古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「寿考」について

2018年03月25日 | 古代史

 動物によらず鼓動の回数には上限があるとされ、それがいわゆる「寿命」であるとされています。(本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』中公新書1994年)それによれば通常人間の(いや全ての動物の)鼓動回数の上限は「20億回」とされ、脈拍数として毎分60~70回とすると約50-60年程度で到達してしまいます。これが原初的な人間の寿命であると思われるわけですが、実際にはそれを上回る寿命となっています。その理由として大きいのはもちろん、「衛生状態」「栄養状態」「社会的救済」「薬」などの発展と充実が関係しているでしょう。これについてよく聞くのは「盲腸」(虫垂炎)や「破傷風」というような病気が寿命を決定づける大きな要因ではなかったかということです。
 例えば「抜歯」の風習は「破傷風」に対するものという説もあります。この病気は「地下」の浅い場所にいる「破傷風菌」によって傷口などから感染するもので、「足」などに傷がありまた「わらじ」などの粗雑な履き物しかない場合に罹患する可能性が高いものです。
 感染すると高熱が出て「筋肉の緊張」が起こり、口が開かなくなります。その場合でも流動食的なものが「抜歯」した歯の隙間から飲み込むことができるように先人が経験則的に工夫したものとする説もあるようなのです。このように対策らしきものが建てられているとすると、このような病気は人の一生の内に罹る率が高いことを示し、それによって人の「寿命」が決定づけられていたともいえるでしょう。しかしそのようなものに罹らなかったとすると、「栄養状態」などによって「寿命」の長短が決まったということもまた確かと思われます。
 
 縄文時代においては「栄養価」の高いものを日常的に摂取することはかなり困難であったのではないかと思います。もちろん「水産物」や「動植物」による栄養確保はそこそこできていたとは思われますが、やはり「米」を食べるという方法による「日常」的栄養確保法はドラスティックなものであり、一気に「栄養状態」の改善が成されたと見られます。
 当時すでに「クリ」などを「栽培」し、それを栄養価向上の一策にしていたようであり、そのような工夫は相当程度成功していたようですが、気候変動が起きると主食であったであろう山野における収穫物が減少し、その穴埋めがかなり困難となったものと見られます。そのタイミングで「稲作」が導入されたわけであり、「米」を摂取することによる「エネルギー」と「栄養価」(ビタミンなど)の確保が可能となったことは画期的であり、その意味で「縄文」から「弥生」は単なる「稲作」がの有無というだけではなく、生活全体の革命をもたらしたものであり、それは「寿命」にも大きく影響したことは間違いないものと思います。(米にはタンパク質も含まれており、肉や魚などの摂取が必須ではないことも重要です)
 その結果前述したような病気に遭わず、不測の事故もなければ、「稲作」によって基本的な栄養状態が確保され、また老衰等により動けなくなっても家族や村落全体からの助けによって食事ができていれば、そこそこ長生きしたのではないでしょうか。その意味ではいわゆる「寿命」は「縄文」から「弥生」に至ってかなり延長されたとみるべきでしょう。

 上記のように「鼓動数」から計算される「寿命」は人間にはそのまま適用できないわけですが、その大きな要因が「時代の転換」に関係しているとすれば、「弥生」の始まりと共に「実質的」に寿命が延びたという可能性が考えられ、そうであれば『倭人伝』がいう「其人壽考、或百年、或八九十年。」という数字は誇大な数字であるとか「二倍年暦」によるものではないと見るべきこととなります。しかも当時「戸籍」があったと見れば(しかもその「戸籍」に「年齢」が書かれていたとすると)、「九十歳」「百歳」が実数であるという可能性は低くないと思われます。
 古田氏も言うように「戸数」が書かれているのは「戸籍」の存在を前提として考えるべきであり、しかもその「戸籍」の型式等はほぼ「漢魏」の「戸籍」と同じ様なものであったと見るべきです。(そうでなければ「戸」ではなく「家」で全て書かれたはずと思われる)その場合「年齢」は「必須」のはずです。
 中国では「秦」の時代までは「身長」で「賦課」を決めていたようですが「漢」になってからは「年齢」が基準となったもののようです。(これは太陰太陽暦の発展によるものか)そうであれば「倭」においても「漢制」に則っていたという可能性が最も高いのではないでしょうか。
 一般に「二倍年暦」の証拠とされる「其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀」という文は、「裴松之」によって『魏略』より引用されたものでそれは「俗」のものとされており、「倭」あるいは「邪馬壹国」という公的な立場からのものではなかったものです。つまり「暦」に関しては国内に二種類が存在していたものであり、この「寿考」については「公的」なものと考えるべきではないかということです。

