ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

"相撲県”狙う埼玉県

2019年04月01日 12時57分50秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


19年3月27日、平成の最後19年春場所の後に貴景勝(たかけいしょう 22)が入門から丸4年で関脇から大関に昇進、豪栄道(32)に並んで大関二人の地位を埼玉県関係力士が占めた。これに先立ち、同年2月には北勝富士(ほくとふじ 26)が前頭2枚目から小結に昇進した。

貴景勝が兵庫県芦屋市、豪栄道が大阪府寝屋川市と、出身地こそ埼玉県ではないものの、出身校はいずれも高校相撲の名門埼玉栄高(さいたま市西区)である。埼玉栄出身力士は、角界の一大勢力になろうとしている。

北勝富士は生まれながら埼玉県の所沢市出身で、19年2月26日前頭2枚目から小結昇進が決まった時には、「県内出身が三役の小結になるのは、1959年若秩父(秩父市出身)以来60年ぶり」と騒がれた。若秩父は秩父農工科学高出身で、関脇で引退した。

北勝富士の相撲との関わりは、小学年のとき所沢市のわんぱく相撲に応募したのが初めてで、入間少年相撲クラブで稽古に励んだ。その後日体大2年で大学横綱になった。北勝富士は昇格の際、同クラブを訪れ、西沢正夫監督(56)の元で練習する後輩11人と交流した。

貴景勝が相撲を始めたのは小学3年。相撲好きの父親からスパルタ教育を受けた。兵庫・報徳学園中3年で中学横綱に輝き、大相撲入りを考えていた。

貴景勝に埼玉栄高校進学を勧めたのが、同校相撲部の山田道紀監督だった。「けがをしない体を高校でつくってプロに行け」と何度も兵庫に足を運んで説得に当たった。

監督は、相撲の名門校である兵庫県市川高校出身で、日大相撲部時代、全日本体重別無差別級で準優勝、1988年から埼玉栄高相撲部の監督を務めている。埼玉栄高校は学校法人佐藤栄学園が経営する私立中高一貫校で、設置学科に「保健体育科」があるのが特徴で、相撲以外のスポーツでも全国的に活躍している。

 年齢から見て埼玉栄出身力士のトップになる豪栄道は、本名の豪太郎の「豪」に埼玉栄の「栄」、監督の道紀の「道」から一字ずつもらってしこ名をつけているほど結束は固い。

19年3月場所現在で、平幕妙義龍(32)を含め十両以上の関取10人、幕下以下にも元横綱大鵬の孫の納谷(19)、春場所で初土俵を踏んだ高校個人5冠の北の若(18)ら若手の有望力士もそろっている。

 

 

 

 


県庁ランナー、ボストンマラソンを制覇 川内優輝選手

2018年04月18日 17時13分35秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング

18年4月16日、米マサチューセッツ州ボストンで行われた第122回ボストンマラソンで、埼玉県職員(県立久喜高定時制、事務)の川内優輝選手(31)が2時間15分58秒で、日本男子では1987年の瀬古利彦選手以来31年ぶりに優勝した。

川内選手は瀬古選手が優勝した1987年生まれ。日本選手の優勝は8人目。久喜市立(旧鷲宮町立)鷲宮中、春日部東高校。学習院大学法学部卒。トレーニング代わりに数多くのレースに出場するのが独自のスタイル。海外のメジャーレースで優勝したのは初めてだ。

冬のような寒さと強い風雨の中、昨年の覇者ケニアのジョフリー・キルイを40km付近で抜き去り、過酷な条件下のレースでの強さを証明した。

1897年に始まったボストンマラソンは、五輪を除いた世界最古の大会。川内選手は、実業団などに属さない「市民ランナー」で、”公務員ランナー”として親しまれている。

川内選手は4月19日、久喜高校で記者会見、19年3月末で県職員を退職、プロに転向すると明らかにした。ボストンマラソンでは15万ドル(約1590万円)優勝賞金をもらったが、それを活動資金にするという。「思い切り走れるのはあと10年もない。死ぬときに後悔したくない」と語った。

同選手(32)は19年3月24日、久喜市主催の「第4回よろこびのまち久喜マラソン大会」のハーフの部にゲストランナーとして忍者の仮装で参加した。これには弟のプロランナー鮮輝(よしき)さん、市議の鴻輝(こうき)さん、母親の美加さんも一緒に出場した。

これに先立ち、同年2月25日の東京マラソン2018で、寄居町男衾中、武蔵越生高、東洋大経済学部卒、ホンダ所属の設楽悠太選手(26)が2時間6分11秒の日本最高記録を出して優勝、報奨金1億円を獲得、話題を呼んだ。

高岡寿成選手(カネボウ)が保持していた記録を16年ぶりに5秒更新したもので、報奨金は、日本実業団陸上競技連合が設けた。贈られたのは男女を通じて初めて。

優勝者はケニアのディクソン・チュンバ選手だったが、41秒遅れの総合2位で日本人ではトップだった。

本県出身のマラソンランナーの相次ぐ健闘に県中が沸き立った。

 

 

 

 


浦和競馬場で「地方競馬の祭典」JBC初開催へ

2018年04月13日 10時58分27秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


浦和競馬場(写真)は、戦後に制定された競馬法に基づき、地方自治体主催としては日本で初めて競馬を開催した歴史ある競馬場であることは、ほとんど知られていない。

この競馬場が完成、戦後の混乱期の1946年11月制定された地方競馬法(旧競馬法)の下、県馬匹(ばひつ)組合連合会主催の第1回浦和競馬が開催されたのは48年4月19日のことである。「新装の馬場に近隣からのファンが正午までに7万」と20日付の埼玉新聞は伝えている。

48年7月13日、地方競馬法に代わって競馬法が制定された。競馬は都道府県と戦災指定自治体だけが主催できるとし、競馬は全て「公営」となった。浦和競馬は、競馬場施設を含め、県が馬匹組合連合会の負債3千万円を引き継ぎ、県内初の公営競馬として現在の浦和競馬場が誕生した。。

