「綱紀」は「禮義」によって維持されているということではないでしょうか。その場合「念頭」に置かれているのは「開皇律令」というものの存在であったと思われます。「開皇律令」は「開皇」の始めに造られたものであり、「律令」そのものはそれ以前からあったものの、この「隋」時点において「法体系」として整備、網羅され、ひとつの「極致」を示したとされます。それも「禮義」が整っていてこそのものと思われ、その意味で「隋」を「禮義」の国と呼称したという可能性が考えられるものですが、その場合特に「高祖」の時代のことを指すと見るべきではないかと思料します。
さらに「倭国王」から「裴世清」への言葉の中に「大國維新之化」というものがあることにも注目されます。
「…其王與清相見大悅曰 我聞海西有『大隋禮義之國』、故遣朝貢。我夷人僻在海隅不聞禮義、是以稽留境内不即相見。今故清道飾館以待大使、冀聞『大國惟新之化』。…」(『『隋書列傳第四十六/東夷/?国』』より)
ここで言う「維新」の語も『隋書』では「煬帝」に対して使用された例がなく、「楊堅」に対してのものしか確認できません。(ちなみに「唐」の「高祖」(李淵)の例も確認できません)
(以下「維新」の例)
「…帝又自糾?前違,裁成一代。周太祖發跡關、隴,躬安戎狄,羣臣請功成之樂,式遵周舊,依三材而命管,承六典而揮文。而下武之聲,豈?人之唱,登歌之奏,協鮮卑之音,情動於中,亦人心不能已也。昔仲尼返魯,風雅斯正,所謂有其藝而無其時。『高祖受命惟新』,八州同貫,制氏全出於胡人,迎神猶帶於邊曲。…」(『隋書/志第八/音樂上』より)
「…『高祖受終,惟新朝政』,開皇三年,遂廢諸郡。?于九載,廓定江表,尋以?口滋多,析置州縣。…」(『隋書/志第二十四/地理上』より)
この「維新」という用語は「受命」と対になった観念であり、まさに「初代皇帝」についてのみ使用しうると言えるでしょう。他に「唐」の「高宗」の使用例(即位の詔)もありますが、文脈上それは「唐」の「高祖」あるいはそれを継承した「太宗」につながる性格のものと言え、自らの治世に対する発言ではないと思われます。また他には「梁の武帝」の例、「齋(南斉)の高帝」の例があり、彼らはいずれも「禅譲」とは言いながら実質的には「新王朝」の開祖であり、そのような人物に特有の使用例と思われます。つまりこれが「煬帝」へのものであったとするとやはり不審としかいえないわけです。
Ⅲ.「裴世清」の昇進スピードと「大業三年記事」について
「隋使」として派遣されたとされる「裴世清」については、「裴氏族」に関する「家系」などを記した「裴氏家譜碑」(註)によれば「裴世清」は「貞観年間」(六三八年)には「江州刺史」として存命していたとされています。この「刺史」という官職はかなり「位階」が高く、「上州」であれば「三品」、「下州」であれば「四品」とされていますが、「裴氏家譜碑」では「江州」は「下州」とされており「従四品上」の位階を得ていたとされます。また同じ「裴氏家譜碑」の記載では彼は「武徳七年(六二五年)以前」に「駕部・主客二郎中」であったとも記されており、これはほぼ「五品」に相当し、さらに「貞観二年」(六二八年)に「都督」(旧「総管」)であったとも記されています。(これは「四品」)このような昇進過程から考えると、「初唐」段階で「八品」という位階は(もちろん「九品」であればさらに)低すぎると言えるでしょう。つまり仮に古田氏が言うように「隋」から「唐」へと「王朝」が交替した際に「文林郎」から降格されて「鴻臚寺掌客」(正九品)となったとすると、当時の位階制度から考えて、約三十年でおよそ二十階位以上昇進したこととなってしまいます。(各品について「正従」が有りまた「上下」があります。)その昇進スピードは異常に速いこととならないでしょうか。これを達成するには毎年昇進し、しかも二段階以上の特進がその中に無ければなりません。このことは「位階」の年次差による推定に不適切な部分があることを示唆するものです。
彼の「隋使」としての来倭が少なくとも「開皇年間」のこととすれば、「初唐」の時期に降格したという想定はしなくて良いこととなりますから「六〇〇年」段階の「文林郎」(従八品)から、約四十年で二十階位以下の昇進でよいこととなります。これであればかなりノーマルな昇進速度といえると思われます。