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「隅田八幡宮」の鏡と「日十大王」

2018年03月18日 | 古代史

 「和歌山県」の「隅田八幡宮」には「国宝」とされる「鏡」があります。この鏡には「銘文」がついており、そこには重要なことが書かれています。(以下原文と標準的読み下し)

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

「癸未の年八月十日大王年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。」

 これについては他にも読み下し案が提示されており、解釈と共に多くの考えが示されています。例えば古田武彦氏によれば「日十」は「十日」のことではないし、「大王年」は「大王」の年(年次)を示すものではなく中国風「一字名称」であり、また「男弟王」は『魏志倭人伝』の出現例と意味は同じとされています。(※1)それによれば「男性の王」の弟は単に「弟王」と表記するのに対して「女性王」の弟は「男弟王」と表記する例が見られるとされ、(典型的なものが「卑弥呼」と「男弟」との関係とされるが他にも例を提示されています)この「日十大王」と「男弟王」の場合にも当てはまる可能性があるとされるのです。つまり「日十大王」は「女性」である可能性が高いというわけです。(※2)
 さらに、「卑弥呼」の「男弟」が「佐治国」と書かれたように「男弟」(王)」が「女王」に代わって摂政的立場で万機を取り仕切っていたという可能性が強いと思われます。それが「連名」として書かれている理由ではないでしょうか。
 もし、そうであるとすると「武」の即位に際して「空白」があることの理由として整合的となると思われます。

 また、ここに書かれた「斯麻」が「斯麻王」つまり「百済武寧王」であろうというのはほぼ正しいと思われ、そうであれば「癸未年」というのは「五〇三年」で問題ないと考えられます。(この一巡後という説もあるようですが、それでは人名に合致する適当な人物が見いだせません。)
 また、「武寧王」は「五〇一年」に「東城王」が暗殺された後に帰国して即位したと考えられ、「倭国」の支持を確固たるものにするために「鏡」を贈呈したと見れば「鏡」贈呈のいきさつとしても理解できます。
 問題は「倭国側」の人物と思われる「日十大王」と「男弟王」とは「誰か」と云うことです。
 これが「五〇三年」とすると「倭の五王」の最後である「武」の時代と考えられ、もし「日十大王」が女性ならば、「武」自身が「日十大王」なのか、それとも彼は「男弟王」なのか、あるいは「武」は既に死去しており、彼の「皇后」が称制したのかというような種々の可能性が考えられます。可能性としては(古賀氏の主張を援用すると)『推古紀』の記事が一二〇年遡上するということも考えられ、その場合「日十大王」は「推古」に、「男弟王」は「聖徳太子」に投影されていると思われるわけです。
 また「銘文」にある「日十大王」についても各種の解釈が行なわれていますが、いずれも決定的とはいえないようです。これについては「私案」としてこの部分が元々「日本大王」と明記されるはずのものではなかったかということを仮説として提示します。

 この「日本大王」という表記は、元の「原稿」ではこの「本」は「大+十」(「夲」)という字形であったと考えるわけです。これは「富本銭」にも「百済禰軍墓誌」にも使用されていますが、当時広く用いられた「本」という字の「字形」です。(「本」の始原的な字はあったもののそれは全く知られていなかったようであり、この「夲」が「本」の代用をしていたものです。『新選字鏡』などを見ても「本」字は見ることができません。このことから「本」という字が一般的に使用されるのは「十世紀以降」とされています。)
 つまり、原稿から「型どり」して「鋳型」を起こす際に「刻する」訳ですが、その時「間違えた」のではないでしょうか。
 文章の中ではこの後にも「大」字が来るため、それと「混同」したという可能性もありそうです。そのため前の「大」字を脱落してしまった結果「日十」という表記となってしまったものではないでしょうか。(つまり「日」「大」「十」「大」と「縦に」並ぶ文字列であったものが、「日」「十」「大」と「大」が一つ脱落したのではないかと考えられるわけです。)
 このような「誤刻」と云うことを想定するのはこの鏡については一部に「左文」が現れており、鋳型を起こす係の人間に「文字の素養がなかった」という可能性が考えられるからです。(他にも解釈次第で変るような文字が存在しています。)そうであれば「夲」と書くはずのものが「大」が脱落すると言うこともあり得ると思えます。(「大」と「十」はかなり離れて書かれるのが通常のようですから、この「鋳型製作」の担当者がこれを「一字」として認識せず別字と考えていたというという可能性もあるでしょう。)
 ただし、この推測ではこの時点で既に「日本」という国名(?)が使用されていることとなりますが、この名称が「肥国」つまり「日国」にちなむものであるという可能性もあると思えます。それは元々「日本」というのが「肥」の国の自称であったという可能性があると考えるからです。

