今回が表記シリーズの最後となります。
「『遣隋使』はなかった」か? (六)
「要旨」
『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。
Ⅰ.「開皇二十年」記事について
先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前には「倭国」との交渉を記したものはないわけですから、これが初めての国交記事であるのは明白ともいえます)
そこでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」はどうなっているのかを問わせ、さらに「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしてるのかを調査しています。これらのことは「国交」が始められた時点における調査事項の一環とすれば納得できるものであり、それは国書などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。このような事項を聴取した上で書かれたものが、『推古紀』に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。
そこでは「使人長吏大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として『隋書』に書かれているものではないかと考えられるのです。つまり『推古紀』記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられ、その『推古紀』記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですから、この「開皇二十年」記事も「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになるでしょう。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料では)「国交開始」のための「遣隋使」派遣という事態を承けて、「表報使」として「倭国」に派遣されたものであり、その際に「国書」を持参したというわけです。
よく似た例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。(註1)そこでは「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
この例からは「倭国」からの遣隋使に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと推量されることとなります。それが「鴻臚寺掌客裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」の位という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることも注目されます)
さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であった可能性があります。なぜなら「蕃客」との接客対応は本来「鴻臚寺掌客」の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの本来の職掌であったと見られるからです。
『後漢書』にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。(註2)
これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られることとなった経緯として、「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「鴻臚寺掌客」であるところの「裴世清」であったことが重要であったという可能性があるでしょう。
Ⅱ.「隋」の「楽制」について
「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。
「要旨」
『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。
Ⅰ.「開皇二十年」記事について
先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前には「倭国」との交渉を記したものはないわけですから、これが初めての国交記事であるのは明白ともいえます)
そこでは「隋皇帝」が「所司」に「倭国王」の「治世方針」を問わせると同時に「国内統治の実際」はどうなっているのかを問わせ、さらに「倭国」の「風俗」についても問わせるなど、一般民衆がどのような生活をしてるのかを調査しています。これらのことは「国交」が始められた時点における調査事項の一環とすれば納得できるものであり、それは国書などを相手国に送る際の下準備とでも言うべきものではなかったでしょうか。このような事項を聴取した上で書かれたものが、『推古紀』に書かれた「唐帝」からのものという「国書」として現れているのではないかと思われます。
そこでは「使人長吏大禮蘓因高等至『具懷』」とあり、「倭国」と「倭国王」に関する詳細な情報を入手した意味の言葉があります。この情報こそが「開皇二十年」記事として『隋書』に書かれているものではないかと考えられるのです。つまり『推古紀』記事と対応しているのは実は「開皇二十年記事」の方ではないかと考えられ、その『推古紀』記事が「隋初」のものという可能性を考察したわけですから、この「開皇二十年」記事も「隋初」のものが移動されてここに置かれていると考えなくてならないということになるでしょう。つまり「鴻臚寺掌客裴世清」は(この「開皇二十年記事」の元となった原資料では)「国交開始」のための「遣隋使」派遣という事態を承けて、「表報使」として「倭国」に派遣されたものであり、その際に「国書」を持参したというわけです。