県主催の第1回浦和競馬は、48年9月23日だった。それから70年が経った。県営競馬発足から50年代まで浦和競馬はすさまじい人気で、開催日は連日満員、売上額は最高額を更新した。

今は住宅密集地の真っ只中で、光害、虫害の原因になると、ナイター設備もなく、05年から「薄暮競争」が行われているほどだが、当時は馬場内はもちろん、コースの外周も田んぼ。競馬の最中も田んぼの中で農作業が行われていた。

所在自治体にも開催権が認められるようになり、今では県とさいたま市の県浦和競馬組合(管理者・知事 埼玉県とさいたま市で構成される一部事務組合)が運営しており、1977年7月15日に設立された。17年に設立40周年を迎えた。

馬を走らせないで他の競馬場の馬券を売って販売手数料を得る場外馬券売り場「ウインズ浦和」で初めて馬券が発売されたのは2012年だった。大レースなら数万人の入場が見込めるのだからこたえられない。

16年度には馬券の総売り上げが389億7500万円となり、史上最高額を記録した。県と市への分配金も3億5千万円となった。

地方競馬の低迷期もあった。2001年には過去最多の累積25億円の赤字を抱えていた。03年足利、04年高崎、05年宇都宮の北関東3競馬場が閉鎖、07年までに全国で10か所が閉鎖された。

09年度決算から黒字に転じ、11年度には埼玉県とさいたま市に1億5千万円の配当を実施、13年度は2億8千万円、14年度は3億円の配当を実施、道路整備や施設の改修、教育の充実などに充てられている。

組合は、設立40周年を記念して、馬券の売り上げなどの収益金の中から1130万円を、県国際交流協会が17年度新たに設置した「埼玉グローバル人材活躍基金」の「『埼玉発世界行き』冠奨学金」用に17年12月に寄付、「浦和競馬チャレンジ奨学金」を創設することを決めた。

この基金は、企業や篤志家からの寄付を原資に運営されていて、海外への留学やインターンシップを目指す若者を対象にした給付型奨学金で、寄付者が希望する名前をつけられる。

17年度は、3企業・個人により計6コースが創設され、計12人が給付を受けた。

対象は18人程度で、1年以上の長期留学に1人120万円(2人)、短期の海外体験や語学留学に1人50万円(16人)への給付を想定している。18年3~5月に希望者を募集、8月から奨学金を交付する。組合では、「今後も可能であれば継続していきたい」と言っている。

県では海外留学をする若者を応援するため、11年度に冠奨学金の前身の「埼玉県グローバル人材育成基金」を設置し、6年間で約1,600人の留学を応援した。

公営競技団体が奨学金を創設するケースは全国的に珍しいという。浦和競馬は戦後、戦災復興と災害復興ののための財源だった。空襲があった熊谷、カスリーン台風の北川辺周辺、夫を亡くした遺族らを優先して競馬場が雇った。奨学金が整備されていない50年代から60年代初めには、苦学生を優先して雇った。

「浦和競馬のおかげで一人前になれた人はたくさんいる」と「浦和競馬のおかげで弁護士になれた」という荒川岩雄県議は語っている。埼玉新聞の浦和競馬場の続き物の中で、「浦和競馬場の職場には情があった」という県議の言葉には思わず涙がこぼれた。伝統は受け継がれているのである。

浦和競馬場では19年11月4日に、競馬界最高峰のG1級競争を1日3レース行う地方競馬の祭典「JBC」(ジャパン・ブリーディングファームズ・カップ)が初めて開かれることが決まっている。ダート(砂)競争の魅力向上や地方競馬の発展などを目指して01年に創設されたもので、南関東に4つある地方競馬のうち3場(大井、川崎、船橋)では開催済み。

地方競馬の実力馬に加え、JRA(日本中央競馬会)のスターホースが参戦、距離、性別ごとに王者を決める。県浦和競馬組合は、来場者3万人、売り上げ60億円を目指す。

これに先立ち9月2日
一般、指定席計738席を持つ地上4、地下1階建ての「新2号スタンド」が運用を開始した。どの席からもレースを観戦でき、災害対策として太陽光発電設備や雨水を利用するトイレ設備など「中央競馬並みの設備」を誇る。


 

 

 

 

 

 

 

 


村岡桃佳選手がパラリンピックでメダル5個

2018年03月30日 11時08分21秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


平昌冬季パラリンピックのアルペンスキー女子座位

村岡選手(21)は、1977年3月3日、桃の節句に生まれたので桃佳と名付けられた。4歳で急性の脊髄炎症で下半身が麻痺、両足が動かなくなり、車いすに乗っているパラ(障害者)アスリート。

身長1m50、体重37kgと小柄だ。深谷市立・川本中、私立・正智深谷高を卒業、早稲田大3年生だった。

早稲田には15年春、パラリンピアンとして初めてトップアスリート入試に合格、スポーツ科学部に属し、早大スキー部に入部した。

出場5種目全てでメダルを手にした。1大会で5個のメダル(金1、銀2、銅2)は冬季パラリンピックの日本選手では男女を通じて最多。平昌で日本のメダル第1号は村岡の滑降だった。平昌で日本が得た10個のメダルのうち半数を村岡が手にした勘定だ。

メダルを獲得したのは、アルペンスキー座位の大回転で金、滑降と回転で銀、スーパー大回転とスーパー複合で銅だった。

金を得た大回転は、前回のソチ大会で5位に入賞したほか、他の大会でも優勝経験があり、得意の種目だった。

村岡選手は日本選手団の旗手の役割を十二分に果たした。日本の“パラアスリートの女王“と呼んでも恥ずかしくない活躍ぶりだった。 村岡選手の活躍は、深谷市民を歓喜の渦に巻き込んだ。地元の市役所のパブリックビューイング会場は1位が決まると、クラッカーが鳴らされ、「ばんざーい」の声が響き渡った。

 現地に応援に出かけた小島進市長は、深谷初の五輪パラリンピックのメダリストとあって、新たに創設した「市民栄誉賞」を贈ることを決めるとともに、市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」とともにミニ凱旋パレードを開いた。