 既に述べたように「倭の五王」時代の「倭国」の本拠とも云うべき場所は「肥(日)」の中にあったと推定されるものであり、この時の「倭国王」は「日本大王」という自称をしていたのではないかと推察されるものです。つまり「日本全体」を意味すると云うより「肥の国」(=「日の国」)の王という意味合いが強かったという可能性があると思われ、「日本」は「日の国」の美称として使用されていたものと考えられるわけです。
 「斯麻王」は「筑紫」の「斯麻」にいたとされますが、この「斯麻」は『倭人伝』や「翰苑」に書かれた「斯麻国」の事と考えられます。「翰苑」は「唐」の「張楚金」が記したという史書で、「唐」の「顕慶五年」(六六〇年)頃に書かれたとされますが、その中に「邪届伊都、傍連斯馬 /中元之際、紫綬之榮 /景初之辰、恭文錦之獻」という文章があります。 ここでは「斯麻国」は「邪馬壹国」の近傍にあり、「伊都国」に隣接していたこととなり、これは現在の「糸島半島」のどこかにあったものと推定できるでしょう。つまり彼は「北部九州」に「質」として滞在していたと考えられる訳であり、また「倭王権」の至近にいた訳と考えられ(そうでなければ「質」の存在意義はないでしょう)、彼等は相互に知己があったと見て間違いないでしょう。(その「倭王権」の場所として「江田船山古墳」がある「肥後」の地がふさわしいと考えられるわけです。)
 その後「百済」に政変が起きたため「嶋王」は帰国したものですが、その後も「倭国」を軍事的な後ろ盾として頼んでいたものと思われます。

 古賀氏の論によれば(※3)『推古紀』の「觀勤」の上表文記事については明らかに「一二〇年」程度の年次移動という「改定」が行なわれていると考えられ、そうであれば「推古」そのものが「五世紀末」から「六世紀初頭」の人物であるということとならざるを得なくなります。つまり「日十大王」が女性であることが「推古」という「女性天皇」に反映されていると考えられる訳です。
 また、『継体紀』に引用された「百済系資料」についても「干支一巡」の移動が推定され、本来「四七一年」のことであったという可能性があると思われます。これは「上」の「推古」の推定即位年の「四七二年」の前年のことであり、年代的に整合する内容となっています。(古田氏もその可能性を考えられていたようです)
 この「推古」に反映されている人物はそのような「混乱」の中で「ピンチヒッター」として擁立されたと見られることとなりますが、それは『二中歴』の年代記の「干支一巡(六十年)移動」という観点で考えると、その「年代」は「継体」の時代となるわけであり、その「継体」という天皇名(年号)として如実に表れているといえるのでしょう。
 「継体」や「持統」という名称はいずれも「つなぎ」を意味する漢語であり、本来の皇位継承権を持たない存在を意味すると考えられるものです。

※1 古田武彦「よみがえる九州王朝」角川文庫
※2 富永長三『「男弟」を考える--あわせて「大王・年」について』「市民の古代第」14集1992年市民の古代研究会編
※3 古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)

他参考    飯田満麿『隅田八幡伝来「人物画像鏡銘文」に就いて』古田史学会報七十二号二〇〇六年二月八日


(この項の作成日 2013/05/11、最終更新 2015/07/21)(ホームページより転載)

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朝鮮半島と「前方後円墳」

2018年03月18日 | 古代史

 「朝鮮半島」にも「前方後円墳」が存在します。主に「栄山江」流域などで五世紀後半から六世紀前半のものと考えられるものが発見されています。
 この地は、いわゆる「馬韓」の地域と考えられ、後に「百済」の領域となったものです。
 この地からは「前方後円墳」の他にも「北部九州」の影響と考えられる、「甕棺」「埴輪」型「円筒形土器」、「須恵器」様土器などがあり、また九州他方と同様の「横穴式石室」があることなどが指摘されています。

 「通常」の解釈では、「前方後円墳」は「近畿」の王権の発展と拡大の象徴とされています。つまり、「前方後円墳」の分布域は「近畿」の王権の領域を示すと考えられているのです。それでは、朝鮮半島に「前方後円墳」は存在する意味は何なのでしょうか。
 この「前方後円墳」は「近畿王権」に関連するものなのでしょうか。現在の定説ではさすがにそうではないとされており、そのため「細かな様式の違い」などが指摘されていて、列島のものとは「別」と括られており、名称も「前方後円」型古墳という言い方がされているようですが、この程度の多様性は国内の古墳でさえも認められる範囲のものであり、言い換えると半島にあるが故に「前方後円墳」とはしていないと言うこととなります。
 なぜ「峻別」するかと言えば、朝鮮半島の「前方後円」型古墳を「前方後円墳」と認めると「朝鮮半島」が「近畿王権」の領域の一部であったこととなってしまい、それは明らかに「合理的ではない」と考えられているからです。つまり、「国内統一」が成されていたかどうか微妙であるのにも関わらず、国外まで領域の一部としていたか、それが可能であったか、などについては、近畿という「地域」を中心として考えると少なからず「疑問」であるからです。
 しかし、先に述べたように「前方後円墳」の「発展」と「拡大」は「倭の五王」の「統治領域拡大」という事績とリンクしているのです。

