ファンには「てっぱく(鉄博)」の愛称で親しまれている大宮の鉄道博物館の人気がうなぎ上りだ。
JR東日本鉄道文化財団が設立・運営する歴史博物館である。07年10月14日の「鉄道の日」に開館、入館者は、18年5月26日に1000万人に達した。
観光資源に乏しい埼玉県では指折りの訪問者数で、上田清司県知事も県広報紙「彩の国だより」15年4月号の「コラム」で、「年間100万人の来館者は企業博物館で全国一」と書いている。
前身は、東京・万世橋近くにあった「交通博物館」。その前は東京駅にあったらしい。
子どもの頃から、はやりの「鉄子」ならぬ「鉄男(夫)」だった。勤務先にも近く、狭い博物館ながら、何度も通った覚えがある。
「てっぱく」にも開館直後から来た。歩いて北側5分の距離にある、今は「大宮大成鉄道村」と改名したスーパー銭湯にも出かけた。
「てっぱく」は、旅客車両の整備・修繕に当たるJR大宮工場(現・東日本大宮総合車両センター)の北側にあった廃車両解体場の敷地の跡地にできた。
ちなみに、駅南側の日本三大操車場の一つといわれた旧大宮貨物操車場の跡には、「さいたま新都心」ができている。
素晴らしいのは立地だ。博物館と言えば、古くてカビくさいイメージが強い。
ところが「てっぱく」は、車両センターの車両工場に隣接していて、引込み線が接続されているので、自由に行き来できる。
屋上の「パノラマデッキ」に上がれば、片側には本物の新幹線とニューシャトル(ゴムタイヤ式の埼玉新都市交通)、もう一方には京浜東北線や高崎線など在来線が走っているのが見える。
このニューシャトルで、始発の大宮から最初の駅が鉄道博物館駅である。
内部の見物に飽きた子どもたちが「あっつ、ハヤテだ」などと歓声を挙げている。子どもたちに最も人気があるのはこのパノラマデッキかもしれない。(写真)
3階の「ビューデッキ」で持ち込み弁当を開いていると、ガラス張りの向こうを新幹線が走り抜けていく。JRの脈動を実感できる博物館なのである。
館内では、日本初の蒸気機関車運転シミュレーターがあり、1115両と日本で最も多く造られ、最も人気のあった「DC51(でこいち)」の揺れや、シャベルで石炭(模造)をくべる作業さえ実感できる。この館の目玉の一つである。
25mプールに匹敵する広さと線路延長1400mの日本最大級の鉄道ジオラマ(立体模型)もあり、鉄道の一日を再現する。そのストーリーが面白い。
屋外には、ミニ運転列車もあって、子どもたちに大変な人気だ。
お召し列車や寝台車、特急列車など旧国鉄車両の実物もずらりと展示されている。1872年新橋-横浜間を走った「1号機関車」など、旧国鉄ファンの老人には懐かしい限りである。
1964年の東海道新幹線でデビュー、「団子っ鼻」の愛称で親しまれた「0系新幹線」も、もちろんある。30周年で、200系の運転室も初公開された。
17年7月、鉄道ジオラマを刷新、2階にあったセルフサービスのレストランは、1950~60年代の寝台特急の食堂車をイメージした「トレイン・レストラン」に改装、鉄道に関連する小説やl漫画、映画のほか、各地の駅弁を紹介する「鉄道文化ギャラリー」も出来ている。18年3月9日、国の文化審議会は、開館時から鉄博の車両ステーションに保存・展示されている大正期製造の「ED40形式10号電気機関車」を重要文化財に指定するよう答申した。鉄博の重文は、皇族用の「1号御料車」などこれで5件目となる。ED40形式は、旧鉄道省大宮工場(現JR東日本大宮総合車両センター)で製造され、造られた14両のうち現存しているのはこれだけ。
18年7月5日には、新館が完成、本館と合わせて総展示面積は約1.3倍の1万3500平方mになった。新館の展示ゾーンは「仕事」「歴史」「未来」の三つに分かれ、仕事は、乗務員や指令、メンテナンスなどの仕事を体験できるよう運転士や車掌用のシミュレーターを導入、歴史では明治時代以降の新橋、東京駅などの改札が再現された。未来ではアニメーションで未来の鉄道を疑似体験できる。
