ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

熊谷次郎直実 熊谷市

2010年05月25日 21時30分55秒 | 中世
熊谷次郎直実 熊谷市

埼玉県北部の熊谷は「くまがや」と読むのか、「くまがい」と読むのが正しいのか、いつも迷っている。市のホームページをのぞいてみると、ローマ字で「kumagaya」と書いてあるから、地名としては「くまがや」と読むのだろう。

埼玉県の北部の雄「熊谷市」(人口約20万)は、夏には日本で最高気温を記録したこともあり、水がおいしいことで知られる。

自分の息子と同じ年頃の平家の若き公達平敦盛の首を討ち、出家した武人、熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね)は、熊谷の人たちも埼玉県人も、この地で生まれ、この地で死んだと思っている。墓所は熊谷市仲町の「熊谷寺(ゆうこくじ)」にある。

同じラン科の熊谷草も敦盛草も私の好きな花だ。もちろん「青葉の笛」もふと曲が浮かんでくるほど好きな歌である。

一の谷の 軍敗れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

JR熊谷駅前には「永崎の平和記念像」を創った彫刻家北村西望氏による騎馬像が立っている。熊谷市は直実のまちなのだ。

熊谷市立図書館が「郷土の雄 熊谷次郎直実」という本を出したという新聞記事を見て、さっそくいつものとおり、行きつけのさいたま市中央図書館に頼んで取り寄せてもらった。(写真)

立派な本である。編集後記によると、この図書館が直実物を出すのは四冊目とあるからなるほどと思う。そこで、かねて抱いていた疑問を電話で担当者に聞いてみた。「名前は“くまがい“読むようですが、なぜ地名と読み方が違うのですか。地名が名前になるのが普通のようですが」。

「熊谷と読む時と、熊谷次郎直実と名前を続けて読む時の読み癖の問題ではないでしょうか」との返事だった。音韻学には詳しくないが、「KUMAGAYA JIROU」よりも「KUMAGAI JIROU」の方が、確かに読みやすそうだ。

武士としては源頼朝に「日本一の剛の者」、あるいは「本朝無双の勇士」、出家して「蓮生(れんしょう、れんせいとも)法師」となってからは、師の法然上人に「坂東の阿弥陀仏」と言わしめた直実は、全国各地に寺を開き、「熊谷(くまがい)さん」として親しまれている。

武士時代の直実は、平治の乱では源義朝に従ったが、1180年の源頼朝挙兵当初は、多くの武蔵武士同様、平家方として参戦した。石橋山の戦いで、逃げる途中の頼朝を直実が助けたとされ、頼朝との深い関係が生まれた。

頼朝が勢力を盛り返すと、直実らは頼朝に帰順した。武士は強い方につくのである。

当時、「一所懸命」という言葉があった。「一か所の領地を命をかけて守る」という意味である。戦功の報酬は土地だった。直実も自分の領地を守り、さらに増やすため命をかけて戦った小武士の一人だった。

一の谷の戦いでは、須磨口へ進み、息子直家とともに平家の陣に先陣の名乗りをあげた。直家は左腕を射られたが、直実は息子をいたわりながら戦ったという。

出家した直接の理由は、鎌倉で開かれた流鏑馬(やぶさめ)で、射手でなく、的を立てる役を命じられ、頼朝と対立、領地の一部を没収されたのに立腹したのと、長年、直実を養育してくれた母方の義理の叔父との地元の領地争いで、頼朝の面前で意見を述べたのに、直実の意見が入れられなかったためともいわれる。

法然上人の弟子になり、法師になった後も、京都から熊谷に帰る際、浄土宗の教えである「不背西方(西方浄土のある西方には背中を向けない)」の教えを頑なにまもり、馬の背に鞍を逆さまに乗せて向かったという「東行逆馬(とうこうぎゃくば)」の逸話は、いかにも直情径行の直実らしくて面白い。

源氏の故郷 鴻巣市 吉見町

2010年05月23日 15時14分59秒 | 中世
源氏の故郷 鴻巣市 吉見町

NHKの12年の大河ドラマ「平清盛」をご覧になった方は、平安時代の後期に平家とか源氏とかの武士が台頭、保元の乱、平治の乱を経て、平清盛が権勢を握るに至る過程をご承知のことだろう。

