古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

弥生時代の始まりと倭王権

2017年11月12日 | 古代史
 以前「シリウス」について考察しましたが、「紀元前八世紀」という時点付近で「縄文時代」に別れを告げ、「弥生時代」という新しい時代位相を迎えたとみられるわけですが、『書紀』の神話にもそれが反映していることとなりました。つまり「天孫降臨神話」の主役である「火瓊瓊杵尊」という名前から、その原型は「シリウス」が「赤かった」あるいは昼間も見えるほど「明るかった」時代を反映しているとみられるわけです。そして、それはとりもなおさず、紀元前の早い時期のことのことであったこととなるでしょう。それは紀元前後付近では「シリウス」はほぼ現在と変わらない状態となっていたと推察されるからであり、神話の発生は弥生時代の始まりとまさに軌を一にするものであったという可能性を示唆するものです。
 つまりこの「星の世界」を投影した神話が「当初」形成されたのは当然古墳時代などではなく、もっと古い時代つまり「弥生時代」の始まりの時期が相当することとなるでしょう。(当然「書かれたもの」としてではないはずですが)

 ところで『論衡』に記されたところによると紀元前十二世紀付近で「倭」と古代中国(ここでは「周」)との関係が初めて構築されたように見えます。

「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」( 「論衡」巻八、儒増篇)

「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)

 この段階は「殷」の宰相であった「箕氏」が「周王朝」成立後「朝鮮」に封じられその地に「周王朝」に対する敬意を抱く文化を醸成したとされますが、その文化の及ぶ範囲に「倭」もあったという事を示すものと思われ、その後の「倭王権」の従属意識の方向を決定づけたと言って良いでしょう。
 しかしこの時点では「倭」ではまだ「縄文時代」であり、本格的な「クニ」造りが始まっていなかったと見られます。ただし、この時点で「半島」との交流が行われるようになった地域とそうでない地域とでは同じ「縄文」といいながら内実はかなり差があったことが窺えます。

 神話世界をみてみると「天孫降臨」の際には「葦原中国」を統治している「王」のような存在である「大国主命」という存在がすでに存在していることが描かれています。明らかに先在王権としてのものであり、それが「半島」との交流の結果他地域に対して優越する軍事・文化を擁していたことが窺えるわけですが、それが「出雲」という地域として描写されているのは意外ではありません。
 半島との距離など考えると交流がありうるとして当然だからです。「素戔嗚尊」についての説話の中に「新羅」との関連が示唆されるものがあるのもそれを示します。
 新進であり後発である「江南」からの移住者たる「火瓊瓊杵尊」等は「出雲」の権力者との関係をどう構築するかが最大の問題であったでしょう。それらは「国譲り」という神話として描かれることとなったわけであり、結果的に「軍事面」での優位性をアピールすることにより列島における「覇権」を握ったとみられるわけであって、それが「神話」に反映していると思われるものです。

 「紀元前八世紀」に入って「一大気候変動」が起き、それに伴い「周」王朝が衰退するなどした結果列島でも「弥生時代」が始まるわけですが、この時の時代位相の変化は(気候変動が食料調達の困難さを伴うものである事から)必然的に人の移動を伴うものであったものであり、その流れは列島内では北方から南方へというものであり、また大陸から列島へというものであったものです。そのようなケースの中には大陸から周王室の血筋を引く人物が列島にやってきたということも考えられます。
 そのようなケースがあったとすると、彼は列島の人々から「天孫」と考えられても不思議はなかったでしょう。そしてそれはその後「倭」からの使者が「大夫」を称する淵源となったとも考えられることとなります。

 弥生時代の「倭」では「周」に対する畏敬の念はかなり深かったものと思われますが、その一因としては「弥生」文化の主要な担い手が大陸(特に江南方面か)からの流民であり、かれら自身が「周」王室に対して一定の敬意を持っていたと思われるからです。それは「呉」の成立の事情と関係していると思われます。
 『史記』によれば「周王朝」の王子が「呉」の建国者とされており、「呉」の人々の「周」に対する畏敬の念は当時の倭人と共通していたという可能性が考えられます。倭人も『後漢書』等によれば「呉の太白の末裔」を自称していたとされ、そのような人々が弥生の倭王権(原初的なものとは思われますが)の主人公であったとすると、周王室に関係した人物について「王」として新たに戴くことに大きな抵抗があったとは思われません。

 平安時代までの宮中講義で、天皇家の「姓」が問題となり「姫」氏であるとされているらしいことが判明していますが、それが「周王室」の姓であるのは明らかとなっています。そのことは「周」王朝と日本国の源流であるところの倭王権が「同祖」であることを示しますが、それがどの時点に分岐点があるのかというと従来明確とは言えなかったと思われますが、既に行った分析により「弥生時代」の始まりの時期こそがまさにそのタイミングであったらしいことが強く推定されることとなったわけです。(この時代に「西周」が崩壊したとされていますから、その意味でも整合しているわけです。)
 この時点で「初代王」としての「瓊瓊杵尊」が降臨、つまり中国から渡来し、「倭」という東夷において「周」に対する敬意の元で中国文明に対して従属するという意識を持った王権が形成されていったものと思われるわけです。

 日本神話を見ると「国譲り」が描かれており、それは「出雲」から「筑紫」へという権力移動を示していると思われるわけですが、それは上にみた「周王朝」の関係者が大挙して列島に移り住むようになった時期と時を同じくするものと思われ、「弥生」以前の西日本全体の支配の中心が「出雲」にあったことを示すものと思われます。
 そこでは「出雲」と「諏訪」の関係の他、「出雲王権」の出自が「半島」に起源をもつものであること、彼らは「武器」というより「医薬」の力で信頼と尊敬を集めていたことなどがうかがえるものです。そう考えれば「出雲」に中心王権があったのは弥生時代というより縄文終末期であったこととなりますが、そうであれば「太陰暦」を使用していたと考えるのは一見難しそうですが、「周」と関係があったとみれば「周暦」が渡っていたという想定もできなくはありません。しかしその統治範囲が「関東」に及んでいたあるいは「出雲」へと続く「官道」が(細いながらも)あったとするのはかなり難しいのではないかと思いますが、それも可能性ゼロとはしません。しかしすでにみたように実際には「出雲」勢力が倭王権の内部で力を持っていたのはもっと下った時期であり、実際には「六世紀」ではなかったかと思われ、それは「磐井の乱」の影響により「九州王権」が「肥の国」(これは「旧都」と思われる)へ押し込められていた時期を想定するべきかと思われます。(これについては別途)
 