新館入口には、最高時速320kmで営業運転する東北新幹線などに使われている「E5系」の実物大模型と実際に山形新幹線で活躍した初代ミニ新幹線「400系」の車体を展示している。
新館オープンに合わせ、本館にも新たに専用の3Dグラスを付けて見る「てっぱくシアター」が設けられるなどリューアルされた。
和光市は東京都の板橋区に接しているだけあって、東京への交通の便がいい。そのせいか、理研と略称される理化学研究所の本部や、その隣に本田技研研究所があるほか、税務大学校、司法研修所、裁判所職員総合研修所と研究や研修施設が多い。
理研本部が,国の化学技術週間に合わせて年に一度一般公開されるというので、14年4月19日見学に出かけた。
理研の前はこれまで何度か通り過ぎたことはあったものの、理化学には縁の遠い身なので、入ったことはなかった。
朝9時半から開くというから、9時過ぎ東武東上線和光市駅南口に降りると、無料のシャトルバス7台を待つ長い行列がすでにできていた。小、中、高生のグループや子供連れ、老人と多彩である。
最後尾についてはみたが、なかなか進まないので、人波の後ろについて歩くことにした。約1万1千の入場者で、1961年の公開開始以来最多だったという。
20分足らずで東京外環自動車道沿いの西門から入る。ここで登録を済ますと、構内地図やパンフレット、ノート入りの布製バッグをもらえた。
東京ドームの5.8倍の広さの敷地に20余の建物があり、100以上の研究室が一斉に開くというのだから、選択に迷う。
その広さを実感しようとぶらぶら歩いていると、「113番元素発見の場所」と大書した垂れ幕が目に入った。
加速器研究センターで、地下にある世界最高性能の加速器施設「RIビームファクトリー」を使って、113番元素の合成や原子核が特に安定になる「魔法数」の発見など画期的な成果を挙げてきたという。
113番元素は原子番号1の「H」(水素)から113番目。世界で初めて合成されたもので、「Nh(ニホニウム)」と名付けられた。これを記念して17年3月28日に和光市駅南口から約400m東南の同市ポケットパークに、大理石製の台座に銅でできた元素周期表をはめこんだモニュメントが除幕された。「ニホニウム発見のまち 和光市」と下部に書かれている。
市は同駅南口から研究所の西門までの約1.1kmの市道を「ニホニウム通り」と名付け、6、7m間隔で元素記号の銅のプレート113枚を敷設する作業を進めている。
仁科記念棟の仁科ホールには、注目の「STAP細胞論文に関するコーナー」も設けられていた。
構内の北端の研究交流棟に「IPS細胞を見てみよう」という部屋があったので、こちらで顕微鏡で拡大された人間のIPS細胞を眺めた。(写真)
IPS細胞は、ご承知のとおり、06年京都大学の山中伸弥教授が作成に成功、さまざまな細胞への分化が可能になる万能細胞で「誘導(人工)多能性幹細胞」と呼ばれる。再生医療への応用が期待されている。
統合支援施設では人気のスーパーコンピューター「京(けい)」を見た。今では中国、米国製に抜かれ4位になったとはいえ、かつては計算速度世界一を記録した。
神戸市の計算科学研究機構に置いてあり、864台つながないと動かない。ここでは本体1台だけが展示されていた。
研究本館では、西アフリカで流行しているエボラ出血熱の展示もあった。日本にも、感染力が強く、治療法のない病原体を扱う、最も隔離レベルが高い実験室が、理研(茨城県つくば市)と国立感染症研究所(東京都武蔵村山市)にあるのに、付近住民の反対で使用できないという話を聞いた。こんな例は先進国では日本だけという。
