ハムやソーセージは、北ヨーロッパの産物である。日本では高級品のイメージながら、雪に降り込められる風土の中では、長い冬を生き延びるために生存のための必須の保存食だった。
埼玉県に、その本場ドイツのDLG(ドイツ農業協会)主催のコンテストに1997年の初出品以来23年間挑戦、2020年1月までに累計1000個の金メダルを獲得したハム・ソーセージ製造会社がある。
日高市にある「埼玉種畜牧場」。種豚・肉豚を生産、自社産の肉を加工してハム、ソーセージなどをつくり、「サイボクハム」ブランドで売り出している。笹崎静雄社長らは1月20日、知事を表敬訪問、この偉業を報告した。
世界でたまたま何らかの賞を受けると、大げさに宣伝する日本の食品業者は多い。だがこれは、簡単にもらえる賞ではないらしい。
この協会は1887年から毎年、125年の世界最古の歴史と世界最大の規模(世界30か国近くから出品3万点超)を誇る伝統と権威ある「国際食品品質競技会」を開いている。ハム・ソーセージ、調理食品、パン、ビール、ワイン、乳製品などの部門に分かれている。
サイボクハムは、1997年に初参加、ハム・ソーセージ、調理食品の部門で2011年秋に13年連続で出品製品に対して金メダルを獲得、15年に満たないのに、会社として異例の飛び級でアジア初の「最優秀ゴールド賞」を受けた。「最優秀ゴールド賞」は、15年以上金メダルを得た「会社」に与えられるからだ。
16年も食品コンテストで32品目中22品目で金メダルを獲得、18年連続で獲得した金メダルの数は計792個になった。
同年には、創立70周年記念に若手技術者に挑戦意欲を持ってもらおうと、ドイツ食肉協会主催のハム・ソーセージコンテストにも初参加、35品目中19品目で金メダルを獲得したうえ、金メダルが12個以上の出品者に送られる「最高栄誉賞トロフィー」を、参加国20カ国の中でドイツ以外で唯一、獲得した。
サイボクハムは1946年創業、60余年を経て、種豚の育種・改良から肉豚の精肉、加工、販売までの一貫体制を整えている。埼玉県の鳩山町の鳩山牧場のほか、宮城県栗原市に100haのサイボク東北牧場、山梨県早川町に南アルプス牧場の3つの直営牧場と10余りのグループ牧場を持つ。
サイボクの種豚は、柔らかくおいしい肉のとれるものですべて血統書つき。ハム・ソーセージは、サイボクの銘柄豚肉「ゴールデンポーク」か「スーパーゴールデンポーク」だけを使い、乳タンパクや卵白などの混ぜ物は使用しない。一種類のブランド肉だけで作ったハム・ソーセージは、世界的にもほとんどないという。
えさは、自社の配合飼料工場で作られる出来立て。保存料は一切使わないし、着色料なども極力使わない。
ソーセージづくりではハーブの組み合わせが味の決め手になる。本場ドイツに学び、サイボク独自の風味を創りだした。金メダル受賞が最も多いポークウインナーの場合、10数種類のハーブを使用しているという。
日高市下大谷沢の本社(写真)には、ハム・ソーセージ直営工場と隣接したミートショップ、レストラン、地元野菜直売所(楽農ひろば)などのほか、パークゴルフ場、陶芸教室まである。天然温泉「花鳥風月」は全国平均の10倍という豊富な湯量を誇る。合わせて年間400万人が訪れる県内有数の人気スポットになっている。
サイボクの牧場から出た堆肥は「サンライト」という肥料になり、楽農ひろばで売られている地元農家の朝採り野菜はこれを使っているという。
「イチロー」と言えば、まず、米メジャーリーグで活躍したイチロー選手を思い出す。
最近、音だけは同じ、秩父の「イチロー」が、分野はまるで違うウイスキー蒸留の世界で、日本だけでなく世界のウイスキーファンをうならせている。
マリナーズの選手の本名は「鈴木一朗」。秩父の方は「肥土伊知郎」。珍しい名前である。「あくと・いちろう」と読むのだそうだ。「伊知郎」には驚かないものの、「肥土」を「あくと」と読むとは。
肥土伊知郎氏は、秩父市にある「ベンチャーウイスキー」の社長である。日本で唯一のウイスキー専門のメーカー社長といっても、社長を含めて従業員20人程度の小企業だ。