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「牛頭天王」について(三)

2017年11月07日 | 古代史
 「牛頭天王」は「素戔嗚尊」の他「薬師如来」との同一化も行われていますが、そもそも「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。
 「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれています。ただしこの「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられているようです。しかし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。しかし「光背」で、特に「用命」という時代設定にされているのは、「仏」の力と共に「薬」などの力によって「病」を直すという事が行なわれるようになったのが「用命」つまり「推古」の兄であり「聖徳太子」の「父」とされる人物の時代であったという「伝承」があった事を示すものとも思われますが、これは「天然痘」に対する救済としてのものであった可能性が高いと思料します。
 そして、それはそのまま「阿毎多利思北孤」の時代に重なるものであり、この年次付近に「薬師信仰」の根源があることを示す為にこの「如来像」は造られ、また「光背銘」が書かれたものと考えられ、この「薬師如来」の「光背銘」や「如来像」の「形式」などが「擬古的」なのは、「天王寺」の「施薬院」の創建時期と重ねることを想定したものと推定します。

 ところで「薬師」はその名の通り「薬」に関する「仏」であり、仏教としては珍しく「現世利益」的なところがあります。その「薬」に関しては以下でも見るように、本格的な導入と使用開始は「中国」との往来が活発である時期が最も考えやすいものであり、その意味で「遣隋使」派遣時点付近以降がその契機となった時点ではないかと考えられるわけです。
 中国で「一九七三年」に発掘された「馬王堆」漢墓からは、「薬」等についての記録が発見されており、それは『五十二病方』と呼称されているものですが、その中の記載では圧倒的に「鳥喙」(「鳥頭」と同義であり「トリカブト」のことを指すもの)関連記事が多く、それは当時から「鎮痛」などに対してかなりの「有効性」が認められていた事を示すものと思われますが、このような「医薬」についての知識が「倭国」にかなり早期に伝えられていた事は蓋然性の高い出来事と思えます。この事からも「トリカブト」に関する知識というものが「アイヌ」からと云うよりは「中国」から伝来したものである可能性が高いと考えられ、そうであれば「東国」から「特産」となったのは「後代」のことであり、「東国」に行政制度の網がかぶせられ、「支配地域」として「倭国体制」の中に強力に組み込まれることとなった「六世紀末」から「七世紀」初め以降のことであろうと考えられるものです。つまり「出雲」に中国の医薬の情報が入ったのはそれ以前のこととなるわけであり、一番の契機となった時点というのはやはり「遣隋使」や「隋使」が往還した時期であり、彼らによって「医薬」が伝来したということではなかったでしょうか。

 「六世紀末」に行われた「遣隋使」とその返答使としての「隋使」の往来では、多くの文物が導入されたものと見られますが、医薬の分野においてもその時点の最先端の知識や技術あるいは薬などが倭国へ導入されることとなったと考えて不思議はなく、この時点が画期となったことは間違いないと思われます。
 「史料」から見てその主役は二人おり『元興寺伽藍縁起』に「裴世清」と共にその名が書かれた「遍光高」という人物と、さらに「倭国」から「遣唐使」として送られたとされ、特に「医薬」の知識を持って帰国したため以降「薬師」と呼ばれたという「恵日」という人物が挙げられます。

 「遍光高」は「尚書祠部」という役職であったことが『元興寺縁起』に残されていますが、この「尚書祠部」の管轄範囲には「医薬」も含まれており、この時の「来倭」ではそのような「医薬」に関するものも交渉の中に含まれていたのではないかと思われます。
 『隋書』には「倭国」に関して「医薬」に直結する記事はありませんが、「知卜筮尤信巫覡。」という文章があり、そこからは「病気」などに罹ったときに「祈祷」「お呪(まじな)い」などによって治療行為を行っていたという可能性が示唆されます。このような背景の中で「倭国」から「隋」に対して「最新の医療技術」あるいは「薬」などについての要望があったとしても不思議ではないでしょう。それに対応するように「隋」も「鴻盧寺掌客」であるところの「裴世清」という通常の外務官僚以外に、「尚書祠部」という役職の担当官を「副」として随行させたものと見られ、彼の存在意義もそこにあると思われます。
 さらに「恵日(惠日)」は実際には『書紀』が描くような「遣唐使」ではなく、「隋代」に派遣された「遣隋使」であった可能性が高いものと推量され、その「遍光高」の示した医療技術などを実際に「本場」で習得しようとして派遣されたものと見られ、そのためその後の「漢方医療」の祖とも言うべき位置にいると思われます。(ただし、後にその子孫は「医薬」とは違う職掌に就いていたため、「薬師」という「姓」を忌避して新しい「姓」を要求し叶えられたことが『続日本紀』に見えています。)
 
 これらのことから「薬師如来」つまり「牛頭天王」と「出雲」さらには「隋」との間には「深い」関係が考えられるものですが、その「実体」としては時代的にも「阿毎多利思北孤」ないしは「利歌彌多仏利」へ投影されていたものと思料され、それはこの「薬師如来」の発祥につながったものとして、「釈迦三尊」の両脇侍である「薬王菩薩」と「薬上菩薩」の存在があったことを想起すべきであることを示唆します。
 「薬師如来」は、いわばこの両「菩薩」の「発展形」とも言えるものと思われ、「鬼前太后」と「干食王后」の業績が、年月の経過と共に「美化」「聖化」されていく経過があったと見られるとともに、そこに「阿毎多利思北孤」等の業績も加味されることとなっていったと考えられます。
 このような「美化」「聖化」が行なわれたのは「七世紀第二四半期」付近の「利歌彌多仏利」の時代のことと思われるとともに、それが「厩戸勝鬘」が主体となっていたという可能性が考えられ、彼女は「鬼前太后」達を崇拝する為と同時に、「倭国王」である「利歌彌多仏利」の「延命」を祈願して「薬師寺」を創建したものと推定されます。
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「牛頭天王」について(二)