理研は1917(大正6)年に創立された日本で唯一の自然科学の総合研究所。物理学、工学、化学、計算科学、生物学、医科学などの分野で先導的な研究を進めている。研究者は約3000人。アルマイトの弁当箱、ビタミンA剤、ペニシリン結晶などを開発した。神戸市だけでなく、仙台市、つくば市、横浜市など全国各地にも拠点がある。
タカジアスターゼなどを発見した高峰譲吉が設立を提唱、財界・産業界の大御所・渋沢栄一が賛同して尽力、東京・文京区駒込でスタートした。
寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄ら優秀な学者を輩出した。仁科芳雄は軍部の要請で原子爆弾開発の極秘研究を進めたこともある。
東京都文京区から和光市に移転したのは1967(昭和42)年。17年で50年になった。
「理研三太郎」という言葉も初めて知った。理研創立初期に活躍した長岡半太郎(土星型原子モデル提唱)、本多光太郎(KS鋼発明)、鈴木梅太郎(米ぬかを脚気予防に)のことだという。
行く前にインターネットなどで情報を仕入れていくと、日本の科学史にも興味が湧き、頭の体操になることはうけあいだ。一般公開の日には研究者たちが親切に疑問に答えてくれる。
古墳と言えば、ヤマト王権の所在地大和地方や宮崎県などが頭に浮かぶ。ところが、古墳時代後期には、鴻巣市東裏の生出塚(おいねづか)遺跡に東日本最大級、国内でも屈指の埴輪生産遺跡が発見されているとおり、古墳の中心地は東日本だったようだ。
県北の本庄市では、かつて2百基近くの古墳があったというから、古墳の付属品である埴輪の出土も多い。
その中でも1999年に古墳時代後期(6世紀後半)の「前の山古墳」(同市小島、現在は消滅)から出土した「笑う埴輪」3基は、12年にパリの日本文化会館で開かれた「笑いの日本美術史 縄文から19世紀まで」展に出品され、全国的な話題になった。
この展覧会は07年、「東京の森美術館」で開かれ、30万人が訪れた「日本美術が笑う」展を基にしたものだった。
13年8月末、久しぶりに本庄市を訪ねた帰りに、市立歴史民俗資料館を訪ねたら、この3基を中心とする笑う埴輪にお目にかかれた。
身長110cmを超すこの埴輪は、いずれも身体の前面に盾を抱えているので、「盾持人物埴輪」と呼ばれる。埴輪には人物のほかに、動物、家、家具などを象ったものもあれば、人物でも、力士、貴人、琴弾きなど多種多様の形のものがある。
盾持埴輪は、普通の埴輪の二倍の大きさ。盾で悪霊を古墳から守るため、顔は他の人物埴輪より大きく造られ、威圧的な風貌のものが多いという。大きくて恐い顔をしているのが普通なのだ。
3基の盾持埴輪で見て驚くのは、①丸い両耳が大きく突き出している②鷲鼻が突き出している③顎がしゃくれているーーことである。
それに、三日月型の目の目尻が垂れ、口が横に長く大きく開き、まるで笑っているような印象を与えるのだ。目尻が下がり、口角がちょっと上がっているからだ。
盾に隠されているので、腕や手は見えない。脚も円筒状になっているので無い。埴輪は、目はくり抜いてつくるので、瞳がない。これは世界的にも珍しい目の表現方法だという。
埴輪にはもともと歯が表現されないのに、どういうわけか、この3基には石などで歯を表現した跡があるらしい。本庄市の坊主山古墳や高崎市で出土した埴輪にも歯があるが、全国でも珍しいという。
「歯をむいて笑う」姿を表したのかなと思った。資料館でもらった「笑っている埴輪たち、集合」の図を見ると、歯はあっても笑っていない埴輪(高崎市)もある。
笑っているような埴輪は、盾持ちではないものの、群馬県太田市、茨城県高萩市でも出土している。
本庄市ではこの3基のほか、坊主山古墳の前述の歯付き埴輪、山ノ神古墳の埴輪(いずれも盾持ちではない)も明らかに笑っているようだ。
