「スリーデー・ウオーク」や「県こども動物自然公園」ヤキトンの「かしら」で有名な東松山市に、日本で最大級のぼたん園があると聞いて、ゴールデンウイークの16年4月30日、初めて出かけた。
長年、埼玉県に住んでいるのに恥ずかしながら「東松山ぼたん園」のことは全く知らなかった。東松山のぼたんがシーズンを迎えていると広報紙で読んで、好天に恵まれた土曜日、迷わず箭弓稲荷神社のぼたん園に直行した。
神社には何度も来たことがあるが、ぼたん園の方には一度も入ったことがなかった。
東上線東松山駅西口から歩いてすぐのこのぼたん園は、残念ながら先立つ日々の雨と風で花びらが散ってしまい、約100種類、約1300株のうち黄色のぼたんしか残っていなかった。
「ついてないなぁ」と帰ろうとしていたところ、売店の女性が「大谷のぼたん園ならまだ残っていますよ」と教えてくれた。
駅でもらった「ぼたんまつり」関係のパンフレットをあわてて見直してみると、「東松山ぼたん園」の方が神社のぼたん園の上に書いてある。
約3万平方mの敷地に約350種、約9100株が植栽され、品種数や株数の多さは「日本最大級」と森田光一市長が自慢している。
西口から臨時バスが出ていて、所要時間15分、運賃は100円だ。
「東松山カントリークラブ」に隣接する山の斜面に開かれていて、入場料は500円。1990年3月に開園した。
山の斜面とあって、神社のぼたん園より花の見頃はいくぶん遅く、今年は4月23日から5月8日までだった。
盛りはすぎていたものの、入り口に近い低い方には、色とりどりの花が残っていて、十分見ごたえがあった。(写真)
桜や梅と同様、風流な名前がついていて、ボランティアのガイドさんが「黄色のぼたんはハイヌーンとか黄冠とかいう名がついてるんですよ」と教えてくれた。
斜面の最上部は、東松山カントリークラブとの柵があり、ゴルフプレーヤーの姿が見える。滑川町の「国立武蔵丘陵森林公園」も西側にある。
パンフレットには、花は大きさで小輪、中輪、大輪、巨大輪に分かれ、色も白、桃、赤、紫、黒、黄色などがあり、その豪華さと気品の高さで昔から「花王」「花神」などと呼ばれたとある。
盛りこそ逃したものの、その魅力は十分に堪能できた。来年は時期を選んで「花王」に再び会いに来よう。
ぼたん散りてうち重なりぬ二、三片 蕪村
行く末は誰が肌触れむ紅の花
どうやら草食人種だったように思える芭蕉にしては、色気のある句である。
染料として日本で最も古くから栽培されてきた紅花と言えば、まず山形を思い出す。江戸時代から最上川流域は日本一の産地で、今でも加工用や切花用に栽培され、山形県の花に指定されている。
桶川の紅花は、江戸で種を譲り受けて、栽培したのが始まりだった。最上川流域と比べ、気候が温暖なため、一月早く収穫でき、「早場もの」として喜ばれた。
取引価格が反当たり、米の2倍もしたので、栽培農家が増え、「最上紅花」に次ぐ全国第2位の生産量を誇った。
幕末には、最上地方を上回る値で取引された。桶川の紅花は、「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれ、桶川は臙脂景気でにぎわった。
皇女和宮が宿泊した桶川宿は「紅花宿」とも呼ばれたほどだった。
桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れられたのは、京都とも江戸とも取引があったことを物語っている。
市内の稲荷神社には、紅花商人から寄進された石灯籠2基が残されている。
「臙脂」の漢字をつらつら眺めていると、芭蕉の句ではないが、なにか年増芸者の色気を感ずる。臙脂とは、「濃い紅色」「黒味のある紅色」のことである。
梅雨どきに黄色い花を咲かせる紅花は何回も見ているけれど、一本の花としては丈も低く、その色も目を奪うほどではないので、一度群生したべに花を見てみたいものだと思っていた。
