「不改常典」については以前すでに書いていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/63587e93470e54a32a5bd1f550374970 からの一連の記事)、「天智天皇」が定めたという「常識」に囚われて、議論が混乱していると思います。
『続日本紀』における出現の仕方では「近江大津宮御宇大倭根子天皇」「淡海大津宮御宇倭根子天皇」というように書かれており、これを以て「天智」と即断しているわけですが、肝腎の「天智紀」にはそれを窺わせる何も書かれていないのが現実であり、そこからあたかも「無」から「有」を創造するかのように「皇位継承法」であるというような無理な議論を行っているのが現状なわけです。しかし、議論の根本は「不改常典」の中身であり、それは『続日本紀』の「詔」(宣命体)を直視すると、議論の余地なく明らかであると思われるのです。それは「食国法」とされており、支配・統治するものにとっての「根本法典」であるとされているのです。「皇位継承」の際に出てくるのは、それを遵守することで「皇位」の継承が成立するというのが「儀礼」として存在していたものであり、「皇位」につくものが誰であろうとこれを遵守すべきと言う「絶対的存在」であったからです。ですから当然「皇位」を継承する際にはこれに言及せざるを得ないものなのであったものです。そして、そのような「絶対的根本法典」を『書紀』内に探索すると「十七条憲法」以外に見あたらないのです。
「十七条憲法」はその「憲法」の名が示すように「絶対」であり、また「超越的」な存在ですから、それが「不改常典」つまり「代えてはいけない根本法規」という名にふさわしいのも当然です。
「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺えます。
「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」
この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは、「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を承けて行っていたものであり、またそれを「文武」へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという制約を行っていたことが推定されるわけです。
これを踏まえて「持統」の「伊勢行幸」を考察してみます。
『書紀』の『持統紀』に「持統」が「伊勢」へ行幸したという記事があります。
一連の記事は以下のものです。
「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未(11日)。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯(19日)。詔刑部省。赦輕繋。是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰(3日)。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠位。擎上於朝重諌曰。農作之節車駕未可以動。
辛未。天皇不從諌。遂幸伊勢。
壬午。賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。并兔今年調役。復兔供奉騎士。諸司荷丁。造行宮丁今年調役。大赦天下。但盜賊不在赦例。
甲申。賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束。
乙酉。車駕還宮。毎所到行。輙會郡縣吏民。務勞賜作樂。
甲午。詔。兔近江。美濃。尾張。參河。遠江等國供奉騎士戸。及諸國荷丁。造行宮丁今年調役。詔賜天下百姓困乏窮者。稻男三束。女二束。
夏四月丙申朔丁酉。贈大伴宿禰友國直大貳。并賜賻物。
庚子。除四畿内百姓爲荷丁者今年調役。
甲寅。遣使者祀廣瀬大忌神。與龍田風神。
丙辰。賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬。各有差。
庚申。詔曰。凡繋囚見徒一皆原散。
五月乙丑朔庚午。御阿胡行宮。時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜徭。復兔筴抄八人今年調役。」
最後の「御阿児行宮」記事において、「大系」の注では同様の出来事を記した『万葉集』の「左注」について「誤り」と断定しています。つまり、この記事は上に書いたように「三月」の行幸の際の出来事であり、それに対する褒賞を授与したのが五月の時点だというわけです。
(以下万葉集「四十~四十四番歌」までについての「左注」)
「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位 擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」
つまり、「左注」はこの「阿胡行宮」記事を、その記事が書かれた「日付」である「五月」の出来事と解釈しています。これを「誤り」としているわけですが、しかし「大系」の言うように「三月」の出来事であるなら、他の「褒賞」記事と同様その時点で記せばいいことであり、五月といういわば時期外れの褒賞記事ははなはだ「不審」といえます。しかも「車駕還宮」記事の前に「阿児行宮」に直結する記事が全くないのはさらに疑わしく、この記事が「三月」の「伊勢行幸」とは別途に行われたと見るのが至当と思われます。
また、この記事は「古田氏」などによる解釈では、「大系」の「注」とは異なり、三月から五月までずっと「伊勢行幸」を続けていたと考えられています。「筑紫」から「瀬戸内」をあちらこちら寄りながらゆっくりと進んだというわけです。しかし、「還宮記事」を無視しないとすると、上で見たように「阿胡行宮」記事を「別」と考える方が合理的であり、「伊勢行幸」からは「三月中」に「還宮」したと考えるべきではないでしょうか。
そもそも、この記事の中では「持統」は「三月三日」という日付を出して、この日に「伊勢」に行くと宣言しています。『當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。』とは、単にこの日に出かけると言うような意味ではなく、この日の内に「伊勢」に到着しているという意を多分に含んでいると思われます。それは「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている事からも推定できます。つまり、「三月三日」というように日付を明確に設定していることには「意味」があったはずであると思われるわけです。