この小さな会社がつくったウイスキーが、日本の有名なウイスキーメーカーであるサントリー、ニッカをしのいで権威ある「ワールド・ウイスキー・アワード」の日本一の座を、07年から11年まで五年連続で獲得したのである。
私は「イモ焼酎派」だったので、ウイスキーの味はよく分からない。
若くて酒に強かったころは、ウイスキーをよく飲んだものだ。飲み始めの学生時代は「トリスを飲んでハワイに行こう」の宣伝文句に釣られて、安いトリスバーでハイボールをせっせと飲んだ。
ウイスキーをハイボールにして飲んだと言うことは、当時から酒に弱かった証拠だ。社会人になって、「角」、「オールド」、「ロイヤル」と高いものに上がっていったものの、決してうまいから飲んだのではなかった。
本物のウイスキーの味が分かったのは、海外に出てからだった。当時のサントリーのウイスキーとはまるで違う、新しい世界に入った感じだった。
新聞記者も外交特権で酒が免税の国もあった。安さも手伝って、好奇心から高級ウイスキーは残らず飲んだ。なにしろ免税価格なのだから。そのうちに覚えたのが「モルト」だった。モルトとは、原料に麦芽を100%使う、麦芽と酵母と水だけを使うウイスキーである。
シングルモルトという言葉がある。一つの蒸留所のモルトウイスキーだけでつくられた製品のことだ。飲んでいるうち覚えたのが、その代表であるスコットランドの「グレン・フィディック」だった。
そのうちウイスキーといえばこれだけを頼むようになった。シングルモルトの魅力に魅かれたからである。
ウイスキーは複数の蒸留所のモルトをブレンドしたり(ブレンデッドモルト)、モルトウイスキーにグレーンウイスキーを混ぜたりするのが普通だ。グレーンウイスキーとは、大麦 ライ麦、トウモロコシなどの穀物(グレーン)を原料とする。
日本は世界で五番目のウイスキー大国だという。日本人はどうも、ストレート(生)のウイスキーは苦手で、ハイボールや水割りを好み、シングルモルトは苦手のようだ。それにあえて挑戦したのが、このベンチャーウイスキーである。
肥土さんは、東京農大で醸造学を学んだ後、サントリーを経て、父親の経営する酒造会社に入ったが、倒産。父が残したウイスキー原酒の400樽の買い手がつかなかったので、福島の酒造会社からの援助と親戚からの資金を得て、04年秩父市にベンチャーウイスキー社を設立した。
「イチローズモルト」として商品化したこのシングルモルトは、早くも06年100か国以上で出版されている英国の権威ある「ウイスキーマガジン」の日本モルト特集で、最高得点の「ゴールドアワード」に選ばれた。
その後も10年には「イチローズモルト」は、「ウイスキーマガジン」のワールド・ウイスキー・アワードのコンペティションで、「最優秀日本ウイスキー」の栄誉を、全部で11ある部門の中で、シングルモルトの熟成年別3部門中2部門(21年以上と12年以下)とブレンデッドモルト部門(No Age=熟成年制限なし)の3部門で受賞した。
07年には秩父蒸留所を開設、蒸留を始めた。その後、熟成用の貯蔵庫も新設、さらに増設を予定していて、30年物の製造を目指している。
11年10月には秩父で蒸留したシングルモルトウイスキー「イチローズモルト秩父ザファースト」を発売した。
熟成3年もので、限定7400本が国内外からの予約で初日に完売した。
また、秩父産の大麦を地元の農家に委託して育てており、その大麦を使って、ウイスキーをつくり、「シングルモルトウイスキー」と並ぶ看板商品にする計画。国内ではすべて地元産の大麦を使ったウイスキーは珍しい。
14年10月には秩父蒸留所で自前で作った熟成樽もできるようになった。日本で最初にミズナラの丸太で作った発酵槽やたるでを仕込もうというのである。
日本酒同様ウィスキーは、いい水が育てる。秩父の山は、成分が水に溶けやすい堆積岩や石灰岩などで形成されている。その伏流水は、これらの岩石のマグネシウムやカルシウムなどのミネラルが溶け込んでいるので、ウイスキーづくりに向いている。