「全国的に本庄市内に最も集中している。本庄市は笑う埴輪の里だ」と、市立民俗資料館の館長を務めていた増田一裕氏は、本庄市のはにわ展の解説で書いている。この原稿の多くは、その解説によるところが多い。
本当は恐い顔のはずの埴輪が、なぜ笑っているのか、
思いつきながら、「笑う」には、面白、おかしいから笑うという以外に、「馬鹿にして笑う(嘲笑する)」という意味もある。「笑殺(笑って問題にしない)」とか「一笑に付す」「笑い飛ばす」という言葉もある。
古墳に忍び寄る悪霊など、恐い顔ではなく、「笑いの力で打ち払ってしまえ」という願いが込められているのかもしれない。
慣習を打ち破った、当時の前衛的な埴輪造りに聞いてみたいものである。1400年の時を経て、この謎への回答が迫られているような気がする。
「笑う埴輪」は、埴輪の「はに」、本庄市の「ほん」を取った本庄市のマスコット・キャラクターの「はにぽん」のモデルになり、市民にも親しまれている。
県内では1930(昭和5)年、熊谷市の野原古墳群から「踊る埴輪(男女立像)」が出土している。
左手を上げたポーズから「踊る埴輪」が定説になっていたが、最近、「馬子が馬を曳いている姿」説が有力になっているという。
本物は、重要文化財として東京国立博物館に展示されている。地元の県道深谷・東松山線にかかる押切橋南の小さな公園には「踊る埴輪」のレプリカが立ち、親しまれている。
10年10月14日の埼玉県民の日。東武も西武鉄道も全線460円で一日乗り放題だというので、東武東上線の終点寄居まで出かけることにした。寄居町の荒川沿いにある県立「川の博物館」を見るためだ。
全国初の「水の体験型総合博物館」で、完成時には日本最大を誇った水車や、荒川に沿った地形を千分の一に縮尺した「荒川大模型173」、日本画家川合玉堂の陶板画(いずれも屋外展示では日本最大)がある。一度訪ねてみたいと思っていたからだ。
調べてみると、終点より二つ手前の鉢形駅が近い。歩いて20分の所にあった。水車は直径23m。岐阜県恵那市に1m長いのができたので、第2位になったものの、さすがに大きい。(写真)
木の劣化などで15年夏から稼働を中止していたが、建て替えが決まり、19年2月から解体作業が始まり、7月28日の完成式典で直径24.2mの日本一の木製水車に返り咲いた。
荒川の模型は、その延長173kmにちなんだもので、甲武信ヶ岳山中の源流から東京湾に流れ込むまでの全貌が立体的に分かる。玉堂の陶板画は、重要文化財に指定されている名作「行く春」を、長さ21m,高さ5mの信楽焼にして本館外壁に展示している。
この荒川の模型と館内の展示で、「荒川の西遷」とはどのようなものだったのかをやっと理解できた。西遷とは、関東代官頭だった伊奈忠次が荒川を治めるために考え出したもので、利根川の支流だった古荒川を熊谷の久下でせき止め、和田吉野川まで誘導、入間川を経て隅田川で江戸湾に流し込んだ。
利根川を常陸川に結びつけ,銚子へ流し、江戸を洪水から守った「利根川の東遷」と並ぶ江戸初期の大河川工事である。それまで利根川は、江戸湾へ注いでいた。
この展示は、ボックスの中で、裃を着た忠次の人形が地図を使って西遷と東遷の構想を説明する仕組み。何冊か本を読んでも、分かりにくかったが、この視聴覚による説明でなるほどと理解できた。百聞は一見に如かずだ。
このような河川の人工的な流路変更(付け替え)は、「瀬替」と呼ばれた。この瀬替で、荒川の原型が完成した。荒川の西遷工事を指揮したのが忠次の二男忠治である。
県内には、「元荒川」「古利根川」と「元」や「古」のつく川が残っているわけもよく分かった。
館内では、「船車」(船水車、水車船とも)の模型が面白かった。船の側面に水車を据え付けたもので、ふだんは固定されているが、増水すると移動、陸への引き上げも可能。江戸時代からあり、明治末期に全盛期を迎えた。
