すでに述べたようにボーリング調査などによる津波堆積物調査によれば、約2000年前に「海溝型地震」と思われる地震と津波が太平洋岸各地を襲ったと見られますが、その被害は甚大であり、平野部分はほぼ壊滅したものと思われます。そのため多くの集落が山の中腹な安全と思われる場所へ移動したものと見られ、前述したように、これが「第二次高地性集落」といわれるものであったと思われます。
しかしそれ以前にも同様に津波堆積物が存在していることが確認されており、これは約2500年付近前にも地震と津波が発生したらしいことを示しますが、これは「第一次高地性集落」の生成に関係しているのではないかと考えられ、「海溝型地震」というより四国を貫く「中央構造線」という大断層が動いた結果である可能性が高いと思料されます。それは「第一次高地性集落」のかなりの部分が瀬戸内海沿岸で形成されていることからもうかがえます。
すでに述べたように「筑紫」地域が最初に「縄文」から「弥生」という時代へ移行したものと見られることから、常に「筑紫」が文化的先進地域であり、また「稲作」を中心とした「国力」も群を抜いていたと思われますが、この「弥生中期」(BC5世紀頃)には「瀬戸内」から「近畿」にかけての地域においても「稲作」が開始され、国力が豊かになり始めていたものと思われ、先行していた「筑紫」の力が相対的に低下していたということが考えられます。
しかし、「瀬戸内」を中心とした地域に天変地異が襲ったとすると、国内の力関係は(再び)「筑紫」に偏る結果となったのではないでしょうか。
今回の熊本を中心とした地震においても「筑紫」地域では地震被害はそれほどではなかったものですが、この弥生中期の「中央構造線」を震源とした地震による被害においても同様ではなかったかと思料され、そのため「倭」領域は全体として「筑紫王権」の影響下に(再び)深く入り込むこととなった可能性が高いと思われます。
その頃の「筑紫王権」(それは「北部九州」に中心があったものと思われ、「奴国」の前身としての国がその中心にいたと思われますが)は「周」あるいは「秦」などの中国との関係を深めていたものであり、その結果「強力」な王権が発生していたものです。その彼らの墓制が「方形周溝墓」であったと思われるわけです。
弥生時代の中期以降の典型的墓制として「方形周溝墓」があります。それは四周を「溝」で区切られた「墓」であり、「墳」を形成している場合もあるとされますが基本的には「平坦」であり、中央に「棺」が埋められているものです。
その「方形周溝墓」の最多密集地域は「関東」と「東海」であり、それに次いで「近畿」と「筑紫」に多いとされます。しかし一般的には「近畿」が中心であり、「関東」や「東海」はその「近畿」からの伝搬とされますが、その「方形周溝墓」の最古型は「筑紫」にあるのです。たとえば「壮麗」な「副葬品」で知られる「平原」や「須玖岡本」なども「方形周溝墓」です。このことは「方形周溝墓」のオリジナルも「筑紫」にあった可能性を示します。
ところで、その「弥生中期」に「高地性集落」が瀬戸内中心に急激に増加することが知られています。この「第一次高地性集落」の発生と「方形周溝墓」の発生とは関係している事柄と思われるわけです。