さらにウイスキーは樽に詰めた後、その土地の空気を呼吸して熟成するといわれる。秩父の環境、空気の良さは、折り紙付きなので、海外の愛好家によく売れているはうなずける。
「ウィスキー・マガジン」主催の「ワールド・ウィスキー・アワード(WWA)2017」の選考結果が17年3月30日発表され、「イチローズモルト 秩父ウィスキー祭2017」が、シングルカスクシングルモルト部門」で世界一に輝いた。
20年の「WWA2020」では、「イチローズ モルト&グレーン ジャパニーズブレンデッドウィスキー リミテッドエディション2020」が世界最高賞を受賞した。同社の受賞は4年連続4回目となる。1本税抜き18万円。
19年7月10日には社長(53)は、英国で授賞式が行われた国際的な蒸留酒の品評会「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ(ISC)2019」で、この1年間で最も活躍したブレンダーとして「マスターブレンダー・オブ・ザイヤー」を受賞した。
同社は19年3月に英国で行われた世界的なウイスキー品評会「ワールド・ウイスキー・アワード(WWW)2019」で、3年連続で世界最高賞を受賞、世界のウイスキー業界に著しい貢献を果たした蒸留所や人物などを表彰する「アイコンズ・オブ・ウイスキー」で、同社ブランドアンバッサダーの吉川由美さん(37)も個人で表彰を受けている。
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埼玉県のなかで、日高市はいつも気になる所である。高麗郷、高麗神社と朝鮮半島の関東地方の拠点だったことや、日本一とも言われるマンジュシャゲの自生地なので、何度も訪れた。
もう一つ気になることがあった。「中華食堂 日高屋」である。東京の山手線や京浜東北線の駅前にはほとんどあるので、行かれた人も多かろう。安くて、腹になり、注文するとすぐ出てくる。
「安さ、ボリューム、スピード」がモットーだ。深夜や早朝までやっているところが多い。生ビールも、キリン一番絞り中生が格安の値段で昼間でも飲める。
勘定を済ませると、次回用の麺類またはライスの大盛か、味付き玉子の半額のサービス券がもらえる。
ある時、「何で日高の名なの。経営者が北海道の日高地方?」と、聞いたら、若い女性店員が「埼玉の日高出身だからって聞いたわ」とのことだった。またも、日高市である。
最近、さいたま市の10周年記念で、さいたま新都心で開かれた「食の祭典」のシンポジウムをのぞいたら、さいたま市長らとともに出席していた日高屋の親会社「ハイデイ日高」(本社さいたま市)の高橋均社長が「今は290店舗を突破(12年2月末で300 19年で400を突破)。年間30店舗程度の新規出店を目指し、首都圏500店舗体制を目標にしている」と話している最中だった。
一昔前、「養老の瀧」が、テレビのコマーシャルで「目標1千店」というコマーシャルをよく流していたのを思い出した。この店は、中卒が多く、「親孝行の店」が売り物だった。貧乏学生だったから、池袋の本店にはよく通った。
偶然は重なるものだ。折りしもさいたま新都心の合同庁舎1号館で「連合大学」が開かれていて、すでに第9期を迎えている。その第一回の講師が、「ハイディ日高」の神田正会長(1941年生まれ)だというから驚いた。(写真)
中卒で、一軒のラーメン屋から東証一部上場会社の会長に上り詰めたこの人の話は、太閤記を聞くような面白さだった。
折りも折り、埼玉県立図書館で「はたらく気持ち応援」というブックフェアが開かれていて、「熱烈中華食堂 日高屋 ラーメンが教えてくれた人生」(開発社)という会長の著書が展示されているのに気づいた。講演で触れられなかったことも書いてあり、大変参考になった。
テレビなどでもよく紹介されるから、その履歴は知っておられる方も多いかもしれない。
