最小・最強の県庁
上田清知事のかけ声の下、県は日本で「最小・最強の県庁」を目指している。
知事の毎月の15年5月のコラムを見ると、県民1万人当たりの職員数は11.0人、全国平均の約半分で、全都道府県の中で最少だ。
喜ばしい限りである。
県職員の総数は同じ時点で6万2479人。県職員は一般行政部門(知事部局)に1割を超える6740人いるほか、教育部門に約4万人、警察部門に1万2000人、それに病院など公営企業部門に約2500人というのが、大まかな内訳だ。
県職員の中で、約3分の2を占める教育のほか警察、消防部門は、国が定員に関する基準を幅広く定めているので、県では手が出せない。つまり、県ができる範囲内で一般行政部門の職員の削減に努め、その結果が「全国最少」になったというわけである。
県職員の総数は、条例定数を約6500人下回っているというから、「よくやった」と拍手したい。知事は「任期中に3000人の職員を削減させた」と述べている
県には出資している指定出資法人が23ある。
埼玉新都市交通(大宮からのニューシャトル)、(浦和美園駅が終点の)埼玉高速鉄道、芸術文化振興財団、国際交流協会、社会福祉事業団、農林公社、土地開発公社、住宅供給公社、公園緑地協会などである。
このような法人を「すぐれた経営体にする」という方針で県が改革を進めている。法人の自主性・自立性を高めていくため、派遣職員の削減、県からの財政支出の削減を図ろうというものだ。
その結果、14年度の県派遣役職員数は03年度に比べ、人数で149人、率で56%の大幅な削減を実現した。天下りも原則廃止したと知事のコラムに書いてある。
14年度予算で出資法人への委託料や補助金の総額は、03年度の439億円から100億円減らした339億円で、削減率は約23%となっている。
こうした経営改善の結果、「さいたまアリーナ」は06年度から黒字経営に転換、12年度には県に約6億3300万円を納付するまでになっている。
「さいたまアリーナ」は、施設は埼玉県が所有し、第3セクターの株式会社さいたまアリーナが指定管理者として、管理運営している。新都心で最も親しまれている施設で、スポーツ、コンサート、講演会、見本市会場、さらにはツールドフランスに至るまで、最大3万7千席を使用できる国内最大級の多目的ホールだ。
浦和競馬も年間23億円の累積赤字を解消し、3億円を県とさいたま市に納付できるようになったという。
ところがである。人件費の削減がこのような形で進んでいる最中、県庁の税務課の主査が11年に、年間2017時間残業し、約740万円の時間外手当を受け取っていたことが明らかになった。
「県庁に住み込んでいるのか」という批判の声も上がった。それも一人ではない。職員一人当たり平均残業時間は135.6時間というから異常な数字だとすぐ分かる。
また、総務省の13年4月時点の公務員の給与状況によると、国家公務員の給与を100とした場合の地方公務員の水準を示す「ラスパイレス指数」は、埼玉県は109.4、都道府県別では全国5位だった。14年4月時点では、101.6で7位に下がった。
「埼玉」 県名の由来
「埼玉」という名はどこから来たのだろうか。いつも気になっていることだった。行田市の「埼玉古墳群」のある「県立さきたま古墳公園」(さきたま風土記の丘)を歩いているうちに、「埼玉県名の由来」という石碑に出会った。
1987(昭和62)年4月に埼玉県が建てたこの石碑によると、現在の埼玉県の区域が定まったのは、1876(明治9)年8月。県の管轄区域の中で最も広いのが、埼玉郡だったから、「埼玉」が県の名称とされたのだという。
埼玉郡は、大宝の律令によって国郡制度が定められた当初から設置された郡とみられ、当初は「前玉(さきたま)郡」の表示もあった。