保元の乱で崇徳上皇側について敗れた源氏の源為義、子の為朝(ためとも 鎮西八郎)、この乱では平清盛と組んで、父や弟を敵に回した為義の子で、為朝の兄の源義朝(よしとも)の名も覚えておられよう。

義朝は、3年後の平治の乱では、平清盛の失脚を狙い、破れて長男義平(悪源太)とともに殺される。

その義朝の遺児が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝(三男)、後に頼朝に殺される異母弟の範頼(のりより 六男)、義経(九男)である。

まるで歴史のおさらいのようで申し訳ない。

「ふれあい鴻巣ウオーキング」のCコースを歩いていて、この源氏の面々の祖と範頼の旧跡があるのを初めて見て驚いた。

鴻巣市と比企郡吉見町は源氏の故郷なのだというのだから。

まずお目にかかったのが、「伝・源経基(つねもと)館跡」である。源経基とは何者か。

この館跡は、埼玉県指定史跡になっている。立て看板の説明によると

経基は、(平安時代初期9世紀後半の)清和天皇の皇子貞純親王の第六子で、弓馬の道に長じ、武勇をもって知られた。(臣籍降下で)源姓を賜って、「源朝臣(あそみ)」と称した。938(天慶元)年、武蔵介(むさしのすけ 後に武蔵守=むさしのかみ)となって、関東に下り、この地に館を構えた。

とある。清和天皇の孫というわけだ。

「城山」と呼ばれる山林で、森林公園になっている。発掘調査でも経基の館だという証拠は見つかっていない。

帰ってから調べてみると、「清和源氏」の中で、経基の子孫の系統が最も栄えた。ここに出てくる源氏の名は、いずれも経基の系統である。


Cコースの折り返し点は、吉見観音(安楽寺)。上る階段の脇に「蒲冠者(かばのかじゃ) 源範頼旧蹟」の石柱がある。

上ると立派な三重塔が立っていた。説明書には、「鎌倉時代、範頼は約18mの三重大塔と約45m四面の大講堂を建設した」とあった。

近くに範頼の館跡だと伝えられる「息障院(そくしょういん)」(写真)もある。この地には今でも、大字に「御所」という地名が残っている。

範頼は確か、義経とともに平家を滅ぼした後、頼朝に謀反の疑いをかけられ、伊豆の修善寺に幽閉されて殺されたはずではなかったか。

だが、吉見町のホームページなどによると、平治の乱で、一命を助けられた頼朝が伊豆に流され、義経が京都の鞍馬の寺に預けられた際、範頼は安楽寺に身を隠して、この地の豪族・比企氏の庇護を受けて成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館の周辺を御所と呼ぶようになった、と書かれている。

範頼の子孫は五代にわたってこの館に住んでいて、「吉見氏」を名乗った。
範頼については不明なことが多く、吉身町の東側の北本市には、「範頼は生き延びて、北本市石戸(いしと)宿で没した」という説もある。

石戸の東光寺には、大正時代に日本五大桜の一つとされた天然記念物に指定された「蒲ザクラ」の一部が残っている。お手植えのサクラで樹齢8百年。根元にある石塔は、範頼の墓と伝えられる。

埼玉県内には、このような源氏ゆかりの旧跡がいくつかある。

 
 

「埼」の字やっと常用漢字へ

2010年05月21日 08時13分30秒 | 県全般
「埼」の字やっと常用漢字へ

「埼玉」の「埼」の字もようやく常用漢字になった。文化審議会国語文化会は10年5月19日、5年間にわたり審議してきた「常用漢字表」の改定に関する答申案を承認した。年末までに内閣が新漢字表を告示して、正式に認知された。

改定で追加される196字の中に、「埼」は「鬱(ウツ)」などという一度も書いたことのない字と並んで、“運よく入れて頂いた”のだ。

県名では同じように冷や飯を食っていた関東地方の、「茨城」の「茨」、「栃木」の「栃」も晴れて追加された。これらの県は知名度がそれほど高くないので、分からないわけではないが、関西の雄「大阪」の「阪」、建都1300年にわく「奈良」の「奈」が初めて入ったというのだから驚きいった。

ついでながら、「山梨」の「梨」、「岡山」の「岡」、「岐阜」の「阜」、「熊本」の「熊本」の「熊」、「鹿児島」の「鹿」、「愛媛」の「媛」も初めて仲間入り。

「鶴」「亀」と縁起がいい漢字は入ったのに、「一富士二鷹三茄子」の「鷹」はもれた。三年越しに四回も要望書を提出していた東京の三鷹市はがっかりだ。朝日新聞の「天声人語」によれば、女性市長は「結果を“鷹揚”(おうよう)に受け止める気にはなりません」と語ったという。

