ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

有機農業の里 小川町 その3止

2013年09月27日 18時11分38秒 | お茶・農業


CSAの輪はまず小川町から、ついで町外にも広がりを見せた。

提携の先駆けになったのは1988年、町にある三つの造り酒屋の一つ「晴雲酒造」が、有機栽培の米を使って、「おがわの自然酒(純米酒)」を売り出したことだった。同じ年、小川製麦が有機の麦を使って「石臼挽き地粉めん」をつくった。1988年には児玉郡神川町の「ヤマキ醸造」は有機小麦と大豆で生醤油「夢野山里」を出した。

「とうふ工房渡辺」が乗り出したのは2001年のこと。小川町の青山地区の数軒の農家に残っていた大豆「青山在来」の産物を一括して買い上げてくれる。

町の観光案内所でもらえる「小川町てくてく散歩マップ」は、下里有機の里づくり協議会が作ったもので、「有機と和紙」という副題がついていて、有機コースは2時間で歩けるとある。有機には食堂や野菜直売所が挙げられている。

停車場通り(駅前通り)を少し左に入ると「べりカフェ つばさ・游」がある。有機野菜が主役で、シェフは日替わり。「べりカフェ」とは、「おしゃべりカフェ」のことだという。駅で降りて右手には「三代目清水屋」があり、「青山在来」を使う豆腐やおからスイーツを製造販売する。

停車場通りを下って右折して行くと、「有機野菜食堂わらしべ」、地元の有機野菜と食材を使った料理のほかお酒も楽しめる晴雲酒造の「自然処 玉井屋」・・・など、有機関係の店も増えた。

このほか、「道の駅おがわ」など有機野菜を売っている直売所が15ほどあるので、地元の人にたずねるといい。

社長がロハスに関心が深いさいたま市のリフォーム会社「OTAKU」では、有機米を買い上げ、社員、パート従業員、顧客に精米仕立ての有機米を届ける仕組みを作っている。

金子さんの有機農業は、全国ばかりか外国でも注目され、朝日新聞に「複合汚染」を連載中だった故有吉佐和子さんも農場を訪れている。1981年金子さんが「日本有機農業研究会」で知り合った友子さんと結婚したときには、主賓は金子さん側は有吉さん、友子さん側は婦人有権者同盟の市川房枝さんだった。

金子さんは、有吉さんの「複合汚染その後」(潮出版社」)で、有吉さんや司馬遼太郎さんらとの座談会の中で、「日本の食糧自給は可能だ」という論を展開している。

農場に住み込みで有機農業を習いに来る内外の若い人たちも多く、すでに120人が育ち、そのほとんどが農家の出身者ではない。

金子さんは、農業で使うエネルギーの自給にも取り組んでいる。使用済み天ぷら油の廃油を、トラクターや車の燃料にしたり、牛糞や生ゴミを活用するバイオガスをつくったり、太陽電池を利用したり、間伐材や家屋廃材などを使って、母屋の床暖房やお風呂用のウッドボイラー・・・と、農場の一部はエネルギー自給研究所の趣がある。

バイオガスは小川町も動き出し、バイオガス・プラントもできて、バイオガスの先進地になった。

目指しているのは、化石燃料に頼らず、自然の資源を生かした循環型の農業なのだ。

荒れている山を手入れしてカタクリを植えたり、耕地のあぜにヒガンバナを植えたりしているため、下里地区には菜の花、麦、稲穂と農産物を含めた花が季節ごとに咲くようになった。観光客も訪れるようになった。

「農業は文化である」「農民が元気になると農村が美しくなる」と金子さんは力説する。

ヨーロッパなどに比べて湿潤で、勢い病害虫も多い日本は、有機農業にとって障害が多い。実際、耕地に対する面積率では1%にも達してないほどで、まだまだ立ち遅れている。

小川町の例は、日本で無農薬、無化学肥料、無石油の自給農業が可能なのかを考える際の絶好の教材になることは間違いない。

小川町によると、町の有機農業者数は、金子さんの教え子らを中心に、町の各地に散らばり、現在23人、耕地面積は計32haに上るという。

小川町を中心に嵐山、ときがわ、鳩山町でも有機農家が増え、百軒近くに増えているそうだ。

有機農業の里 小川町 その2

2013年09月25日 14時29分42秒 | お茶・農業
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霜里農場の見学会は、座学と農場見学の2部に分かれている。