 「武」の「上表文」によれば「西は衆夷」「東は毛人」とともに「渡りて海北」という表現で「朝鮮半島」を指す言葉が出てきます。「北方」に海を渡って、多数の国を平らげた、と言うのですから、この記述が「列島内」に対するものではないと判断できます。これは明らかに「朝鮮半島」を指しているものであり、この文章が「南朝皇帝」に対する「上表文」に存在している、と言う事は、この記述を「虚偽」とか、「誇張」とかは「軽々」には言えないものと推量されます。
 その同じ上表文内に「句麗無道にして」とあり、「高句麗」との衝突が訴えられています。また、「高句麗好太王碑」の分析によれば「倭」の脅威がかなり強かったことがわかります。
 さらに、『三国史記』によればこの当時「百済」は「倭」と友好を結んでいます。(太子を質にさえしています)
 また、「武」の上表文内では、南朝の皇帝に「要望」した「称号」の中に「百済」についての「軍事権」が入っています。(この部分は認められませんでしたが)
 その「百済」の地に「前方後円墳」があるのです。このことは、この旧「馬韓」の地域に「百済」が南下してくるまで存在していた勢力と「北部九州」及び「倭の五王」がそれぞれ深く関係があると考えられるものであり、推測すれば、当時この地は「倭人」が(も)いて、「前方後円墳」が築造されるような政治状況であったこととなるでしょう。
 これらのことから「近畿」に「倭の五王」がいたとすると「矛盾」となることも「九州」(それも北部)に「倭に五王」がいたとすると「合理的」となるものであり、これは「武」の上表文や「好太王」の碑文と重なる事実と考えられます。
 つまり、この「朝鮮半島」の「前方後円墳」という存在は(近畿などと同様)「倭の五王」に関するものであり、しかも「近畿」ではない地域に「倭の五王」がいた、ないし「始源」があったことを示すものと推量されるものです。

 「百済」では(その周辺でも)仏教の伝来が早かったものです。「馬韓」の地でも仏教の受け入れは「倭国」より早かったと考えられます。
 「倭国王」は半島において「百済」の軍事力を支援として獲得するために仏教伝来を受け入れたものの、王権内部では「古神道」的要素がその後も遺存したと考えられ、「王権」の宗教的祭祀は変わらず「古神道」的なものであったものと考えられます。
 通常の「古墳」は「葬儀」の際に古墳前方に「臨時」に「祭祀」を行う場所を設け、終わればそれらは撤去され、祭祀は「一回限り」であったと考えられますが、「前方後円墳」の場合は、「祭祀」の場所が「古墳」(墓)と一体になっているわけであり、「継続的」祭祀が可能となっているのです。(実用されたかどうかは不明ですが)そして、ここで行われていた「祭祀」は仏教と相容れないものであったと考えられるわけであり、「古神道」的祭祀が行われていたものです。
 「百済」では「王」が仏教を率先して受容したため、国内全体に仏教が早期に普及すると共に周辺地域(馬韓など)でも、早くに一般化したため、そのような「旧式」の祭祀を伴う「古墳築造」が受け入れられなかったものと推量されます。
 しかし、「歴代」の「倭の五王」達により「拡張政策」が継続され、それにより多数の「倭人」が半島内に進出する事となった結果、彼らと彼らにより影響を受けた土着の人たちの間で「古神道」的信仰がはじめられた(一種の廃仏毀釈か)ものと考えられます。それが「武」の時代の事と考えられ、彼らにより「前方後円墳」の築造が始められたものでしょう。

 この「栄山江」地域にはこのような「前方後円墳」につながるような墓制や形式は見られません。前代から続く墓制と全く異なるものが突如として造られているという現象は、「近畿」における「前方後円墳」の出現の様相とよく似ているといえるでしょう。つまりこの「前方後円墳」が「外的圧力」によって造られたということを示しており、それは「近畿」と同様「前方後円墳」を築造した(させた)勢力は「外部」に存在するものであったことを示しています。
 北部九州の影響と考えられるものは他にもあり、その石室には「ベンガラ」で赤く着色されたものが確認されており、これは「北部九州」のものと酷似しています。また「造山古墳」(吉備のものではない)からは「ゴホウラ製貝釧」が出土しましたが、その形式は「佐賀」「福岡」「熊本」などの古墳から出土したものと同じでした。
 これらの「前方後円墳」は上に見たように「倭王権」の拡張政策と関連していると思われ、南下してくる「高句麗」に対し「百済」と連合して戦線を立ち上げていたことを示すものと思われ、「百済王権」とも密接な関係を持っていたものと思われます。