『書紀』の「本文」としての記事中に、「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている例は非常に少なく、この「三月三日」以外には『推古紀』と『天智紀』に「薬猟」の行われたという「五月五日」だけなのです。それ以外は「補注」部分や「百済系資料」からの引用部分及び「伊吉博徳書」からの引用部分だけであり、「本文」としてはこのような「数字日付」は希有な例です。
この事から、この「三月三日」という表記も「薬猟」同様「節」(節句)であったものと思われ、今で言う「桃の節句」が該当するものと思われますが、これは中国の古代では「疾病」などを祓う儀式を行うべき日とされていました。
「藝文類聚」の「三月三日」の項には、「應劭」の「風俗通義」が引用されていますが、そこには以下のようなことが書かれています。
「…應劭風俗通曰.按周禮.女巫掌歳時以祓除疾病.禊者潔也.故於水上盥潔之也.巳者祉也.邪疾已去.祈介祉也.…」
これによれば「三月三日」という日には(昔は)「女巫」つまり「巫女」のような「祝子」(ほうり)(神と人の仲立ちをする人物)が、川の水の中に「盥」(たらい)を浮かべ、そこで「沐浴」をすることで「疾病」を祓うことができるとされていたのです。つまり、「女巫」が「疾病」を「祓除」するために「水上」で「みそぎ」の儀式が必要であったものであり、そのために「川」へ行く必要があったものです。
ここでは「周礼」が引き合いに出されていることからも分かるようにかなり古くからあった儀式であると思われ、このようなものは相当早期に倭国に流入していたと考えられます。
この事から考えて、この時の「伊勢行幸」は、「伊勢」のどこかで「沐浴」し「祓除」を行なうという目的があったのではないでしょうか。
「持統」の「詔」の中には「宜知此意備諸衣物。」という指示があり、これは「沐浴」に使用する「練衣」(ねりぎぬ)の準備をするようにという意味を含んでいるという可能性もあります。
このような典拠のある儀式であるとすると「日付」が重要であり、「三月三日」という日付が特に言及されている理由はそこにあると思われ、当然「三月三日」には「伊勢」にいなければならなかったものではないでしょうか。その日は儀式を行うべき日であったからこそ「日付」を明確にしていると思われるのです。そうであれば「五月」に「仮宮」にやっと到着したという解釈では「三月三日」という日付が宙に浮いてしまうでしょう。
このことから、当初目的としていた「三月三日」は「儀式」を行うべき日と推定されますが、実際には「出発日」として記事中には出てきます。この日に「留守官」などを定めたとしており、実際に出かけようとしていたと見られます。(これを「三輪高市麻呂」に阻止されたものと見られます)
このことから考えて、「持統」は当初は「目的の儀式」を行う日と出発日を「同日」と設定していたように見受けられ、そうであれば「伊勢」はかなり近いところにあると考えなくてはいけなくなります。少なくとも「一両日」程度で行けるような範囲の中に「伊勢」はあると考えざるを得ないと思われます。
後の『養老令』の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度ていどとされていたようです。「倭国王」などの場合は「輿」に乗ったと見られ、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に相当するかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となり、「伊勢」は「都城」(宮殿)からその程度の距離に存在していたと考えられることとなります。
そもそも中国の古代においてもこの「儀式」ははるか遠方の場所で行なうのではなく、都城の「郊外」で行なわれるのが常であったわけですから、この場合においてもそれほど遠距離の場所を想定するべきではないと考えられるものです。
ところで、この「三月三日」の「儀式」は「曲水の宴」の原型でもあります。当初は「沐浴」だけであったものが、その後「直会」を行い(捧げ物がありますからそれを食する儀式も伴ったものでしょう)「宴」が催されたと見られ、「盥」を「杯」に変え、それを水に流してその間に歌を歌うという趣向が考えられたようであり、これはかなり早期にそのような様式が確立していたと見られます。
この「曲水の宴」という儀式は古来「三月上巳」というように「三月」の最初の「巳」の日に行われていたものですが、「魏」の時代に「三月三日」という日付に固定されたものであり、それ以降については「日付表示」となったもののようです。
『晉書』の「禮志」(巻二十一志十一禮下)を見ると以下のようです。
「漢儀,季春上巳,官及百姓皆禊於東流水上,洗濯祓除去宿垢。而自魏以後,但用三日,不以上巳也。晉中朝公卿以下至于庶人,皆禊洛水之側。趙王倫簒位,三日會天泉池,誅張林。懷帝亦會天泉池,賦詩。陸機云:「天泉池南石溝引御溝水,池西積石為禊堂。」本水流杯飲酒,亦不言曲水。元帝又詔罷三日弄具。海西於鍾山立流杯曲水,延百僚,皆其事也。」
つまり「周代」以降「上巳」の日に行っていたが、「魏以後」「三日」と固定されたとされているものです。干支では「年毎」に日付が一定しませんから、宮廷儀式としては「日付」を固定する必要があり、そのため「三月三日」と固定したもののようです。
この「魏」の時代以降「曲水の宴」の要素が増したとされているようですから、この『持統紀』で「日付表示」が為されているということは、その内容に「曲水の宴」の要素が多分に含まれているということを推察させるものです。
この「曲水の宴」については「久留米市」の「筑後国府」跡から「遺構」が出ていることが注目されます。この「曲水の宴」遺構は「八世紀」以前のものと考えられており、また遺跡からも「七世紀後半」と考えられる建物跡なども見つかっており、『持統紀』記事といろいろな関連が考えられるものです。
この時の「王城」(首都)と考えられる「筑紫」(「太宰府」)からの距離としても、「久留米」であれば、出発したその日のうちに到着して儀式を行うことも可能であり、この時の「伊勢行幸」の候補地としては可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。
この久留米という場所は、「古代官道」の駅としては太宰府から「二駅目」、距離にして約二十五キロメートル程度であり、これは先に見た「一日」にして行くことが可能な範囲の中にまさに存在している事となります。