荒川には相当数あり、荒川上流の風物詩だったそうだ。玉堂の陶板画もこれをモチーフにしている。館内だけでなく、実際の川面に復元すれば、関心を呼ぶのでは・・・。
荒川の中下流の洪水地帯には、農家の敷地の一部を土で高く盛り上げ、蔵を建て、ふだんは食料庫、非常時には家族が一時的に避難する施設があった。信濃川や筑後川などにも同様なものがあり、呼び名も違う。荒川では「水塚(みずか)」と呼ばれた。その模型もあり、先人の水との戦いぶりがしのばれる。
秩父の山で伐採した木を下流に落とす「鉄砲堰」の実演は勇壮だし、荒川の舟運を担った帆船「荷船(にぶね)」(高瀬舟)も復元されている。荒川の魚を見せる小型水族館「渓流観察窓」も付属している。アドベンチャーシアターや荒川ワクワクランドなどの子供用施設も楽しめる。
荒川の流域は、県面積のほぼ3分の2を占める。埼玉県の「母なる川」である。「かわはく」と略称されるこの“荒川博物館”をあれこれ見回るうちに、日が暮れてしまった。
「万華鏡」と書いてなんと読むのかも知らなかった。「まんかきょう」いや「ばんかきょう」、いや、ちょっとひねれば「まんげきょう」と読める。
子供の頃、空襲の最中の大阪や、満州の大連、鹿児島の片田舎にいたものだから、この歳になるまでのぞいたことがなかった。
新しい武蔵浦和図書館の郷土資料のコーナーを見ていると、文庫サイズで装丁もしゃれた「日本万華鏡博物館」(大熊進一著 幹書房)が目に入った。表裏の表紙を見るだけで、万華鏡をのぞいたイメージがつかめる。
さっそく借り出して読んでみると、なかなか面白い。著者は館長さん。「世界で唯一」と名乗る万華鏡博物館が、川口の駅近くにできたらしい。
左右対称の幾何学模様と色が織り成す不可思議な世界である。それが千変万化(せんぺんばんか)するのだから、ハマったら引きずりこまれることだろう。
早速13年2月中旬の祝日に、博物館を訪ねた。博物館は好きなので大小いろいろなのを訪ねた。これほど小さいのは、昔(今でもあるだろうか)、東京都墨田区で各種のミニ博物館を訪ねて以来だ。
説明によると、万華鏡は小さいので2千点並んでいるという。1990年、ハワイで初めてオモチャではなく芸術的な作品を見てから虜になった、日本一の万華鏡コレクターなのだ。
「世界一小さい」というだけあって、部屋は縦横3×5m、博物館というより書斎、研究所といった感じ。1回の人数は5~6人、詰めれば10人入れる。
館長さんが英語が堪能なので、米、英、加、独、中、韓 台から来る人もいる。夏休み期間は自由研究の万華鏡造りでキャンセル待ちも出るという。
館長自ら、万華鏡の歴史や構造を説明する仕組みで、入場料(いや教授料というべきか)は千円。作り方を知りたい人には千円からの8千円くらいの実費で教えてもらえる。
この博物館は15年前の1998年、東京都渋谷区に「世界で一番小さく、日本で初めての博物館」として誕生、話題を呼んだ。
大熊さんは1991年、米万華鏡愛好家団体に加入、96年、日本万華鏡倶楽部を創設している。
川口に移ったのは両親が亡くなり、生家にマンションを建てたので、道路に面した1階を博物館にして、12年9月にオープンした。
万華鏡は1816年、英国スコットランドの物理学者デビッド・ブリュースターが発明した。2016年で万華鏡が誕生して200年になった。灯台の光をより遠く届かせるための、光の屈折、鏡の屈折の研究から万華鏡が生まれた。
この博物館には、1820年代のブリュースター式万華鏡もある。世界でも現存するのは20点ほどで、日本ではこの1点だけ。こんな世界的に誇れる宝物が3点あるという。