父親が満州から胸を撃たれて傷痍軍人で帰ってきて、ほとんど働けなかった。母親が近くの名門「霞ヶ関カントリークラブ」のキャディで働いて、夫と4人の子供、計6人を支えた。
当時の日高村で「一の貧乏」。八畳一間とお勝手に親子6人が雑魚寝、いつも空腹をかかえていた。母親に習って、アルバイトとして、小学校6年から土、日には同じゴルフ場のキャディを務め、家計を助けた。
中学を出るとすぐ町工場に住み込んだ。「飽きやすい性格なので」、すぐ夜逃げならぬ”朝逃げ“。その後、喫茶店、キャバレーのボーイなど15ぐらい職を転々。キャデーをやった縁でゴルフ練習場のレッスンプロや、食い詰めてパチプロをやったこともある。
パチプロ当時、普通のサラリーマンの2、3倍の収入があったというからよほど器用な人なのだろう。
ラーメン屋の出前もやった経験から、朝に野菜など材料を仕入れて夜には現金に変わっている「現金商売」の魅力に引かれた。岩槻のつぶれたラーメン店での働きぶりを見ていた大家が、ほれ込んで銀行への100万円の保証人になってくれ、初めてラーメン店を持った。27歳だった。
夜10時閉店のところを朝2時まで店を開き、にぎわったので、スナック経営に手を出したら見事に失敗した。
次のチャンスは、32歳、大宮駅前北銀座のラーメン屋「来来軒」だった。わずか5坪、回りはソープランド街。8割が出前でソープ嬢に愛された。これが業界では画期的なチェーン店展開の第一歩になった。
早朝までがんばるまじめな社長との定評ができ、銀行からの信用も深まった。埼京線(埼玉・東京線)が開通し、埼玉と東京が結ばれた。銀行の支店長の縁で西武新宿駅前に出店できたのが、株式上場のきっかけだった。銀行だけではなく、ベンチャーキャピタルからも出資を受けられるようになった。
新宿への進出がきっかけで、東京の駅前での出店が増え、今では店舗のうち半分以上が東京だ。正社員約600余、パート、アルバイト(フレンド社員と呼ばれる)約5千人。従業員が多いのは、深夜営業が多いからだ。
「夢は見るものではなく、語るもの」という信念から、毎年1度、社員全員の前で「経営計画発表会」を開き、夢を語る。業界初の週休2日制の導入、ボーナス支給、株式上場(店頭→東証第2部→第1部)もこの席で披露した。
店舗数が増えるごとに福利厚生面を含めた従業員の待遇のレベルアップを図ってきた。「土地は買わないに限る。店舗商売は借りるに限る」と、土地も社屋もない。財産は人だけだからだ。
駅前繁華街の一等地の1階。もちろん家賃は高く、「10軒出して2軒はつぶれる」リスクはあるものの、今の夢は山手線全駅前の出店。12年2月には都営浅草線東銀座駅近くにも出店、銀座進出を果たした。最終的な夢は、「あの店がなくては困る」と言われるような、牛丼の吉野家、ハンバーグのマクドナルドと並ぶ“食のインフラ”になることだ。
12年8月には、3百店舗達成を記念して、期間限定で、生ビール中ジョッキ(それもキリン一番搾り)を税込み300円で売り出し、ビールファンもどっと詰めかけた。
“サツマイモの女王”と呼ばれた「紅赤」というサツマイモ (写真)を食べたことがありますか。
サツマイモと言えば川越が有名。ところが、この紅赤は、旧浦和市(現・さいたま市)で見つかった突然変異種。見た目がきれいで、美味なので、明治中期から昭和の初め頃まで東日本を制覇した。約JR北浦和駅に近い17号線に面する廓信寺の入り口に、「紅赤発祥の地」の立て札と看板(写真)が立っている。その前に北浦和図書館があることから、この図書館では紅赤を始めとするサツマイモの本や資料を集めている。地域図書館の一つの生き方だろう。
その北浦和図書館で10年12月、「第2回・紅赤ふれあいまつり」との名で、「紅赤復活! ~さいたまは紅赤のふるさと」という映画と講演、「埼玉のサツマイモ『紅赤』と山田いち」展が開かれるというので、さっそく出かけた。