「大伴」「佐伯」などが「王権」に近い氏族であったという点を指摘したわけですが、それを端的に示すのが「大伴家持」の「陸奥出金詔歌」です。この歌に関して以前「山上憶良」の「貧窮問答歌」について考察したことがあります。それを以下に示します。
「万葉集八九二番歌及び八九三番歌」
「貧窮問答歌一首并せて短歌(山上憶良)」(以下万葉集の読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版」(角川書店)によります)
「風交(まじ)り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 『我れをおきて 人はあらじと』 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被(かがふ)り 布肩衣 ありのことごと 着襲(き)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
天地は 広しといへど 我がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て 憂へさまよひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道」
「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
この歌は「高校」の古典などの時間に必ずお目にかかるものであり、民衆に優しいまなざしを向けたもので、古代律令制の「暗部」を指摘したものという理解が大勢でした。また構成として「貧」と「窮」の会話という見立てが大勢を占めており、共に「農民」というように理解するのが通常でしたが、近年「貧」の方は「窮」の実情などを調べる役人ではないかといわれるようになったようです。
ところで、この「貧窮問答歌」を見ているといくつか「疑問」が湧きます。それはたとえば「貧」の人物の言葉の中に「父母」と「妻子ども」は「飢ゑ凍ゆらむ」「乞ふ乞ふ泣くらむ」と「推量」で記されています。これは目前の事実ではないことを示すものです。これが自分の「父母」「妻子ども」の意であるとすると、彼らとは同居していない(と云うより遠く離れている)ことが知られます。つまり、「貧」の方の人物は「家」や「家族」から離れて、「単身」でどこかにいることが判ります。彼はなぜそのような場所にいるのでしょうか。この点についてはやはり疑問に考える向きもあるようで「窮」の家族のことと解釈する考え方もあるようです。しかし、それは「文意」とは全く異なるものであり、文章を素直に解するとこの父母は「窮」のそれではないことがすぐわかるでしょう。「貧」が尋ねているのは「あなたはどのようにして世を渡るか」ということに尽きるのであって、「父母」と「妻子」は別の話と思われます。また、「窮」自身ではなく、「窮」の「家族」のことを尋ねているというのも奇妙な話しではないかと思われるわけです。
またこの「貧」の人物は「『我れをおきて 人はあらじ』と誇」っていますが、彼は何を「根拠」にそのようなプライドを持っているのでしょうか。これについては「貧者の心意気」などと理解するのが通常であるようですが、「誇り」の根源は別にあると考える方が正しいと思われます。
さらに「窮」の人物の言葉の中には「里長」というものがありますが、これは原文(万葉仮名)では「五十戸良」と書かれています。
「…短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻俤 来立呼比奴…」
つまり、「五十戸」で「サト」と読ませているわけですが、「木簡」などから「五十戸制」が「里制」に変えられたのは、遅くても「六八九年」以前のことであることが判明しています。
しかも「里長」というのは「国家」から「認定」あるいは「任命」された職掌ですから、そこに使用されている「五十戸」という表記についても「国家」の制度の一部が反映していると考えるべきこととなります。そう考えれば、この「歌」の造られた実年代として「六八九年」以前である事が強く推察されますが、「山上憶良」は「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していたのが「天平三年」(七三一年)から「天平五年」(七三三年)頃であり、この歌もその頃詠まれたものとされています。ではなぜ「五十戸」という表記がこの歌の中に現れるのでしょうか。(地名ならば遺存すると言うこともあり得ますが、ここではいわば「役職名」として登場するのですから、不審であると言えます)
さらなる疑問として「貧」と「窮」はなぜこんなに極限的な「貧」と「窮」の状態に置かれることとなったのかということがあります。
これが「普遍的」な「律令制下」の状態であったという考え方もあるでしょうし、それはおおよそ同意するものですが、特に「窮」の方の状態は「究極的」なものであり、このような状態が当時「普遍的」であったとは少々考えにくいと思われます。ここで「窮」の実情として書かれていることは、何か「政治的」(戦争などの影響)あるいは「自然災害」(日照り、台風、地震など)などの影響を受けたためと考えるのが正しいと考えるものですが、その様なものとして何が考えられるでしょうか。しかもそのような状態にも関わらず「里長」が「しもと」(「笞」)を持ってやって来て、強制的に何かを取り立てているように見えますが、なにか「政治的」な政策の不毛が感じられるものであり、当時の「政権」の政治的意思の所在についても疑問を感ぜざるを得ないのです。
これらについて考えたとき、一つの可能性が浮かびます。つまり、この歌が「五十戸制」が「里制」に変えられる以前の「六八九年以前」に詠まれたものであるとすると、上の疑問は説明が付くのではないでしょうか。
「六九八年」にほど近い年次の「事件」「事故」を考えるとき考慮から外せないのは「六八四年」に発生したとされる「西日本大震災」ともいうべき「大地震」と、それに伴う「津波」被害です。
この時の「地震」は(近い将来起こると推定される地震も)今回の「東日本大震災」を上回る規模と被害が推定され、これにより「西日本」の各地に収拾困難な事態が発生したものと考えられ、『二中歴』によれば「兵乱海賊初めて起こる」とされるほど、政情が不安な状態となったものです。当然、それは「下層民」を直撃したものであり、彼らは当座をしのぐのも困難なほど「困窮」したものと考えられます。
「倭国中枢」はこの状態に対応して「借金」の「元本」も「利息」も免除するという「徳政令」を発したものですが、この時これに先立ち各地に人員を派遣しています。