考えてみると、「埼」はよく入ったものだ。一語では広辞苑にもないし、小さな漢和辞典にも見つからない。インターネットで調べても埼玉県関係以外には「犬吠埼」「鯨埼」(長崎県五島市)が見つかるぐらい。「崎」と同じ意味らしい。

「県名だから入れよう」ということか。

文化審議会は、「なぜ入ったのか」のか説明するともに、「なぜ入らなかったのか」を国民に分かるように明らかにする必要がある。

秩父氏のこと

2010年05月20日 16時36分19秒 | 中世


「秩父市の薬局店主が10年続けてコラムで地元の魅力を紹介している」という記事を朝日新聞で見つけた。10年のことである。

「江戸東京開拓者は秩父氏の一党」とか「東郷元帥の先祖は秩父氏」といったことが書いてあり、小冊子にまとまったとある。

知らないことなので、さいたま市の中央図書館に頼んで、秩父の図書館から取り寄せてもらった。図書館に他館からの取り寄せサービスがあるのを知り、利用したのは初めてだった。ありがたいことである。

秩父ガスの広報誌に連載しているコラムと同じ「ふるさと発掘」というタイトルだった。寛政以来200余年秩父市で営業している片山薬局の店主の片山誠二郎氏の手になるものである。

「江戸開拓者」の中では、

東京都の開都は大田道潅が1457年に江戸城を築城した時とされる。
ところが実際は、道潅より約400年も前の平安時代に、荒川の源流から来た
秩父氏の一党(分家)である江戸、豊島、葛西の3氏が、現在の東京に進出してその所領は東京23区のほとんどと埼玉県南部、千葉県西部に及ぶ広大なものだった。
 
東京都はなぜ、この3氏を東京開発の恩人として顕彰しないのでしょうか。

と書いてある。、


「東郷元帥」のくだりでは、

(この)江戸氏から渋谷氏が別れ、東京の渋谷もその領地の一つだった。渋谷氏は鎌倉時代に九州に移り、薩摩の東郷に住んで東郷氏を名乗った。そして幕末に東郷平八郎が出た。

とある。そう言えば、豊島も葛西も東京の地名として残っている。

調べてみると、秩父氏は平安時代に、鎮守府将軍・平良文の孫、将常が、武蔵権守(ごんのかみ=長官)として秩父に定着して以来、その名を名乗った。

別な資料によると、その居館を秩父市中村から下吉田に移したころから名乗ったとある。

将常は桓武天皇六代の孫、桓武平氏である。秩父氏の館跡は、現在の吉田小学校周辺と伝えられている。樹齢800年のケヤキが残り、市の天然記念物の指定されている。

将常の孫、武綱は源義家に従って後三年の役を戦った。その子、重綱以降、一族は武蔵国各地に分散、その開発領主となった。武綱の子孫は畠山・豊島・江戸・葛西・河越氏等の有力な武蔵武士に分かれた。

重綱以降は、「留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)」(京都にいる国司の代理)を世襲、武蔵国の行政機関のトップであり、武士を統率・動員する権限を持っていた。

畠山氏からは畠山重忠が出た。

重綱の四男重継は、武蔵国江戸郷を相続して「江戸四郎」と称し、江戸氏を起こした。重継は、後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていた。

坂東(関東)武者というと、ふつう源氏を思い浮かべる。平安時代の関東は、「坂東八平氏」といわれる平家の舞台だった。その祖とされているのが平将常というわけである。

江戸は、秩父氏の子孫の江戸氏が開発、江戸城は埼玉県ゆかりの大田道灌が築城した。東京都と埼玉県のつながりは深くて長い。



塙保己一 新墓所 本庄市

2010年05月17日 15時19分11秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 新墓所 本庄市

埼玉新聞によると、塙保己一(1746~1821)の新しい墓所が、没後190年を記念して、命日のさる12年9月12日、出身の本庄市児玉町保木野に完成した。

遺徳顕彰会(会長・吉田信解本庄市長)が取り組んでいたもので、旧墓所から約200m東で、生家に近くなり、周辺は「塙保己一公園」として整備されようとしている。

新墓所は、旧墓所の台石などが老朽化し、脇のカシの木が墓碑を圧迫するようになったので、1921(大正10)年に建立された「没後百年祭記念碑」の隣に移された。今回同時に修復された百年祭記念碑は、渋沢栄一が揮毫している。