新聞を見ると、14年6月21、2の両日、「第19回べに花まつり」が開かれるというので、朝早くから出かけた。なにしろ市農業センター周辺など3か所で約30万本のべに花が楽しめるというのだから。
桶川市には、JR高崎線の東側の加納地区に「べに花ふるさと館」がある。昨年はここがメイン会場だったのに、今年は圏央道・桶川北本インターチェンジ新設の関連工事で道路が混雑しているので、高崎線西側の川田谷地区に移された。
城山公園や、生涯学習センターや農業センターがある。紅花畑が数か所あり、群生した紅花を見ることができた。(写真)
桶川駅から無料の臨時バスを運行させ、公園では熱気球の試乗会もあった。紅花染め体験や摘み取り体験もあった。
恋人や意中の人への思いを絶叫する「べに花畑で愛を叫ぶ」の企画もあった。
桶川の紅花つくりは、化学染料の普及でいったん滅んだものの、愛好家や桶川ロータリークラブが山形県から種子を譲り受け 徐々に栽培を再開、市のイベントで種子の無料配布も行った。
市も1994年から「べに花」をシンボルにした「べに花の郷(さと)づくり」に乗り出し、96年から「べに花まつり」を始めた。栽培農家は19軒に増え、「べに花生産組合」も出来ている。
市のマスコットキャラクター「オケちゃん」は頭に黄色い花を頂いている。「べに花まんじゅう」も「紅花かすてら」もある。
総合スーパー「ユニー」は14年11月、ショッピングモール「ベニバナウォーク」をオープンした。
臨時バスで駅に帰る途中、最近話題になっている、水着姿の「桶川の美少女」の像も見えた。ライオンとパンダを従えて県道川越栗橋線の傍らに立つ、
暖かさと寒さが毎日のように入れ替わったお蔭で、11年4月10日の土曜日、田島ケ原のサクラソウと染井吉野の満開が重なった。
荒川の河川敷にある田島ケ原は、サクラソウの自生地として知られる。1920年、日本で最初に指定された天然記念物の一つで、サクラソウで国の特別天然記念物になっている(1952年)のは全国でここだけ。植物の天然記念物に「特別」がつくと仏像などの国宝に匹敵するとか。計約4.12haが2か所で低い柵に囲まれて保護されている。
どうして数えるのか。10m四方の定点11か所を、7人が3日がかりで一つ一つ数え、推定するという。鳥や動物だと動き回るので数えるのも大変だが、サクラソウは動かないから可能だ。
自生のサクラソウと言っても、いろいろな違いがある。花びらの形も色も中心紋の大きさ、切れ込みも微妙に異なっている。確かに目を近づけてよくよく見るとそのとおりだ。
興味がある人は、現地で配られている小さなパンフレットを見ると、よく分かる。サクラソウは施肥しない。その代り、オギやヨシが2~3mまで伸び、日当たりが悪くなって、サクラソウの成長を妨げるので、毎年1月下旬に野焼きする。一つの風物詩になっていてカメラマンが押しかける。
サクラソウには地下茎があり、種子も地下に埋まっているので、火を生き延び、焼けた灰を肥料に成長する。芽を出し 茎や葉が伸びても、年によって違うが、開花するのは3割程度、一株に6つほどの花をつけるという。
18年6月には市議会で株数の急激な減少が取り上げられ、03年にピークの235万株から、17年に72万株、18年に66万株と3分の1以下に減少、「危機的状況」にあることが明らかになった。
気候温暖化や周辺河川の改修に伴って、河川敷への反乱がほとんどなくなったため、乾燥地に適した植物の増加、外来種の侵入がサクラソウを圧迫していることなどが原因で、市としては自生地保護のため、19年度から本格的な実態調査に乗り出す。
さいたま市南西部荒川左岸沿いの田島ヶ原のサクラソウ自生地には、季節に花が咲くとほとんど毎年出かけている。ざっと4haに約100万株あるという。
これに先立ち厳冬期に、一面に伸びたアシやオギを焼き、肥料にして発芽を促す野焼きが毎年行われるのは、知ってはいたもののこれまで見たことがなかった。
世界的に厳しい冬になった14年1月15日、野焼きがあるというので、出かけてみた。
