古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

天智と左手第四指切断の時代的背景

2016年02月17日 | 古代史

 「天智」が「指」(左手無名指)を切り落としたという話が諸資料に確認されるわけですが、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえるでしょう。

「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段
「仰山和尚嗣?山,在懷化。師諱慧寂,俗姓葉,韶州懷化人也。
年十五,求出家,父母不許。年至十七,又再求去,父母猶?。其夜有白光二道,從曹溪發來,直貫其舍。父母則知是子出家之志,感而許之。師乃斷左手無名指及小指,置父母前,答謝養育之恩。…」

 この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
 この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったと考えられますが、そのような中では「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたと言うことが考えられます。
 そもそも「仏教」では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。しかし、「中国」では「仏教」発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは「仏教」伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は、深く「仏教」に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めとしたとされています。つまり、この時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなったというわけです。(これには周囲の家臣からはかなりの反対があったとされています)
  「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかなり距離を感じるものです。
 このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、「仏教」以前の古代的感覚であると思われます。
 「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。
 この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なったあと、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生け贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。

 ちなみに、この『祖堂集』の「仰山和尚」のエピソードはそのほかの点でも「天智」のそれと酷似しています。
 『元亨釈書』等では「白石」が掘り出され、それが「夜有光」とされており、これを「奇瑞」としているわけですが、『祖堂集』では「其夜有白光二道」とあって、やはり「夜光る」ものであり、それを「奇瑞」であるとするのも共通です。そして、その結果「天智」と「仰山」は共に「左手無名指(仰山は小指も)」を切り落として、それを「父母」に感謝の意を表するとして、「天地の神に」「供えて」祭礼を行なったということとなります。
 この「逸話」が記された『祖堂集』(そどうしゅう)は、五代十国の「南唐」時代(十世紀)に成立した中国禅宗の記録です。しかし、『祖堂集』は中国国内で編集されたものの、いわばそのまま「お蔵入り」となり、その後「高麗」に持ち込まれ、一二四五年「順佑五年」に高麗大蔵経の附録として刊行されたものの、それも二十世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかったとされます。 
 しかし、上に見る記事の酷似は偶然とは言いがたく、上に見た諸資料中でも一番早い時期と考えられる『三宝絵』(「十世紀頃」か)に『祖堂集』が影響を与えているという可能性が考えられるところです。

 また、確かに「指を燃やす」というような行は『法華経』にあるものであり、その意味では上の行為は「仏教」と必ずしも食い違っている訳ではないともいえます。しかしそれを「切り落として」「石壇」(地中)に納めるということについては、どう考えてももはや「仏教的」とは言えないと思われます。このような「仏教」の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」な雰囲気が色濃く残っていた事が想像されます。
 それは「仏教」に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは『隋書俀国伝』の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
 この記事は「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」の口頭報告をまとめたものとされていますが(実際にはもっと以前のことを記したものと考えられ、開皇年間のはじめ頃ではなかったかと推定されます)、それ以前の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女」の「祈祷」や「占い」をする人達に頼って生活していたとされています。そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
 つまり「天智皇帝」が本当に「天智天皇」を指すのか、「(崇)福寺」の創建は本当に「六六八年」なのかと言うことが問われていると言えるのではないでしょうか。

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「左手第四指」と「魔法」

2016年02月17日 | 古代史

 「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。

 第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされています。それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。(※)それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされ、それは古来「戒名」や「古代の天皇の「諱」(いみな)なども「本名」であり、生前はそれを「魔物」に知られないように「伏せて」あったものであって、死んで始めて明らかになるという考え方に通じます。
 また「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書いていたものですが、例えば「百済根軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。「諱」である「軍」が本名であり、「字」とされる「温」は通称です。生前は「諱」が明らかになったり、使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が使用されるようになります。それは「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからであり、「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようです。このことから、「名前」を知られることを極力避けていたと考えられます。
 この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
 日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは、「薬」が効くのは「魔法」の力があるからであり、そのためにはこの指を使う必要があるからと考えられたものと思料されます。
 「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されているのが通常です。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかであり、このことから「第四指」が「薬師指」と称される原因となったものと考えられます。