文政4年76歳で死去した保己一の墓所は最初、東京・四谷の安楽寺にあった。1897(明治30)年廃寺になったので、新宿区の愛染院に改葬された。その際、親族が分骨を受け、祖先の墓に並べて碑を建立した。

旧墓所は、1911(明治44)年、当時の児玉町教育会が没後90年祭を開いた祭、移転した。

新墓所周辺の新公園には、保己一が7歳で肝臓病で失明する前に見たホオズキの赤やユズの黄色を覚えていたという話にちなんで、ホオズキやユズも植えられることになっている。

塙保己一記念館は、旧児玉町八幡山の雉岡城址に1967(昭和42)年に建てられている。

新墓所は、皆が訪れやすい場所にあるので、生家、記念館を結ぶ塙保己一ルートとして、本庄市の新名所になりそうだ。

川越市にある県立の視覚障害児の特別支援学校には「塙保己一学園」の名前がついている。09年、「県立盲学校」から改名された。全国で偉人の名がついた特別支援学校はここだけだ。

幼稚部、小学部、中学部、高等部普通科、さらに高等部を卒業した生徒が進学する専攻科では、指圧、はり、マッサージなどの国家資格をめざす教育も行っている。

特別支援学校の中では県内最古。通学範囲は全県で、寄宿舎も完備、約100人が学んでいる。

卒業生が作詞した校歌には「刻む歩みに保己一のまこと心を受けつぎて・・・」とある。

埼玉県自然学習センター 北本市

2010年05月17日 07時34分44秒 | 博物館



名を聞けば、小中学生相手の施設だと思うだろう。行ってみると大間違い。「入場無料のこんな場所の近くに住めればいいだろうな」と思ったほどだ。

新聞の埼玉県版を見ていたら、北本市の「埼玉県自然学習センター」(北本自然観察公園内のビジターセンター)で、愛鳥週間に合わせ、野鳥を観察しながら英会話を学ぶ「レッツトライ!英語で自然観察」という催しがあるという。

桜が終わって、新緑の季節。梅雨までのこの短い期間は、秋の一時期と同じように、日本では最も素晴らしい日々だ。初めて聞いた小学校時代以降、「愛鳥週間」にはほとんど気にとめたことはなかったのに、最終日の10年5月16日の日曜日、桜の時に続いてまたも緑豊かな北本市にやって来た。(写真)

この公園が出来た頃に一度来たことはある。現役時代で時間が無かったため、展望室に登っただけ。「いつかゆっくり見てみたい」と思ったのが、この歳になってやっと実現したわけである。

田んぼだった所が開発されそうなので公園にしたというだけあって、メーンはヨシが生い茂る湿原や池だ。私は本来のアシという呼び方が好き。「人間は考えるヨシ(葦)である」では締まらない。

この季節、ここには渡り鳥のオオヨシキリが大挙してやって来る。オオヨシキリはその騒々しい声で知られる。ヨシキリは日本語では、「行行子」という字をあてる。この漢字を音読すると、「ギョ、ギョ、ギョ」と鳴きたてるオオヨシキリの鳴き方がわかる。繁殖期とあって、なかなかのにぎわいだ。

「同じウグイス科なのにどうしてこんなに違うんだろう」と思うほど,おなじみの美声のウグイスの声も聞こえる。「声はすれども姿は見えず」のその小さな姿も、三脚付きの望遠鏡をのぞかせてもらって見ることができた。ちらっと見たことはあっても、ウグイスをこれほど鮮明に見たのは初めてだ。

宝石と呼ばれるほど美しいカワセミも、姿だけではなく、「チー!」という鳴き声を聞かせてくれることもある。カワセミを聞くのも初めてだった。「古い自転車のブレーキ音」にたとえられる声である。

ところで、オオヨシキリは英語では何と呼ぶのだろう。用意された資料によると、Great reed warbler。reedはヨシ、warbleはさえずるという意味だから、文字どおりヨシの中でさえずる鳥なのだ。

英語の達者な年配者が電子辞書を持っておられたので、「ウグイスを引いてみてください」と頼んだら、Bush warbler。こちらはやぶの中でさえずる鳥なのだ。資料では、カワセミはKingfisherとあり、久しぶりに思い出した。