今年一番の冷え込みで雪が舞うとの予報もあったので、朝9時過ぎ念のため「さいたまコールセンター」に電話してみると、「予定通り朝9時から始まってますよ」。
このコールセンターは、毎日朝8時から夜9時まで開いているので、イベントなどの問い合わせに便利。出色の市民サービスだ。これまで何度かお世話になった。
堤の上で遠くから眺めたらさぞ良かろうと、自転車で堤を登り、目的地付近を見下ろしてみても煙らしきものは見えない。
あわてて降りて、「サクラソウ自生地」の石塔の立つ中心部に着いた時は、辺りはすでに黒焦げの地面が残っているだけだった。
通りかかった関係者に聞くと、「もっと川よりでまだやっています」とのことで、自転車を進めると、ちょうど火が燃え上がろうとしていた。(写真)
聞くと、一度に火をつけると危ないので、いくつかのブロックに分けて、小型のガスバーナーで点火する。乾ききっているので、小さなブロックのアシはすぐに燃え尽きてしまう。
2m余にのびたアシが盛んに燃えると、放射熱が冷え切った体を温めてくれるのが快い。
サクラソウを守る会」の人たちのほかに、今ではさいたま市の冬の風物詩の一つになっているこの野焼きを、カメラに収めようとする風流人が取り囲む。
たまたま近くのスポーツセンターから先生に引率された園児たちが、バスで見物に来ていたので、格好の被写体になっていた。
サクラソウは種子ではなく、根茎の状態で地下で生き延びているので、地上の火にもめげず、春になると忘れずに可憐な花を咲かせる。
染井吉野の満開期と重なると、素晴らしい光景だ。「桜草公園」と名づけられたこの地では「さくら草まつり」が開かれる。さいたま市桜区は桜の花ではなく、このサクラソウにちなんで命名された。
野生ではなく、大切に守り育てたサクラソウの品評会が市役所の構内などで開かれるのも見逃せない。
この地が、国の「特別天然記念物」に指定されているのもうなずける。サクラソウは埼玉県の花、さいたま市の花でもある。
ちなみに2000年10月、宇宙飛行士若田光一さんとともに宇宙を飛んで話題になったサクラソウの種子は、荒川のちょっと上流のさいたま市西区二ツ宮の「錦乃原自生地」のもので、ここのものではない。
「錦乃原宇宙桜草」と名づけられて育てられている。
さいたま市は、4年後の2017年、「第8回世界盆栽大会」を迎える。
1989年に開かれた第1回大会は、合併前の旧大宮市が主催、大宮ソニックシティを主会場にして、32か国から愛好家や研究者など約1200人が訪れた。さいたま市開催は2度目で28年ぶりになる。
世界盆栽友好連盟(WBFF)が設立されたのは、その時である。初代会長には、「蔓青園」3代目園主だった加藤三郎氏(故人)が選出された。加藤氏は、この大会でエゾマツの寄せ植えの剪定(せんてい)の実演を披露、拍手を浴びた。
加盟しているのは日本、インドの2か国と欧州、中国、台湾など7地区。オリンピック同様、4年ごとに開催される。
第2回は米国オーランド、第3回は韓国ソウル、第4回はドイツ・ミュンヘン、第5回は米国ワシントンDC、第6回はプエルトリコ・サンファン、13年の7回は中国金檀市で9月末に開かれた。
開催地は、理事会の各国と各地区の理事計9人の投票で決まる。第8回には12年9月、さいたま市がイタリアで開かれた理事会で誘致を表明、ついで台湾が立候補の動きを見せ、一騎打ちになりそうだった。
このため、大宮盆栽村の園主らでつくる誘致委員会の竹山浩委員長(芙蓉園2代目園主)らは豪州など海外の展示会に出かけ、プロモーションを展開、清水勇人さいたま市長も13年7月にロンドンで欧州地区理事らに支持を訴え、協力の約束を取り付けていた。
9月27日に開かれた理事会では、台湾がプレゼンテーションを辞退したので、全理事が賛成、さいたま市で2度目28年ぶりの開催が決まった。
第8回大会は、17年4月27~30日の4日間、前回同様大宮ソニックシティや大宮盆栽美術館、盆栽村など6か所が会場になる。