ただし、通常中国でもその後の日本でも冠位に就くことのできる下限の年齢(初叙)は「二十五歳」でした。この時点で最下級の冠位を授けられるわけですが、「鴻臚寺掌客」の冠位はまさにその最下級のものであり、この「来倭」時点の「裴世清」は二十五歳を僅かに過ぎた程度であったらしいことが推定できるでしょう。これが「開皇年間」の事実であるとすると、仮に「大業三年」記事の年次がその通りであったとすると、「六〇八年」という段階で「文林郎」であったこととなり、四階級程度の昇進に十五年以上の年数を要したこととなってしまいます。これは逆に異常に遅い出世といえるのではないかと思われます。このペースではとても「六三八年」までに「江州刺史」という「四品」の位階までは上昇できないこととなるでしょう。さらにその前に六二四年以前に「五品」にまで到達する必要が有るわけです。それらは想定として相当無理があると思われますが、その場合上に見たように「隋」から「唐」になった時点で(古田氏の説とは逆に)「特進」したと推定するしかなくなります。しかし彼が「唐王朝」成立においてそれほど重要な役割を演じたようにも(記録からは)見受けられません。戦功でも上げれば別ですが、彼は「文官」ですからそのような機会もなかったものと見られますので、特進すべき事情が見あたらたないこととなります。
そもそも「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)というケースもありましたが、それらは一律に行われたものではないと思われますし、そのような影響を受けたのは、もっと「政局」に影響が大きい「高位」の存在であったと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や下降があったとは考えにくいと思われます。
またこの当時「隋王朝」の高官として「裴矩」という人物がいました。彼は「裴世清」と同様本名は「裴世矩」であったものですが、「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱としては避けたものです。彼らは同族ではありませんでしたが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、このような場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定され近しい関係にあったことが推定できますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、その場合上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既にかなりの高齢であったことが推定され、その後記事がないのはこの記事以降まもなく死去したからではないかと考えられますから、逆算すると「開皇年中」で二十代であったとして不自然ではないこととなります。それは「開皇始め」に「最下級官僚」である「鴻臚寺掌客」であったという先の推定とは基本的に矛盾しないものです。つまりこれが「隋」の「高祖」に関連したものであり、実際には「開皇年間」のことであったとすると「裴世清」の昇進スピードはわかりやすくなると思われます。「開皇年間」に「鴻臚寺掌客」として派遣の後(少なくとも十年以内)に「文林郎」となっている事となりますから、それであれば特に遅すぎるとは言えなくなります。そしてここから「六二四年」以前に「五品」、その後「六三八年」までの間に「四品」まで昇進したという想定は先に述べたように大変自然であると思われると同時にそれ以前との昇進スピードともほぼ一緒になると思われますので、その意味でも矛盾はないと思われます。
これらのことから考えて「初唐」段階で「鴻臚寺掌客」であったとは考えられないことと同時にやはり「六〇八年段階」で「文林郎」であるという『隋書』の記載にも問題があると考えられることとなります。
次稿では「隋代七部楽」の成立から「遣隋使」の派遣時期を推定するとともに「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称していることから『隋書』の年代について考察します。