また、第2、第3の桃佳ちゃんを育てようと「ガバメント・クラウドファンディング」を近くスタートさせることを明らかにした。

障害者が必要とする補助器具の購入支援などを目的に、インターネットを通じてふるさと納税の形で寄付を募集、集まった資金は12年に設立した「ふっかちゃん福祉基金」に繰り入れ、希望者の申請に基づいて助成する。

この基金は、村岡選手も5回に渡り支援を受け、チェアとスキーを繋ぐ高速系のフレームを購入するのに役立った。

県体育協会(会長・上田知事)は功績をたたえ、県体育賞会長特別賞を贈った。

 

 


浦和レッズ アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で2度目の優勝

2017年12月01日 12時32分29秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


浦和レッズは17年11月25日、埼玉スタジアムで行われたACL決勝第2戦で、アルヒラル(サウジアラビア)と対戦、1-0で勝利し,07年以来10年ぶり2度目のアジア制覇を遂げた。レッズはここ5年で4回目のACL出場だった。

決勝はホームアンドアウェー方式(2チームがそれぞれのホームタウンで1度ずつ計2回対戦する)の第2戦で、1-0でアルヒラルを下し、2戦合計2-1で優勝を決めた(第1戦は1-1で引き分け)。

リヤドで行われた決勝第1戦の観衆は5万9136人、25日は5万7727人で、計約12万人が決勝戦に足を運ぶ新記録になった。浦和レッズはチーム設立25年の節目に新たな歴史を刻んだ。

前半は0-0で折り返し、後半終盤真近な43分、ブラジル出身のラファエルシルバ(MF)が、武藤(MF)からの縦パスを受け、相手DFの間をすり抜け、ペナルティーエリア内で右足でゴール右上に豪快なシュートを決めた。約6万人のサポーターは熱狂した。04年に新潟に入り、今季がJリーグ4季目の25歳。

レッズは正式には「浦和レッドダイヤモンズ」。06年にJ1を初制覇、07年にはACLを制してクラブW杯も3位に躍進。天皇杯は6度優勝。16年JIでは年間勝ち点1位となったが、チャンピオンシップ決勝で敗れている。


日本一の本場売上を誇る戸田ボートレース場

2017年10月16日 09時51分39秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


荒川に面する戸田ボートレース場周辺は、住まいから近いので自転車の散歩でよく出かける。

17年10月初め、さいたま市シニア大学の校友会の遠足でその見学会があり、初めて埼京線戸田公園駅からボートレース場行の無料バスに乗り、改札口で入場料100円を払って、場内に入った。

バスの終点から「戸田公園大橋」を渡ると、眼下の水面をボートが疾走しているのが見える。(写真)

同じ「競」の字なのに、競馬や競輪は「けい」と読んで、競艇だけなぜ「きょう」と読むのだろうと不思議に思っている具合だから、競艇については何も知らない。

この日は「ヴィーナスシリーズ」の名のとおり、終日女子選手だけのレースで、「競艇にも女子選手がいるのか」と驚くほどのど素人だ。

場内に積んであった小冊子をめくると全国24か所にあるボートレース場で活躍している約1600人のレーサーのうち、約200人が女子レーサーとある。

レーサーになるには、福岡県柳川市にある養成所「やまと学校」に入学し、1年間の訓練を受けなければならない。その合格率は40倍といわれる厳しさという。

レースは、1周600mの水面を3周して競う。ボートレースのモーターはヤマハ発動機のガソリンエンジン(排気量396.9立方cm)。開催初日の前日、抽選で各レーサーに渡され、レーサー自身が整備する。プロペラの出来が成績に最も影響すると言われる。モーターに備え付けのものをこれもレーサーが調整して使用する。

このようにレーサーはメカにも強くなければならない。

戸田競艇は、戸田、蕨、川口の3市からなる「戸田競艇企業団」が所有者で、企業団と、この3市を除くさいたま市など県内15市からなる「埼玉県都市競艇組合」の2つが施行者になっている。

戸田競艇企業団の平成29年度予算によると、年間開催日数は93日で、1日平均入場者数は3500人。27年度決算ではレースによる収入済み額は約266億円。入場者数は横ばいだという。埼玉県都市競艇組合も同じ日数開催している。

水の上を走るレースだから、夏向けで冬には休場になるのかと思っていたら、夏冬通年、1年中行われる。ビルの中は冷暖房完備だからである。

驚いたのは、「競艇企業団と都市競艇組合のレースを合わせた戸田の年間本場(ほんじょう)売上額は日本一」と聞いた時だった。

24か所のうち、東京都内には、江戸川、平和島、多摩川と3つもあるし、歴史を見ても、わが国で最初のボートレースが開催されたのは長崎県大村市で、1952(昭和27)年4月27日のことだった。戸田が開場したのは、2年遅れの1954年10月14日である。

訪ねた10月初めの同じ頃、大村では開設65周年記念の「海の王者決定戦」が行われていた。開催中にJR大村駅から無料タクシー(5分)、高速船や無料バスも運行しているという。

戸田でも埼京線戸田公園、東武東上線成増、京浜東北線川口、都営地下鉄三田線高島平の4駅から無料バスが出ている。 

企業団の平成27年度の決算によると、収入の中から配分金7億円が2:1:1の割合で戸田、蕨、川口の3市に分配され、戸田市では、公園などに耐震性の防火貯水槽の設置するのに使われている。

色々勉強になった1日だった。

 

 


花咲徳栄高校に「彩の国功労賞」

2017年09月18日 16時24分22秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


県は17年9月7日、知事公館で夏の甲子園で県勢初の優勝を果たし、参加3839校の頂点に立った花咲徳栄(とくはる)高校(加須市)に「彩の国功労賞」、創部36年目の快挙となった野球部には「県体育賞会長特別賞」を贈呈した。

功労賞は、県民に希望と活力を与えた個人や団体を表彰するもので、13年に春の第85回選抜高校野球大会を制覇した浦和学院高校(今夏県大会では準優勝)にも贈呈されている。選抜では大宮工業高校も第40回で優勝している。