 「熊本」の「江田船山古墳」から出土した「金王冠」や「装飾沓」などは「武寧陵」(「武寧王」つまり「斯麻王」とその夫人の陵)から出土したものとほぼ同じものであり、特に「王冠」が同じと云うことは「王権」としての性質や強度などの内実が「百済王権」に匹敵するものであったことを意味すると思われますが、「武寧王」が一時倭国に質となっていた人物であり、彼が帰国する際にはかなりの兵力を伴わせたということなどから、「武寧王」と当時の「倭国王」とは非常に友好的であったものと思われ、彼らの間に共通の衣装や習慣、武具や馬具があったとして何ら不思議ではないこととなるでしょう。そのことからもこの「江田船山古墳」の主が当時の「倭国王」と強く関連していることを推定させるものです。
 また「武寧王」の棺の材料が「コウヤマキ」であったことも「武寧王」と「倭国」の関係を象徴しているようです。(「コウヤマキ」は日本にしか自生しない樹木です。)
 
 その後この地域において「前方後円墳」の築造が停止されるわけですが、その時点は「高句麗」の勢力もより強くなり、「百済」がそれに押されて南下するようになると、この地域も「倭国」と云うより「百済」の影響下に入ることとなったものと見られ、そのため仏教の勢力範囲となった結果、「前方後円墳」の築造は終息することとなったものと思われます。
 また「倭国」の国内状況が「拡張主義」政策を放棄して「内政重視」となったと思われ、そのためそれまでの「拡張主義」に基づいた「半島政策」は変更、停止されたものであり、その影響もあったものと推量します。

 ところで、「朝鮮半島」の「前方後円墳の「石室」材料にも「阿蘇の熔結凝灰岩」が使用されている可能性があるのではないかと考えられます。「肥後」から切り出された「石材」は船に乗せて近畿まで運んだと見られますから、対馬海峡を越えて半島へ運ぶということも技術的には不可能ではなかったと思われ、実際に行われたという可能性も考えるべきでしょう。
 仮定の話ではありますが、もし「朝鮮半島」の「前方後円」型古墳に「阿蘇熔結凝灰岩」が使用されていた場合は、これは間違いなく「倭国王」の政策としてのものであり、しかも従来の解釈であった「肥後」の王者が「近畿王権」の「統一王者」に「服属」した証しとして、「石室材料」を贈呈していた、というものが「虚偽」ないし「誤認」であって、従前主張したように「肥後」の王権の「伝統」と「権威」の及んだ範囲に「前方後円墳」は存在し、そこに「阿蘇熔結凝灰岩」の石室材料が使用されているという解釈が「正当」なものであることが証明されるものと思料されます。至急調査され、結果が公表されることを望みます。


(※)この項は『朴天秀「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳 ―古代九州との国際交流―」(九州国際大学 国際関係学論集第五巻二〇一〇年)』を参考にしています。


(この項の作成日 2011/09/07、最終更新 2015/07/21)(ホームページより転載)

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「好太王碑文」の解析から

2018年03月18日 | 古代史

 倭王「武」の上表文に書かれている「歴代」の「倭国王」の、周辺諸国を服従させるための戦いの過程が誇大なものでない、リアルなものであるということは、海を隔てた朝鮮半島に今も残る「高句麗好太王の碑」の中に描写されている「倭」の行動が間接的に証明しています。(この「碑文」については古田氏をはじめ多元史論者有志により解析が施され、優秀な成果を上げています。(※)以下その成果を援用して論を進めます)

  この「碑文」の表現によれば「倭」はしきりに「新羅」、「高句麗」の領域を侵し、それが為にこの両国の長年のわずらいとなっていた事実が示されています。
 この碑は「高句麗好太王」(在位三九一~四一二年)の功績を顕彰する目的で設置されたものですから、彼らが戦って負けた記録は明確には書かれていませんが、碑文の分析から「倭」国の脅威が相当強かったことがわかります。
 この時代は「倭王」「讃」のころかと思われますが、「武」の上表文にも「自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川不遑寧處」 と書かれており、「武」の時代までの各代の王の事績をまとめて表現したものと考えられます。

