渋沢栄一 “小さな巨人” 血洗島
血洗島――。なんと凄まじい名前だろう。
「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれた。1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年、91歳で没した“小さな巨人”渋沢栄一(写真は深谷駅前の像)。米国の経営学者ピーター・ドラッカーが「最も尊敬する人物」として挙げたこの人は、埼玉県だけでなく、全国に知られている。
義太夫、囲碁、将棋、なんでもござれ。それに女性も大好き。身長は150cmしかなかったので、礼服のフロックコートの銅像を造ろうとしたら、見える足が余りに短いので坐像に変えたという逸話の持ち主。ビジネスマンとして初の子爵になった。
資料を読んだり、足跡を訪ねたりし始めて、一年を超す。まず驚いたのが、生まれ故郷の「武蔵国榛原郡血洗島村」という地名のおどろおどろしさだった。
昔の地名が、あっさり現代風に改名される浅薄な風潮の中で、「血洗島」は深谷市の大字として残っているのが本当にうれしい。埼玉県の「彩の国お出かけMAP」の上にも、「渋沢栄一生家」「渋沢栄一記念館」の所在地名として明記されている。
二度ほど生家付近を歩き、全国に知られる深谷名物のネギの香りが、風に漂うのをかいだ時もこの地図を手にしていた。
地図を見れば明らかな通り、血洗島は、埼玉の北の果て、県北中の県北、群馬県と境を分ける利根川の近くにある。
若い頃、群馬県で2年ほど仕事をしていたので、利根川にはひとしお思い入れがある。群馬・埼玉県境、茨城・千葉県境をつくり、銚子で太平洋に注ぐ信濃川に次ぎ日本で2番目に長い川である。
演歌狂いなので、利根川といえば、田端義夫が歌う「大利根月夜」が好きだ。道場仕込みの侍ながら、ヤクザの用心棒に身をやつした平手造酒の舞台は、もっと下流だ。
軽率な思い込みが身上だから、血洗島もヤクザ同士の血で血を洗う血戦が展開されたのだろうと勝手に思っていた。
これはとんでもない思い違いで、利根川の氾濫で土地が洗われるので、「チアライジマ」、土地が荒れているから「チアレジマ」が転じて「チアライジマ」と呼ばれるようになったというのが、最も有力な説のようだ。無知ほど怖いものはない
この他にも、赤城山の地霊(ムカデ)が日光の山の地霊(大蛇)と戦場ヶ原で闘って、片腕をくじかれ、その血を洗った。平安時代、八幡太郎義家の奥州遠征の際、この辺で合戦があり、家臣の一人が切り落とされた片手を洗った。アイヌ語で「ケッセン」は「岸、末端、」という意味で、その当て字「血洗」から・・・といったいろいろな言い伝えがある。
ところが、合理主義者だった栄一は「田舎者の話であることは言うまでもない」と、にべもなくこだわらなかったという。
「血洗島」の「島」は、利根川の氾濫原に4つの瀬と8つの島があったからだという(以上、深谷市のホームページによる)。
実際、私のような好奇心の持ち主は、いつの時代にもいるようだ。栄一も各地で「よく由来を聞かれた」と語っており、辟易していたことだろう。
赤城山と日光の山が戦ったという言い伝えは、群馬でも聞いたことがある。この言い伝えにはストーリーとしての魅力はあるものの、氾濫説やアイヌ語説の方に説得力がありそうだ。
血洗島は赤城山を仰ぎ、冬には「赤城おろし」をまともに受けるところにある。栄一の生家の裏には「十六文たんぼ」という赤城おろしが吹き抜ける田んぼがあったという。十六文出して酒を一杯ひっかけても、通るとたちまちさめてしまうほど寒いのでその名があったとか(「埼玉の偉人 渋沢栄一」韮塚一三郎著による)。
栄一とともに埼玉県の誇る「群書類従」を編んだ全盲の大学者、塙保己一の生まれた現在の本庄市児玉もやや西側だが、同じ県北で「赤城おろし」にさらされるところだった。
この二人に日本初の公認女医、荻野吟子を加えて、「埼玉出身の三偉人」と称えられる。吟子の出身地も、現在の熊谷市俵瀬で、利根川からわずか南の県北中の県北。この三人がいずれもぎりぎりの県北出身なのは単に偶然だったのだろうか。
ところが、講演などを聞いていると、渋沢一族は1500年代に、現在は山梨県の小渕沢近くの渋沢村から移住して来たのだというのだ、生粋の武蔵人ではないらしい。
藍づくりや質屋も営む豪農、渋沢市郎右衛門の長男として生まれ、幼名市三郎。19歳で結婚、栄一と改名。22歳で江戸に出て塾に通い、剣道は千葉道場で北辰一刀流を学んだ。
尊王攘夷派として24歳で高崎城乗っ取りを図るが、説得されて京都に逃れ、一橋慶喜に仕官した。28歳で慶喜の弟の徳川昭武の随員でパリの万博に参加、新しい世界に触れ、新しい人生が始まる。