2017年11月06日 | 古代史
 これも以前書いたものであり、内容は半分は「妄想」のようなものですから、特にどこかに投稿したというようなものではありませんが、内容としては前回の記事と関連が深いものです。

 「○」印はなぜ「まる」と読むのか、なぜ「良い」という意味があるのか、また「×」をなぜ「ばつ」と発音し、「悪い」という意味があるのでしょうか。
 この「○」印と「×」印に「良い」「悪い」あるい「プラスイメージ」「マイナスイメージ」を持っているのはほぼ日本人だけであり、それは私たちが「祖先」から受け継いで今に至りなお身につけた「感覚」であると思われます。

 この「○」と「×」はいわゆる「記号」ですから、「抽象化」されたものであるのは当然です。つまり、本来「具体的」な「何か」を表していたものが、「抽象化」「単純化」され本質的な形象だけが残存、抽出されたものと考えられます。
 考えられる「○」印の「本来形」として一番可能性のあるものは「太陽」ないしは「月」(満月)であると思われます。これについては「発想」が容易であり、多くの人にとって受け入れやすいものでしょう。
 ただし、「満月」は月に一回しかこないわけであり、その意味では「太陽」に比べ「人間」にとっての「馴染み」の程度が違います。
 また、古代において「太陽」の「光」を反射してまばゆく光り、「第二の太陽」とでも言うべき存在であったと考えられる「鏡」もまた「太陽」と「同一」の表象を意味するものと考えられたものと推察され「○」印の本来形であったと考えられますが、その「鏡」はまた「天皇家」にとっては「神器」でもあります。
 そう考えると「○」印は本来、「太陽」を表わし、それが「太陽神信仰」を通じて「現在」の「天皇家」に繋がっているものと考えられ、それが「良い」という意味を持つようになるとするとある意味理解しやすいものです。
 ところで、そう考えると、「鏡」ないしは「太陽」が「○」印に変わる時点、またそれに「良い」という意味や価値が与えられた時点というのはいつのことでしょうか。言い換えると「天皇家」が「鏡」を「神器」とする時点、つまり「太陽神」信仰を前面に出してくるのは、どの時点の事でしょうか。それは『書紀』による「天孫降臨神話」成立以降であると考えられるものです。
 「天孫降臨説話」の中では「天照大神」から「支配すべき」として「皇孫」が天下ったというように書かれており、「天照大神」が事実上の最高神として登場しており、明らかに「太陽神信仰」を背景とした説話であると考えられます。

 「難波朝廷」の時代(白雉年間)に東国など諸国に「神社」が多く創建された記録がありますが、その「祭神」とされるものはかなりの割合で「宇迦之御魂神」とされています。この神は「稲荷大神」と同一視されていますが、「記紀」の「神話」では「主役」を占めているわけではありません。この神は「神話」では「素戔嗚尊」の子供とされています。さらに「母方」の祖父は「大山祇神」であり、この神は「伊弉諾・伊弉冉尊の子供」とされています。このように「近親」に「重要」な「神」はいるものの、彼自身を主人公にする何らかの「説話」があるわけではありません。にも関わらず、そのような「神」が各地の祭神として神社に鎮座していることや、「伊勢神宮」に伝わる『神道五部書』によれば「伊勢神宮」においても「ウカノヒコ」が「祭神」として祭られていたことが書かれており、この時点では「太陽信仰」の「主役」とは言えない(しかも男性神である)「神」が「公的」な「神」として前面に出てきていたものです。(現在「外宮」に「豊宇気比売大神」として祀られているのがそうであるとされますが、これも女性神に変えられています)
 このことから、「太陽神」信仰が確立したと考えられるのは、「伊勢神宮」の祭神が「ウカノヒコ」(男性神)であったものを、女性神である「天照大神」へ切替えを行なった時点の事と考えられます。

 これは通常「八世紀」の「文武」以降であると考えられるものであり、「持統」-「文武」という「祖母」と「孫」という組み合わせを「神話」の世界に「敷衍」したものがこの時点で作られたものと考えられています。
 すると結局、「○」印は「現在」の「天皇家」に繋がる「新日本国王朝」を指すものと思われ、その始原は「八世紀」以降であると考えられるものです。そして、これに対し「良い」というイメージを持たせ、「まる」と読み下す事になっているのは「権力」による「人為的」なものであると考えられ、その「新日本国王権」のなせる技であろうと考えられるものです。
 (「まる」という「言葉」自体は「古い」ものであり、「古来」からの純粋な日本語であると思われ、その意味するところは「自然」で「破綻」がなく、「完全」であり、「全てを包含する」というものであったと思われます。)
 このように「○」印が「権力」により「新しく」造られ、意味を持たされたと考えると、それと「対」で考えられる「×」印についても同様に「新日本国王朝」による「人為」ではないかということが考えられるでしょう。

 「×」は「ばつ」と読み下されているわけですが、そもそも本来の日本語には「語頭に濁音がこない」というのが「定説」となっています。その意味でもこの「ばつ」という言葉が「外来」のものであることは明白であると思われます。そして、そうであれば「ばつ」という言葉(音)は後代になって国内に導入されたものとなり、該当するものとしては「罰」という漢語が想定されるでしょう。
 また、この「×」が「罰」であるとすると、その発音が「ばつ」であることから、「呉音」ではなく、「漢音」であることも判ります。(呉音では「ばち」となるはず)
 そのような思惟進行が正しいとすると、国内に「罰」という言葉(音)が導入されたのは「唐」と本格的国交が樹立され、「遣唐使」の往来が活発となった「八世紀」以降に発生した言葉であることとなり、また概念であると推測できるものです。
 もっとも、「罰」という言葉や概念は「中国」では紀元前からあったものであり、(史記などにも散見されます)その後「律」が制定されると、それに対応するものとして「規定」された概念であると考えられます。