座学は、「切り花国家 日本」という金子さんの農業観から始まる。

日本の食糧自給率は約4割。穀物自給率は28%(OECD加盟国30か国中27番目)。小麦に至っては15%。農業に従事する人の半数は65歳を越す。

このような農業の現実の上に工業と都市が栄える日本は「切り花国家」みたいなもので、「根のない国」は確実に枯れるーーという見方である。

金子さんが強調する有機農業の基本は①土づくり②種苗の自家採種③生産者と消費者の顔の見える提携――である。

落ち葉が土中のミミズなどの小動物や微生物で分解され、木々が育つようになる腐葉土が、厚さ1cmになるには100年かかるという。これを10~20年に早めてやるのが土づくりだ。

土に落ち葉や雑草、麦わら・稲わら、おがくず、生ごみ・野菜くず、牛や鶏などの家畜の糞などを混ぜ合わせて作る堆肥をすきこんでいくのだから時間も手間もかかる。「土づくりには10年かかる」と金子さんは力説する。生やさしい仕事ではない。

「ホウレンソウがうまくできるようになるといい土ができた証拠」という。

有機農業を始めたからといって翌年から通用するものではないのである。有機農業は工場で栽培される水耕栽培とは、まったく違う世界である。

腐葉土を作る過程で、農作物の害虫の天敵や病原菌を食べてくれる土壌生物が土に住み着くようになる。

農薬でアブラムシやアオムシなどの害虫は一時的に減らせても、撲滅するのは不可能だ。それをナナホシテントウムシ、クモ類、アシナガバチといった自然に集まってくる天敵が退治し、ミミズやトビムシといった土壌生物がハクサイ、キュウリ、ホウレンソウ、大根などにつく病原菌を食べてくれるのだ。

金子さんが水田へのヘリコプターによる農薬の空中散布に反対したのは、害虫が抵抗性を持つようになるほか、害虫の天敵のいる環境を守っていくためだった。

土に次いで大切なのは、種である。現在、日本の農作物の種は、ほとんど外国に依存し、一代限りのものが多い。

日本には昔から「種は五里四方でとれ」という言葉が残っている。その地にぴったりの害虫や病原菌にも強く、味も良い種があったはずなのだ。

下里地域には昔、「青山在来」という種の大豆が栽培されていた。収量が少ないので忘れられていた。晩生種で開花期が遅いため害虫の被害を減らせるうえ、糖度が1.5倍高く、味もいい、それに気候変動にも強いという利点があった。

これを復活してみたところ、隣町の豆腐店「とうふ工房わたなべ」が注目、全量買い取りに踏み切り、有機農業の最大の問題である販路を切り開けた。

種の問題を重視する金子さんらは1982年以来、関東の有機農業者を中心に「有機農業の種苗交換会」を開き、有機栽培に適した種苗の発見と交換に務めている。

「自分で作った堆肥で出来た土に、その地にぴったりの種を植える」。そのようにして出来た農作物は、商品というより自分の子供のように思われてくる。害虫も病原菌の少ないので、化学肥料・農薬漬けのものとは、当然味も違ってきて、自慢できるほどになる。

こうなれば自分で作って自分で食べる自給農業から消費者との接点が生まれてくる。

金子さんはまず、町の10世帯を相手にして配達つきの「会費制」の有機農業システムを始めた。ところが、いろいろの考えの人がいたのと、「農作物は本来は商品ではない」という考えから、消費者側が金額を決める「お礼制」に切り替えた。今では会員は地元や東京など40世帯になった。

有機農家と消費者が直接結ばれるのだから、流通の経費が省かれて、農家にとっては時間と手間をかけた分の収入が手にはいり、再生産が可能になるし、消費者にとってはおいしく安心できる農産物が割安になる。文字どおりの「小利大安」だ。

1980年代米国で、有機農業を支援する人々が農家と提携する地域支援型農業(CSA=Community Supported Agriculture)が生まれた。地域社会による有機農業支援策である。金子さんらが始めた「生産者と消費者の提携」の米国式の呼び名である。                           