開会に先立ち、図書館の二階で、サツマイモの権威である井上浩先生とお会いした。川越サツマイモ資料館の館長時代からの知り合いで、サツマイモの生き字引。「川越いも友の会」のメンバーで、サツマイモに関する著作も多い。映画でももちろん、登場された。この人を抜いてサツマイモのことは語れない。
この紅赤を発見したのが山田いちさん。サツマイモづくりの名人で、この人の努力がなければ紅赤が世に出ることはなかった。詳しいことは、「紅赤ものがたり」(青木雅子著 ケヤキ社)を読んでほしい。感動的な話である。
サツマイモの歴史をひもとくと、最も有名な青木昆陽を筆頭に、出てくるのは男性ばかり。なぜ女性のいちさんが登場するのか。早く畳職の父を失ったいちさんは長女だったから婿をとった。婿も廓信寺の畳替えなどを請け負うほどの腕利きの畳職人だった。いちさんは、自分の畑でサツマイモづくりが好きだった。
いちさんは、おいしいと評判の「八つ房」という名の種イモを近所の名人から拝み倒して手に入れ、植えてみた。3年目の1898(明治31)年に皮は赤く、身は黄色で、ホッコリとして甘く、熱の通りが早く、舌にとろけるようにうまいのが、見つかった。突然変異のたまもの。高値を呼んで紅赤が誕生した。
紅赤の普及に貢献したのはおいの吉岡三喜蔵だ。さつまいも栽培にかけてはいちさんに負けないほど詳しかった。この新しい芋に会い、種苗農家の家系を活かした。「あかイモ」と呼ばれていたのを、口紅の紅にあやかって「紅赤」と命名、種苗を売りに売った。
皮の色が鮮やかな紅で、身は黄金色。ホクホクとした食感と上品な甘さが特徴。油と相性がよく、大学いもや天ぷらにして食べられた。「きんとんが最高」という人もいる。
見た目がすばらしく、美味しいので、注文が殺到、大正から昭和の初めにかけて埼玉のサツマイモの9割、全国の生産高の約7割は紅赤だった。西日本の白いサツマイモ「源氏」をしのいだ。「紅赤」の埼玉の主産地は、江戸時代からのサツマイモの産地、川越だった。
いちさんは、1931(昭和6)年、紅赤の発見で毎日新聞が主唱する富民協会の第一回「富民賞」の5人の受賞者の一人に選ばれた。女性はいちさん一人。この時68歳、紅赤の発見から33年経っていた。
「女王」は気難しい。栽培が難しいのだ。土質を選び、肥料の加減が大変。蔓が伸びるのが遅いので生育が遅く、収穫量も少なく貯蔵も難しい。「幻のサツマイモ」になっていった。18年の栽培面積は三芳町が約4ha、川越、さいたま市で約0.5haずつ、生産量見込みは計約100tと少ない。
最近では、作りやすくて、収穫量も多く、味もいい「紅あずま」などに取って変わられ、県内で栽培農家は非常に少なくなった。しかしその味の良さ。天ぷらやきんとん、和菓子には欠かせないと紅赤にこだわる人もいる。
18年は、紅赤が浦和で発見されてから120年経ったのを記念して、川越のサツマイモ商品振興会、川越いも友の会、川越いも研究会、三芳町いも振興会の4団体は、120年にちなんで12月1日を「紅赤いもの日」と定めることを決めた。
記念日を制定した8月30日には、現在の川越市にはサツマイモ関連のいも菓子やいも料理など約260種の商品があることなどを理由に、「川越地方のサツマイモ商品文化は世界一」という宣言も出した。
浦和のうなぎはてっきり、浦和の「う」とうなぎの「う」が頭韻を踏んだごろ合わせに過ぎないと思っていた。
しかし、暇になって地元のイベントなどに顔を出しているうち、「浦和のウナギを育てる会」の幟をよく見かける。もらったチラシなどを読んでみると、けっこう歴史も由緒もあることがだんだん分かってきた。
10年5月29日の土曜日、「さいたま市浦和うなぎまつり」が市役所前広場や駐車場で開かれるというので、出かけてみた。今年で9回目。本命の蒲焼きや弁当には大行列。蒲焼きの香りを鼻にしながら寿司商組合がつくったうなぎ寿司で我慢することにした。
寿司ならまだいい方で、うなぎヤキソバ、うなぎオニギリもあり、遠路参加した三島うなぎ横町町内会(静岡県三島市)はうなぎまんじゅう、浜名商工会(同県浜松市)はうなぎネギマ、うなぎのまち岡谷の会(長野県岡谷市)はうなだれだんごを出品していた。