ただし、通常中国でもその後の日本でも冠位に就くことのできる下限の年齢(初叙)は「二十五歳」でした。この時点で最下級の冠位を授けられるわけですが、「鴻臚寺掌客」の冠位はまさにその最下級のものであり、この「来倭」時点の「裴世清」は二十五歳を僅かに過ぎた程度であったらしいことが推定できるでしょう。これが「開皇年間」の事実であるとすると、仮に「大業三年」記事の年次がその通りであったとすると、「六〇八年」という段階で「文林郎」であったこととなり、四階級程度の昇進に十五年以上の年数を要したこととなってしまいます。これは逆に異常に遅い出世といえるのではないかと思われます。このペースではとても「六三八年」までに「江州刺史」という「四品」の位階までは上昇できないこととなるでしょう。さらにその前に六二四年以前に「五品」にまで到達する必要が有るわけです。それらは想定として相当無理があると思われますが、その場合上に見たように「隋」から「唐」になった時点で(古田氏の説とは逆に)「特進」したと推定するしかなくなります。しかし彼が「唐王朝」成立においてそれほど重要な役割を演じたようにも(記録からは)見受けられません。戦功でも上げれば別ですが、彼は「文官」ですからそのような機会もなかったものと見られますので、特進すべき事情が見あたらたないこととなります。
そもそも「隋」から「唐」へ王朝は代わっても双方の官僚は基本的には「共通」していますし、「考課」も変らず行なわれたものと見られます。もちろん古田氏の言うような「王朝交替」に伴う人事異動(左遷・昇進)というケースもありましたが、それらは一律に行われたものではないと思われますし、そのような影響を受けたのは、もっと「政局」に影響が大きい「高位」の存在であったと思われ、下から数えた方が早いような下級官吏には縁遠い話ではなかったでしょうか。そうであれば「裴世清」もそれほど「唐」建国時点で大幅な昇進や下降があったとは考えにくいと思われます。
またこの当時「隋王朝」の高官として「裴矩」という人物がいました。彼は「裴世清」と同様本名は「裴世矩」であったものですが、「太宗」の名である「李世民」の「世」を諱としては避けたものです。彼らは同族ではありませんでしたが(共に「河東裴氏」とされるものの「裴矩」が「西眷裴氏族」とされるのに対して「裴世清」は「中眷裴氏族」とされる)、「世」の一字を共有しており、このような場合「兄弟」や少なくとも「同世代」である場合が多く、彼らの場合も「年齢」も近いことが推定され近しい関係にあったことが推定できますが、「裴矩」は「貞観元年」(六二七年)に「八十歳」で死去していることが知られていますから、「裴世清」はそれよりやや若い程度ではなかったかと思われ、その場合上にみる「六三八年」の「江州刺史」段階で既にかなりの高齢であったことが推定され、その後記事がないのはこの記事以降まもなく死去したからではないかと考えられますから、逆算すると「開皇年中」で二十代であったとして不自然ではないこととなります。それは「開皇始め」に「最下級官僚」である「鴻臚寺掌客」であったという先の推定とは基本的に矛盾しないものです。つまりこれが「隋」の「高祖」に関連したものであり、実際には「開皇年間」のことであったとすると「裴世清」の昇進スピードはわかりやすくなると思われます。「開皇年間」に「鴻臚寺掌客」として派遣の後(少なくとも十年以内)に「文林郎」となっている事となりますから、それであれば特に遅すぎるとは言えなくなります。そしてここから「六二四年」以前に「五品」、その後「六三八年」までの間に「四品」まで昇進したという想定は先に述べたように大変自然であると思われると同時にそれ以前との昇進スピードともほぼ一緒になると思われますので、その意味でも矛盾はないと思われます。
これらのことから考えて「初唐」段階で「鴻臚寺掌客」であったとは考えられないことと同時にやはり「六〇八年段階」で「文林郎」であるという『隋書』の記載にも問題があると考えられることとなります。
次稿では「隋代七部楽」の成立から「遣隋使」の派遣時期を推定するとともに「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称していることから『隋書』の年代について考察します。
(以下続きます)
「註」
奥村裕之「唐朝政権の形成と太宗の氏族政策 ―金劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」所引の唐裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりに―」(『史林』史學研究會編九十五巻第四号二〇一二年)によります。これによれば、「金」(一一七一年頃)の時代に「裴氏」の後裔の人物が「裴氏一族」の家譜を刻んだ「碑」(裴氏相公家譜之碑)を建てたとされ、その中に「裴世清」についての記述があり、そこには最終的に「江州刺史」として「従四品上」の位階を得ていたなどとされます。