万華鏡は鏡を組み合わせて作るので、壊れやすく、保存が難しいので、古いものはあまり残っていない。19世紀の万華鏡はここでも手にとって見ることはできない。
万華鏡は、子どものオモチャから芸術品に進化、日本では、「日本万華鏡大賞公募展」がすでに13回、東京・千代田区の科学技術館で開かれている。
この博物館は完全予約制で、日曜、祝日もOK。一回約1時間。〒332-0016 川口市幸町2-1-18-101。電話048-255-2422。「日本一楽しい博物館」を目指す。
改修工事で休館していた長瀞町の「県立自然の博物館」が12年10月6日、1年1か月ぶりにオープンした。
秩父地域1市4町(秩父市、横瀬町、皆野町、長瀞町、小鹿野町)は2011年、国内で15番目の「日本ジオパーク」に認定された。その拠点になるはずの施設なので、期待して出かけた。
長瀞駅から一つ秩父寄りの上長瀞駅(秩父鉄道)で降りるのは初めてだった。駅からすぐ近くの荒川を臨むところにある。
荒川の館側(左岸)には、虎の皮の模様に似た有名な「虎石」があり、それを詠んだ宮沢賢治の歌碑が館の近くに立っている。
「日本地質学発祥の地」と大書した大きな石碑もある。東京帝国大学地質学科が設立された翌年、ドイツ人の初代教授エドムント・ナウマン博士が長瀞で調査したのがきっかけで、重要な研究拠点となり、多くの地質学者を育てたのを記念するものだ。
県内に自生する21種40本のカエデを移植した「カエデの森」も前庭に新たにできていた。道路の向こうには「月の石もみじ公園」もある。
天文学ほどではないが、地質学は地球の誕生以来をテーマとし、何億年とか何千万年というとてつもなく長い時間を対象にするので、歳をとればとるほど面白くなって来る。
館の目玉は、巨大ザメと恐竜の復元模型だ。
入ると、天井に巨大ザメの全身模型が吊るされ、正面にそのあごの復元模型が置いてある。
1986年、深谷市菅沼の約1千万年前の荒川河床の地層から、歯の化石がまとまって全部で73本見つかった。一尾のサメの歯で、上下の歯列がほぼそろっていた。これだけの数の歯が発見されたのは世界でも初めてだった。
これに基づいて、高さ約1.8m、幅約1.6m、奥行き1.3mのサイズで復元されたのがあごの模型である。
あごから全長を推定、天井に吊るしているのが約12mの全身。学名は「カルカロドン メガロドン」。ギリシャ語で「カルカロドン」は「ギザギザの歯」、「メガロドン」は「大きな歯」を意味する。
この模型を見ると、ギザギザに並んだ三角形の鋭い歯が印象的だ。あごは大きく開き、クジラなどを捕らえて食べていたらしい。
この巨大ザメは、今から400~2500年前に世界の暖かい海に生息していた。日本は元、大陸の一部だったが、日本海の形成が始まり、関東から新潟にかけて太平洋と日本海をつなぐ海ができていた。
約1500万年前には埼玉県の大部分は海で、奥秩父の山すそまで海が広がり、秩父盆地は東方の開く入り江で、「古秩父湾」と呼ばれていた。
海なし県の埼玉の秩父に暖かい海があり、このような巨大サメが泳いでいたとは、想像するだけで楽しい。
秩父市大野原の約1500万年前の地層から「チチブクジラ」と呼ばれる体長4~5mのヒゲクジラも見つかっている。
もう一つの見ものは恐竜である。1975、77年に秩父市大野原の荒川右岸で、頭骨、肋骨、背骨などが発掘された。これも1500万年前と推定され、「歩く」「泳ぐ」「食べ物をあさる」の3体の骨格が復元されている。(写真)
学名は、「パレオパラドキシア」という海獣で、ラテン語で「昔の変わり者」という意味。臼歯が海苔巻きを束ねたようになっている。
歯の生え方や骨格の発達状況からまだ成長途上だったと考えられ、体長約2.3m、体高約1mと推定されている。
この仲間は、長い間正体不明で、「幻の海獣」、「世界の奇獣」と呼ばれていた。