参加費は500円。なにか得をしたような午後だった。決してお子様専用の場所ではない。 






塙保己一 群書類従

2010年05月16日 11時41分31秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 群書類従

 番町で目あきめくらに道を聞き

という有名な川柳がある。これは保己一のことを読んだものとして知られる。番町は、当時の江戸・表六番町(現千代田区三番町)で「和学講談所」があった所だ。

この「和学講談所」は、講談を語るところではない。「儒学、神道、歌道には専門家がいて、教えを受けられる。しかし、国史や律令などの国学=和学にはそのようなところがない」と、保己一が、時の老中松平定信に願い出、その許可を得て設立された研究所兼大学だった。「群書類従」の刊行も大きな仕事の一つとなった。

「和学講談所」は、定信が「温古堂」と命名した。論語の「温故知新」からとった名前である。「温古堂」はのちに、保己一の号に使われたりした。

「群書類従」の版木や保己一の使った質素な机など、保己一由緒のものを保存している東京都渋谷区の國學院大學に近い「温故学会」はその名にちなんでいる。

「五重の塔」などを書いた幸田露伴は、「日本では、古いものを秘伝と称して特定の人たちに特定の方法で、密かに伝える慣習があった。『群書類従』などの出版で、古くからの文化が広く開放され、すべての人がその恩恵を享受している。だれもが、それまで手の届かなかった文献をじかに手に取ることを可能にし、学問の普及に貢献した」と保己一の業績を評価している。

同じ埼玉県北の深谷市出身で、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、1927(昭和2)年に建てられた「温故学会」の建物建設の先頭に立って尽力した。

その渋沢は「検校は一面から見ると、学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別な面から見ると、実業家であり、同時に政治家でもあった」と、この郷土の偉人を評している。

渋沢の言うとおり、保己一は単なる学者や知識人ではなかった。41年を費やした666冊の「群書類従」の出版は実業であり、保己一はその編集長と出版社社長を兼ねていた。「和学講談所」では今で言う学長、あるいは総長だった。その金策に奔走する姿は中小企業の社長さながらであった。

盲人社会の階級を一歩一歩登っていったのも、旗本と同等と見なされていた検校になれば、信用が高まり、「群書類従」の金策が容易になるとの判断があった。老中に将軍にもお目見えがかなった。政治家保己一の面目躍如であった。

盲目のハンデを抱えながらこのようなマルチ人間が、埼玉の片田舎から出たことに驚くばかりだ。


塙保己一   雨富検校

2010年05月11日 17時13分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 雨富検校

保己一は人生で二度大きな挫折に見舞われた。その危機を救ったのは、保己一が江戸で入門した盲人の一座の頭領である雨富須賀一検校だった。

当時、盲人の男性たちは幕府公認の「当道(とうどう)座」といわれる組合を作って、あんまやはりの治療、琴、三味線の音楽の流し、高利貸しなどで生活していた。このような盲人が自活する組合は世界に類はなかった。

いずれも技術を修行して身につける必要があった。多くの幕府公認の階級があり、その最高位が検校。検校はそれぞれ弟子を持ち、一座を作っていた。

雨富検校は、茨城県の農家の出身、幼い頃病で失明、江戸に出てあんまとなり、検校に出世、家は現在の新宿区の四谷にあった。その本姓が「塙」だった。

人間には、得手不得手がある。保己一は、江戸に出る前から記憶力は抜群だった。しかし、生まれながらの不器用。あんまもはりも下手、琴も三味線も調子外れだった。


幕府は盲人の生活を保証するため、「座頭金(ざとうがね)」という高利貸しを許していた。その取り立てもできず、完全な落ちこぼれであった。

江戸に来て1年後の16歳の時、絶望して、近くの九段坂にある牛が淵の堀に身を投じようとしたが、「命の限り励めばできないことがあろうか」という検校の言葉を思い出し、思い直した。

検校は、保己一が学問好きで非凡な才能の持ち主であることは分かっていたので、「盗みとばくち以外、何でも好きなことをやれ。三年間面倒を見る」からと、好きな学問に打ち込むことを許した。

生きがいを得た保己一は、嫌いだったあんまやはりにも精を出し、代金の代わりに本を読んでもらった。学問好きなあんまは評判になり、検校の隣家の旗本は一日おきに本を読んでくれ、国学者に紹介してくれた。