よく似た例としては「唐」の「太宗」の時に「天竺國」からの使者が来たのに応え、「表報使」が遣わされたことが書かれています。(註1)そこでは「表」(国書)を携えてきた「天竺」からの使者の「朝貢」に応え、その「返答使」としてやはり「表」を持参した「使者」を派遣したとされているのです。
この例からは「倭国」からの遣隋使に対しても同様に「表報使」が派遣されたのではないかと推量されることとなります。それが「鴻臚寺掌客裴世清」であったのではないかと考えられるわけです。
(この「天竺」へ使者が派遣されるに際して「摩訶陀王」(尸羅逸多)は、「道」に「香」を焚くなどして清めたとされます。また「大臣」を派遣して「郊迎」しています。これらの行為は「裴世清」を受け入れる際の「倭国」側が行った行動とよく似ているといえるでしょう。そこでも「小徳」の位という高位の官人を派遣し「郊迎」していますし、「今故清道飾館以待大使」つまり館を飾り、道を清めるなどしていたと書かれているなど、夷蛮の国が「隋」や「唐」の使者を受け入れる際の手続きは共通していたと考えられることも注目されます)
さらに、「所司」に問わせたという「所司」とは「裴世清」その人であった可能性があります。なぜなら「蕃客」との接客対応は本来「鴻臚寺掌客」の役目ですから、この場合のように「外国」から使者が来た場合、「上司」からの意を含んで尋問・聴取するというのは彼らの本来の職掌であったと見られるからです。
『後漢書』にも「大鴻廬」(当時は「大」がついた)の職掌として、夷蛮の国が「封じられる」際などには、「臺下」つまり「皇帝」の近くにいて、その使者が皇帝に面会する際に立ち会う」とされています。(註2)
これらのことから、「裴世清」が「隋使」として「倭国」に送られることとなった経緯として、「倭国」との記念すべき国交樹立に際して「皇帝」に面会にきた「遣隋使」に対して「聴聞」などの対応を行ったのが「鴻臚寺掌客」であるところの「裴世清」であったことが重要であったという可能性があるでしょう。
Ⅱ.「隋」の「楽制」について
「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。
「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」(『隋書列傳第四十六/東夷/?国』より)
この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。
「…始開皇初定令置七部樂。一曰國伎、二曰淸商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・?厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(『隋書/志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭』より)
この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけですから、これが「倭国」からの使者がもたらしたものと考えれば、その使者が派遣されたのは「開皇の始め」つまり「隋初」と考えざるを得ないものです。(前王朝である「北周」の史料には「倭国」が現れませんから、早くても「隋代」であるのは確かと推察できます。)
上の「開皇二十年」の「記事」中に現れる「倭国」の「国楽」が「隋」へ献納されたものと見られ、「雑楽」として「隋制」に取り込まれたものでしょう。これが、民間伝承のような形で伝わったとか、「百済」や「新羅」など半島の国から「間接的に」伝えられたものというようなことは考えられません。それが「隋」という国家の制度として取り入れられたということは、当然「正式」な(公式な)ものとして「隋」に伝えられたことを意味しますから、「倭国」からの正式な使者が伝えたと考えるのが相当でしょう。それはこの「七部楽」が奏されるのは当該国の使者が「皇帝」に面会する時点であるとされることからも示唆されるものであり、「隋」への伝来も同様に正式な使者により伝えられたと考えるべきことを示します。
従来からこの「隋代七部楽」の成立というものと「開皇二十年記事」に書かれた「国楽」というものの間に関係があるとは考えられていたものの、その場合この両者間に「年次」の「矛盾」が発生してしまう点については考慮されてきていませんでした。(「開皇二十年」は「開皇の始め」ではないからです)しかるに、この「七部楽」を含む「楽制」の成立は「楊堅」の治世期間の初期のものであり、これが「隋」と「倭国」と国交が樹立された時点の話であるはずのこととなると、やはり『隋書』には「年次移動」があると考えざるを得ないこととなります。つまり「開皇二十年」記事の本来時点が「隋代初期」であったことを示すということとなりますから、この記事自体が本来「楽制」を定める以前の時点の「隋初」の時代の記事であったものということとなるでしょう。またそれは「大業三年記事」に「鼓角を鳴らす」というように「歓迎」の儀式が書かれている事と関連していると思われます。
「倭王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎。」(『隋書列傳第四十六/東夷/俀国』より)