「十四年(六八五年)九月甲辰朔戊午条」「直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者。直廣肆石川朝臣虫名爲東山使者。直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者。直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者。直廣參路眞人迹見爲南海使者。直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者。各判官一人。史一人。巡察國司。郡司及百姓之消息…」『天武紀』
この記事は「地震の被害」の確認を行うために派遣されたと見られ、それは被害が少なかったと見られる「北陸道」に対するものを含んでいないことからも推定できますが、この時に派遣された「判官」と「史」というのが、「貧窮問答歌」の中の「貧」者の部分の主人公であり、またそれを記録している「山上憶良」ではなかったかと考えることができるのではないでしょうか。そう考えると、「貧」が「単身」で「家族」から遠く離れているという状況も理解できるものです。
「山上憶良」は「七〇一年」の遣唐使団に選ばれたとき「四十二歳」であったとされますから、各地への巡察者を派遣した「六八五年」には「二十六歳」であったものであり、「任官」のできる最初の年齢である「初叙」の年次(二十五歳)直後と推察されます。彼の「初めて」の大きな仕事が「諸国」の民衆の状況の視察であったという可能性もあると考えます。
彼は「山上憶良『大夫』」という表現がされることがあるように最終冠位が「五位」であったものですが、『続日本紀』では彼について「遣唐使」派遣記事の中では「無位」(无位)であると書かれています。
「大寶元年(七〇一年)春正月乙亥朔丁酉条」「以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」『続日本紀 文武紀』
「無位」でしかも「四十歳」過ぎたような人物が「少録」として「渡唐」するというのは「異例」と思われ、さらにそのような人物がその後「十年」ほど経過すると「従五位下」へ昇進して「貴族」の仲間入りをしているというわけですから、その昇進自体「異例」過ぎるものです。
彼は、上に見たように「五十戸制」が存在していた時点ですでに「官吏」であった可能性が強いと考えられますが、そうであれば、「彼」が「旧王権」(倭国王権)時代の人間であり、その経歴に謎があるのはそのような「旧王権」との関係が「隠蔽」されているからとも考えられるでしょう。
「旧王権」関係者の中には「葛城王」(後の「橘諸兄」)や「伊吉博徳」など、「冠位」(爵位)を大きく降下させずにそのまま「新王権」に仕えているような人たちもいますが(ただし「伊吉博徳」の冠位について見てみると途中に明らかな「停滞」がある)、中には「無位」に落とされるような経験をしたものもいたのではないでしょうか。(これは本人の「能力」と「忠誠心」の差によるものでしょうか)
そのことは「彼」の作品で「嘉麻三部作」というものの中に現れているようです。そこでは「山沢に亡命」している人たちに対して「家」へ早く戻るよう、「家族」の元へ戻るように呼びかけています。そこでは「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉も何にせむに勝れる宝子にしかめやも」と歌い、あるいは「父母を見れば尊し妻子見ればめぐしうつくし世の中はかくぞことわり」とも歌っています。また、「ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに」とも歌い、家業を全うすることを説くと共に、「咲く花の移ろいにけり世の中はかくのみならし」であるとか「常磐なすかしくもがもと思へども世のことなれば止みかねつも」などと、人生の短いことを歌い、元の自分に戻る事を説いています。
ここで言う「亡命」は「宗教的」と言うより、現在の「亡命」とほぼ同じ意義であり、「政治」的な立場の違いなどに発するものであると考えられています。しかし、それは「元明」の詔に有るような「紋切り型」ではありません。彼は明らかにそのような「亡命者」に対して「シンパシー」を感じているものであり、そのような人物だからこそ、「説得」には最適と考えられたのかも知れません。彼が「筑前国司」として赴任したというのもそのような事情が背景にあるとも考えられます。
このような「シンパシー」は、元々彼が彼等と同じ「政治集団」の中にいたことを示唆するものであり、そのことと「四十歳」を過ぎて「無位」であったこととは関係していると考えられます。
そうすると「貧」という人物についても「旧王権」に仕えていた人物という解釈が可能となりますが、彼が「我を起きて人はあらじ」と誇っていることと、それとは対象的に「下級役人」として「任地」に単身で派遣されているような現実が存在していることから、彼が「旧王権」から排除されているあるいは厚遇されていない人物であり、「近畿王権」など「倭国中央」から離れた「諸国」の出身であったのではないかということが推察されます。
ところで、この「貧窮問答歌」については「上田武氏」の研究により「西晋」の「司書郎」であったという「束皙」の「貧家賦」という作品が、「七世紀初め」に編集されたという「芸文類聚」に採られていて、これを参照したという可能性が高いとされています。(※)
確かにこの作品からヒントを得て造られている部分はあり、語句についても類似しており、議論には大筋同意できるものですが、上に見た「我をおきて人はあらじ」という「物言い」はその中には確認されず、これは「漢詩」など中国古典には「典拠」を持たない可能性が高いと考えられ、これは何か別のルーツを持つものと考えられます。
この言葉は彼(「貧」)にとって、ある種「言い慣れた」ものであることを推量させるものであり、そのことからこれが「彼」というより「彼ら一族」にとってなじみの深いものであるように思われますが、そのようなものを探してみると、冒頭に挙げた「大伴家」などに伝わる「家訓」が元となっているという『万葉集』の「陸奥出金詔歌」が浮かびます。
この歌の中に「貧窮問答歌」同様「我れをおきて人はあらじ」という文句が出て来ます。