大宮盆栽美術館は、世界の盆栽ファンの聖地を目指す盆栽村の目玉施設として、10年に世界初の公立の盆栽美術館としてオープンした。
4日間の会期中、盆栽の剪定の様子をインターネット中継するイベントや一般展示、即売会などがあり、大会参加者1200人、約7万人の来場者と5億円を超す経済効果を見込む。
盆栽は「BONSAI」として欧州を中心に世界では人気が高まっているのに、国内では愛好者が減り、1965年設立の日本盆栽協会の会員数は、ピーク時の約1万5千人が今では約6千人に落ち込んでいる。
1923年の関東大震災で被災した東京・千駄木周辺の盆栽師が移住してできた、90年の歴史を誇る盆栽村も、戦前には30軒ほどあった盆栽園が現在6軒だけ。周辺を合わせても9軒だ。
大宮盆栽美術館の入場者数も12年度は5万人弱と人気は低迷している。
それでも樹種の多彩さと高い技術から高級盆栽として世界に知られている。経済産業省は「大宮盆栽」を「JAPANブランド育成支援事業」の一つに選び、さいたま市とともに12年度から海外展開への支援を始めた。
この海外展開に協力している東京都の盆栽関連輸出業者によると、「欧州だけで数百万、世界で1千万人を超える巨大マーケットがある」とのことで、土付き盆栽の輸出に必要な検疫体制も整った。
これまでの輸出が苗木中心だったのに、育てた盆栽そのものの輸出が可能になり、平均単価も最低10倍以上に跳ね上った。最高は何百万円もするのはご承知のとおりだ。
「大宮盆栽」の輸出は13年11月から本格的にスタートした。11月17日には盆栽村で日本貿易振興機構主催の輸出商談会が開かれた。
輸出額は2年後が1億、3年後が5億円が目標という。盆栽だけでなく、育てたり、剪定したりする技術の輸出も検討されているので、盆栽師の育成も課題になっている。
さいたま市国際観光協会は、14年3月14日から9日間、パリのルーブル美術館やオペラ座に近い雑貨店の約35平方mに盆栽4点を独自で出店、富裕層への売り込みを狙う。
さいたま市は17年を目指し、世界で活躍する盆栽の伝道師を育成するため「国際盆栽アカデミー(仮称)」の開設を目指している。
世界盆栽会議の開催は、大宮盆栽の輸出にも好影響を与えることは確実で、国内でも盆栽見直しの機運が高まることになるかもしれない。
大宮盆栽村 さいたま市盆栽町
さいたま市北区の盆栽町で毎年開かれる「大盆栽まつり」(5月3~5日)が、13年に30回を迎えた。
市民盆栽展やセリ市、盆栽、盆器、山谷草の即売会などが開かれ、愛好者でにぎわった。
「大宮盆栽村」と呼ばれるこの町の中には現在、開村当時からあり、国後島で手に入れたえぞ松で知られる「蔓青園」、著名人の来訪が多く、皇居の盆栽管理責任者を務める「九霞園」、ケヤキやカエデなどの「雑木盆栽」が多くそろっている「芙蓉園」、種類の違う植物や花木も使う「彩花盆栽」の「清香園」、庶民的な「藤樹園」、鉢の品揃えが豊富な「松涛園」の6園がある。
最盛期の1930年代には盆栽園は約30あった
江戸時代から現在の東京都文京区千駄木の団子坂、同区駒込の神明町などには、植木屋の盆栽業者が多かった。
ところが、1923(大正12)年の関東大震災で大打撃を受け、より広い土地と適した土壌(水はけのいい関東ローム層の赤土)、豊富な地下水を求めて、当時、「源太郎山」と呼ばれていたこの雑木林に白羽の矢を立て、集団移住、盆栽作りの理想郷建設を目指した。
1925(大正14)年に盆栽村が誕生した。「蔓青園」が開園したのは、この年である。白い幹が大きくうねる、推定樹齢2千年を超す真柏(しんぱく)の盆栽があるので有名。当初の盆栽園約20園のうち唯一今も続いている。
1928(昭和3)年には、盆栽業者と盆栽愛好家のための町を作るため,盆栽村組合(組合員20人)は、盆栽村に住む条件として、「盆栽を十鉢以上持つ」「二階家は建てない」「垣は生垣とする」「門戸を開放する」などの規約を決めた。