うなぎ関係に限らず、浦和工場産の文明堂のカステラや舟和の芋ようかん、それに手焼きせんべいやこんにゃく、鴨川市物産交流協会はさざえの壺焼きを売っているという具合で、3万5千人のにぎわいだった。
もらったチラシの「浦和のうなぎの履歴書」によると、始まったのは1700年頃で約300年の歴史がある。
はるか昔、浦和付近は海。地勢変化で沼や湿地帯が残ったので、たくさんとれるうなぎを中山道を通る旅人に提供し、好評を得た。「蒲焼き発祥の地」と赤字で強調しているものの、確たる証拠はないようだ。現在、約30店ものうなぎ料理専門店が営業しているという。
このため、さいたま市浦和区では、“うなぎのまち浦和”を推進しようとしている。
「育てる会」のマスコットは、アンパンマンの漫画でおなじみだった故やなせたかしさん(日本漫画家協会理事長も務めた)がデザインした「浦和うなこちゃん」。
JR浦和駅の西口に小さなおにぎり頭の石像がうちわを手にして立っている。女性や子供たちに大の人気、記念撮影する人も多い。さいたま市の観光大使でもある。もちろんこの日も登場した。
やなせさんは「うなぎ小唄」と「ウナギヌラヌラソング」を作詞、作曲、歌まで吹き込む打ち込みようだった。「やなせたかしとアンパンマンコンサート」が特設舞台のフィナーレだった。
観光資源が少ない埼玉県では、B級グルメで訪問客を増やそうと、年に二回、各地で「埼玉B級ご当地グルメ王決定戦」を開いている。その第七回目が小春日和の10年11月21日の日曜日、県北の加須市であった。
埼玉県のB級グルメには、食い気より、一つの社会現象として興味があるので、またまた出かけた。群馬や栃木県に近いため、両県から7品が初参加し、出品点数は過去最多の40品に上るという触れ込みである。
加須と言っても、何と読むのか、どこにあるのか、わからない人が多いだろう。「かす」と読むのはいかにもかわいそうだ。「かぞ」と読むのである。
ある郷土史家は、「日本書紀」に「須」を「そ」と読む記載を発見、「加須(かそ)」と表記していたのが、「加津」「神増」「加増」などと書かれるようになり、再び「加須」の戻ったという仮説を立てている、という記事が読売新聞の埼玉版に載っていた。「須」を「ぞ」と読むようになった理由は未解明だという。
東武伊勢崎線で、東武動物公園と久喜で乗り換える。最近、漫画ファンに人気が出てきた鷲宮(わしのみや)駅の北隣が会場に最も近い花崎駅だった。急行が停まる駅ではない。
着いたのはお昼近く。驚いたのは人出である。歩いて15分の距離だというのに会場まで人並みが続いている。後で聞くと7万人の人出。ちなみに加須市の人口は約12万人だ。B級グルメを開きたい気持ちがよく分かる。会場の「はなさき水上公園」は人々々であふれていた。
「加須はうどんで有名。どこか開いているだろう」と公園から中心部まで歩いてみることにした。
ついでに「どこが有名な店ですか」と尋ねる。「加須駅からは遠いですよ」。そうなればとことんまでと、その店を訪ねると、「グルメ決定戦で臨時休業」の張り紙があった。
この日王座に選ばれた「加須市みんなで考えた肉味噌うどん」に関係した冷や汁が売り物の店だったのだ。
決定戦に先立ち、「手打ちうどんを使ったアイデア料理コンテスト」をしたところ、千件を超す応募があり、市内の主婦のうどん料理が選ばれた。
それを基に加須市の「手打ちうどんの会」の会員たちが、試行錯誤を重ねて出来上がったのが、文字どおり「加須市みんなで考えた」肉味噌うどんだったという。
うどんに肉味噌と温泉卵を乗せ、薬味に辛味噌とネギがついていて、かき混ぜて食べるのだそうだ。
加須の駅前にコシの強さとのど越しの良さが売りの「手打ちうどんの会」の案内図が立っている。そのうどん屋に市民のアイデアを結集した新名物料理が登場するわけで、B級グルメならではの快挙だ。
出品作のそれぞれにはこんな話があるのだろう。
