古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「附庸」と中央集権制

2018年08月17日 | 古代史

 前回の記事で『隋書俀国伝』の行路記事について考察しました。(以下当該行路記事)

「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望𨈭羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」

 この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現について考察したわけですが、さらにここに出てくる「附庸」という用語に注目してみます。
 「附庸(国)」とは「宗主国」に対する対語であり、「従属国」であることを示します。「従属国」には基本的に自治があるものの、他方外交は通常「宗主国」の専権事項です。「附庸」されている国が独自に使者などを外国へ派遣するなどのことはできませんが、それ以外はある程度自由であったと思われます。このことは「宗主国」の統治権限について絶対的なものではないことを示すものであり、このような体制は「中央集権」ということはできず体制としてまだ本格的なものとはいえないこととなります。

 既に検討しましたが、『常陸国風土記』の記述からは七世紀の終わりという段階でやっと「我姫」に対し強い権力を行使するようになったことが窺えますが、私見ではこの時期について「遣隋使」派遣以降のこととみており、「隋」からの影響の元に新しい体制が作られたことの反映と考えています。その点を裏付けるものが『隋書俀国伝』記事であるといえるでしょう。この「行路記事」は「隋使」が「倭国」を訪れた際の実地体験を元にしているとは思いますが、少なからず「遣隋使」の「隋皇帝」に問われた「倭国の風俗の説明」が下敷きになっているともいえ、「附庸」という用語を使用する動機あるいは理由についても遣隋使の説明に負った部分が多かったものとみるべきであり、「倭王権」がまだそこまで強い権力を行使できる体制となっていなかったことが窺えます。

 遣隋使派遣以降(隋からの使者が来て以降)新体制を素早く構築したものであり、この時点付近で「我姫」を八つに分けたものとみられ、九州島についても「筑紫」「豊」「肥」の三国を(「筑紫」を拡大しつつ)前・後に分割したものとみていますが、そのように複数の地域に対して統合・分割・割譲等を行う事ができるような強い権力がこの時点で発生していたことを証するのが「前方後円墳」の近畿以東における一斉築造停止であると思われます。

 既に明らかなように「六世紀末」と「七世紀始」の二つの時期に分かれて「前方後円墳」の築造停止という事案がありました。西日本が先行し、六世紀末に築造が停止されるのに続いて七世紀初めという時期に東日本で同様に前方後円墳の築造が一斉に停止されます。この「一斉に」という状況の中にそれを可能にする「指示・伝達機構」が備わっていたこと、またそれを裏打ちする「軍事・警察機構」も整っていたことが推定できます。
 そのための前提条件が「官道」の整備でありその「官道」の要所(末端)に設置された「屯倉」とそれを監督する「評督」の存在です。これらは当初はほぼ軍事的存在であり、軍事力行使の起点となっていたとみられます。「我姫」の分割・統合も「官道」との関係が考慮されるべきであり、それは「足柄の坂より東」に「官道」が整備されたらしいことが『常陸国風土記』に「官道」との関係を示唆するエピソードがにより明らかなことと結び付きます。そこでは「常陸」という国名がその「我姫分割」の段階での命名であること、その命名の所以と道路との関連が書かれています。その意味でそれ以前の六世紀の終わりという段階ではまだ東国へ軍事力を展開する体制が整っていなかったことが窺えます。

 そもそも「隋」との関係において「文物・制度」を学ぶことが「遣隋使」派遣の主たる目的と考えられ、そうであれば当時「隋」には「開皇律令」が存在していたものであり、制度等を学ぶのならばその根本というべき「開皇律令」を模範として「律令」を導入した、あるいは少なくとも「しようとした」ことは間違いないと推量します。それと関連していると思われるのが、「戸籍」の制度の型式の変遷です。「東魏・西魏」で行われ「隋」にも継承されたとされる「両魏式」の戸籍制度も筑紫など複数の地域で使用されていたことが明らかとなっており、その導入もこの時点とすれば首肯できるものです。
 逆に言うとこの時点までは「律令」がなかったか、あっても「機能していなかった」ということになると思われますが、それは上に見た「附庸」という用語からも推定出来るものです。この時点で「宗主国」と「附庸国」という関係が「倭」と「諸国」の間で存在していたならばそれは中央集権とはいえず、その中央集権の核たる「律令」も未完成であったといえるでしょう。(「磐井」の時代に律令らしきものがあったとみられるわけですが、それは「磐井の乱」と共に機能不全となったものと思われるわけです)
 このような「附庸」という用語が使用される現状と少なからず関係していると思えるのが以前拙論で述べた「天朝」と「本朝」です。(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」)