こうして学問への道が開かれ、国文学、国史、神道、漢文、律令(日本の古い法律)、医学と範囲は広がっていった。

学問をしながら、「般若心経」を毎日、百回読むことを決め、18歳で普通の盲人たちの上に立つ「衆分」に昇進した。

目の見えない保己一の学問は、人が読んでくれるものを必ず覚えこむやり方で、絶えず聴覚を緊張させていなければならない。ただでさえ健康でない保己一はこのストレスのため20歳頃病気がちになり、良くならなかった。

心配した検校は、今で言えば転地療法のため、保己一に伊勢神宮への代参を勧め、5両を与えた。目の不自由な保己一のため父親が同行した。

伊勢の後、京都、難波、播磨、紀伊、大和、吉野へまわり、60日余。保己一はすっかり元気を取り戻した。学問の視野が広がったのは言うまでもない。

盲人社会では、昇進のために大金がいる。「衆分」「勾当」へと昇進の際、保己一の金銭の面倒を見てくれたのも検校だった。

保己一が、検校の本姓「塙」を名乗った理由がよくわかる。雨富検校は、保己一が38歳で検校になった翌年没した。

雨富検校と保己一の墓は四谷の愛染院に並んで立っている。(写真) 目は不自由でも具眼の士がいたのである。この項は主に、「埼玉の偉人 塙保己一 利根川宇平著」(北辰図書)による。


塙保己一 グラハム・ベル

2010年05月11日 10時01分47秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 グラハム・ベル

それではヘレン・ケラーはどうして保己一のことを知っていたのだろうか。

保己一についての著書が多い元埼玉県立盲学校長の堺正一氏は「奇跡の人・塙保己一 ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人」(埼玉新聞社)の中で、「電話の発明者として有名なグラハム・ベル博士が、ヘレンの母親に保己一のことを話して聞かせ、励ましたようだ」と推測している。

氏には、この他にも「今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ」(同社)などの著書があり、このシリーズもこれらの本によるところが多い。

ベル博士の本職は、実は聴覚障害者教育の専門家で、全障害をその教育に捧げた。その博士から明治の初め、文部省から派遣されていた伊沢修二という人が教えを受けていた。
1876年、博士が初めて電話の実験で通話した相手はこの人だったと言われるほど、博士と親しい間柄だったので、「日本には幼くして失明したのにめげず、大学者になった人がいる」と話していたのではないか。

博士は、ヘレンの家族ととても親しい仲で、ヘレンの最初の先生でもあったという。ヘレンの先生になった有名なサリバン先生がヘレンのうちに紹介されたのも博士の力添えによるものだった。

ヘレンは1937年の埼玉会館での講演で、「母から塙先生のことを聞き、先生を目標にがんばってごらんなさい」と励まされたと語っている。

伊沢は帰国後、文部省の編輯(編集)局長などを歴任し、教科書の編集責任者を務めた。

1887(明治20)年の文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」には、保己一が弟子たちに源氏物語の講義をしていた際、風でロウソクの火が消えてしまった。弟子たちがあわてているのを察して、保己一が「目が見えるということは、不便なことですね」と言った有名な逸話が紹介されている。

ヘレンは、同じ講演の中でこの逸話を引用しているので、伊沢が編集したこの教科書の逸話のことも知っていたのではなかろうか。

伊沢は、国立東京盲唖学校の校長も務めた。西洋音楽を日本へ移植した人でもあり、「小学唱歌集」を編纂、東京師範学校や東京音楽学校の校長も歴任した

塙保己一 ヘレン.ケラー

2010年05月10日 13時13分22秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 ヘレン・ケラー

病気のため一歳半で、目が見えず、耳も聞こえず、話すこともできなくなり、三重苦に苦しみながらも、ハーバード大学を卒業し、世界中の身体障害者の社会的地位の向上のために一生を捧げた「奇跡の人」、米国のヘレン・ケラー。1937年、一回目の来日で、浦和の埼玉会館で講演した際、次のようなことを話している。

「私は特別な思いを持って、埼玉県にやってきました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物が埼玉県出身だったからです」。

この人こそ、「群書類従」666巻を編集・発刊した江戸時代の盲目の大国学者・塙保己一だ。埼玉県内の「県ゆかりの人物」の第一位に選ばれている人物である。

無知とは恐ろしいものだ。最近まで、名前は「はなわほ・きいち」と読むのだろうと思っていたし、ちょっとした図書館ならおいてある「群書類従」の意味も知らず、手にとったこともなかった。