 この「第四指」に「魔法の力」あるいは「霊力」を認める考え方は上に見るように全世界の各地に見られるものであり、特に「左手の薬指」は、「心臓」が「左」にあるように見える事から特に重視されたものと思われます。そして、その指に装着する装飾具も同様に「霊力」を保持していると考えられたものであり、「指輪」がこの「第四指」に装着するものとされていた事もそれが理由であったと思われます その意味で「結婚指輪」が典型的な例であり、「左手無名指」につけられることにより、その指輪をつけてくれた相手だけを好きになる「魔法」がかけられることとなるというわけです。

 この「左手無名指」に関する世界的な共通性について考えてみると、「チェス」と似ていると感じられます。
 「チェス」の起源は「インド」にあり「チャトランガ」と呼ばれる(サンスクリット語)「四人制」の「博戯」(当初はさいころを使用していた)であったとされます。それが「西方」に伝わり「チェス」となり、「東方」に伝わったものが「将棋」(日本の場合)「象棋」(中国の場合)となったとされます。(日本将棋の場合途中に「タイ」の「マックルック」を経由するようですが)
 このように「インド起源」のものが東西に拡散していった例があるわけであり、「無名指」の場合も「サンスクリット語」に於いても「無名指」と呼ぶと言うことを考えると、「第四指」を「無名指」と呼び、「霊的力があると考える」ことの起源が「インド」にあり、「チェス」や「将棋」と同様、「東西」に広がったものという推測が出来ると思われます。
 その起源は紀元前後であったと思われますが、それが周囲に伝搬するにはやや時間がかかり、「チャトランガ」が「チェス」や「将棋」として伝搬したのと同様の時期として推定すると、日本には六-七世紀には到着していたと見られます。(発表当時「将棋博物館館長」であった「木村義徳八段」の説)

 ちなみに「第四指」が「霊的力」があるとされたのは、家族や村で共同作業などの際に「非力」である、「要領が悪い」というようないわば「役立たず」の人間のできる事は「祈ること」だけであったと言うことが関係しているのではないかと推察されます。(「卑弥呼」が支持された点もこの付近にありそうです)
 というより当時にあって一番大事なことは「神」に祈りを捧げることであり、その役割は「実作業」において重要性を持たないタイプの人間が受け持っていたのではないかと思われ、それを「指」に置き換えて考えると「第四指」がそれに相当していたと言うことではなかったかと思われます。
 他の指より「可動範囲」も狭く、「他と独立して動けない」(腱がつながっているため)などハンディを背負っている指であり、そのことが「集団」における「祈祷」などを行うのが役割の人間と見立てられる理由となっていたのではないでしょうか。
 (このようなタイプに類するものが『倭人伝』に言う「持衰」ではなかったかと考えられます。彼は「航海術」に長けているというわけではなかったものと思われ、「船」には「不要」「無用」の人間ではなかったかと思われますが、そのような人間だからこそ「一心不乱」に祈って始めて航海の安全が確保されるという当時の「常識」があったのではないかと考えられるものです)

 各種の説話の中では「天智」は「(崇)福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして喜び、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。
 これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。

(※)ラースロー・マジャール氏「Laszlo A. Magyar『DIGITUS MEDICINALIS - THE ETYMOLOGY OF THE NAME』Actes du Congr. Intern. d'Hist. de Med. XXXII., Antwerpen, 1990. 175-179. 」より

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「天智」と「左手無名指」

2016年02月15日 | 古代史

 久しぶりに書きます。
 年前に風邪をひき、治りかけては悪化するということを繰り返しているうちに1月後半に39℃に達する熱を出した後完全にこじらせてしまい、かなり体力を消耗してしまいました。やっと気力と体力が戻ってきましたので本年初めての論を記します。
 以下は以前「古田史学の会」に投稿したり「ホームページ」に書いたものの焼き直しですが、また光を当ててみようと思います。