ちなみに花咲徳栄の女子硬式野球部は全国タイトルが計7回(選手権2回・選抜3回・ユース選手権2回)の強豪である。

関東1都6県で、夏の甲子園で優勝したことの無い県は埼玉県だけ。優勝は県民の夢だった。県初の快挙に、加須市などを中心に「これで埼玉を“ださいたま”とは呼ばせない」との声が高まっていたので、730万の県民感情に応えた授賞となった。

第99回全国高校野球選手権大会の決勝戦は8月23日、埼玉代表として、3年連続で甲子園に出場し、県勢として24年ぶり3度目の決勝に進出した花咲徳栄と、広陵高校(広島)の間で行われ、14-4で花咲徳栄が圧勝した。上田知事は同日、同校に「彩の国功労賞」を送る方針を示した。

甲子園には夏に5回(83回大会、93回大会、97回大会、98回大会、99回大会)、春に4回(75回大会、82回大会、85回大会、88回大会)、夏春通算9回目出場で果たした悲願の初優勝だった。

県勢ではこれまで、夏に決勝まで進んだのは33回大会(51年)の熊谷と75回大会(93年)の春日部共栄だけで、惜しくも準優勝に終わっていた。

花咲徳栄の身上は、破壊力のある圧倒的な打力。甲子園での6戦全てで2桁安打、平均得点は10.2点。チーム打率は3割5分を記録した。

岩井隆監督(47)は、重さ10~15kgもあるハンマーをタイヤに振り下ろす特訓を課し、打撃強化を図った。

1992年、花咲徳栄のコーチになってから25年。身長163cmと小柄で、川口幸並中学時代、県内の強豪高校を目指したものの「小さいから」と夢を絶たれた。

神奈川県の桐光学園に進学、稲垣人司監督の野球部で野球理論を学んだ。東北福祉大を経て、社会科教諭として花咲徳栄に赴任した。稲垣監督が花咲徳栄の監督に転じていた縁からだった。

ところが、稲垣監督が2000年にグラウンドで急逝、岩井監督が01年から監督を引き継いだ。

高校は、加須市花崎江橋にある。東武伊勢崎線「花崎駅」下車徒歩10分。学校法人「佐藤栄学園」が運営し、普通科と食育実践科を併設する男女共学の私立高。生徒数約1800人。

「花咲」の名は、所在地の「花崎」から。「徳栄」は「とくはる」と読むが、「生徒一人ひとりが『徳』を積み、それぞれの『花』を咲かせる」願いが込められているという。

埼玉新聞社は、この優勝を祝って、写真のような表紙の「優勝記念グラフ」を発行した。県内の高校野球関係者やファンにとっていい記念になるだろう。

 


飯能新緑ツーデーマーチ 宮沢湖 吾妻峡

2015年06月05日 18時03分13秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



このマーチに初めて参加したのは、11年第9回目の「天覧山 多峯主山」コース10kmのコースだった。

マーチの主催者の朝日新聞を眺めていたら、15年は第13回目になり、前年は工事でコースからはずされていた人気の宮沢湖ルートも復活したと書いてある。当日申し込みは1日ごとに1千円の参加費も設定されたという。

飯能市は何度も訪ねたものの、宮沢湖には行ったことがないので、4月23日、10kmのコースに参加した。

短い手ごろなコースだから、先生に連れられた小学生のグループも多い。中央会場の飯能市役所出発時に、しんがり付近にいたら先頭が見えないほどの盛況だった。

「飯能桜の森」などを抜けていくコースである。夏日になったものの、新緑が輝くような山道を歩くのは素晴らしい。

宮沢湖は、灌漑用の人造湖だが、今では冬はワカサギ、年間を通じてヘラブナ釣りで親しまれている。周回道路を散策するのも楽しい。

驚いたのは、各所に設けられた接待所の「ご接待」だった。たいした距離を歩いているわけではないのに、中学生を主にしたボランティアが至れりつくせりのサービスをしてくれる。


接待所には、狭山茶の製造販売の老舗や、地元の企業も参加していた。狭山茶の新茶を、女性のプロが丁寧に何度も小出しについで出してくれた。狭山茶の新茶を飲んだのは今年初めてで、狭山茶の本当のうまさを堪能した。

電気関係会社のノボリのあるテントで飲んだなめこ汁は実にうまく、思わず感嘆の声が上がるほどだった。この二つの接待は、ツーデーマーチが飯能市の住民すべてのものになっていることを実感させてくれた。

吾野中学校のボランティアが作った「緑のバンダナ新聞」も参考になった。接待の内容も書いてあり、市内にある駿河台大学の接待所では、広いキャンパス内で、疲れた足をクールダウンする「足水コーナー」を設けたり、昼食をとる参加者のためにお囃子を演奏した、とあった。

2日目の24日は、続いて天気に恵まれたので、天覧山・吾妻峡コース15kmにも出かけた。新聞に吾妻峡は実行委お勧めの名勝とあったからで、同じマーチに2日連続参加したのは初めてである。

前橋にいたことがあるので、群馬県の吾妻川の国の名勝「吾妻渓谷」には何度も行ったが、入間川の「吾妻峡」は初めて。

ここでも「バンダナ新聞」にお世話になった。奇岩が多く赤岩、兎岩などと呼ばれる岩があって、兎岩は片方から見ると上を向いているように見え、もう片方から見ると、水を飲んでいるように見えるという。

ドレミファ橋という丸い飛び石があり、飛んで渡れるようになっている。(写真)

旅の歌人若山牧水も大正時代2度ここを訪ねていて、市民会館前の碑に

 志らじらと流れて遠き杉山の峡の浅瀬に河鹿鳴くなり

という句を残している。

飯能市は05年に「森林都市宣言」を出していて、「エコツーリズム」のまちとして知られる。この宣言どおり新緑の候、どこを歩いても気持ちがよく、市民のもてなしも温かい。

2日間の延べ参加者は目標としていた2万人を初めて突破し、過去最大規模の大会となった。


川口オートレース場 入場者数、売上高とも日本一

2014年05月28日 14時59分50秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



公営ギャンブルには競馬、競輪、競艇(モーターボート)、オートレースの4つがある。この4種類が全部そろっているのは全国でも埼玉県と福岡県だけ。埼玉県はけっこうなギャンブル県だと分かる。