この歌は「聖武天皇」が「大仏建立」に際して「黄金」を探していた際に「陸奥」から「百済王敬福」が「黄金」を献上し(七四九年)、「聖武天皇」がそれに感激して「東大寺」に感謝を込めて参詣し、その時出された「詔」に「大伴氏族」達に言及した内容があり、そのことに感激した「家持」がその「詔」を詠い込んで「歌」を作ったというわけです。つまり、「山上憶良」の歌よりも「後」の時代の事となりますが、「聖武天皇」の「詔」では「大伴佐伯両氏」が「天皇の朝」を守るのに「顧みない」という事を「常に聞いている」という意味のことが述べられています。また「汝達が祖先から伝えられているように」という言い方で「海ゆかば」以降の文章が書かれており、「聖武」は彼ら「大伴佐伯氏族」の「天皇家」に対する姿勢を普段から熟知していることが判ります。(当然ともいえますが)
「続日本紀 聖武紀」
「(天平感宝元年)(七四九年)夏四月,甲午朔条」「…又大伴、佐伯宿禰波(は),常母(も)云久(く),天皇朝守仕奉,事顧奈伎(なき)人等爾(に)阿禮(あれ)波(は),汝多知乃(たちの)祖止母乃(ともの)云來久(く) 海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死 止(と),云來流(る)人等止奈母(となも)聞召須(す)。是以,遠天皇御世始弖(て)今朕御世爾(に)當弖母(ても),?兵止(と)心中古止波奈母(ことはなも)遣須(す)。…」
このことから、「大伴」氏や「佐伯氏」に伝わる「言立て(家訓)」が存在していて、それをベースにして「詔書」が書かれたと言うことが見て取れます。そうすると、この「詔書」やそれに対する「家持の歌」などに先立つ時期に「山上憶良」がその「家訓」を歌に取り入れたとしても不思議ではないこととなります。
つまり、この「物言い」が「大伴氏」や「佐伯氏」に伝わる「家訓」の一部であったとすると、この「貧」の歌の部分は彼らに属する人物のうちの誰が「主人公」であることとなるでしょう。つまり「大伴」か「佐伯」の誰かが、「下級役人」として「窮」の立場の誰かに問いかけている光景を推定させます。
そう考えると、「六八五年」に諸国に派遣された「巡察使」の中で「筑紫」に派遣されたのが「佐伯氏」であることが注意されます。これはこの時「陪従」した「判官」ないし「史」も「佐伯氏族」であったという可能性が考えられるものです。
「佐伯氏」は上に見た「家持」の「賀陸奥國出金詔書歌」で「大伴」と並び「家訓」が伝わっていたように窺える氏族ですから、そのような立場の人物であれば「下級役人」(判官)として「筑紫」に派遣され、そこで「家訓」を「唱えながら」「糟湯酒」を飲んでいるというような風景が詠われていたとしても不審とはいえないと思われます。
「大伴」や「佐伯」は「近畿王権」に非常に近いところにいたと考えられる氏族であり、それは「陸奥出金詔歌」でも「大君の御門の守り」というように「親衛隊」的立場にいたことが推察され、それは逆に言うと「倭国中央」からは「傍流」とされていたという可能性もあるでしょう。このような「氏族」の中には「地方」に派遣されるなど、「冷遇」されるという悲哀を感じていた人物がいたとして不思議ではないこととなります。
そう考えるとこの「貧窮問答歌」の背景(土地)としては「筑紫」であったという可能性もありますが、この「六八四年」の「西日本大震災」でも「筑紫」にはかなりの被害があったとは考えられるものの、実際にはそれ以前に発生した(六七八年)「筑紫大地震」による被害の影響の方が「筑紫」では大きかったと考えられます。その回復が進まないうちに「西日本大震災」が発生したものであり、そのため「困苦」に悩む人が一層増したという実情が「窮」者のような究極的な弱者が発生する要因となったと言う事を示すとも考えられます。
またこの時の「五十戸良」(里長)の「取り立て」の状況は、「租」などの「税金」や「貸稲」の「利息」の取り立てなどを行っている状況を推定させるものであり、このような地方の実情について(他の地方も大きく異なることはなかったと思われ)彼らなどからの報告が上げられ、それを元にして「倭国中央」において協議の結果、「債務」を「元本」「利息」とも免除するという「徳政令」実施となったという流れが推定されます。
以上の考察から、この歌は「山上憶良」が「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していた時に詠んだものというより、本来はそれよりかなり以前の「諸国巡察」に同行した際にやって来た「筑紫」で見た情景を、その時点で詠んだものであったものと推察され、彼自身が「国守」となって再度やって来た「筑紫」での任官を終えた後に初めて「表」に出したものと思われます。それは『万葉集』においても「天平三年」の作と思われる「熊凝哀悼歌」(万葉八九二番から八九三番)以降には「貧窮問答歌」も含めて「官職名」が書かれておらず、これは一般には「退官後」の作品と考えられているわけですが、実は「無位」時代の作品であることを暗に示すものではないかと思われるわけです。
そして、そのように以前詠んだ作品を「後年」発表した理由のひとつは、この「貧窮問答歌」の直前にある「大伴君熊凝」という人物の死に際して彼の置かれた状況が「歌の内容」と似たシチュエーションであったこともあると思われます。
この「大伴君熊凝」は「国司の従人」であり、(多分「無位」)「都」へ向かう途中で亡くなったとされていますが、「父母」を故郷において単身でいることや「しかとあらぬ ひげ掻き撫でて」という表現から、「貧窮問答歌」の「貧」の方は「髭」も余り濃くないような、かなり若い人物であることが推定されますが、それも「十八歳」という「大伴君熊凝」と重なるものであり、「巡察使」に出た頃の若かった自分に似ていたものでしょうか、何か共鳴するものがあったのではないかと思われます。また「大伴君」とされ「大伴一族」の「末端」に位置すると言うことも「我をおきて~」の台詞が似合いそうな人物とも言えます。
「憶良」は、彼(「大伴君熊凝」)の死に際して彼の「志」を述べた「大典麻田陽春」の歌に「和する」歌を詠んでいますが、さらにこの「貧窮問答歌」を添えて「大伴君熊凝」という若者に対して「深い同情」と「鎮魂」の意を表したものと考えられます。
(この歌の「左注」には「謹上」とあり、この「左注」は「貧窮問答歌」に関するものではないという説もあり、そうであればこの「貧窮問答歌」も「誰に献上する」と言うことを志向していなかったものと思われ、それは逆に「大伴君熊凝」に対する純粋な思いを感じさせるものです)
さらに、そのように以前詠んだ作品を「後年」発表したわけとしては「筑紫」の実情が当時と余り変わらなかったからということも言えそうです。
「筑紫」は当時「新日本国王権」から「抑圧」されていたと見られ、また「嘉麻三部作」などに詠まれたように「抵抗」を続ける「旧王権」関係者もおり、それとの小競り合いなどもあって、かなり荒んだ状態であったのではないかと思われ、そのことに心を痛めた「山上憶良」は、改めて昔の歌を引き合いに出して実情を嘆いたものと推察されるものです。