『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。

「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」

 これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。
 また、この『今昔物語集』と同様の記述は『元享釈書』や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。

『元亨釈書巻二十一』「天智皇帝の段」
「七年正月初三。帝即位。曷為緩。考也。帝創建福寺于志賀都。當平基趾得寶鐸。長五尺五寸。又得白石。長五寸。夜有光。帝喜奇瑞斬左手無名指。納殿前燈幢石壇中。…」

『扶桑略記』「天智天皇の段」
「七年戊辰正月十七日。於近江國志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異寶鐸一口。高五尺五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇殺左手無名指。納燈爐下唐石臼内。奉為二恩。…(已上同寺縁起より)」

 更に「九八四年」に「源為憲」が著した『三宝絵』の下巻の「僧宝の十」にも、次のようにあります。
 
「…天智天皇、寺をつくらむの御願あり。此の時に王城は近江の国大津の宮にあり。寺所を祈りてねがひ給へる夜の御夢に、法師来りて申さく、「乾(いぬい)の方(北西)にすぐれたる所あり。とく出でてみ給へ」と。…
あくる戊辰の年(六六八年)の正月に、はじめてつくらしめ給ふ。土ひきて山を平ぐるに、宝鐸を堀り出でたり。また白き石あり。夜光をはなつ。
御門いよいよつつしみたうとび給ひて、堂をつくり、仏をあらはし給ひつ。御門、左の方の無名指をきりて石のはこに入れて、とうろうの土のしたにうづみをき給ふ。
これ、て(掌)に灯火を捧げて、弥勒に奉り給ふ志を表はし給へるなり。『志賀の縁起』にみへたり。」

 これは上の『三宝絵』では「弥勒」と関連したものとしていますが、実際には『法華経』の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。

「…若有發心。欲得阿■多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」『法華経薬王菩薩本事品第二十三』
 
 これらから理解されることは、「(崇)福寺」を造るに際して土地を開削したところ、「寶鐸」と「白石」を掘り出したとされ、「鐸」という表現をしているところから見て「内部」に「舌状」のものが吊り下げられている形状を想定させますから、いわゆる「銅鐸」ではないかと考えられますが、それと共に掘り出された「白石」が「夜光る」と言うことから、「帝」は「奇瑞」であると喜び、「左手無名指」を「灯籠」代わりとしてその身を燃やした後、その指を「本から」「切り落として」、「灯籠」の土の下(あるいは「燈幢」つまり「燈籠」と「幢」(旗竿状のもの)を建てる「石壇」の中)に「納めた」というわけです。
 これについては『元享釈書』では「殿前」とされ、この「殿」という表現からは「創建」された「建福寺」ではなく「宮殿」の「殿前」ではないかと思料されるものであり(「寺院」には「堂」はあっても「殿」はないと思われるため)、「宮殿」(この場合「淡海宮殿」か)の「正殿」の前には「燈」(明かり)「幢」(旗)があり、それらが立てられている基礎部分の石壇の中に自らの「左手無名指」を切断して「納めた」と言うことであると推定されます。
 更に「鑑真」と共に来倭した「思託」の『延暦僧録』によると(これは逸文として『本朝高僧伝』に記載されているものです)によれば、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。また『今昔物語集』以外ではそれを「左手」としています。(「 鳩摩羅什」の訳による『大智度論』 (No. 1509 龍樹造 ) in Vol. 25 などでは「…即時薩陀波崙右手執利刀刺左臂出血。割右髀肉復欲破骨出髓。…」とあり、右手に刃物を持つのが通常とされているようですが、右利きが多いことを考えると首肯できるものです。)
 このようにその事情に複数の説があるようですが、いずれも「指を切り落とした」という一点は共通であり、その行動の特異性が際だっています。
 これは明らかに一種の「生け贄」を捧げる儀式であると考えられるとともに、それが複数の史料では「左手」の「無名指」とされているのはなぜかと言う事が疑問とせざるを得ません。
 次回はその点について考察します。

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