もちろん、「はなわ・ほきいち」と読むのだが、正しい読み方が分かったのは、たまたま、塙という人と接触する機会を得てからだった。

「保己一」の名は埼玉県の出身地に関わりがある。保己一は1746年、埼玉県北部の児玉郡保木野村の農家に生まれた。保木野は後に児玉町、現在は本庄市に編入されている。西側に神流川があり、川を越えれば群馬県だ。

保己一は幼名は寅之助(後に辰之助)、3歳から肝臓病で5歳で失明、12歳で母を失った。15歳でソーメン箱に着替えを詰めて江戸に出て、雨富須賀一(あめとみ・すがいち)いう検校(けんぎょう=盲人の最高位)の率いる盲人の一座に入門、「千弥(せんや)」と呼ばれた。

18歳で衆分という盲人の位に昇進すると出身地の名をとって「保木野一」と改名した。盲人一座では、衆分以上になると「◯◯一」という名をつける習わしがあった。30歳で検校に次ぐ盲人の高い地位「勾当」(武士と同格)に昇進する際、「保己一」に変えた。

「保己」とは、中国の文選(もんぜん)という書物の中にある「己を保ちて百年を休んず」という言葉からとったものだという。百年も長生きして、「群書類従」の編集・出版を成し遂げようという決意を表明したものだった。

勾当になると、性を名乗ることができるので、父の名の荻野(宇兵衛)を称するのが自然だったが、当時名古屋に同姓の平家琵琶の名手がいたので、雨富検校の実家の苗字をもらって、「塙保己一」とした。

それでは「群書類従」とは何か。「叢書」という言葉がある。「同じ分野に関する事柄を同じ形式や体裁に従って編集・刊行した一連の書物」と辞書にある。中国には、「漢魏叢書」などあり、日本でも平安時代、「秘府略」という一千巻の叢書を作ったことがあるが、今では二巻しか残っていないという。

中国の古典に「以類 相従(類をもって、相従う)」という言葉がある。「同じ種類のものは、その種類に従って分けてある」という意味だ。

「群書類聚」とは、「群書(いろいろな書き物)が集めてあり、同じ種類のものは分類してある」という意味になるだろう。「群書類従」とは、国史・国文学を中心とする国学の日本最大の叢書、文献資料集で、今流に言えば、一大データベースと言える。

保己一の生前に本になったのは、正編で、1273点の古い本や書き物が集められ、それが、神祗(じんぎ=神がみ)、帝王、律令、和歌、日記、武家、雑など25部門に分類され、その冊数は目録1冊を含め666冊。

「群書類従」に入れられたものは、「万葉集」や「源氏物語」のような大部で確実に後世に伝えられるものではなく、一般の人からは関心の持たれることは少ないが、文化的価値が高いもの、一巻、二巻からなる地味な零細本や珍本が多かった。

「年中行事秘抄」「皇太神宮儀式帳」などに混じって、「枕草子」「方丈記」「伊勢物語」「土佐物語」などポピュラーなのも入っている。

まだ、活字がない時代なので、山桜の版木に一字一字文字を刻み、それに墨を塗って手刷りするやり方。両面に彫った版木は、両面彫りで17,224枚に上った。

印刷に先立ち、公家や武家、神社、寺院などに秘蔵されている、奈良時代から江戸時代初期までの日記、記録、手紙、歌、物語などの古い本や書き物を探し、貸してもらい、読み、筆写し、写し間違いなどを校閲し、編集する・・・。

版木を作り、印刷して、宣伝、販売まで。多くの協力者を得たといえ、それを指揮したのが保己一で、40年余を費やした。これを盲目の身で成し遂げたのだから、ヘレン・ケラー同様、「奇跡の人」としか呼びようがない。

幕府の援助は得たものの、自らの資材をつぎ込み、多額の借金を重ね、塙家に残ったのは借金の山だった。保己一は、「群書類従」正編の刊行が完了した2年後に76歳で死んだ。

全国の盲人を統括する盲人社会の最高位「総検校」に上り詰めていた。10万石の大名格だった。墓は東京・四谷の愛染院と郷里の保木野にあり、郷里に生家と「塙保己一記念館」がある。





「すったて」 川島町

2010年05月06日 16時07分55秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・
「すったて」川島町