「王妻號雞彌,後宮有女六七百人。」
これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよそ「半数」が、「釆女」として彼らの子女姉妹から一人ずつ選出していたように思われますが、では残りの半分からは何も選ばれていなかったのかというと、もちろんそんなことはなかったはずであり、それらからは「男子」つまり「舎人」あるいは「兵衞」が出されていたものではなかったでしょうか。
「舎人」や「兵衞」は後の例からも地方有力者の子弟から構成されており、倭国王の至近で近侍・警護する役割を担っていたことから身元・素性のハッキリした人物である必要がありました。その意味では「釆女」と同様の選抜基準であったはずです。そう考えれば「釆女」を出していない残りの「伊尼翼」の子弟が「舎人」や「兵衞」として「王権」に近侍した可能性が高いと思われ、その人員数として「釆女」とほぼ同数の「六-七〇〇名」程度が想定できます。この数は後の左右兵衛府の兵員数として「八〇〇名」とあることとそれほど違わないことからも妥当性が高いと思われます。
後の制度や例をみても「兵衛」と「釆女」は同基準で貢上するものとされているようです。以下の例では「筑紫七国」と「越後」に「兵衞」あるいは「釆女」を「貢」するようにとされています。
「(七〇二年)二年…夏四月…壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。…」
さらに「養老令」(軍防令)を見ると以下のようにあります。
「軍防令兵衛条 凡兵衛者。国司簡郡司子弟。強幹便於弓馬者。郡別一人貢之。若貢采女郡者。不在貢兵衛之例。〈三分一国。二分兵衛。一分采女。〉」
これを見ると両者とも同時に貢上する義務はなかったように受け取られます。つまり全郡から「兵衞」を出すという前提の制度ではあるものの、すでに「釆女」を貢いでいる場合は「兵衛」を出さなくても良いとされています。(これに関する『令集解』でも「謂。仮令。一国有三郡者。二郡貢兵衛。一部(一郡)貢采女。若其不等者。従多貢兵衛耳。」とあり、国司に対する義務として、国に含まれる複数の郡のうち兵衞を出すのは全体の三分二を下回ってはいけないと言う事のようです。)
またこの規定は「釆女」が制度として先に決められていたようにも受け取られますが、それは「改新の詔」で「釆女」についてのものしか述べられていないことと関連しているように思われます。つまり「改新の詔」の中では「釆女」についての規定はあるものの、「舎人」についても「兵衞」についても何も書かれていないのです。(「仕丁」についての規定はありますが、彼等は一般の人達(農民など)からの選抜ですから全く別のものであったものです)
しかし実際には「釆女」や「舎人」(あるいは「兵衛」)の始源となる制度はすでに『隋書俀国伝』時点で確実に存在していたものであり、既にかなり中央集権的状態があり、広範囲に統治を開始していたことが窺えます。ではその「舎人」や「兵衞」の成立はいつ頃であったでしょう。
これら「舎人」「釆女」は上に見たように「地方」の勢力から選ばれていたわけですが、「倭の五王」の時代には王権を支える勢力は「地方」と言うより「王権」に近い勢力が主体であったと思われ、そのような勢力のサポートにより「王権」が「共立」されていたという可能性も考えられるところです。
たとえば「倭の五王」の「武」の上表文には「虎賁」という表現が出てきます。
「…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士『虎賁』、文武效功、白刃交前、亦所不顧。…」
この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は中国では「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。この「上表文」では「古典」に依拠した表現を使用し、「南朝」の「皇帝」など相手側に理解しやすいように言い換えていると思われますが、当然「倭国内」では別の呼称をしていたと思われ、それが「舎人」(あるいは「兵衛」)ではなかったかと考えられます。それは後の「藤原仲麻呂」時代(天平宝字二年(七五八年))に「兵衛府」が「虎賁衛」(こほんえい)と改称された例からもいえると思われます。
その「舎人」や「兵衛」の代表と言ってもいいのが「大伴」「佐伯」「久米」等の氏族であったと思われます。彼等は「聖武天皇」の「陸奥出金の詔」やそれを引用した大伴家持の「陸奥出金歌詔」においても「海ゆかば」という彼等の家訓が示されているように、「皇帝」の至近に警衛している家柄であり、「虎賁」のような「王権」の至近で警衛する役割を行う「兵衞」のような職掌を代表する有力な氏族であったと思われ、彼等のような氏族のサポートにより維持されていた時代が「倭の五王」の時代であることが推測されるものです。
「万葉集四〇九四番歌」
「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)
「… 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 『我れをおきて 人はあらじ』と いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの (一云 を) 聞けば貴み (一云 貴くしあれば)」(読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版角川書店」によります)
ここでも確かに「梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り」というように、近侍しての護衛とその「御門」つまり「門衛」を行っていたことが彼等の自負として歌われています。
彼等「久米」や「大伴」「佐伯」などは『書紀』によれば「神武」がまだ九州にいる頃からのいわば「同胞」であり「仲間」であったことは古田氏の「神武歌謡」の解析からも明らかであり、彼等は「神武」のような「王権中枢」と非常に近い関係があったことは明確ですから、「阿毎多利思北孤」の時代の「釆女」「舎人」とは時代の位相が全く異なる事は明らかであり、それを遡る時期である「倭の五王」の頃をその時期として措定するのが妥当と思われます。
また、それは後の「兵衛府」が「中務省」という「倭国王」に直結する組織に配されていることからも窺えます。それは「王権」との「距離」が近いことを示すものであり、その始源についても「近かった」であろうことを示唆するものです。更にその「兵衛府」の長官が当初「率」と表記し「そち」と訓ずるとされていたことも重要です。