歯の形から海辺の海草や貝、ゴカイなどを食べていたらしい。カバのような身体をしていたと考えられている。海獣だから泳ぐこともできた。
この二つのほか見逃せないのが、アケボノゾウの骨格復元である。現存するアジアゾウ、アフリカゾウとは全く別の系統で、約60万年ほど前に姿を消したとされる。
約60~250万年前に生きていたゾウで、狭山市笹井で化石が発見された。埼玉にかつて巨大ザメが泳ぎ、海辺に恐竜がのし歩き、時代こそ違えゾウまでいたと思うと思わず楽しくなる。
11年の11月14日の県民の日(10年)。県立こども動物自然公園も入場無料で、東武東上線も県内なら460円で乗り放題というから、「県庁オープンデー」を見た後、高坂駅からバスで訪ねた。
名物のカピバラの温泉入浴と最近蓼科の水族館から来たフンボルトペンギンを見るためである。入浴は残念ながら11月19日からで、ちょっと早過ぎた。
日本の動物園や水族館で、フンボルトペンギンは珍しいものではない。フンボルトとはチリ沿海を流れている寒流にちなんだもので、私も大好きなアンチョビー(カタクチイワシ)を食べている。
驚いたのは、西門に近いペンギンヒルズ(フンボルトペンギン生態圏)を訪ねた時だった。展示エリアとしては「世界最大規模」で、繁殖地を再現した巣穴などの生息フィールドは、生息空間に入って間近に観察できる「日本初の展示手法」を誇っている。
この生態園は、姿や泳ぎを見せるだけではなく、絶滅危惧種であるフンボルトペンギンの繁殖と保存も目的としている。ペンギンが自分で巣穴を掘れる土の丘(営巣地)として高さ4.8mの築山が、ペンギンの泳ぐ水槽に接してできている。プールと合わせてその面積が約3900平方m。サッカー場の半分で、それが世界最大規模だというのだ。
日本はペンギン王国で、12年末で世界最多の約3500頭を約150施設で飼育している。
11年4月26日にオープンしたばかりながら、このペンギンヒルズは57件の応募の中から、第10回目の「エンリッチメント大賞2011(施設賞)」を受けた。
「エンリッチメント」とは、聞き慣れない専門言葉。「動物の環境を豊かにする」という意味のようで、飼育動物の幸福な暮らしを実現するための具体的な方策を指す。
「動物園を通じて人間と動物の関係を考える」をモットーにするNPO法人「市民Z00ネットワーク」が創設したもので、ペンギンが生息するチリやペルーの生息環境に近づけ、伸び伸びと暮らせるように工夫したのが評価された。
このこども動物自然公園が大賞を受けたのは、06年の「ズーオリエンテーリング(来園者部門賞)」、08年の「コアラ、コアリクイ、ナマケモノの展示(動物園賞)」についで3回目である。
3回以上受賞したのは有名な旭川動物園(5回)、円山動物園(札幌)(3回)、上野動物園(3回)だけ。
円山、上野といった日本有数の動物園に並んで、「象もアフリカの猛獣もいない」こども向けの動物園がほぼ同数受賞していることは、動物園好きとしてはうれしい限りだった。一度園長さんにお目にかかりたいものだ。
私が気に入ったのは、東京ドーム約10個分46haの動物園の広さである。比企丘陵とはかつてこんなものだったのかと思わせる雑木林の中にある。国木田独歩も「武蔵野」の稿を改めたろうと思うほどだ。
こども動物自然公園は1980年5月に開園。95年には入園者数が1千万人を達成、04年1月には2千万人を突破した。
18年12月現在では、大人気のコアラ10頭をはじめ、レッサーパンダ、ワラビーなども加わり、癒し系のカピパラが入浴する「カピパラ温泉」は冬の風物詩になっている。
世界最小のシカで、国内ではここにだけいるプーズーなど、開園時26種206点の動物は200種2000点になった。種類の豊富さは「国内5指に入る」と田中理恵子園長は語っている(この項毎日新聞)。