正倉院文書に「武蔵国前玉郡」の表記があり、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とあるという。延喜式神名帳とは、927年にまとめられた当時の「官社」のリストである。
この「前玉神社」の一つは、確かにこの古墳群の中にある。
古墳群の南東部にある直径約50m、高さ8.7mの円墳「浅間古墳塚」の墳頂にある「前玉神社」だ。全国で唯一、古墳の上に建てられた神社だという。中腹には浅間神社が祀られ、この古墳の名になっている。
前玉神社の祭神は前玉彦命(さきたまひこのみこと)と前玉比売命(さきたまひめのみこと)の2柱で、人と人の縁を結ぶご利益があるとか。
古墳群の所在地は、今でも大字は「行田市埼玉(さきたま)」である。石碑は「この地は、埼玉郡の中心地と考えられるので、県名発祥の記念とする」と結ばれている。
万葉集には「さきたまの津」と記述され、風土記にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」と書かれている。「さきたま」が「さいたま」となったというのである。
他にも、武歳国多摩郡の先の方にあるから「さきたま(前多摩・先多摩)」、「さき(前)」「たま(湿地の意味)」が転じた、「さきたま(幸魂)」が転じた――などの説もある。いずれも魅力はあるものの、確証はなさそうだ。まあ、この石碑に書いてあることぐらいが穏当なところだろうか。
静六は「東大教授」にして「百万長者」だった。造林学や造園学の権威というよりも日本史上最大の「蓄財の神様」として崇める人も多い。「私の財産告白」「私の生活流儀」「人生計画の立て方」(いずれも実業の日本社)の三部作などがあり、その蓄財法や処世術を分かりやすく後世に伝えている。
静六は25歳の時に
①25-40歳 主に蓄財
②40-60歳 学を究める
③60-70歳 社会へのお礼奉公
④70歳以上 温泉に隠居、晴耕雨読
という人生計画をたてた。
その計画どおり、40歳で利息の方が、官庁の事務次官クラスだった東大教授の給料をしのいだ。60歳(1972=昭和2年)で教授を退官したのを機に、蓄えてきたほぼすべての資産を匿名で教育、公共の関係機関に寄付、85歳(1952=昭和27年)で狭心症のため静岡県伊東市で死んだ。
そのモットーは「勤倹貯蓄」だった。超低金利の今ではすっかり死後になった言葉だ。「4分の1天引き貯金」といって、通常収入の4分の1と臨時収入のすべてを貯蓄し、倹約して生活、投資に回す方法である。
もうひとつは、「一日一頁原稿執筆」。子供が生まれると、毎日1頁原稿を書くことを自分に課し、印税を養育費や後には埼玉県内の森林購入に充て、その著作は生涯で370冊に上った。
貯蓄だけでなく投資では、基本的には「先物買い」(成長を見込んでの長期投資)。「2割利食い、10割益半分手放し」(買値の2割の利益が出れば、売って利食いして定期預金に、2倍の利益=10割益が出れば半分を売って損をしないようにする)を原則とした。
オハコの山林にも投資、「財産3分投資法」(株式、預貯金、不動産に3分割投資)をとった。
処世のモットーは「人生即(すなわち)努力 努力即幸福」。「人生の最大幸福は職業の道楽化」だとして、公園の設計(造園)は造林学の余暇とみなしていたようだ。
1930(昭和5)年、現在は秩父市の旧大滝村の中津川地域の森林約2700haを県に寄贈して設けられた奨学金は、1954(昭和29)年から貸与を開始、12年でも年間約30人が利用しているという。
埼玉県の嵐山町(らんざんまち)は、1928(昭和3)年、嵐山渓谷を訪れた際、京都の嵐山(あらしやま)に似ていると、静六が「武蔵嵐山(むさしらんざん)」と命名したことに由来している。武蔵嵐山の名は東武東上線の駅名として残っている。
人生を改良するのはアイデアだと、寝床まで手帳を持ち込み、生涯、メモをとり続けた。
静六は埼玉県にも大きな足跡を残した。巨樹、いや巨人としか呼びようがない。