 私見によれば「天朝」とは「諸国」からみた「倭」つまり「九州」の王権であり、「本朝」はその本拠地たる「倭」内部における「王権」に向けての呼称とみたものです。これはそのまま「宗主国」と「附庸国」という関係に置き換えられるものであり、「附庸国」からみた「宗主国」つまり「倭」王権の所在地を「本朝」と称したものと思われます。
  日本は「古」から「倭国」と呼ばれていたわけですが、「倭の五王」の頃の対外拡張政策の結果、以前までの「倭国」と、その後「征」「服」「平」するなどして(「武」の上表文の表現による)「倭国」の勢力下に入った「諸国」に分けられることとなったと考えられます。
 その後は「元々の倭国」の領域に属する立場の人達は「倭国」の朝廷(自分たちの朝廷)を「本朝」と言うようになり、「諸国」は「畏敬」の念を持って「天朝」と呼ぶようになったものと考えられますが、「倭の五王」の頃の倭王権の中心は「肥」にあったとみられ、その意味で「七世紀初め」に「筑紫」へ遷都するまでは「本朝」つまり「宗主国」は「肥」にあったとみるべきでしょう。(それ以降「本朝」が「筑紫」への呼称となっていたのは「大伴部の博麻」を顕彰する「持統」の詔で明らかです。)

コメント

倭国の「本国」と「附庸国」(改)

2018年08月11日 | 古代史

久しぶりの投稿です。
以前『倭国の「本国」と「附庸国」』とタイトルで書いたことがありますが、新たに知見を得たことを追加して再度投稿します。

 『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。

「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」

 注目すべきは、この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現です。「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。また『隋書』内での「以東」、「以上」などの表現例から帰納すると、「附庸」されている国に「竹斯国」が入るのは自明と考えられます。つまり「竹斯国」と「秦王国」は倭国に「附庸」されている国であることがわかります。
 「裴世清」が派遣された年次は『隋書』や『書紀』に記されている「六〇八年」ではなく「開皇年間」(六〇〇年以前)であったと私見ではみており、その段階では「竹斯国」は「倭国」の本国ではなかった事を意味すると思われます。
 このことは「九州年号」中に存在する「倭京」の元年が「六一八年」と推定されること、その時点で始めて「筑紫」に「都城」が造られたと考えられることと整合すると言えるでょう。つまり、この時点までは「筑紫」には「都城」(京師)はなく、他の場所に存在していたとみられるのです。では、この時点における「都」はどこであったでしょうか。

 ところで上の『隋書俀国伝』の表現から「近畿」に倭国の中心がある、という様に受け取る向きもあるようですが、そのような理解は不審です。もし仮に倭国の中心地が「近畿」にあったとすると、その国でさえも「筑紫国以東」の範囲に入ってしまうこととなるのは当然であり、「属国中に宗主国の都がある」という「ねじれ現象」が発生してしまいます。
 「近畿」に「倭国」の中心があるにも関わらず、「竹斯国以東」という表現が用いられることはないと考えるべきです。そうとすれば近畿の方向(東)には宗主国は存在しないことは明確であると思われます。つまり、原則として基準点から「附庸国」がある、というように指定された方向には「中心」となる国はないこととなります。
 ではどこが「倭国」の「本国」なのかというと、「附庸国」の方向として指定された「竹斯国以東」とは異なる方向、(以西や以南)が倭国の本拠地なのだというように考えられます。それを示すのが「附庸国」の中に明らかに「都斯麻(対馬)」「一支(壱岐)」が含まれていないという点です。
 「都斯麻」「一支」の両島(国)は「百済」などの外国と境界を為していますから外交的に重要な領域であるのは明らかであり、これが「倭」の直接統治領域でないとすると「倭」の外交政策そのものが成立しない可能性があります。またそのような重要性は『魏志倭人伝』の昔から変わっていないと思われます。

 「卑弥呼」の時代においても「大海国(対馬)」「一支国(壱岐)」は「伊都国」に常駐していたとされる「一大率」の管理下にあったものであり、「魏」などの使者が「倭」を訪れた際はまず最初に「対海国」で「一大率」の配下の軍による確認と連絡が行われ、許可や承認が得られた場合「先導」による「引率」が行われたものと推察されます。(「末盧国」へと誘導されたもの)
 そのような国境警備の重要性は時代が変わっても決して低減されるものではなく、『天智紀』などにも「対馬」まで「外国使者」が到着した段階で「本国」への報告が行われているという実態があったもののようです。「七世紀後半」でこのような状態があったなら、「六世紀後半」においても(「三世紀」からの継続として)同様の状況があったとみるべきであり、その意味で「宗主国」つまり直接統治領域の一端は「都斯麻」「一支」を含むものとみるのが相当と思われますから、「都」もその近傍に存在する可能性が高いこととならざるを得ません。しかも「竹斯」がそれに該当しないとすると「肥」以外には措定できる場所はないと思われることとなります。(この時点ではまだ六十六国分国や九州制が施行されていませんから「竹斯」は後の「筑後」は含まないこととなり、「肥」は後の「肥後」「筑後」「肥前」を併せた領域となり、かなり広大な領域を含むこととなります。)