この「鼓角を鳴らす」のは逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれたものと思われます。それは「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事と関連しています。
このことから、この「鼓角」という「楽器」は「遣隋使」以降に「倭国内」に流入したものと考えざるを得なくなり、「隋皇帝」からのいわば「下賜」としてのものであったという可能性が高いものです。
渡辺信一郎氏の著書(註3)ではここに書かれている部分について「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのは「開皇十三年」(五九四年)とされ(『『隋書/志第八/音樂上』)、この「倭国」の歓迎の様子はそれを踏まえたものとされていますが、これは上の推測と極端には反しないものと言えるでしょうす。(整備にもその準備期間があると思われ、南朝を滅ぼし統一した時点付近で整備がはじめられたとするとそれほどの時期的矛盾ではないといえます)
Ⅲ.「東都」と「東京」
『斉明紀』に「伊吉博徳」という人物が「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。
「(斉明)五年(六五九年)…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(『斉明紀』)
この「東京」とは「洛陽」を指すものですが、この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものではありますが、「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されたものです。
「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀第三/煬帝 楊廣 上)
これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったものです。更にこの「東都」はそれ以後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていました。(註4)(唐の高祖は一旦「東都」という表現を止めたとされますが、それ以降も史書には「東都」という表記が出てきます)
無論「伊吉博徳」が遣唐使として訪れた「高宗」の代の「唐」においても「洛陽」は変わらず「東都」とされていたものです。しかし「伊吉博徳」はその「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
彼の「中国」に対する知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識が彼にはなかったこととなってしまいます。ところが『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。
「(大業五年)十一月丙子,車駕幸東都。」
「六年春正月癸亥朔,…己丑,倭國遣使貢方物。」(いずれも『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)
このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、その前年の十一月から「煬帝」は「東都」にいたものであり、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたと理解されるように書かれています。しかし、そうであるならこの時の「遣隋使」は必ず「洛陽」の呼称が変更になったことを帰国後報告したであろうし、それは王権とその周辺の人々にとって重要な情報としてその後の教養となったはずです。そう考えればその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾ということとなります。
ただし、この時外国使者の受付を業としていた「鴻臚寺」がどこにあったかが不明ですが、まだ「京師」つまり「大興城」にあったと見ることもできるかも知れません。その場合は「倭国」からの使者も「洛陽」ではなく(それ以前の遣隋使同様)「大興城」に至ったと見る事もできるかもしれませんが、そうとは思われません。なぜなら日付から考えてもこの時の遣使は「正月」のお祝いに駆けつけたものであり、それは各国の使者においても同様であったはずであり、彼らが「皇帝」のいる「洛陽」ではなく「長安」(大興城)に行っていたとすると不審極まるものです。「倭国」からの使者は当然「洛陽」つまり「東都」を訪れたはずであると思われることとなるでしょう。しかもこの時の「倭国」からの使者記事の直前に「瑞門街」(これは「洛陽」の街の名称)において「天下奇伎異藝」つまりあらゆる地方からのあらゆる雑伎についてのカーニバルとでもいうべきものが開催されたらしいことが書かれています。
(再掲)「…丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。…」
このような催し物が「煬帝」の政策の一環として多くの夷蛮からの使者達に見せるべくものとして開催されたことは疑えず、その意味からも各国からの「元日」の祝賀使達は「洛陽」に集まっていたと見られ、その中に「倭国」からの使者も加わっていたであろうことも疑えないこととなります。そう考えると、この時の「倭国」からの使者は必ず「東都」と改称された「洛陽」を訪れていたと考えるべきこととなりますからその知識は「倭国」に持って帰られたはずであり、そうであれば「伊吉博徳」が「東京」と称している理由が不明となります。