 「前漢」の「武帝」時代に、半島に「帯方郡」を設置して以来、「倭国」でも多くの「国」が「建国」されたと考えられ、それらの中には「邪馬壱国」のように「中国」と深い関係を築き、各種の制度を導入したと考えられる国もありました。
 その後「西晋」が「匈奴」「鮮卑族」により滅亡し、揚子江以南に移動して「南朝」を創始した際にも「倭国王権」は交流を継続しています。そのような「臣事」する体制を継続した要因として、「発音」が以前と変わらず、「同じ」(共通)であったことから、これを「同一」の王朝と見なしたとも考えられます。その「発音」が「日本呉音」とほぼ等しいとされてますから、「罰」という言葉を「漢音」として受容している現実は、この「罰」という言葉と「発音」を受容したのはこれらの時代のことではない、と言うこととなるでしょう。その意味からも「八世紀」以降のものという推定が可能でしょう。

 また、それは「当時の倭国」に「罰」という概念に似たものがなかったことを意味すると考えられます。これが受容されるのは仏教の伝来により「戒律」という観念が導入された事と関係があると思われます。そして、その後「律令」が制定され、中国と同様「律」との対応概念として「罰」が認識され、受け入れられることとなったものではないでしょうか。
 つまり「×」という記号に「ばつ」という読みが与えられ、意味が「罰」と同じ「あってはならないこと」あるいは「天から拒否されていること」とされ、この「×」印についてはその後「蔑み」の対象となるのは、それに引き続く時代のことと考えられ、これは「○」(まる)の発生が「八世紀」以降であると考えると、それとほぼ同時期であったという推定が可能でしょう。
 但し、このことは「×」印そのものの発生が「八世紀」以降であると言っているわけではありません。あくまでもその「読み」が「ばつ」であり、それを「良くないもの」という「概念」が与えられたのが、「八世紀」以降であると言っているのです。
 つまり、何らかの理由によりそれまでも存在していた「×」印について、この時点で「悪」という「烙印」が押されることとなったけです。

 「○」は「太陽」であると考えたわけですが、ではこの「×」印は本来何を意味するものであったでしょうか。「八世紀」以前には「×」印は確かに存在していました。例えば「出雲荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」(銅矛?)が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。つまり、この「弥生」という時代ですでに「×」印が存在し、それに何らかの「意味」があったものです。
 以前はこの「×」印などの起源について「新しい」(明治以降)という説が従来ありましたが、それはこの「銅剣出土」で破綻したといえるでしょう。明らかにそれらの説では「弥生時代」の遺跡から「×」印が出ることを説明できないのです。
 この「×」印というものは「何か」を交差させた形であるのは確かです。候補に挙がるのは家紋にも使用される「鷹」などの「鳥」の「羽」や、「矛」「剣」「杖」「鎌」他「何か棒状のもの」などでしょう。
 このような中で現在でも「悪い」という意味合いで使用されているものは特に見いだせず(「鷹の羽」や「剣」や「鎌」などを交差させた「家紋」は存在していますが、「良くない」という概念が付随するわけではありません)、どの「形」が当時「悪」というイメージで扱われたものかは推定しにくいのは事実です。
 しかし、そのような中である「紋」の存在が指摘されています。それは「矛」を交差させたものであり、「出雲大社」の「紋」とされているものです。また「出雲大社」の分社と考えられる「諏訪神社」で行われる「御柱祭り」の「御柱」にも(以前)は「×」印が付けられていました。この事から「×」という印には「出雲」を指し示す意義があったのではないかという推測が可能でしょう。

 これと関係があると考えられるのは「祇園祭(祇園御霊会)」です。
 『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「祇園祭」の発祥となったのは「貞観地震」の発生(八六九年五月二十六日)であったと考えられ、地震発生の「十二日後」の「八六九年六月七日」に「御霊会」を行うように「勅命」が出されています。

「貞観十一年、天下大疫の時、宝祚隆水、人民安全、疫病消除鎮護の為に、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建てる。長さ二丈許。同十四日、洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、以って祭る。是を祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と成す。」(『祇園社本縁録』より)

 「朝廷」(清和天皇)はこの時の地震を、「八坂神社」の祭神であり「薬師如来」の化身である「牛頭天王」(「素戔嗚尊」)の祟りであると考え、全国の「国」の数に等しい「六十六」の「矛」を逆さまに建てたものを「祟り鎮め」のものとして「神泉苑」に「奉納」したものです。
 この時は「京」の「東方」の郊外にあたる八坂付近の人々をこのために集め、彼等に「逆鉾(矛)」を持たせ、いわばこれに「怨霊」を封じ込め「神泉苑」まで「運ぶ」という「儀式」を行なったものです。つまり、怨霊」が「東」の方向にいるというわけですが、これは「素戔嗚尊」が「根の国」に追いやられたことと重なるものであり、そのため「素戔嗚尊」の祟り鎮めとして「八坂」の地が選ばれたものと考えられます。
 そして、その「祇園祭」の「お守り」には「真ん中」に「宇迦之御魂神」と「大書」されています。
 当然この「宇迦之御魂神」が「素戔嗚尊」に関連があると考えられていたからこそ、お守りに書かれると考えられるものですが、(彼は神話では「素戔嗚尊」の子供とされます)「素戔嗚尊」に深く関係していると考えられる「出雲大社」には確かにこの「神」が祀られてはいるものの、上に見たように特に重要な神として祀られているというわけではありません。しかし、この「宇迦之御魂神」は「難波朝廷」の時代(白雉年間)に東国など諸国の多くに多数創建された「神社」の「祭神」とされていました。また、この「神」は「稲荷大神」と同一としている場合が相当数あります。(京都の伏見稲荷神社の祭神も同じ)
 また「伊勢神宮」に元々祭られていたとされる「ウカノヒコ」とも同一神と考えられ、これらのことから「素戔嗚尊」を鎮魂するために祭られた「宇迦之御魂神」は「出雲」の神であり、しかも「難波朝廷」時点では「伊勢神宮」に祀られていたと言うことが分かります。