 また、この上表文にも「渡りて海北を平らげること…」とあるように朝鮮半島を「海北」と表現しうる九州北部に「倭」国があったと考える以外にないように思われます。そのことを裏付けるような説話が朝鮮に伝えられています。それは「朴堤上」にまつわる悲話です。
 この話は、五世紀のころ(倭の五王で言えば「讃」のころ)のことと考えられていますが、その話の中では「新羅」は人質として王子を「倭国」と「高句麗」に差し出していました。「高句麗」は多年にわたる人質生活を哀れみ、その王子を「新羅」に帰国させましたが、「倭国」はそのような情をかけず、そのために王子は人質生活を続けざるを得ませんでした。そこで、臣下の「朴堤上」と言う人物が一計を案じ、「新羅」を裏切って「倭国」に寝返った芝居をして「倭国王」を油断させ、隙を見て「王子」を船に乗せ逃がすことに成功しました。人質に逃げられたことを知った「倭国王」は逆上して、残った「朴堤上」を惨殺しました。新羅に残された「朴堤上」の家族は「倭国」が見える海に臨んで嘆き悲しんだ、と言う話です。
 この話の中では、船にのって逃げた人質であった「王子」は海に入ってまもなく、「倭国王」の手の届かない領域まで逃げています。たとえば、「奈良明日香」の地に「倭国王」がいたのではこの話は成立しません。たとえそれが難波であったとしても、逃げてまもなく「手の届かない」領域まで行くことは不可能です。これらの話は「倭国王」の所在する場所が「朝鮮半島に近い場所」で「海に面している」という条件を満たすことが必要なのです。それは古代の都市の中では「筑紫」だけが兼ね備えている条件です。
 また、この話からも「新羅」のおかれた苦しい立場がわかります。北は「高句麗」から攻められ、南は「倭」に押さえられ、「百済」からは絶えず侵犯されている状態で、このように過酷な政治情勢が(逆に)自主独立の機運を醸成させていったものと思われます。

 先に挙げた「高句麗好太王」碑文は現在北朝鮮国内に存在しています。過去、日本軍による朝鮮半島支配の時期に碑文が「改削」された、という指摘がなされて久しく、詳しい調査が何度かされていますが、知られている範囲ではそのような痕跡は見当たらず、書かれた碑文の文章にも問題はないと考えられています。(拓本をとる際の技術的な問題がほとんどと思われます)
 また、碑文中の「渡海破」「為臣民」という文章の主語は一般には「倭」と解釈されているようですが、前述したようにこの碑文は「好太王の功績の顕彰」が目的なのですから、特に指示がない主語はすべて「好太王」と解釈すべきで、そうすると当然、先の文章は侵入してきた「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったものであり、「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれている、と考えられます。(年次としては「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられます)つまり、「広太王」を天子の位置に置いた書き方となっているわけです。しかし、それを踏まえてみても、この時「倭軍」がかなり「半島」に深く侵攻していたらしいことが推測できるでしょう。しかも「渡海破」とされていますから、これは「高句麗」の地域から海(この場合は日本海)を通って「新羅」の領域に進行するという「渡海」作戦を言うと思われますが、それはこの時の「倭軍」も「百済」の領域だけではなく「新羅」に対してもかなりの軍事力を行使していたらしいことが推察されるものですが、それは「済」「興」「武」と各代にわたり「南朝」に対し「新羅」に対する軍事権を標榜していたことを裏付けるものです。
 「武」の上表文の中でも「句麗無道」という言葉もあり、それは上に見たような「新羅」に対する軍事権を有しているという意識があり、「渡海破」作戦などがそれを侵害するものという非難を含んだものといえるでしょう。

 ところで、「武」の上表文に書かれた内容は基本的には「半島」に対する「征服行動」を含んでいるものであり、「自昔祖禰躬環甲冑、跋渉山川 不遑寧處。」「義士虎賁 文武效功 白刃交前 亦所不顧」等という文章などは「対高句麗」の軍事行動を典型的に示すと考えられますが、これは「大伴家持」の「賀陸奥国出金詔書歌」の中にある「海行かば 水漬く屍、山行かば 草生す屍、大君の 辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」という文章と体裁や文意がよく似ていると考えられます。
 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。つまり、「親衛隊」も含め「戦い」に強い気持ちで臨んでいると言うことですから、その「決意」は「王自身」のものであって、また当然「親衛隊」の「決意」でもあったわけです。この場合「親衛隊」と言えるのは「大伴」であり、また「佐伯」であるとも言えますが、またその祖ともいうべき「久米」でもあったと思われ、その意識が「大伴家持」の歌に明確に現れていると考えられます。
 この「大伴家持」の歌は「東大寺」の大仏建立のために表面に「金箔」を貼るため、国内に金山開発していたところ「陸奥」で金がでたという報告を聞いた「聖武天皇」が喜びを表現した「詔」を下敷きにしたものです。
 その「詔」の中では「大伴」「佐伯」という両氏族を特に名をあげて褒めそやしており、親衛隊として「天皇」の側近くに仕えていた過去を回想したものと考えられています。歴代の戦争の中でも「海ゆかば」というように「海戦」により多数の死者を出したとみられるのは『神功皇后紀』に「三韓征伐」という用語で示されるものが初出といえますが、これが史実とは即断できません。それよりは「好太王碑文」に示され、また「武」の上表文で示されたように「半島」において「新羅」の権益をめぐる「高句麗」との戦いがその一部に「海戦」を含んでいたものと思われ、それが「出金詔歌」に現れていると思われるのです。