テレビ各局の関心も高まった10年の第6回埼玉B級グルメ王決定戦(大宮ソニックシティ前)で、1位に選ばれたのは、川島町の「すったて」だった。

「すったて」は「すりたて」が転じたものだとは分かったが、分からなかったのは川島町の所在地だ。埼玉の市町村は私鉄やJRによってそれぞれ東京のターミナル駅に結び付いている。それぞれの沿線の住民は自分の利用する鉄道の駅や地名は分かっても、他の沿線のことは知らないことが多い。

川島町もその一つだ。川越市の北隣の町だが、「川島」という駅が無いのでますます分からない。おまけに「かわしま」ではなく「かわじま」と読むらしい。

高速の圏央道に「川島IC」があるから、高速族には覚えがあるかもしれない。白鳥飛来の地として季節には新聞に登場する。鳥インフルで餌付けを中止した。

ゴルフの石川遼君は埼玉県松伏(まつぶし)町だが、川島町同様、千葉県の野田市に接する県境の町だと分かったのは、地図を見てからのことだった。

「すったて」は、味噌と胡麻、ミョウガ、新鮮な玉ねぎ、青じそ、キュウリをすり鉢ですり潰して作るうどんのつけ汁。「すりたて」で食べていたので、この名がある。埼玉県は“うどん県”とあってこれもうどん料理である。

グルメ王出品のために出来たものではなく、伝統的な夏(5~9月)の郷土食で農水省郷土料理百選に選ばれ、マスコミに何度も登場したこともあるという。「知らぬは仏だけ」だったわけである。

四方を川に囲まれた町で、白鳥が来るのは越辺川(おっぺがわ)。都内から車でわずか30分の距離ながら、水田が広がり、多くの自然が残る。「平成の森公園」もある。

「都会に一番近い農村 かわじま町」がキャッチフレーズである。グルメ王は、来るたびに埼玉県の地理の勉強にもなる。



「力」とレッズ

2010年05月06日 11時48分19秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



「ちから」ではなく「RIKI(りき)」と読む。
「安くてうまくてサービスのいい”焼きトン屋“はない? 」と聞かれたら、迷わずにこの名を挙げる。

JR浦和駅西口から歩いて数分。信州直送の新鮮な肉を売り物にしているこの店は、豚の各種の内臓が刺身でも食べられるほどの鮮度に加えて、焼きトンは焼きにこだわる。焼き手は絶対に黒く焦がしたりしないよう教育されている。

少し離れた郵便局の裏に1969年に開業、99年に現在の場所に移った。

この店には、もうひとつの顔がある。Jリーグで最も人気のあるチームのレッズ(浦和レッドダイヤモンズ)のファンの集う店、“サポーターの聖地”であることだ。

快晴の10年5月5日の子供の日、浦和駅東口のパルコの脇からレッズのホーム(本拠地)「埼玉スタジアム」に向かう臨時バスが出ているのに気づいた。聞いてみると、相手は名古屋グランパス。

RIKIのもう一つの顔を見てみようかと店に向かった。

着いたとたん、開け放たれた出入り口から大型テレビを見ているファン(今はサポーターと呼ぶらしい)が立ちあがって叫んでいる姿が見える。ちょうど2対1と逆転に成功した瞬間だったらしい。試合はこの得点で決まった。レッズはホームで名古屋と過去4戦しているが、0勝2分2敗と一度も勝っていないので、喜びはひとしおだったのだろう。

RIKIの従業員はそろってレッズのチームカラーの赤シャツを着て、胸には「❤(ハート印 ) RIKI  URAWA」と書いてある。ハート印はloveの意味だろう。カウンターに腰かけと、隣は横浜から来たというレッズファンの常連。店内を見渡すと、若い男性だけでなく、レッズ・マフラーをつけている女性や子供の姿もある。

飲み物には「レッズサワー」「レッズハイボール」「レッズレディーズ」や「野人ハイ」というのもある。野人とはレッズにいたフォワード岡野雅行のことだという。

この日、スタジアムは今シーズン最高の約5万5千人で赤く埋まった。「PRIDE OF URAWA」の旗が見える。店内でもこの英語が目に付く。レッズは英語が好きらしい。

「ださいたま」とさげすまれても、さいたま人、うらわ人は「誇り」を求めている。サポーターが歌うのは「威風堂々」である。

その気持ちを代弁しているのがレッズなのだ。浦和市の名は消えたが、レッズはサッカーのまち、元浦和と埼玉のナショナリズムを今後も高揚させていくだろう。