 ところで、上に見たように「○」印が成立するのは「太陽神信仰」が成立する時点であると推察したわけですが、それはとりもなおさず、「伊勢神宮」から「ウカノヒコ」が追いやられる時点でもあるわけです。
 このことから、この時点で「○」印が発生したと同時に「×」印も発生したものであり、それは「追放」された「ウカノヒコ」(宇迦之御魂神)を示すものであったのではないかと言うところに想像が行きます。
 つまりそれは本来「出雲」の表象であり、「宇迦之御魂神」を表す「威厳」に満ちたものであったと考えられるものです。
 しかし八世紀以降、「×」印に対して「現在」の私たちが考えるように「悪」の意味が持たせられたものと考えられ、それは「伊勢神宮」から「出雲神」が追い払われ、「太陽神」が鎮座したことを意味するものであったのではないでしょうか。
 では何故それ以前の「難波朝廷」時点で「伊勢神宮」に「出雲神」である「ウカノヒコ」が祭られていたのでしょうか。

 この点を「国譲り神話」に見てみると、「大国主命」は「建甕鎚神」と「経津主神」に「国」を譲るように言われ、「息子」である「建御名方神」に聞くように言ったとされます。この「建御名方神」は「宗像」を意味するというのはほぼ定説になっていますが、また「厳島神社」の祭神と言われる「宗像三女神」の「父」でもあります。そして、仏教布教をその「宗像三女神」の一人である「市杵島比売神」と共に「瀬戸内巡行」を行なったのが「阿毎多利思北孤」であり、「利歌彌多仏利」の「父」と考えられている人物です。
 
 さらに、「大国主」の説話として知られているものに「因幡の白兎」というものがあります。「鰐」に欺された「兎」に「薬」(蒲(がま)の穂)を与えたとされる「大国主」のイメージは、「施薬院」を開いた「阿毎多利思北孤」に重なるものがあります。
 また、「大国主」は「口の利けなかった」息子である「「阿遅須枳高日子」の治療にも「泉」を使用するなど、「病」を直すイメージがありますが、そのことにつながるイメージであるのが「薬師如来」であり、「薬師信仰」です。
 この「薬師」は「日本」で盛んになった信仰であり、本格化したのは「七世紀」の終わりとされています。しかし、「法隆寺」の「薬師如来」の光背銘文によれば「用明天皇」の病気治癒を祈願して「薬師如来」が造られたとされているなど、「六世紀の後半」から「七世紀」の始めにかけての時点に「焦点」が当たっているようであり、それは「上宮法王」の「施薬院」開設などの事績に重ねて考えられていることを示します。そのことは「造像」時点における「信仰」を示すものであり、「上宮法王」に対する傾倒がこの時点の「倭国王」に顕著だったことを示すと思われます。

 また「京都」の「八坂神社」の祭神は「薬師如来」が垂迹した「牛頭天皇」とされ、この「牛頭天皇」というのは起源不明ではあるものの、その后は「頗梨采天女」であったとされますが、この「頗梨采天女」は「娑竭羅龍王の娘」とされ、「南方」の「竜宮城」に住んでいたという逸話が残っています。
 つまり「娑竭羅龍王の娘」は「牛頭天皇」すなわち「素戔嗚尊」の后とされている訳であり、「宗像三女神」と「仏教」(「法華経」)そして「出雲」という融合がそのまま「日本神話」につながっていることがわかります。
 「厳島神社」や「伊予三島神社」の創建は(『縁起』や「史料」によれば)「六世紀の末」とされており、決して「弥生時代のこと」というわけではありません。
 
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「牛頭天王」について(一)

2017年11月05日 | 古代史
 肥沼氏のブログで「牛頭天王」について書かれていました。この「牛頭天王」は「素戔嗚尊」と同一とされるとともに「薬師如来」とも同一視されています。氏はこの「牛頭天王」を「出雲王朝」と関連ありと見ておられるようであり、多分その時代として「弥生時代」を想定していると思われますが、私見ではそれほど古い話ではないとみており、これに関しては以前駄文をいくつか書いていますので、ここで改めて掲示してみます。
 
 以下は古田史学会報へ投稿したものであり、その後未採用となっているものです。(一部変更しています)投稿日付は二〇一三年六月十一日です。

「天王寺」の「施薬院」について -「出雲」との関連において-

 ここでは「天王寺」の「施薬院」(勝鬘院)の起源と「倭国王権」の関係について述べ、さらにその「施薬院」と「出雲」とが関連している可能性について述べます。

一.「施薬院」と「勝鬘院」
 「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば「元亨釈書」によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方が来たときには、その傷口の「膿」を口で吸い取ったとされています。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるような「前例」となる事例があったのではないかと思われるのです。

 ところで、現在「四天王寺」の別院として知られているものに「勝鬘院」があります。この「寺院」は元々「四天王寺」の「施薬院」として開かれたという伝承があり、またここで「勝鬘経」が講説されたという伝承もあって、そのことから「勝鬘院」と呼ばれるようになったとされています。
 この「四天王寺」は「聖徳太子」の手になる創建が伝えられていますが、この「別院」である「施薬院」についても同様に「聖徳太子」に関わるものとされ、ここでは、「薬草」の栽培から、「調剤」そして「投与」という段階まで行なっていたとされるなど、「貧窮」し、「病」に倒れた民衆の救済にあたっていたとされています。(以上『四天王寺縁起』による)
 このようなことが事実かどうかと言う点ではやや疑問とする向きもあるようですが、「光明皇后」の事例から判断すると実際にあった見る事もできると思われます。
 また「四天王寺」には「亀井の霊泉」と呼ばれる「泉」があり、これは古来からのものと考えられ(註一)、創建当時よりこれに対する信仰も篤いものとされます。それもやはり「病」あるいは「怪我」などの治療効果を期待してのものであったと考えられます。

 ところで、「四箇院」のような「病気治療」などに関連するものとして、「法隆寺」の釈迦三尊像の「両脇侍」の存在が注意されます。この「両脇侍」は『聖徳太子傳私記』では以下のように「薬王菩薩」と「薬上菩薩」であると考えられているようです。