『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして『伊吉博徳書』は考える必要があり、この『伊吉博徳書』は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、ここで「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。そのことからの帰結として、この「伊吉博徳」の派遣以前の「遣隋使」や「遣唐使」はまだ「東京」と称していた時代にしか「洛陽」を訪れていないという可能性が考えられることとなるでしょう。
そもそも「倭国」はそれまで「北朝」と関係が構築されていなかったわけですから、派遣された最初の「遣隋使」は(多分「百済」の引率により)「北朝」の都である「長安」(大興城)を訪れたものであり、「洛陽」についての知識はずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたもの以来でした。(当時は確かに「東京」と称されていたもの)さらに後代の「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の都「建康」へ行ったものであり、「洛陽」が「東京」と呼称されているという知識は「漢魏晋」以降変更されることがなかったものと思われるわけです。それがその後の「伊吉博徳」の教養として身についていたとすると、「東都」に改称されて以降「遣隋使」が本当に送られていたのかという点が最も疑わしいこととなるでしょう。つまり「大業六年」の「倭国記事」は信頼できないと考えられるわけです。
この点から見ても『隋書』の「大業年間」の記録はやはり不審があるものであり、「大業年間」の記事の多くが、「帝紀」「列伝」の違いなく本来もっと「以前」のこととして記録されていたものではないか、つまり「年次」の移動があるのではないかという疑念はさらに補強されることとなります。
Ⅳ.『隋書』と『推古紀』記事の関係 ―まとめとして―
以上いろいろの角度から検討しましたが、『書紀』は『隋書』を見て書かれていることはすでに明らかであり、さらにいえば『隋書』に年次を合わせていると思われ、真の年次から「ずれ」が発生していると思われます。また「大業三年」記事に合わせたのが、日本側で把握していた「最初」の(「開皇始め」と思われる)「遣隋使」記事であったとみられます。なぜ「最初」の「開皇始め」の「遣隋使」記事を「大業三年記事」に合わせたかというと、それは「天子」を標榜する「国書」に対して激怒した「隋皇帝」から「宣諭」されるという忌まわしい事件(推測によればこの時「謝罪」も行ったと見られる)を隠蔽するためであり、「訓令」は受けたものの基本的に「平和的」で「晴れがましい」という雰囲気の中で「隋使」との交渉が成立した「最初」の使者往還の記録を『隋書』中の「隋使」(裴世清)訪問記事に合わせざるを得なくなったものと思われますが、そもそも『隋書』中に「裴世清」が来倭した記事がこの一箇所しかなかったためそこに記事を持ってきたというわけであり、その『隋書』が資料不足から真の年次からずれて記録せざるを得なくなっていたという事情までは承知していなかったものであり、そのため「二重にずれて」しまったというのが事の真相ではないかと思われるわけです。
「註」
1.「…貞觀十五年,尸羅逸多自稱摩伽陀王,遣使朝貢,太宗降璽書慰問,尸羅逸多大驚,問諸國人曰 自古曾有摩訶震旦使人至吾國乎。皆曰 未之有也。乃膜拜而受詔書,因遣使朝貢。太宗以其地遠,禮之甚厚,復遣衞尉丞李義表報使。尸羅逸多遣大臣郊迎,傾城邑以縱觀,焚香夾道,逸多率其臣下東面拜受敕書,復遣使獻火珠及鬱金香、菩提樹。…」(『舊唐書/列傳第一百四十八/西戎/天竺國』より)
2.「大鴻臚,…及拜諸侯、諸侯嗣子及四方夷狄封者,臺下鴻臚召拜之。…」(『後漢書/志第二十五 百官二/大鴻臚』より)
3.渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)
4.「(天寶元年)二月…丙申,合祭天地于南郊。制天下囚徒,罪無輕重並釋放。流人移近處,左降官依資敍用,身死貶處者量加追贈。枉法贓十五疋當絞,今加至二十疋。莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又?門侍郎為門下侍郎。東都為『東京』,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下)
「他参考文献」
氣賀澤保規編『遣隋使が見た風景 -東アジアからみた新視点-』八木書店二〇一二年二月
榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」『アリーナ 二〇〇八』二〇〇八年三月
河上麻由子『古代東アジア世界の対外交渉と仏教』山川出版社二〇一一年
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系 日本書紀』岩波書店
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
『隋書』『旧唐書』『北斉書』『後漢書』等の漢籍資料は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。
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