「加須の地名の由来は、元禄の頃、穀物の生産量が『加増』したからという説がある。利根川の氾濫による肥沃な土で小麦の栽培が行われ、旅人や商人、不動尊への参拝客にうどんを供したのが、加須名物手打ちうどんの発祥といわれる」と埼玉新聞には書かれていた。
テレビ各局の関心も高まった10年の第6回埼玉B級グルメ王決定戦(大宮ソニックシティ前)で、1位に選ばれたのは、川島町の「すったて」だった。
「すったて」は「すりたて」が転じたものだとは分かったが、分からなかったのは川島町の所在地だ。埼玉の市町村は私鉄やJRによってそれぞれ東京のターミナル駅に結び付いている。それぞれの沿線の住民は自分の利用する鉄道の駅や地名は分かっても、他の沿線のことは知らないことが多い。
川島町もその一つだ。川越市の北隣の町だが、「川島」という駅が無いのでますます分からない。おまけに「かわしま」ではなく「かわじま」と読むらしい。
高速の圏央道に「川島IC」があるから、高速族には覚えがあるかもしれない。白鳥飛来の地として季節には新聞に登場する。鳥インフルで餌付けを中止した。
ゴルフの石川遼君は埼玉県松伏(まつぶし)町だが、川島町同様、千葉県の野田市に接する県境の町だと分かったのは、地図を見てからのことだった。
「すったて」は、味噌と胡麻、ミョウガ、新鮮な玉ねぎ、青じそ、キュウリをすり鉢ですり潰して作るうどんのつけ汁。「すりたて」で食べていたので、この名がある。埼玉県は“うどん県”とあってこれもうどん料理である。
グルメ王出品のために出来たものではなく、伝統的な夏(5~9月)の郷土食で農水省郷土料理百選に選ばれ、マスコミに何度も登場したこともあるという。「知らぬは仏だけ」だったわけである。
四方を川に囲まれた町で、白鳥が来るのは越辺川(おっぺがわ)。都内から車でわずか30分の距離ながら、水田が広がり、多くの自然が残る。「平成の森公園」もある。
「都会に一番近い農村 かわじま町」がキャッチフレーズである。グルメ王は、来るたびに埼玉県の地理の勉強にもなる。
埼玉県の広報紙「彩の国だより」(月刊)は、編集も凝っていてなかなか面白い。10年10月号の最終ページは、「多酒埼彩! うまいぞ、すごいぞ、埼玉の地酒」の特集。「多酒埼彩!」とは、埼玉の「埼」と、埼玉が自称する「彩の国」の「彩」をもじったもので、うまい見出しである。
この見出しに魅かれて、読んでみると、知らないことがいくつも書いてある。埼玉では、「酒造りに適した酒米『さけ武蔵』を作り出し、17の蔵元で埼玉の地酒造りに挑戦している」「江戸時代から江戸に酒を出荷、現在、蔵元は35、日本酒出荷量は約2万klで、全国7位(09年)」「県酒造組合(事務局・熊谷市)では若手の杜氏育成に務めている」などだ。
11年度には、出荷量は約2万2千klで、兵庫、京都、新潟の酒どころに告ぐ第4位になったというから驚く。消費量も4位。一人当たりの年間消費量は36位になったが、1位の新潟県や2位の秋田県とは2-3倍の差があるという。県産酒のシェアは18%と低い。
さらにページの最下端まで見ると、「埼玉35酒蔵大試飲会 開催 各蔵自慢の地酒の地酒を飲み比べ」とあり、費用はわずか500円とのこと。県酒造組合が05年から毎年開いている。
10月5日午後4時、大宮区のソニックシティの会場には長い行列ができていた。入り口で、試飲用のお猪口と、銘柄名リストとアンケート用紙を渡される。
埼玉の酒を飲まなかったわけではない。「清龍」(蓮田市)は池袋店で大学に入って初めて飲んだ日本酒だった。昔コマーシャルでよく聞いた「清酒力士はうまい酒}の「力士」(加須市)は、有楽町駅前にも飲ませる店があった。その蔵元の釜屋は1748(寛延元)年の創業だ。秩父の銘酒「秩父錦」(秩父市)は都内でも店構えはどっしりとしている。
小川町の「帝松」も県内で飲んだことがある。「帝松」は全国新酒鑑評会で7年連続金賞を受賞しているという。後で知ったのだが、「秩父錦」も08年まで七年連続金賞を受けている。