このうち、さいたま市南区の浦和競馬場、同市大宮区の大宮競輪場、所沢市の西武園競輪場、戸田市の荒川近くの戸田競艇場は出かけたことがある。

川口市の川口オートレース場は、あることは知ってはいても出かけたことはなかった。最寄り駅のJR西川口駅東口の酒場でよく飲んでいたので、開催日には競艇とオート帰りの客と一緒になる機会が多かったためだ。

14年4月、朝日新聞によると、川口オートレース場で「第33回オールスターオートレース」に併せて「競争車の歴史とバイク展」が開かれている、とあるので自転車で出かけた。(写真)

前回優勝者と全国ファン投票で選ばれた精鋭が出場する大レースのはずなのに、思ったほどの人出はなく、高齢者の姿が目立つ。

日本でオートレースが始まったのは1950(昭和25)年、船橋競馬場の中の専用ダート(砂や炭ガラ)コースだった。川口のは1952年に始まった。

川口のコースが舗装(アスファルトコンクリート)されたのは1967(昭和42)年だった。1周500m、幅30mの楕円形で、最高時速150km(平均100km)で通常6周して勝負を競う。

車体には専用エンジンを搭載、公道を走るわけではないので、メーターもランプもなく、ブレーキもない。マシンの整備は選手が一人でする。

オートレースの開催場所は、全国でも少なく、6か所だけ。川口市のほかは、千葉県と船橋、伊勢崎、浜松、山陽小野田、飯塚市の1県・6市が主催していた。

オートレース発祥地だった船橋では、主催者の千葉県と船橋市が15年度末で事業を廃止した。売り上げが落ち込み、スタンド改修など修繕費が売り上げから捻出できなくなると判断したためだ。

06年度から県と市は民間に業務委託していた。売り上げは今後も年5%ずつ減少する見通しで、撤退を決めた。

オートレースは、小型自動車競走法に基づき、「地方財政の健全化」を目的の1つにしており、開設以来、川口市の財政に1200億円以上を拠出、さまざまな公共事業に貢献してきた歴史があるという。それとは別枠で市内小中学校の体育用具などの購入支援にも充てられた。

川口市でも、当初は県と共催だったのに、県は撤退、08年度から川口市だけの単独主催となった。

それでも5つのレース場の中で、4万4千人を収容できる川口は全国で最大、「オートレースのメッカ」と呼ばれている。

入場者数、売上高とも日本一だ。

15年9月5日からナイターも始まった。全国では伊勢崎(群馬県)、飯塚(福岡県)に次いで3か所目。騒音を7~9割カットする消音マフラーを取り付け排気音の7割以上を抑えた。レースは午後3時開始、最終レースは午後8時半スタートした。

ナイターは5~8日と25~28日の8日間行われ、ここ10数年で最高の入場者数と売上高を記録した。気をよくした市は、照明をLEDに変え、16年5月25日からナイターを常時開催することを決めた。10月まで計26日実施する。

公営ギャンブルの最盛期は、1992(平成4)年度頃で、入場者、売上高とも年々減少続き。特にオートレースの落ち込みがひどく、川口の場合、1日当たり平均入場者数、年間売上高とも3分の1程度になっている。

それでも12年度には約5億円が市の一般会計に組み入れられている。

このオートレース場には「川口オートミュージアム」が付属していて、往年の名車「メグロ」「キョクトー」「トライアンフ」「フジ」などが展示されている。

今度の展覧会では、「メグロ」「キョクトー」などの国産車とともに、レース車の原型となった英国製の「ジャップ」が展示されたのが注目された。

所在地の青木は駅から距離があるので、開催日には京浜東北線の西川口駅から無料バスが出ていて、昨年度から入場料もただになった。

オートレース場のエンジンの音と匂いには独特の魅力があるので、それに魅かれてくる長年のファンもいる。

一般市民には、毎年8月のたたら祭りの会場となり、花火を目前で楽しめるので親しまれている。


自転車王国 

2013年10月16日 13時35分24秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング

 

会社通いを止め、家にいることが多くなったおかげで、これまで見向きもしなかった県や市の広報誌までたんねんに目を通すようになった。月刊の埼玉県の広報紙「彩の国だより」は、取り上げる記事の選択も編集もなかなかのもので、面白い。

その二面の「知事コラム」に「埼玉県は自転車王国と言える県かもしれません」という書き出しの小文が掲載されている。「保有台数は543万6千台で、東京都、大阪府に次いで第3位、保有率では1.3人につき1台で第1位。出荷額は第2位。自転車が一番活用されている県と言える」というのがその骨子だ。(出荷台数は第一位、上尾市には大手メーカーの「ブリジストンサイクル」がある)

理由として、平地面積の占める割合が茨城県に次いで多いこと、通勤、通学の足としての利用が多いことを挙げている。忘れちゃならないのは、埼玉県は過去十年間の快晴日数が日本一。サイクリングにはぴったりだ。

11年1月4日の毎日新聞によると、1世帯当たりの自転車購入額は、都道府県庁所在市や政令都市の中で、さいたま市が1万23円と全国トップとのこと。

私も自転車党なので思わず快哉を叫んだ。自転車党と言っても、だらしのない飲兵衛だったから、車を運転すると危険この上ないし、おまけに運動神経が鈍いので若いころから車を遠ざけているだけのことだが、自転車の記事には自然に目が行くようになっている。

10年2月1日の読売新聞埼玉版には、埼玉県が「ぐるっと埼玉サイクルネットワーク構想」を作成、現在約300kmの自転車道と自転車・歩行者専用道を総延長約700kmに延長するとトップで報じられていた。

県内には川沿いに「荒川自転車道」と「利根川・江戸川自転車道」の二つの大規模自転車道があるが、これに支線や連絡路を整備、観光振興や通勤の後押しを狙うという。

国道や県道の植樹帯や歩道の一部を自転車道に転用し、拡幅や新規着工は最低限りに抑え、「それほど予算はかからない」よし。沿道の風景や各地のB級グルメを楽しむ市民サイクリング大会の開催なども計画しているとかで実現が楽しみだ。