有機農業の里 小川町 その1

2013年09月22日 15時56分29秒 | お茶・農業


東京から約60kmの小川町に有機農業に地区全体で取り組み、全国ばかりか外国からも研修生がやってくるというところがあるということは、かねてから知っていた。

日本で戦後の公害の走りだった東京のガソリンの鉛中毒問題の頃から、環境問題には長く興味を持ってきた。このため有機農業とか「ロハス」とか「スローフード」という言葉には魅かれるものがあって、これまで何度か説明会などに出かけてきた。

調べてみると、小川町の下里地区に「霜里農場」という名の先進農場があり、奇数月の第2土曜日の午後1時半から見学会を開いていることが分かった。

その日近くに連絡してみると、もう定員一杯だとのこと。承知で、13年9月に会場の「下里二区集落農業センター」に出かけた。

東武東上線の終点の一つ小川町からバスで10分、降りて徒歩で10分くらいの所にある。

下里で降りると、長野県の茅野市から来た母娘に出会った。道が分からないので、一緒に行くことにした。

会場に近づくと、さいたま市近辺では見かけない細い黒羽根トンボが何匹か飛んでいて、木の葉にはナメクジがしがみついていた。カメラを持っていた大学生くらいの娘さんはさっそくシャッターを切った。

有機農業地区は、殺虫剤を使わないので、昆虫にもやさしいのだろう。

会場には各地から人が詰めかけていた。宮城県の大崎市からはバスで団体が来ていたし、陸前高田から来た人もいた。研修志願の若い外国人も混じっていた。大学生や若い人々の姿が多かった。

驚いたのは、安倍首相夫人の姿もあったことである。

著書「アグリ・コミュニティビジネス」(11年 学芸出版社)の中で、この農場や集落について書いている大和田順子さんの知り合いらしく、大和田さんに促されて、短い挨拶をされた。

自ら「家庭内野党」と名乗るだけに、面白い話だった。選挙区の山口で稲作もしているという。

大和田さんは、日本に「ロハス」という言葉を始めて紹介したことで知られる。「ロハス」とは、米国から来た語で、Lifestyles Of Health And Sustainability(健康と持続のライフスタイル)の略語。「健康と環境問題を意識したライフスタイル」といった意味である。

有機農業とも関係が深く、何度もこの地を訪れているという。

この地が全国に名を知られるようになったのは、10年、農水省の農林水産祭のむらづくり部門で、「全国で初めて集落全体で有機農業に取り組んでいる」として「天皇賞」を受賞して以来だ。14年には天皇皇后両陛下が下里地区を視察された。

その時の農林水産祭のホームページによると、この地区の総世帯数は11,711戸、農家数は882戸、農産品を売っている販売農家数は397戸。米、小麦、大豆、畑では主に自家用野菜が栽培されてきた。

一戸当たり農用地面積は0.8ha。農産物価格が低迷する中で、これまでのような経営を続けていてもやっていけないと、2000年、下里地区機械化組合の安藤郁夫組合長が、付加価値の高い有機農業に取り組むことを提案した。

その背景にあったのが、同じ地区で30年来、こつこつと有機農業を続け、その草分けとなった金子美登(よしのり)氏の存在である。

金子氏は、1948年下里生まれ。昔からの農家の長男で、両親は酪農をしていた。熊谷農業高校で酪農を学び、さらに農業経験2年以上が対象の農水省の農業者大学校(2年制)第1期生となった。

在学中、「有機農業」という言葉を、英語の「0rganic Farming」から翻訳して日本に定着させ、その普及に努めた一楽昭雄氏(全国農業協同組合中央会理事、農林中金常務理事などを歴任)の指導を受け、米と野菜を無化学肥料、無農薬で作り、地元の消費者と直接提携して届けるという会費制の有機農業を、1971年の卒業と同時に小川町で立ち上げた。

日本の有機農業の草分けであるとともに、42年間研修生と「霜里農場」を経営、地元の消費者40世帯と契約して、約3haの耕地で有機農業を続けている日本の有機農業の第一人者である。町議会議員にも選出されている。

有機農業は、20世紀初め英国やドイツに研究家や提唱者、1930年代には日本でも福岡正信氏の自然農法などが現れたが、日本の有機農業は、世界先進国の中で立ち遅れが目立つ分野である。有機農産物も輸入品が圧倒的に多い。

下里地区になぜ「霜里農場」の名? といぶかっていたら、「ここは海抜70m余なのに、夏は暑く、冬には霜だけでなく雪も降ることがあるんですよ」と、地元の関係者の一人が教えてくれた。