試飲会ではどれを飲んでもうまかった。大吟醸や吟醸、古酒、「ひやおろし」・・・と取っておきの酒を飲ませてくれるからだ。吟醸酒ブームの時代、日本吟醸酒協会の試飲会に毎回、通ったのを思い出す。
「ひやおろし」というのも、今度初めて知った。春先にしぼった新酒を一度、火入して、夏の間冷たい蔵で熟成させ、秋になったら、二度目の火入れをせずに出荷する酒のこと。「秋の酒で、今が一番おいしい」とのことで、盃を重ねた。
地元さいたま市にも、創業100年を超える酒蔵が4つある。西区の「金紋世界鷹」の小山本家酒蔵は、「地産地消」をコンセプトに県産米の「日本晴」、蔵内湧水、蔵付き酵母「又兵衛酵母」を使って「埼玉県内限定」で売っている。岩槻区にはお城にちなんだ「大手門」や「万両」の鈴木酒造、見沼区には「九重桜」の大瀧酒造、旧浦和市の桜区には「旭正宗」の内木酒造(写真)があり、健闘している。
埼玉県には荒川と利根川の2つの大河があり、伏流水が豊富。利根川系に比べて、荒川系の方がやや硬度が高い。全体的に軟水で、酒質はやわらかく、口当たりの良いまろやかな酒ができると、県酒造組合のパンフレットにある。
環境省が08年にまとめた「平成の名水百選」に県内から4か所が選ばれた。小鹿野町の毘沙門水、秩父市の武甲山伏流水、熊谷市の元荒川ムサシトミヨ生息地、新座市の妙音沢で、県で4か所は、酒どころ新潟、富山と肩を並べる。
地元の酒蔵の座談会を読んでいると、埼玉の冬場の平均気温と乾燥した気候が酒造りにぴったり。気温が高過ぎると冷やさなければならないし、ものすごく寒いともろみを温めなければならない。埼玉の平均気温が最適だというのである。
埼玉の酒は淡麗とか濃醇とか一言で表現できる特徴は無いものの、料理と一緒に出すと評判がいいという話もあった。
久しく、いも焼酎専門だった。若いころは日本酒も人並み以上に飲んでいたので、新聞にお酒関係の記事が載っていると自然に目が行くようになっている。朝日新聞埼玉版(11年2月19日)を開くと、「埼玉の地酒日本一」と信じられないような見出しが飛び込んできた。
酔眼なので、「ナヌ!」とよく見ると、日本酒造組合中央会の調べで、10年の1―9月期の全国の清酒出荷量が前年同期比4.4%減と低迷する中、県産出荷量の伸び率が、前年同期比2.2%増と全国一になったというのだ。
中央会によれば、11年には出荷量は、実に前年比24.4%増え、2万2695klとなり、酒どころの兵庫、京都、新潟に次ぎ、前年の7位から4位に上昇したという。
全国の出荷量は、0.8%減の約60万kl、縮小に向かうなかで、県の出荷量の伸びは全都道府県で最高となった。
小山本家酒造(さいたま市)が子会社の茨城県の賜杯桜酒造を統合した影響だとか。出荷量の内訳は、一般酒が28.7%増で最も伸びが高かった。吟醸酒やアルコールを添加しない純米酒も一桁台で伸びている。小山本家酒造以外の出荷量も増えているという。
ちょっと考えてみると、伸びている理由はよく分かる。「安くておいしい」から知名度は低くともこのデフレ時代にぴったりマッチしているからだろう。
東京の池袋を本店とする「居酒屋清龍」というチェーン店が御徒町、神田など都内各地にある。「清龍」の升酒一杯の値が格安で、おつまみも手ごろなので、いつも客でにぎわっている。
蓮田市にある蔵元清龍酒造も何度か訪ねた。江戸時代から続いていて、馬をつなぐ柵が残っているのが印象的だった。岩手県花巻市に自社水田を持っているのが自慢。
そう言えば、騎西町の釜屋の「力士」のテレビコマーシャルを覚えておられる方もあろう。これも江戸時代からの蔵元で、ホームページを見ると、平成21年の埼玉県春季清酒鑑評会で技術優秀賞と埼玉県総合第一位を獲得したと書いてある。
この他にも「秩父錦」など東京にも知られた銘柄もいくつかある。荒川と利根川の二つの大河に恵まれ、水には恵まれているので、うまい酒ができないはずはない。
課題は、成人一人当たりの清酒消費量は全国40位(08年度)、県内での県産酒消費割合も2割に満たないことと、県酒造組合では言っているという。埼玉の地酒の消費量の今後の伸びが楽しみだ。