「…次法隆學問寺
先金堂。…。内陳南正面戸三本。余三面各戸一本。石壇長口〈傍一字消タリ〉。四面連子也。其内中ノ間。太子御印。與願施无畏。等身金堂釋迦像。〈光銘。太子御入滅事見タリ〉脇士二體。〈薬王。薬上。〉共手持玉。…」(『聖徳太子傳私記』より)

 この「脇侍」は、本体は簡略な造形であるとされる一方、「蓮華坐」が技巧を凝らして造られているともされ、それは『法華経薬王本事品』の「女人の往生者は蓮華の中の宝座の上に生まれる」とされていることと関係しているという指摘があります。(註二)
(以下『法華経薬王菩薩本事品』の当該部分を示します)

「…若有女人、聞是薬王菩薩本事品、能授持者、盡是女身、後不復受。若如来滅後、後五百歳中、若有女人、聞是経典、如説修行、於此命終、即往安楽世界、阿弥陀仏、大菩薩衆、圍繞住所、生蓮華中、寶座之上。…」

 この「両脇侍」については、「釈迦像」が「尺寸王身」とされ「上宮法皇」(実は『隋書俀国伝』に「倭国王」として記された「阿毎多利思北孤」を指すと考えられます)をかたどったものとされているとされており、このことの類推から彼の「母」と「夫人」を模したものであり、「鬼前太后」と「干食王后」を示すのではないかとされています。(ただし、この「干食」が名前の一部であるとは確実にはいえません)
 そして、この「釈迦如来」の「両脇侍」に「薬王菩薩」と「薬上菩薩」として彼女たちが配されているということは、彼女たちの「医療」に関する「功績」を示唆するものだと思われるのです。
 この「釈迦像」はその「光背」に書かれた文章によれば、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)の病に際して「造像」され始められたものとされています。(註三)その「銘文」からは、「釈迦三尊像」は「鬼前太后」が亡くなられ、「上宮法皇」が病に倒れた時点以降造り始められたと考えられますが、この「両脇侍」はその後、同時に亡くなられた「鬼前太后」と「干食王后」についての「追慕」と「畏敬」を表すため造られたものではないかと見られ、その際に「薬王」「薬上」菩薩に擬して造像されたものと考えられますが、それは上記「施薬院」を含む「四箇院」での「怪我や病気で苦しむ人を救う」という事業の遂行者が彼女たちであったことを示すものではないかと推察され、(注四)この「四箇院」は「阿毎多利思北孤」の「母」である「鬼前太后」など彼の近親の「女性」達により営まれた、当時としては画期的な「総合的福祉施設」であったものではないでしょうか。

 この「施薬院」には「薬草」を栽培する場所が附属しており、そこで数多くの「薬草」となる草木を植えていたと伝えられていますが、また『万葉集』にも、「茜さす 紫野行き 標野行き 野守はみずや 君が袖振る」という有名な歌があり(額田女王の歌)、そこで言われている「紫野」とは「塗り薬」として使用されていた「紫根」を栽培していたところと思われ、「標野」とはそのような「薬草」を取るために区画された領域を意味する語であったと思われます。
 この歌は「大海人」と「額田女王」の間に交わされたとされ、「六六〇年代」の作と思われますが、このような場所が設けられるようになったのはそれほど昔のことではないと考えられます。それは「標野」そのもののについても「記紀」には全く現れず、「万葉」においてもこれが「最古」の例と考えられることからも言えると思われ、この歌が詠われたとされる「六六〇年代」をやや遡る「七世紀前半」付近に起源があるものと推定するのが相当と思われ、これらで得た「薬草」なども「施薬院」で人々の治療に役立てていたものと思料されます。(「紫草」については「小野妹子」が隋から持ち帰ったという伝承があるようです。真偽は定かではありませんが、奇しくも時代は一致します。)
 また、『書紀』には「藥獵(薬がり)」が行われていた事が記載されています。

「(推古)十九年(六一一年)夏五月五日。『藥獵』於兎田野。取鷄鳴時集于藤原池上。以曾明乃徃之。粟田細目臣爲前部領。額田部比羅夫連爲後部領。…」

 ここでいう「藥獵」とは、「野山」に出て「野草」などを取るものですが、女性は、野で「薬草」を摘み、男性は「鹿狩り」をして「若い牡鹿の袋角」を取ったもののようであり、これは「施薬院」で使用する薬を採集するためのものではなかったでしょうか。
 この記事は「五月五日」にこの「藥獵」が行なわれた事を示していますが、この「五月五日」は古来中国では「薬草」を採取して「毒気」を払う時期とされていたものであり、例えば「六朝時代」の「荊楚」地方(揚子江中流域)の「年中行事」を記した「荊楚記」では「荊楚人以五月五日並蹋百草。採艾以為人。懸門戶上以禳毒氣。」などとされています。(『藝文類聚』より引用)
 この「藥獵」の日については『書紀』では「五月五日」という「数字日付」で表されており、「干支」表記ではありません。このような数字日付記事は『書紀』では非常に少なく、(他に三月三日など)月の行事として日付が固定されていたことが窺えます。この「五月五日」という日付そのものが『書紀』ではこれが「初見」であり、この年次付近で「王権」の正式行事として確定したのではないかと考えられます。
 これに関しては『隋書俀国伝』には「毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。」と書かれており、「正月」の他「節」ごとの催しはほぼ中国と同じであると書かれています。
 ここでいう「節」とは「節句」を意味するものと考えられ、それが例えばこの「五月五日」の「薬草」を集めることによる「疾病」を防止する行事等であったと思われ、(記事によれば)これらは最初の遣隋使が派遣された時期(これは実際には五八〇年代のことと推定されますが)には既に「倭国内」ではごく一般的であったこととなるでしょう。その意味では「推古紀」の記事は「遅すぎる」ぐらいではないかと思われますが、「王権」の「行事」として行なうようになったのがこの年次付近であることを示すものかも知れません。
 後に「天智」の時代にも「藥獵」が行なわれており、その場所が「蒲生野」と記されていることから、この場所についても(字義通り)「蒲(がま)」の栽培を行なっていた「標野」であることが推定されます。「蒲」は『古事記』では、「大国主」の処方により「兎」の背中に塗ったとされる薬草です。
 「推古紀」でも「薬狩り」をした場所として上に見るように「兎田野」と書かれており、「う」の表音として「兎」という字が選ばれているのは「偶然」ではないと思われます。
 