この「率」はその「訓」として「そち」という「呉音」が想定されていることから「魏晋朝」時代まで遡上する起源を持っていると思われ、「率善校尉」「一大率」に使用されている「率」と同義・同音である可能性が強いと思われます。そのように「率」そのものの起源が古いと見られることはその「率」を以て「長官」としている「兵衛府」の組織自体もやはり歴史的なものである可能性を考えるべきでしょう。
古代中国では「兵衛」は有力各豪族が自己の領域に開いた「軍府」の兵士を言い、「北周」以前から各地に存在していたものですが、これを「隋代」に再編成し「十二衛府」へと変更したものです。この段階で「府兵」と「禁軍」とに分かれました。「府兵」は「班田農民」で構成された「衛士」であり、「禁軍」は皇帝直属の「兵衛」であったものです。
「倭国」にも「兵衛」のような、各々の諸国の有力者により編成された「軍団」を保有していたと思われますが、「倭の五王」の時代になり、いわば「大統一時代」、つまり「九州」やその周辺だけではなく、「東国」全般に影響力を及ぼすための(「戦闘」と言うより)「威圧行為」(それは「馬と剣」による)を行っていったものであり、その際逐次勢力下に置いた各国の有力者から(「質」の意味もありますが)「子弟」を徴発し、「倭国王」の周辺の警護に配置していったものではないでしょうか。これが「舎人」という制度へとつながっていったものと思われます。
彼等は「倭国王」の至近に存在することとなるわけですから「氏素性」が明確であることが求められたものであり、そのような人物を父ないし祖に持つようなものだけが「近習できる」というある意味特権でもあったのです。これは「隋・唐」でも行われていた「宿衛」に非常によく似た存在であったと思われます。
「宿衛」は「各諸国」(例えば「新羅」や「吐播」など)からある種「人質」として受け入れた人員を「皇帝」の近くでボディーガード役とするものであり、「新羅」からは「金春秋」の息子(金仁問)が「宿衛」とされていたという記録があります。後の『令集解』の「宮衛令」条でも「宿衛」について「宿衛。謂内舎人兵衛。」とされ、「宿衛」と「兵衛」更に「舎人」との関係が関連していることを示唆しています。
彼等はそれまでの「倭王権」と近い関係にあった「久米」や「大伴」などの氏族とは異なり、新たに統治下に入った領域の氏族であり、ここにおいて「倭王権」の性質が大きく変化したことを示すと思われます。より広大な地域に権力を及ぼすようになると、その傘下に入った氏族の数も増え、彼等の発言力が相対的に増大しはじめた時期が「倭の五王」の最終段階つまり「五世紀末」ではなかったでしょうか。この時期付近で「釆女」「舎人」という制度が確立したのではなかったかと推察されるものです。
そうすると、「天岩戸」伝承が「日食」の反映であるという説にもし則るとすると、「五世紀」に該当する例を探す必要が出てきます。
五世紀で皆既となる日食で近畿大和を通るものは皆無です。それ以前の四世紀やその後の六世紀にも近畿や九州には適当な時間帯に皆既や金環となる日食はありません。それに対して、「熊本」「長崎」を皆既食帯が通る日食が一度あります。それが下の「四五四年」のものです。
時刻 454年8月10日 場所:熊本市(北緯 32度47分 東経 130度43分) 高度 標高 37mと設定する。
欠け始め 金環食の始め 最大(皆既) 皆既食の終り 欠け終わり
世界時(10日) 23:43:49 1 :3 :14 1 :4 :35 1 :5 :56 2 :33:42
日本時(10日) 8 :43:49 10:3 :14 10:4 :35 10:5 :56 11:33:42
食分 0.000 1.000 1.014 1.000 0.000
この日食以外にも五二二年に皆既食が日本列島で見られますが、もっとも皆既帯に近い近畿においても食分は深いものの皆既にはなりません。それを除けばこの四五四年の日食がほとんど唯一です。この日食は皆既中心帯が熊本付近から長崎付近を通るものであり、「皆既時間」も2分45秒程度あったもの)、その発生時刻も午前中の8時43分から11時33分までというお昼近い午前中であったものであり、絶好の時間帯でした。晴れていたとしたら(多少の曇りでも)多くの人々がこれを見上げたものと思われます。(なお上記データは北海道大学高度計算機センターの提供する日食表によります)
ところで、この四五四年という年次は「倭の五王」のうち「済」とその次の「興」のいずれかの在位年次と推定されます。
(以下「済」と「興」の即位・逝去記事)
「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」
「世祖大明六年(四六二年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」(いずれも『宋書倭国伝』より)
この記事配列から考えて「四五四年」という年次は「済」の治世から「興」へと交代した時期であった可能性があり、「済」の死と「日食」がたまたま重なっていたという可能性も考えられます。
「モガリ(殯)」の場には次代の王が籠って魂の継承をするという説もありますが(※)、この「天の岩戸」伝承にもそれが反映しているという可能性もあるでしょう。つまり「済」が死去した時点で「モガリ(殯)」が行われ、ちょうどその時「日食」が起きたとすると、話は整合します。
「日食」が終わり、「太陽」が復活すると、その「モガリ」の場(古墳)から「世子」とされる「興」も現れ、太陽が再生を果たしたように倭国王も再生を果たしたと考えられたということを示すものではないでしょうか。
しかもその地は「肥」の国であるとみられることもまた整合します。
古墳や鉄器・銅器・鏡など考古学的成果から「卑弥呼」「壹與」以降「邪馬壹国」は「肥」の国にその中心を移したとみられますから、この時点でも「肥」に倭国王権の中心があったであろうことが推察されます。そう考えた場合「天照」たちも「肥」にいたこととなるでしょう。
また、記事からは「天鈿女」が神がかった結果「ストリップ」まがいのことを行ったということはすでに「天照」という人物が実は男であるという可能性を強く示唆するものです。しかし『宋書倭国伝』からは「済」が女王であったとは窺われませんから、その意味でも整合するでしょう。
太陽と共に生まれた新倭国王は「興」と自称したわけですが、「興」という字には「新しく始める」、あるいは「初めて行う」等の意義があり、新倭国王として太陽と共に生まれた人間という意識がかなり強かったのではないでしょうか。
(※)春成秀爾「祭りと呪術の考古学」(塙書房2011年)