「利根川・江戸川自転車道」は、二つの川の堤防を利用した、東京都江戸川区の旧江戸川河口から群馬県渋川市の吾妻川公園までの約170kmを結ぶ自転車道(このうち約88kmは埼玉県内)。河口から約80km上流の久喜・加須市境付近から約7.5kmは未舗装だったのが11年6月1日に完成した。

日本一長いサイクリングロードになり、渋川市から東京ディズニーリゾートまでがほぼ自転車専用道で結ばれる(一部市道)。東京からのサイクリストが熊谷方面へ乗り入れることも可能になる。

良いことばかりではない。県内では自転車に乗った人がけがする交通事故が毎年6千件以上発生、ここ数年12~29人が死亡していると、同じ日の毎日新聞にあった。10年の自転車事故の死傷者数は全国ワースト3位だった。13年の死者数は全国ワースト2位だった。

知らなかったが、13歳未満か70歳以上の人は歩道を走れるが、車道寄りを徐行する義務があるとか。


自転車のルーツ 本庄市の「陸船車」

2013年10月14日 18時38分19秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング

「自転車のルーツは本庄市にある」という話は、何度も読んでいたので、一度実物を見てみたいものだと思っていた。

本庄市立歴史民俗資料館に足を運んでみても、設計図だけで、昔展示していたという縮尺模型にもお目にかかれなかった。

こんな折り、さいたま市大宮区の県立歴史と民俗の博物館で、13年10月から1か月余、「埼玉じてんしゃ物語」という特集展示があり、「世界最古の自転車」といわれる「陸船車」の実物大模型が展示されているというので、さっそく見に出かけた。

この実物模型は、本庄市のまちづくり活動を進めているグループ「本庄まちNET」が11年11月に復元したものだ。

第一印象は、「陸船車」の名のとおり、自転車というより小さな船、小型ボートといった感じだ。車は二つではなく四つある。

サドルらしいものもなく、小さな柱が二本、歯車をかみ合わせた踏み木の前に立っているがどうして運転したのか。ハンドルらしきものもないので、どうして方向変換したのだろう、とまず思う。金属はどこにもなく、全部木製だ。

この「陸船車」は、1729(享保14)年以前に、現在の本庄市北堀で代々組頭を務めていた庄田門弥が発明した。後世「からくり門弥」と呼ばれたというから、木工製品つくりに長けた人だったのだろう。

当時の8代将軍吉宗も「千里車」と呼ばれたこの車に興味を持ち、献上させたという。

08年にこの「陸船車」に関する論文を書いて、脚光を浴びさせたのは、本庄市立資料館の館長を努めていた増田一裕氏である。

この論文は、市の文化財保護課で入手できる。読んでみると、「自転車とは何か」、つまり「自転車の定義」という難問に突き当たる。

氏は、自転車は「足を完全に地面から離したまま、人力を車輪に伝達して走行できる」ことが前提なので、「陸船車」はその定義に該当、自転車の範疇で理解することが可能だとしている。

広辞苑は別な定義で、自転車は、「乗った人がペダルを踏み、車輪を回転して走らせる車」としている。

残念ながらこの発明は、現代の自転車に至る系列にはならず、技術が断絶していて、興行用のからくり(製品)に変化しているので、氏は、厳密に言えば

門弥式陸船車は、「機能上、世界最古の自転車だ」という結論に達している。

この論文では、現代につながる世界最古の自転車は、フランスのピエール・ミショーが1861年以降に考案・制作、量産化した「ミショー型」だとしている。

前後二輪で、方向転換のハンドルが改善され、動力伝達のためのクランクペダル、ブレーキ装置がついている。「両足が完全に地上から離れたまま動かせる構造」になっているのはもちろんだ。

「陸船車」とは何の関係もないが、ざっと130年も後のことである。

「陸船車」」は復元後、実際に走らせて見たところ、座って小柱につかまり、踏み木を交互に踏んで、前輪駆動で走らせたと分かった。7歳の女の子でも動かせたという。機能だけでなく、見た目も自転車をこいでいるよう。

「陸船車」に触発されて、享保年間これを改造した“自転車”が二種類造られた。一つは「竹田からくり(芝居)」の興行用で、もう一つは彦根藩士平石久平次の三輪車。久平次のはペダル、ハンドル状の機構を持っていた。

なぜこのような「陸船車」が先導した、ヨーロッパに先立つ日本の技術が継承されなかったのか。

当時の日本の道路の路面状態の悪さに加え、1721年に幕府が発明を禁じ、藩の新技術を押さえ込む「新規御法度令」を出していたことを、理由に挙げる人もいる。

世界水泳400個人メドレー「金」連覇の瀬戸大也選手  毛呂山町

2013年08月08日 13時11分13秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



メドレーは「混泳」と訳されるとおり、混合レースのこと。個人メドレーはバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形の順に、4人で泳ぐところを1人で泳ぐ競技である。

水泳の万能選手向きで「水泳の王様」と称される。

五輪でも世界選手権でも、東京五輪から登場したこの競技の金には日本人はこれまで縁がなかった。その400mで13年8月4日、スペイン・バロセロナで開かれた世界選手権で、19歳だった瀬戸大也選手(JSS毛呂山)が日本人として初めて金メダルを獲得した。

初出場の早大一年生が、本命の日本のライバルをラストスパートで引き離して宿願の金を手にしたのは、日本の水泳界に大ニュースとなった。

埼玉県の毛呂山(もろやま)出身だとあって、県も県人も大喜び。上田知事はさっそく、「彩の国スポーツ功労賞」を贈呈すると発表した。この賞は、県出身の五輪メダリストら55個人・団体に贈られている。

井上健次町長は、「『けろやま』と読まれることが多いが、もう間違った地名では呼ばせない」と喜びを語った。

毛呂山町は、埼玉県民でもどこにあるか知らない人もいる。鶴ヶ島、坂戸、日高、飯能市、越生町などに囲まれ、人口約3万6千人。農業用灌漑貯水池「鎌北湖」があり、武者小路実篤がつくった「新しき村」が現在も細々と残っている。埼玉医科大学の所在地でもある。