二.「施薬院」と「出雲」
 ところで、「古代」において「治療」というと、先にも触れましたが、「大国主」に関連した説話として知られている「因幡の白兎」というものがあります。(『古事記』では「稻羽」)この中では「大国主」は「八十神」に欺された「兎」に「薬」として「蒲」(がま)の穂を与えたとされます。
(以下『古事記上巻』の当該部分を示します)

「…於是大穴牟遲神敎告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之『蒲黄』敷散而輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如敎其身如本也 此稻羽之素菟者也 於今者謂菟神也…」

 ここでは『蒲黄』つまり「蒲」の「穂」の「花粉」を敷きつめた上に身体を横たえ回転させて、皮膚に付着させて治癒させたと云うように書かれています。
 そもそも『出雲国風土記』には大量の「薬草」となる「草木」の名前が列挙されており、他郡を圧倒しています。まさに「薬」の「特産地」であることが示されています。
 その後も『続日本紀』等の史料には「出雲臣」とその子孫が「各代」の天皇の「侍医」を勤めていることなどが書かれ、「出雲」と「医術」の関わりが深いものである事及びその背景に「医」と「薬」に関する長い伝統があることを推定させるものとなっています。
 また「大国主」と共に国造りをしたとされる「少彦名命」は、「薬」に関係した神とされています。彼は『書紀』では「カガミ」(これも薬草の名前と考えられています)の皮で造った舟に乗ってきたとされていますし、『書紀』の「神代第八段一書第六」では「大国主」と共に人間や益のある動物のため、病を治す方法を定めたとされています。

「一書第六曰 大國主神 亦名大物主神 亦號國作大己貴命 亦曰葦原醜男 亦曰八千戈神 亦曰大國玉神 亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神 夫大己貴命與少彦名命戮力一心經營天下 復為顯見蒼生及畜? 則定其療病之方 又為攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法。是以百姓至今咸蒙恩賴。」

 また『古事記』では「八十神」にだまされて、大やけどを負った「大国主」自身が「貝」や「蛤」に助けられるというストーリーが語られていますが、それは「貝」の煮汁などによる効能を指すと考えられ、これも「出雲」における「薬」の知識の一端を示すものと推量できます。

「…於是八上比賣答八十神言 吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲神 故爾八十神忿 欲殺大穴牟遲神共議而 至伯岐國之手間山本云 赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者 汝待取 若不待取者 必將殺汝云而 以火燒似猪大石而轉落 爾追下取時 即於其石所燒著而死 爾其御祖命哭患而 參上于天 請神産巣日之命時 乃遣貝比賣與蛤貝比賣 令作活 爾貝比賣岐佐宜【此三字以音】集而 蛤貝比賣待承而 塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行…」(『古事記(上巻)』より)

 さらに、「大国主」と「少彦名」については各地の伝承として「薬」と共に「温泉」の治療効果を人々に教えたとされています。
 『伊予国風土記』(『釈日本紀』に引く逸文)には「大分の速見郡の湯」により「死んだはず」の「少彦名」を「大国主」が生き返らせる話が書かれています。
 また『風土記』逸文として「北畠親房」の『准后親房記』という書物(これは正体不明)に『伊豆国風土記』からの引用があるとされます。そこでは「大己貴」(「大国主」)と「少彦名」とが、民が早死にすることを憐れんで、「薬」「温泉」の術を定め、そのような中に「箱根」の湯もあるとされています。
(以下『風土記』に関しての読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)

「准后(じゅごう)親房の記に 伊豆國風土記を引きて曰はく 温泉(ゆ)を稽(かむが)ふるに 玄古(むかし) 天孫(あめみま)未だ降りまさず 大己貴と少彦名と 我が秋津州(しま)に 民の夭折(あからさまにしぬる)ことを憫み、始めて禁薬(くすり)と湯泉(ゆあみ)の術(みち)を制めたまひき。伊津の神の湯も 又其ま数にして 箱根の元湯是也。 …」

 この「温泉」記事に関連したものとしては『出雲国風土記』にも後の「玉造温泉」へとつながる記事があります。そこに出てくる「温泉」は「大国主」の御子である「阿遅須枳高日子」が言葉が話せずにいたものが「快癒」した事とつながっているものであり、「温泉」の効能が「大国主」や「出雲」という地域との関連で語られていることとなります。

 これらの「出雲」と「薬」あるいは「治療法」というものの間に深い関係があることや、「大国主」という存在が「力」だけを背景にした統治者ではなく「医療」など文化的側面においても傑出した存在であったことなどについては既にある程度認知されているようです。しかし、それらは一般には「弥生時代」のことであるとして、いわば「過去」の出来事というような扱いをされています。
 しかし、そうとばかりは云えないと思われるのです。それは、『書紀』で「医」「薬」について具体的な記事が見られ始めるのが「六世紀」半ばのことであり「温湯」に至っては「舒明紀」の「幸干攝津國有間温湯。」(舒明三年(六三一年)秋九月丁巳朔乙亥条)という段階まで記事が見られません。それまでも「湯」という単語に関連する記事は各種あるものの「温湯」ないし「温泉」という記事はこれが初出なのです。
 このように各種の資料等が示す「出雲」と「薬」また「温湯」というものの間に他の地域より緊密な関係が存在している事と、「六世紀」から「七世紀」というかなり「新しい」年代にそれらの記事が『書紀』に現れること、また既に見たように同時期に「施薬院」が設置され、病と傷の治療に「薬草」などの知識が導入されるようになることの間には深い「関係」があるように考えられるのです。