彼女は「天照」が「岩戸」に隠ったのを誘い出そうと「滑稽」な仕草で周囲を笑わせ、不審がった「アマテラス」を見事岩戸から出させたわけですが、その描写の中に彼女の服装が現れています。
「故於是天照大御神見畏 開天石屋戸而…『掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也』 爾高天原動而 八百萬神共咲」
ここに示されている服装は明らかに「貫頭衣」ではありません。「貫頭衣」では「掛出胸乳」というようなことは無理であると思われるからです。これは明らかに「合わせ襟」の服装であり、また「裳緒」という表現からも上着とは別にスカート状のものをはいている姿が想定されるでしょう。
さらに『神代紀』には「天照」が「素戔鳴」が来るというので「男装」して迎え撃つシーンが書かれています。
「於是。素戔鳴尊請曰。吾今奉教將就根國。故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣。勅許之。乃昇詣之於天也。是後伊弉諾尊神功既畢。靈運當遷。是以構幽宮於淡路之洲。寂然長隠者矣。亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。始素戔鳴尊昇天之時。溟渤以之鼓盪。山岳爲之鳴■。此則神性雄健使之然也。天照大神素知其神暴惡至聞來詣之状。乃勃然而驚曰。吾弟之來豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置當就之國。而敢窺 此處乎。『乃結髮爲髻。縛裳爲袴。』便以八坂瓊之五百箇御統御統。此云美須磨屡。纒其髻鬘及腕。…」
ここでは「『乃結髮爲髻。縛爲袴。』とされ、「髪」を結い上げ、「裳」を縛って「袴」としたと書かれています。つまり女性の服装としては「髪」は結い上げず、「裳」というスカート状のものを装着していたことを示すものです。これら「天鈿女」と「天照」に共通する服装は「裙襦」であると思われます。
『隋書俀国伝』には「其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如屨形,漆其上,繫之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂髮於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。」とあり、ここでは「倭国」の服装として古くは「貫頭衣」のようなものであったが、「今」は「男女」とも「裙襦」であるとされ、その「裳」には「襈」つまり「縁取り」があるとされています。
この「裙襦」は漢民族の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。「裙」とは「裳裾」を指し、また「襦」は「短衣」を意味しますから、全体としては「天鈿女」が着ていたような「合わせ襟」で腰から下よりは長くない上着をいうと思われ、「下」は「裳緒」で腰部を締める「縁取りのあるスカート状のもの」であると思われるわけです。
『魏志倭人伝』には「貫頭衣」が「倭人」の服装とされ、『隋書』でも「古い時代」は「故時衣橫幅、結束相連而無縫」というのですから、これは「卑弥呼」の時代を踏まえた表現と思われます。しかし、ここでいう「裙襦」は「漢服」であり、「南朝」の服装であったわけです。
「倭国」と「南朝」の関係は「倭の五王」が遣使をするようになった「五世紀」以降とみるべきですから、「服装」が変化したのもそれ以降であると見るのが正しいでしょう。すでに「天孫降臨神話」については「弥生」の始まりと深く関係していると見たわけですが(シリウス関連記事による)、上に見るように服装という点では「倭の五王」以降と考えられるわけであり、そうであれば「神話」の形成には少なくとも二段階あることとなるでしょう。このことから「南朝」の影響を受けた服装で「天鈿女」が舞い踊ったのは「弥生神話」をその当時の知識と技術によりアップデートしたものが新たな「神話」として形成されたことを示すと思われ(文字の使用が可能となったため「口伝」から「書かれた記録」へといわば「進化」したものか)、それは「倭の五王」以降『隋書俀国伝』までのどこかと推定されることとなるでしょう。
さらにそれは「古墳」に付随する「埴輪」の中に「女性」と思われるものがあり、その服装からもいえることです。それらの多くが「スカート状」のものをはき、腰紐らしきものを結び、上は襟の表現が見られるなどやはり「裙襦」と思われる服装をしています。(※1)
「人物形象埴輪」が見られ始めるのは(近畿では)「五世紀以降」であり、その時期としてもやはり「南朝」との交渉が活発になった時期と重なります。それと関連があると思われるのが『応神紀』と『雄略紀』の双方に見られる「織女」記事です。そこには双方に「同一」と思われる記事があり、「呉」つまり中国南朝から「織女」と「織物技術」が下賜されたとあります。
「(応神)卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」
「(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。…
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。」
つまり「呉」つまり「南朝」に遣使したところ、「呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」(『応神紀』)、「呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。」(『雄略紀』)とされ、「工女」や「中国風」の「織物技術」を伝術されたというわけです。
これはいわゆる「重出」と思われ、どちらかが「真実」ではないこととなりますが、すでに行った考察により『雄略紀』が(六十年)遡上すべき記事であり(つまり『応神紀』に合致することとなります)、「五世紀前半」の出来事であったものと推定されることとなりました。これは「倭の五王」の一人である「讃」の時代の事となり、彼により「織物」や「縫製」の技術が取り入れられたと見ることができるでしょう。そしてその時代以降「南朝」的服装である「裙襦」が「倭国」、特に「王権」やそれに近い層に広がったと見られることとなります。これを「古墳」の女性像が反映していると思われるわけです。
(※1)布施友理「女子埴輪を考える」(『物質文化研究』『物質文化研究』編集委員会 編二〇〇七年三月所収)
(※2)武田佐知子『古代国家の形成と衣服制 ―袴と貫頭衣―』吉川弘文館一九八六年