盆栽愛好家のほとんどは都内に本宅があり、盆栽村の家は別荘で、贅を凝らした造りだった。その中には、森鴎外の長男・於兎(おと)のしゃれた洋館もあった。
移住組ではなく、1929(昭和4)年開園したのが「九霞園(きゅうかえん)」。趣味が高じて盆栽師になった初代園主・村田久造は、1931(昭和6)年から,宮内庁・大道(おおみち)庭園の盆栽仕立場を手伝った。
終戦直後には,宮内省(宮内庁)の要請で,枯死寸前だった皇居内の盆栽の救済に当たった。二代目の村田勇さんも、皇居の盆栽管理の責任者を務めている。
初代は吉田茂元首相ら政界要人や,皇族・秩父宮家などの盆栽の管理・育成にも当たった。
1965(昭和40)年、「日本盆栽協会」発足で初代会長になる吉田首相は1955(昭和30)年、九霞園を訪ねたこともある。
国内で最も有名な盆栽の一つとされる吉田首相遺愛の欅(けやき)や池田首相の蝦夷松(えぞまつ)などの名品が園内に残っている。
初代は1937(昭和12)年のパリ万国博覧会に盆栽を出品、会場の最高の人気を呼んで、金大賞を受賞した。
1950(昭和27)年には日本盆栽組合(日本盆栽協同組合の前身)の組合長に就任した。
国際的にBONSAIの人気は高まり、1963(昭和38)年、西ドイツのハインリッヒ・リュプケ大統領が九霞園を訪問している。
大宮盆栽美術館
なにしろ、観光資源に乏しいさいたま市に公立では日本で初めて、いや世界で初めてという新しい施設が出来たというのだから、好奇心の塊としては出かけねばなるまい。
”生きた芸術品“盆栽を展示する「大宮盆栽美術館」である。観覧料の安値に魅せられて、10年3月28日の開館日、またママチャリに乗って出かけた。
大宮の盆栽村(通称)には何度も見物に出かけているので、勝手は分かっている。盆栽町(地名)の中ではなく、通り越してすぐの土呂町(北区)に出来ていた。
盆栽村に電車で行く場合は、東武野田線の大宮公園駅から歩くのが普通。ところが、美術館はJR宇都宮線土呂駅の方が近く、徒歩5分。大宮公園駅なら10分だ。
08年2月に閉館した栃木県下野市の高木盆栽美術館から5億円で購入した高級盆栽を中心に盆栽約120点をはじめ、盆器(鉢)、水石(鑑賞石)など660点を所蔵。屋内と屋外に、盆栽は季節に合わせて約50鉢を展示、盆栽を描いた江戸時代の歌川豊国らの浮世絵、歴史資料も見られる。
日本一とも言われる五葉松の「日暮し」(評価額約1億4千万円)も室内で見られる。めったに公開されないが、これが目玉である。一日中見ていても飽きないというので「日暮し」の銘がつけられている。
佐藤栄作、岸信介両元首相が所有し、日本盆栽協会による「貴重盆栽」認定第1号となった花梨(かりん)、大隈重信愛蔵の黒松もある。
盆栽の種類や見方が素人にも分かるように、壁に写真やイラスト入りで説明してある。館に行く通りには「日本の伝統芸術」と英語で書いたノボリがかかっているのに、「厳密に言えば盆栽が芸術として謳われるようになったのは昭和初期」という正直な記述もあって面白い。
ところで、この美術館は開館までにさまざまな話題を提供してきた。ケチの付き始めは、この盆栽を預けた地元の業者のもとで3鉢(購入時評価額計5700万円)が枯死したこと。
開館が迫ると、年間5万人が入場しても収入は約1000万円、運営費が1億2000万円ほどなので約1億円の赤字になることが大きく報道された。
開館当日には、館長に委嘱されていた大熊敏之氏(51)が突然、辞意を表明、清水勇人市長が面談してやっと撤回する騒ぎもあった。大熊館長はさいたま市在住、工芸デザイン史が専門で、富山大准教授、盆栽を美術的な観点から論ずる数少ない研究者という。
来館者は15年6月、開館以来5年3か月で30万人を突破した。16年月10月には来場40万人となった。17年度は4月に世界盆栽大会が開かれたため、前年度より27%多い9万6001人が来館、外国人は82か国・地域から前年度比37%増の6225人に上った。