 また『隋書』には「筑紫国以西」「以北」「以南」の情報は、行路記事には書かれていませんが、基本的に重要な情報(特に軍事的なもの)は「倭国」の「本国」のものと見るべきですから、「阿蘇山」に関する情報も同様であったものと思われることとなります。
 「阿蘇山」は「竹斯国」の「南方」に位置するのですから、「遣隋使」がもたらした「阿蘇山情報」も「竹斯国以南」の情報と考えられますが、行路記事からはこの「竹斯」南方地域に対して「附庸」という表現が使われていませんから、この方面の地域は「倭国」の「本国」の一部であり、また「倭国王」が「直接」統治している領域であると考えられ、「附庸国」ではなかったと判断するしかないでしょう。

 また『隋書』中では「倭国王」が都する「邪靡堆」を「無城郭」としていますから、「城」もそれを巡る「郭」(囲い)もなかったとされています。このことは「筑紫」周辺に存在していたと考えられる「神籠石」などの「朝鮮式山城」とも「無縁」の環境に当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が居在していた事を示すものです。しかし、「筑紫」の「山城」や「神籠石」はかなり「古いもの」とされており、また、確認された数も「筑紫」中心に多数が確認されています。「神籠石式山城」に限定しても「筑紫」には「筑前」「筑後」を併せて「七個所」、「豊前」で二個所、「肥前」には三個所確認されているものの、「肥後」(及び「豊後」)にはその存在が確認されていません。
 これらの「山城」は一部は「卑弥呼」の時代から存在していたものと思料され、それは「当然」「七世紀の初め」という段階でも存在していたわけですから、「隋使」の行路や都の至近にあったなら、それについてコメントしない、あるいは「都」には「城郭」がない、というような表現をしないのであろうと思料されるものです。つまり、「筑紫」は「朝鮮式山城」の密集地域であるわけですから、「隋使」が実見した「倭国」の王都とその周辺地域は(「行路記事」に明確なように)「筑紫」を指すものではない可能性が高いものと推量され、都が「肥」であった蓋然性は更に高まると考えられるものです。
 また、「無城郭」と言うことから、「城」やそれを巡る「郭」を伴った「都城」は「遣隋使」が「隋」の「大興城」やそれ以前の「長安城」に関する情報を入手して初めて「倭国」に形となって現れたものと思われ、それが「筑紫」に「七世紀の前半」(「九州年号」の「倭京」年間)に、初めて「本格的都城」として結実したものと思われ、この段階では「筑紫」にも「肥」にもまだ存在していなかったものと推察されます。

 このように当時「倭王権」は「肥」から統治を行っていたとみられるわけですが、『釈日本紀』にあるように「日本という国号」(及び「天皇」号)を最初に名告り、また中国皇帝にそれを認めてもらおうとしていたのがこの時点であったとすると、その「権力中心」が「肥」(「日」)にあったことがその国名の根底にあったものと思われることなり、その意味で国号変更の意図と時期が整合します。
 『推古紀』にかれている「国書」をみると「倭皇」というように「隋皇帝」が「倭国王」に対して呼びかけており、それは「日本」という「国号」を認めなかったもの(ただし「天皇」号は承認したものか)であり、この国書が私見では「国交開始」時点のものとみているわけですが、その場合その後行われた「天子」を標榜するという行為とは別の理由により「倭」の国号からの変更を認めなかったとみられるわけです。
 推測するとこのとき「日本」国号を認めなかった理由は「歴代」の中国王朝と通交していたのは「倭国」であり、「隋」もその「中国王朝」の系列に連なる存在を標榜していましたから「倭」と通交を持つということが「隋」の正統性の証しとみていた可能性が考えられるでしょう。そう考えると「隋」にとってみれば「倭」でなければならないわけであり、「日本」という(悪く言うと)「どこの馬の骨」なのか判らない国との通交では意味がなかったものではなかったでしょうか。

 この後「天子」を標榜するという事件があり、その結果「天皇」号も棄却され元の「倭国王」へと戻されたとみられるわけです。それが復活するには「隋」が滅び「唐」の時代になるまで待たなければならなかったものと思われます。

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