 例えば、「アイヌ」が狩りに使用していたことで有名な「トリカブト」という「毒草」があります。この「根」の部分の毒は特に強烈で「フグ毒」に次ぐとされています。しかし、この部分は「加熱」などの加工を加えると「減毒」される事が知られており、そのようにしたものは「痛み止め」あるいは「麻酔」としての効果があるものとされ、実用されていたようです。そして、これは「藤原京遺跡」から出土した木簡などから「七世紀末」当時「武蔵」など「東国」からの「貢納品」であったと推定されています。

「无耶志国薬烏…」(藤原宮跡西面南門地区出土木簡)

 ここでは「鳥…」とあるだけですが、「薬」とあること、同じ場所から出土した木簡に「无耶志国薬桔梗卅斤」とあり、「桔梗」は後の「延喜式」でも「薬草」として扱われていましたから、この「鳥…」も「薬草」と考えられ、該当するものは「鳥頭」と表記されることの多い「トリカブト」であると思料されます。
 この「鳥頭」や同じく「トリカブト」を意味する「付子」「木勇」については、いずれもその「和名」は「於宇」であるとされています。これは「出雲」にある「意宇郡」という地名との関連が強く示唆されるものであり、(「意宇郡」も「於宇」と発音されていたものです)本来「出雲」の特産であったという可能性があるでしょう。「出雲風土記」には「薬草」等の記載がぬきんでて多いことは既に述べましたが、中でも「意宇郡」が最多です。このことから、「トリカブト」も「意宇郡」の特産であった可能性が高いというのは、無理な想定ではないと思われます。

 当時も今も「薬」に期待する一番のものは「痛み」の解消であると思われ、それが「ケガ」であれ、「病気」であれ、痛みを伴わないものは皆無とも言えますから、「痛み」を和らげられるものが一番「珍重」されたものと考えられます。そのための「特効的」なものとして「トリカブト」が用いられたものではないでしょうか。
 「鳥頭」については「藤原京」木簡段階以降「東国」から「貢上」されていますが、「それ以前」はどうであったかというと、そもそも「東国」が「倭国」の直接統治範囲に入ったのが「七世紀初め」のことと考えられますから(注五)、それ以前から「トリカブト」が「武蔵」等東国から「貢上」されていたとは考えにくいこととなるでしょう。その場合「出雲」の「意宇郡」がその主要な貢上地域であったと推定できます。
 このことから、「トリカブト」を初めとする「薬草」に関する知識は、「出雲」につながるものであり、「施薬院」等の「四箇院」が造られる時点(「六世紀後半」から「七世紀初め」か)で、「王権」の内部に「出雲」の「薬」に関する知識あるいは「医療技術」のようなものが導入されたことを示すものと考えられます。また、それは「上宮法王」や「鬼前太后」などという「王権中枢」の人物達と「出雲」の間に何らかの関係があった事を推定させるものといえるでしょう。(そのことについての詳細は別稿に譲ることとします)

「結語」
一.「聖徳太子」に擬されている「上宮法王」は「天王寺」を創建すると共に「施薬院」など医療施設を建て、そこで彼の近親の女性達により「医薬」「医療」などを提供していたと推定できること。
二.その「医」に関する知識と技術は「六世紀後半」以降に「出雲」から導入したと推定できること。

(註)
一.「浪華百事談」等によると「人皇三十三代崇峻天皇の御宇、二年秋七月、聖徳太子、難波の地に初て伽藍を創立し玉ひ、四天王寺と号し玉へり、其旧地は、上古図の中に載せし如く、玉作の里の傍なり、其地当今森の宮の東にあたり、其時の大門、堂塔の跡、田圃の字に遺れり、又、亀井の霊泉は、今も田圃の内に存して、一千三百余年の星霜を経ると雖も、水涸ることなし、四天王寺此地に創立ありし時、逆浪あふれ、鳥蛇集りて、堂宇を破壊す、よりて、二十五年の後ち、今の地に転移して、再び伽藍を建立し玉ひしなり」とされ、この「浪華百事談」は明治時代の記録ですが、「亀井の霊泉」は「創建」の当初から存在していたものという伝承があり、「寺」が「移転」後も元の場所に「明治」においても「泉」は涸れることなく残っていたもののようです。
二.亀田孜「法隆寺の法華経関係の美術」仏教芸術一三二号 一九八〇年
三.「釈迦三尊像」の「光背」銘文のうち「関係部分」は以下の通りです。(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)(「/」は改行を表します)
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/…」
四.「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘文によると「阿毎多利思北孤」と「鬼前太后」「干食王后」はほぼ同時に亡くなったとされていますが、それは何らかの「感染症」によるという可能性もあり、それがこの「施薬院」等における「看護活動」の際に、患者から何らかの「病気」に「感染」した結果という可能性もあると思われます。同時期に複数の人間が病に倒れ、死に至るというからにはそのような「感染症」や「伝染病」を考える必要がありますから、「施薬院」の存在はその感染ルートとして考慮の対象とすべきものと思われます。
五.拙稿『「国県制」と「六十六国分国」 -『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において』古田史学会報一〇八号及び一〇九号

他参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『古典文学大系『日本書紀』(文庫版)』岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系『続日本紀』』岩波書店
宇治谷孟訳『日本書紀』(全現代語訳)講談社学術文庫
宇治谷孟訳『続日本紀』(全現代語訳)講談社学術文庫
秋本吉郎校注『日本古典文学大系 風土記』岩波書店
倉野憲司校注『古事記(文庫版)』岩波書店
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
中村元「現代語訳大乗仏典三『勝鬘経』『維摩経』」東京書籍
間壁葭子『古代出雲の医薬と鳥人』学生社一九九九年
中野聰「法隆寺釈迦三尊像の所依経典と美術表象」龍谷大学仏教文化研究所所報第三十四号
「延喜式」「聖徳太子傳私記」「元享釈書」については「国立国会図書館デジタル化資料」より閲覧
『芸文類聚』は「台湾中央研究院漢籍電子文献」サイトによって検索し閲覧。
『四天王寺縁起』は「奈良女子大学附属図書館坂本龍門文庫善本電子画像集」を閲覧。。
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