 ところで、この歌の中では「大君(オオキミ)」とはいわれているものの「皇(スメロギ)」とは書かれていません。このことは「天子」を標榜した「阿毎多利思北孤」以前である事は間違いなく、中国「南朝」に臣事し、「都督」などの称号を受領していた時代の事実を反映していると思われ、このことからも「武」の上表文と同時代の成立と考えられるものです。

(※)古田武彦『失われた九州王朝』角川書店、藤田友治『好太王碑論争の解明―“改ざん”説を否定する』新泉社


(この項の作成日 2010/12/25、最終更新 2017/07/07)

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「七枝刀」について(二)

2018年03月18日 | 古代史

 「百済」では「南朝」から「将軍号」を授与されているにも関わらず、「南朝」の年号は使用していた形跡がありません。「武寧王」(斯麻王)の墓に納められた墓碑銘や売地券(あの世で土地を買うためのもの)の中にさえも「干支」でしか表記されていないという事実があります。(百済独自の年号を使用していたという考え方もありますが、確かな証拠があるとまでは言えないと思われます)
 このようなことにはいくつか理由があったようですが、それにも関わらずここでは南朝の年号が使用されていることとなります。その理由を考えると、自分たちの背後には「南朝」がいる、という「危機」に際しての一種の「注意喚起」としての機能があったのではないでしょうか。つまり、ここで「七枝刀」を「贈る」という行為はその「南朝」配下の「将軍」としての「連帯感」を誇示する意味もあったものと思われるのです。

 また裏面の「奇生聖晋 故為倭王旨造」という部分もかなり難解ですが、実物を精視した各氏の言によると「晋」に似た部分はやはり「晋」であるとされています。また「奇生」についてはほぼ使用例はありませんが、「熟語」としての使用例としてかなり後代のものではありますが「明通奉大夫湖廣左布政使撫治兩廣地方兼廣東按察司副使陶公墓道碑文」の中に「…白沙先生曰:「公之治民如治兵,因應隨機,初無定體。其治兵也,如文士作文,『奇生』筆端,無事蹈襲,故能使人畏之,而率以取勝,此皆公精神心術之奧之運云。」…」というような例があります。

 また「薬師寺東塔」の「察銘」に「猗興聖王」という表現があり、これに類似しているとはいえそうです。この「猗」という字には「感嘆」を表す意味がありますから、この部分の解釈も同様の趣旨である可能性が考えられ、また「生」は古典では「生きる」ではなく「生む」「生まれる」という例の方が圧倒的ですから、結局この部分の解釈としては以下のものが可能性として考えられます。
 『「百済王」の「世子」は「不思議な縁で」「聖なる晋」に生まれたものであり、そのゆえに倭王「旨」のために特にこの刀を造りました。』
 このような解釈が可能ですが、上の文章の流れからは文意が不明です。「故」という「理由」を表す字がありながら、その後ろはちっとも理由付けになっていないように見えます。

 また「倭王旨」については「倭王」である「旨」のことと考えられ、「中国風一時名称」であると考えられます。上の推定によれば、「旨」は「済」「興」と続き「武」につながる位置にいたと考えられるものであり、そうであればこの段階で一字名称が使用されているのは大変自然です。そして、この「旨」という人物は「倭王武」の「母」(皇太后)ではなかったたでしょうか。
 「武」は「父王」「兄王」が死去したため即位したものですが、彼等が死去した当時まだ「未成年」であったという可能性が高く、成人までの間「済」の「皇后」であった人物が「皇太后」として「称制」していたのではないでしょうか。
 「武」の「成長」を待って、改めて「即位」したものと考えられ、それが「上表文」が出された「四七八年」ではなかったかと推察するものです。
 そう考えるのは、「興」が亡くなったのがこの「七枝刀」の銘文に書かれた「四六八年」であったと考えられますが、その「服喪期間」が「三年」あったと思われ、「四七一年」になって、「葬儀」となったと考えられます。(古田氏はこの時点で「百済資料」に「辛亥年」に「倭国天皇太子皇子」がともに亡くなったと記されることとなったという可能性を考えられていたようですが、当方も同様に想定します)
 「百済王」と「世子」はこれを深く悼み、「倭国王家」の再興と絶えない支援を頼みとして、「邪」を払い「幸わう」ために、「七枝刀」を送ったと考えられます。
 しかし、「四七八年」まではさらに七年あり、この間も「服喪期間」であったとすると「長すぎる」と思われ、これは「武」の成人に達するまでの期間であったのではないかと思料します。そうであれば、この間「皇太后」が継続して「倭王旨」として「称制」即位していたと考えるものです。
 「倭王旨」が「皇太后」つまり女性であったのではないかという考えは、この「七枝刀」記事が『書紀』では「神功皇后」の時代のこととされていることからも覗えます。実際に受領したのが同じ女性であるからこそ『神功皇后紀』に入れられていると推察されるものです。