ゆずは日本で最古の産地のひとつで、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』に、滝ノ入地区(当時は瀧野入村)の土産として「桂木ゆず」の銘柄で全国に名を売ったという記録がある。昭和30年代には全国有数の産地となった。最近、復活の取り組みが始まっている。

スポーツ万能の両親の間に毛呂山町で育った大也選手は、5歳の頃から「JSS毛呂山スイミングスクール」に通い始め、泉野小、毛呂山中、水泳の強豪・埼玉栄高校(さいたま市西区)を卒業するまで、週6日通い続けた。埼玉栄では3年で競泳部の主将を務めた。大阪市に本社があるJSSは現在、全国に86のスイミングスクールを持ち、150万人の会員実績があるという。

大也選手は小学6年だった06年、浜松市で毎年開かれている「とびうお杯全国少年少女水泳競技大会」に招待選手として、50m背泳ぎで優勝した。

全国から小学生の強豪が集まる大会で、これまで五輪金メダルの岩崎恭子、北島康介選手も出場している。

ロンドン五輪選考会となった12年の日本選手権で、400、200mとも3位に終わり、五輪出場はならず、人目をはばからず泣いた。

この2種目で優勝したのは、小学校時代からのライバル荻野公介選手(18歳 東洋大1年 栃木県小山市出身)で、ロンドンで銅メダルを得た。

大也選手は15年8月9日、ロシアのカザニで開かれた水泳世界選手権の400m個人メドレーでも4分8秒50で優勝した。日本選手が世界選手権で連覇したのは史上初めて。16年のリオデジャネイロ五輪代表に内定した。ライバルの荻野選手は開幕前に右腕を骨折し、出場しなかった。

大也選手は、身長174cm、体重70kgと水泳選手としてはやや小柄で、手足も短いが、バタフライと平泳ぎに強い。

16年のリオ五輪では、400m個人メドレーで念願の銅メダルを獲得した。荻野選手は金メダル。競泳の同一種目で日本選手二人が表彰台に立つのは、60年ぶりの快挙だった。


浦和学院 選抜甲子園を制覇 その2止

2013年04月09日 16時13分43秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


甲子園に20回駒を進めながら、ベスト4までで優勝に届かなかった強豪浦和学院が、その無念を一挙に晴らし、決勝で愛媛県の斉美のエースを叩きのめした。

驚くべき爆発力だった。「ウラガク」は決勝では、4試合連続2桁安打となる18安打を放ち、決勝では大会史上2番目に多い17得点。先発全員が本塁を踏んだ。

17-1。16点差。まるでコールドゲームのようだ。選抜決勝では06年の第78回で、横浜(神奈川)が清峰(長崎)を21-0で下したのに次ぐ、歴代2位の記録である。春夏合わせると17-0が二回あるので4番目という。

(なお、決勝以外では1937年の第14回選抜一回戦で、わが浦和中が滝川中に27-0と27点差で敗れたのが最高)

決勝の5回、2死満塁で勝ち越しの2点適時打を放った、主将の3番・山根佑太中堅手は、5試合すべてでヒット、通算12安打、大会最多安打記録にあと1本まで迫った。

決勝で期待された4試合連続本塁打の新記録こそ出なかったものの、4番・高田涼太三塁手は、準決勝まで3試合連続本塁打を記録した。

選抜で3本塁打を打ったのは、PL学園の清原和博、星陵の松井秀喜らと並ぶ。

5回の逆転劇では山根に続いて高田は、左越え2点二塁打、この回打者12人で一挙7点を奪い、試合を決めた。

5試合を通じて、59安打47得点。細かく見ると、打数168、安打59、二塁打10、三塁打5、本塁打3、打点42、打率.351、得点47と、本塁打を除き(滋賀気比が4)と、優勝チームらしくいずれもトップを占めている。

この結果からみると、打撃のチームに見える。

2年生左腕・小島和哉は、直球は130km台前半ながら、内角、外角を突く、緩急をつけた好投を見せた。5試合すべてに先発、決勝を含む3試合で完投、580球を投げ、失点わずか3だった。

小島の好投に加え、守りも堅く5試合で失策は1だったというから驚くばかりだ。

数字の上で見ると、投・打・守の3拍子がそろった理想に近いチームだった。
「ウラガク」が話題になったのは、グラウンドの上だけではなかった。

一塁側アルプス・スタンドには、宮城県石巻市の少年野球チーム「鹿妻(かずま)・小鹿クラブ」の子供たちが、「ウラガク」の応援団と肩を組み大声援を贈っていた。

「浦和学院のお兄ちゃんがんばって!!」という石巻市の保育所の園児から贈られた横断幕も掲げられていた。

「ウラガク野球部」は、東日本大震災後、11年と昨年末、石巻市でがれき片づけなどのボランティア活動を行い、炊き出しもした。この少年野球チームとキャッチボールをしたり、打撃のアドバイスをしたり、交流を深めた。スパイクを贈り、盗塁のコツを教えた。

今年2月には子供たちをさいたま市に招き、2泊3日の合同練習もしていた。

「ウラガク」は、野球だけのチームではなかったのだ。県は最初、「彩の国スポーツ功労賞」を贈るつもりだったのに、「彩の国功労賞」に切り替えたようだ。

「スポーツの枠を超えた功績」と判断したからだという。その判断や良し。

この2回のシリーズは、日課にしている図書館での全紙閲覧の「ウラガク」のサワリを集めたもの。各紙の取材記者に感謝したい。私はテレビを見ていただけだ。











浦和学院 選抜甲子園を制覇  その1

2013年04月07日 16時37分59秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


13年4月3日(水)――。この日は、さいたま市民、いや埼玉県民にとって歴史的な日になった。

緑区にある浦和学院が、春の第85回選抜大会の決勝戦で、愛媛県の強豪斉美(せいび)に17-1で大勝、埼玉県勢としては1968年の第40回の大宮工以来、45年ぶりに優勝を飾ったからだ。

