埼玉県北部の熊谷は「くまがや」と読むのか、「くまがい」と読むのが正しいのか、いつも迷っている。市のホームページをのぞいてみると、ローマ字で「kumagaya」と書いてあるから、地名としては「くまがや」と読むのだろう。
埼玉県の北部の雄「熊谷市」(人口約20万)は、夏には日本で最高気温を記録したこともあり、水がおいしいことで知られる。
自分の息子と同じ年頃の平家の若き公達平敦盛の首を討ち、出家した武人、熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね)は、熊谷の人たちも埼玉県人も、この地で生まれ、この地で死んだと思っている。墓所は熊谷市仲町の「熊谷寺(ゆうこくじ)」にある。
同じラン科の熊谷草も敦盛草も私の好きな花だ。もちろん「青葉の笛」もふと曲が浮かんでくるほど好きな歌である。
一の谷の 軍敗れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
JR熊谷駅前には「永崎の平和記念像」を創った彫刻家北村西望氏による騎馬像が立っている。熊谷市は直実のまちなのだ。
熊谷市立図書館が「郷土の雄 熊谷次郎直実」という本を出したという新聞記事を見て、さっそくいつものとおり、行きつけのさいたま市中央図書館に頼んで取り寄せてもらった。(写真)
立派な本である。編集後記によると、この図書館が直実物を出すのは四冊目とあるからなるほどと思う。そこで、かねて抱いていた疑問を電話で担当者に聞いてみた。「名前は“くまがい“読むようですが、なぜ地名と読み方が違うのですか。地名が名前になるのが普通のようですが」。
「熊谷と読む時と、熊谷次郎直実と名前を続けて読む時の読み癖の問題ではないでしょうか」との返事だった。音韻学には詳しくないが、「KUMAGAYA JIROU」よりも「KUMAGAI JIROU」の方が、確かに読みやすそうだ。
武士としては源頼朝に「日本一の剛の者」、あるいは「本朝無双の勇士」、出家して「蓮生(れんしょう、れんせいとも)法師」となってからは、師の法然上人に「坂東の阿弥陀仏」と言わしめた直実は、全国各地に寺を開き、「熊谷(くまがい)さん」として親しまれている。
武士時代の直実は、平治の乱では源義朝に従ったが、1180年の源頼朝挙兵当初は、多くの武蔵武士同様、平家方として参戦した。石橋山の戦いで、逃げる途中の頼朝を直実が助けたとされ、頼朝との深い関係が生まれた。
頼朝が勢力を盛り返すと、直実らは頼朝に帰順した。武士は強い方につくのである。
当時、「一所懸命」という言葉があった。「一か所の領地を命をかけて守る」という意味である。戦功の報酬は土地だった。直実も自分の領地を守り、さらに増やすため命をかけて戦った小武士の一人だった。
一の谷の戦いでは、須磨口へ進み、息子直家とともに平家の陣に先陣の名乗りをあげた。直家は左腕を射られたが、直実は息子をいたわりながら戦ったという。
出家した直接の理由は、鎌倉で開かれた流鏑馬(やぶさめ)で、射手でなく、的を立てる役を命じられ、頼朝と対立、領地の一部を没収されたのに立腹したのと、長年、直実を養育してくれた母方の義理の叔父との地元の領地争いで、頼朝の面前で意見を述べたのに、直実の意見が入れられなかったためともいわれる。
法然上人の弟子になり、法師になった後も、京都から熊谷に帰る際、浄土宗の教えである「不背西方(西方浄土のある西方には背中を向けない)」の教えを頑なにまもり、馬の背に鞍を逆さまに乗せて向かったという「東行逆馬(とうこうぎゃくば)」の逸話は、いかにも直情径行の直実らしくて面白い。