 なお、『神功皇后紀』には「七枝刀」と同時に「七子鏡」が贈られたと書かれており、これについては「ボストン美術館」に所蔵されているものがそれではないかという説もあります。(岡倉天心が京都で購入したとする)
 その鏡は、周囲に丸い突起が七箇所あるもので「七子鏡」という名称と形状が合致しています。
 記録によればこの鏡及び環頭鉄刀などは、明治時代に「大仙陵古墳」(「仁徳天皇」陵)から同時に発掘されたものであり、また、出土状況などから考えて年代として「六世紀前半」が想定されています。
 これらの「鏡」や「七枝刀」などは贈られた「倭王旨」から次代の「倭王」(「武」か)へ伝来したと考えられ、その彼が亡くなった際に「古墳」に奉納される事となったものと考えれば「六世紀前半」というのは不自然な年代ではありません。(但し「七枝刀」については「埋納」されず「神宝」として「石上神宮」に入ったと思われます。それは「伝示後世」という「銘文」に拠ったものではないかと思われます。)
 つまり、「七子鏡」などの年代が「六世紀初め」となると、「七枝刀」自体についてもそれと大きく変わらない時期のものではないかと考えられることとなり、「埋納」されたか「神宝」として保管されたかの違いでしかないということも考えられることとなります。

 「武」はかなり長生きしたと考えられ、「その治世」は「五十年近く」に渡ったものと思料されます。「武」の上表文が出されたとされる「六七八年」を即位の年とした場合、「梁」の天監年間(五〇二年)にも「授号」されている記事があり、これだけでも三十年ぐらいとなるわけです。(もっともこの授号は倭国から遣使してそれに対し授けられたというわけではなさそうであり、この時点で「武」が生存していたかは不明です。これらのことから考えて「武」が「七世紀前半」に葬られたとしても不思議ではないと考えられます。
 但し、その場合は「大仙陵古墳」が「武」の「近畿」における古墳であるということとなりますが、それはあり得なくはないと考えられます。
 「武」はその上表文によってみても非常に強い権力があったと考えられるものであり、「大仙陵古墳」の巨大さはそれを表すものかもしれません。
 もっとも、それは「武」の統治の中心地点が「近畿」であったことを示すわけではなく、この地方に「勢威」を示したことを「証拠」として残すために「巨大」な「古墳」を「作らせたもの」とみるべきでしょう。これはこの時期の「前方後円墳」全体に言えることですが、外部からの「圧力」によりこれらの古墳が作られたものと考えられます。
 
 また、「仁徳」と「七枝刀」の関係を示唆するものとしてよく言及されるのが、『古事記』にある以下の「歌謡」です。そこでは「仁徳」が「七枝刀」を「佩(は)いていた」らしいことが歌われています。

(『古事記』中巻の四十八番歌謡)
本牟多能 比能美古/意富佐邪岐 意富佐邪岐/波加勢流多知 母登都流藝/須惠布由 布由紀能須加良賀/志多紀能 佐夜佐夜

「ほむたのひのみこ/おおさざき おおさざき/はかせるたち もとつるぎ/すえふゆふゆきのすからが/したきのさやさや

 この歌は「七枝刀」を歌ったものとする見解があり(特にしたき(下木)さやさや(枝枝)という部分など)、それを「仁徳」の「皇子時代」に「佩いていた」ことを示すものとされます。ただし、私見ではそうは考えません。それはこの歌の中に「黄金の象嵌」をうかがわせる表現が見られないからです。この太刀を歌にするならば枝分かれしていることもさることながら、「黄金」に光り輝くというこの「七支刀」の重要な部分について言及されないはずがなく、それに触れていないこの歌が「七支刀」を歌ったものとは思われません。


(この項の作成日 2012/06/09、最終更新 2017/05/05)(ホームページより転載)

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