この日午後、日ごろ愛郷心が薄いと言われる市民も、県民も、千円床屋でも安酒場でもラジオやテレビに熱中し、「ウラガク」の大量得点に「いけいけ」と声援を贈った。

清水勇人市長はもちろん、上田清司知事も甲子園に駆けつけた。知事は「歴史に残る勝利だ」と県民の喜びを代弁した。

スクールバスが出るJR東川口駅前などで、各新聞社は何千部もの号外を配布した。埼玉県をテーマにして号外が発行されるのは、これまであったのだろうか。

市役所や東川口の他、浦和、南浦和駅などには「祝優勝 浦和学院」と大書した横断幕や看板、貼り紙が掲げられた。

紫紺の優勝旗を学院に持ち帰ると、県は「彩の国功労賞」を贈る方針を決めた。市は創設されたばかりの「市長特別賞」を贈る。

「彩の国功労賞」は02、12年に、世界三大サーカスの一つ「木下サーカス」に送られたことがあり、これが3度目。

愛郷心は昂揚し、「ウラガク」はサッカーJ1の「レッズ」とともに、一躍、124万市民の郷土意識のシンボルになった。

「次は夏の甲子園だ」がチームとともに市民の合言葉になった。

よみうり時事川柳には

 センバツで埼玉の上「ダ」が取れる

という句が掲載された。

恥ずかしながら、学院の名前は知っていても所在地は知らなかった。あわてて地図で確認すると、東北自動車道を挟んでレッズの本拠地「さいたまスタジアム2002」の西側にあり、「さぎ山記念公園」のちょっと南にある。

新聞報道によると、浦和学院は男女共学の私立で、生徒数2383(男1253、女1130)人。1978年創立で、野球部も同年できた。創学、創部35年目の快挙だった。

1986年夏に甲子園に初出場するとベスト4入り。春夏通算20回目の「甲子園常連校」で、選抜は3年連続9度目、夏は11度出場している。

92年春にもベスト4。いつも優勝候補に挙げられながら、ベスト4止まり、決勝進出は初めてだった。

県内のライバル校「大宮東」は93年の第65回、「聖望学園」は08年の第80回選抜で準優勝している。

プロ野球にも何人も先輩がいて、PL学院、横浜同様、高校野球界の名門なので、部員数約100人に全国から優秀選手が集まるようになっている。協志寮という寮もある。

決勝5回に逆転打を放った主将の3番、山根佑太中堅手は遠く広島市出身。

決勝で5打数4安打と大活躍の西川元気捕手、一番の竹村春樹遊撃手はいずれも栃木県小山出身。

前主将の高田涼太三塁手は朝霞、エースの二年生小島和哉は鴻巣出身で埼玉勢だ。

監督の森士(もり・おさむ 48歳)は上尾高、東洋大で投手だった。怪我に泣き、背番号をつけることはなかった。恩師の招きで浦和学院に入り、91年27歳で監督に就任、92年春にベスト4入りと幸先の良いスタートだった。

しかしその後、優勝への道のりは長く、就任22年目、18度目の甲子園出場で宿願を果たした。

浦和レッズレディース

2012年08月28日 18時16分00秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング


浦和レッズには男性だけでなく、「浦和レッズレディース」という女子チームもあると知ったのは、ほんの最近のことだった。

これまでサッカーにほとんど興味はなかったのに、女性、男性チームのロンドン五輪での大活躍がきっかけになって、関係の記事を丹念に読み始めたからだ。

「なでしこジャパン」の銀メダル獲得の興奮もまだ冷めやらないうちに、サッカーの女子ワールドカップ(W杯)のU―20(20歳以下)の第6回大会が、16チームが参加して、12年8月19日から初めて日本で始まった。

この大会は08年から2年に一度開かれている。国際サッカー連盟(FIFA)主催の大会を日本が開くのは、韓国と共催した02年男子W杯以来だという。

8月19日の埼玉新聞によると、この大会に参加する「ヤングなでしこ」21人中、「浦和レッズレディース」から7選手が選ばれていて、主将(藤田のぞみ=MF)やゴールキーパー(池田咲紀子)まで務めるというから驚いた。

日本の女性チームの中でレディースから3分の1、最多の選手が選出されたのである。

この記事をさらに読んでいくと、U―20よりさらに年下のU―17(17歳以下)のW杯もあるらしく、FIFAの商魂にまた驚く。

U―20では過去ベスト8止まりながら、U―17では、10年に日本は準優勝している。「なでしこジャパン」より先に世界の頂点に迫っていたわけである。これまた知らなかったのでビックリだった。

その準優勝に貢献した楢本光(18)も浦和所属のMF(ミッドフィールダー)だ。もちろん今大会にも選ばれている。

楢本は、「ポスト沢」の呼び声もあり、今回の第一戦対メキシコ(19日)でも見事なミドルシュートを決めた。パスセンスにも優れる。

A~D組中A組のヤングなでしこは、メキシコに4-1(19日)、ニュージーランド(22日)に2-2で引き分け、スイス(26日)に4-0と、2勝1分けの勝ち点7のA組1位で準々決勝(8強)に進出した。

スイス戦でも楢本はペナルティキックで加点した。メキシコ戦で先制点を奪ったのは浦和のMF柴田華絵(20)だった。

30日の準決勝では、初のベスト4進出をかけて、B組1位の韓国と対戦した。韓国には10年のU―17W杯で決勝で敗れ、準優勝に甘んじている。

宿敵韓国戦でも柴田が2ゴール、見事に3-1で雪辱、4回目の出場で初の4強、準決勝進出を決めた。準決勝は9月4日、前回優勝のドイツと対戦、体格とスピードを兼備した今大会無失点のドイツを崩せず、3-0で完敗した

三位決定戦は8日、前回準優勝のナイジェリアを相手に行われ、2-1で競り勝ち、初の3位に食い込んだ。決勝では、米国が前回優勝のドイツを1-0で下し、2大会ぶり3度目の優勝を遂げた。

レッズレディースの本拠地さいたま市の「浦和駒場スタジアム」(21,500人収容=写真)では、今回残念ながらヤングなでしこの試合はなかったものの、準決勝までの8試合が実施された。

このようにレッズレディースと浦和駒場スタジアムは、世界の若手女子サッカー史上にもその名を残したのである。