「太宰率」という職掌が「筑紫」にあったとされます。この「太宰」の「率」という職掌について考えると、確かに「太宰」そのものは南朝に由来する官職であり、また「南朝」と国交を通じた中で導入されたものと思われますが、「太宰率」となるとそれは「南朝」には存在しない官職でした。
また後の『令義解』の中の「官位令」には官職が順次書かれていますが、そこでは「大宰帥」はありますが、「大宰率」はなく、「後代」には「率」という官職については消失してしまっていたものと思われます。
しかし元々官職名などは「音」で発音することを前提に表記されていたと思われます。それは『書紀』が「漢語」として書かれていることや『大宝令』など律令も全て「漢文」で書かれていることに現われています。つまり国家の制度というものは「中国」に倣ったものであり、「官職」を「漢語」で発音するというのが当初の基本であったはずと思われるわけです。そう考えると、「訓」が与えられるようになるのは「後代」のことであり、その「訓」が与えられる段階では既に使用されなくなっていた「率」の発音については、それが使用されていた段階では「訓」はなく「音」しかなかったと考えるのが正しいと思われることとなります。その場合、その「音」とは「漢音」なのか「呉音」なのかというと、当然「呉音」であったと見るべきこととなるでしょう。「漢音」が流入し使用されるようになるのは「八世紀」以降であり、その時点では「率」は使用されなくなり「帥」に取って代わられているわけです。そのような歴史的経緯を考えても当初「呉音」として国内に流入したものと見ざるを得ないと思われることとなります。
そもそも『書紀』における「率」の初出は「天智紀」です。
「(天智)七年(六六八年)…秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜『筑紫率』。」
ここでは「筑紫率」と出てきますが、これは「筑紫太宰率」の縮約型であると思われ、このことから「率」は古典的な使用法であることとなり、「漢音」使用という状況が「八世紀」以降のものであることを考えると、この「率」が「呉音」であったと考えるのは当然ということとなるでしょう。つまり「筑紫太宰率」は「ちくしだざいの『そち』」と読まれていたものであることとなります。(「率」は「漢音」では「りつ」あるいは「そつ」であり、「呉音」では「そち」です。)
このように他の官職名と「(筑紫)太宰率」はその成立時期も事情も異なると考えられることとなります。そう考えれば、「率」という官職は「律令制」のはるか以前から存在していたものであり、それはもちろん「隋・唐」の影響ではなく(「隋・唐」にも「率」という官職はありませんから)それを遡る時期に導入されたこととなるでしょう。しかもそれを遡る時期の「南北朝期」にも「太宰」はあっても「太宰率」はなかったわけですから、「率」についてはさらにそれを遡上する必要があることとなります。
以上のことは、「率」という官職名に関連があるものとして考えられるものが「魏晋朝」にまで遡ることを示すものであり、そこで思い起こされるのが『倭人伝』に記された「一大率」であり、「魏朝」から授与されたという「率善校尉」や「率善中郎将」という官職です。
これらの「率」が「そち」と発音されるものであったと考えるのは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いという研究成果から明らかであり、「卑弥呼」の段階で「率」という語が付く官職があり、しかもそれは「そち」と発音されていたということとなるでしょう。その「一大率」が「博多湾岸」にその本拠を持っていたと私見では考えたわけですが、それが「太宰率」につながり、「太宰府」につながるとすると、そのような推定に合理性があることとなります。
また後の『令義解』の中の「官位令」には官職が順次書かれていますが、そこでは「大宰帥」はありますが、「大宰率」はなく、「後代」には「率」という官職については消失してしまっていたものと思われます。
しかし元々官職名などは「音」で発音することを前提に表記されていたと思われます。それは『書紀』が「漢語」として書かれていることや『大宝令』など律令も全て「漢文」で書かれていることに現われています。つまり国家の制度というものは「中国」に倣ったものであり、「官職」を「漢語」で発音するというのが当初の基本であったはずと思われるわけです。そう考えると、「訓」が与えられるようになるのは「後代」のことであり、その「訓」が与えられる段階では既に使用されなくなっていた「率」の発音については、それが使用されていた段階では「訓」はなく「音」しかなかったと考えるのが正しいと思われることとなります。その場合、その「音」とは「漢音」なのか「呉音」なのかというと、当然「呉音」であったと見るべきこととなるでしょう。「漢音」が流入し使用されるようになるのは「八世紀」以降であり、その時点では「率」は使用されなくなり「帥」に取って代わられているわけです。そのような歴史的経緯を考えても当初「呉音」として国内に流入したものと見ざるを得ないと思われることとなります。
そもそも『書紀』における「率」の初出は「天智紀」です。
「(天智)七年(六六八年)…秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜『筑紫率』。」
ここでは「筑紫率」と出てきますが、これは「筑紫太宰率」の縮約型であると思われ、このことから「率」は古典的な使用法であることとなり、「漢音」使用という状況が「八世紀」以降のものであることを考えると、この「率」が「呉音」であったと考えるのは当然ということとなるでしょう。つまり「筑紫太宰率」は「ちくしだざいの『そち』」と読まれていたものであることとなります。(「率」は「漢音」では「りつ」あるいは「そつ」であり、「呉音」では「そち」です。)
このように他の官職名と「(筑紫)太宰率」はその成立時期も事情も異なると考えられることとなります。そう考えれば、「率」という官職は「律令制」のはるか以前から存在していたものであり、それはもちろん「隋・唐」の影響ではなく(「隋・唐」にも「率」という官職はありませんから)それを遡る時期に導入されたこととなるでしょう。しかもそれを遡る時期の「南北朝期」にも「太宰」はあっても「太宰率」はなかったわけですから、「率」についてはさらにそれを遡上する必要があることとなります。
以上のことは、「率」という官職名に関連があるものとして考えられるものが「魏晋朝」にまで遡ることを示すものであり、そこで思い起こされるのが『倭人伝』に記された「一大率」であり、「魏朝」から授与されたという「率善校尉」や「率善中郎将」という官職です。
これらの「率」が「そち」と発音されるものであったと考えるのは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いという研究成果から明らかであり、「卑弥呼」の段階で「率」という語が付く官職があり、しかもそれは「そち」と発音されていたということとなるでしょう。その「一大率」が「博多湾岸」にその本拠を持っていたと私見では考えたわけですが、それが「太宰率」につながり、「太宰府」につながるとすると、そのような推定に合理性があることとなります。