ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

故蜷川幸雄氏 川口市

2011年12月31日 12時30分11秒 | 文化・美術・文学・音楽



なにしろ東京の隣だから、埼玉県に一時的にせよ、住んだことのある作家や画家など“ちょっとだけ埼玉”文化人はけっこう多い。だが、この県に生まれ、育った生粋の県出身の文化人は少ないのが実情だ。

「生粋」をどう解釈するか。江戸っ子の場合はよく三代目以上という。三代目以上となると、最近では出入りの多いこの県では見つけるのがなかなか難しい。生まれ、育ちだけでよければ、演出家の蜷川幸雄は生粋の県出身文化人の一人だ。

両親は富山の貧しい農家の生まれ。父は小卒で東京・隅田川界隈の洋服屋で修業、川口で洋服の仕立屋を営んでいた。

川口には、国内最大規模のオートレース場が今でもある。父親は、競馬の馬主に当たるオートレーサーのオーナーだった。羽振りの良さがうかがえよう。

1935年10月15日、今はマンションが林立しているけれど、かつて「キューポラの町」として知られた鋳物の街川口市のJR川口駅近く本町3丁目に生まれた。2015年には80歳である。姉一人、兄三人の五人兄弟の末っ子だった。

10年10月、演劇の演出家として初めて文化勲章をもらった際、「川口の街と人が自分の原点で、埼玉に支えられてここまでやってこられた」と述懐している。

「子供の頃は、当時はきれいだった荒川や芝川で泳いだ。40歳までいたので、言葉が汚いとか、荒っぽいとか、目線の低さとか、感性の基礎はだいたい川口風」(産経新聞埼玉版との11年新春インタビュー)。

今は東京都久留米市に住みながら、職人の街川口に対する愛着を表明している。結婚後、川口市の家賃2万円ほどの公団アパートに住み、女優の奥さんの稼ぎに頼って、二人の娘を育てる“主夫”も経験している。

文化勲章授賞の電話も、台所で皿洗いをしている時だったという。

10年には川口市の「市民栄誉賞」、09年には埼玉県の「県民栄誉賞」を贈られた。
        
幼い頃から本を読むのが大好きだった。鋳物の街だから、男の子はベーゴマが好き。ところが、これが大の苦手。メンコも川泳ぎも釣りも大嫌いだった。

その代わり、演劇好きの母親が幼い頃から、歌舞伎や文楽、新劇、宝塚の芝居、オペラ、バレエ、映画に連れて行ってくれたので、演劇への下地が培われた。

抜きん出て成績が良かったので、同じJR京浜東北線沿いにある東京都荒川区の私立の名門開成高校へ進んだ。

開成に入って、一人で新劇や映画を見歩き、シェークスピアなどを読んでいるうち落第もした。油絵を描くようになって、東京芸大を受験したものの、失敗した。

新劇はたくさん見ていたので、1955年、劇団青俳のオーディションを受けたら合格、一番年下の19歳で研究生になった。サラリーマンには向かないと考えていたからだ。ところが、演劇の猛勉強をしても上達しないので、「大した俳優にならないまま」演技に見切りをつけて退団した。

68年に仲間と「現代人劇場」を結成して、69年33歳後半、清水邦夫作の「真情あふるる軽薄さ」で演出家としてデビューした。演出は独学だった。

仲間から非難されたが、小劇場の世界から、74年に「ロミオとジュリエット」で帝劇や日生劇場などで仕事する商業演劇に打って出た。

しかし、観客の評価は最高なのに、批評家からは最低の評価。「それなら外国で公演してみよう」と、83年のギリシャ悲劇「王女メディア」のローマ、アテネ公演を皮切りに、海外へも進出した。

ロンドン、ローマ、ニューヨーク、アムステルダム、カイロ、香港、さらに11年の韓国公演などで「世界のニナガワ」へと成長した。

最初のうちは外国人に受け入れられるだろうかと心配で、胃潰瘍になったり欝(うつ)みたいになったりもした。

「NINAGAWAマクベス」も絶賛された。92年にはシェークスピアを演ずるロンドン・グローブ座芸術監督の一員になり、02年には英国から「名誉大英勲章第3位」を授与された。

ギリシャ悲劇やシェークスピアを歌舞伎や能などの日本の伝統芸の技術を使って演出した。

04年度文化功労者、10年度文化勲章。

06年には彩の国芸術劇場の芸術監督に就任、高齢者劇団「さいたまゴールド・シアター」、若手の「さいたまネクスト・シアター」を立ち上げた。98年から芸術劇場でシェークスピア全37作品の上演を目指していた。16年12月には、「1万人のゴールド・シアター2016」の総合演出を目指し、65歳以上の出演者を大募集中だった。

09年に県民栄誉賞、10年には川口市民栄誉賞。

心臓手術をしたこともあるのに、「物議をかもす演出家でいたい」と元気。ここ数年、年間7~10本を演出 2作同時に稽古が進行することもあった。

演技指導は「千本ノック」と呼ばれるほど厳しいので有名。「口より先に物が飛んでくる」と言われたほど、俳優に灰皿やイスを投げ、机をひっくり返し、怒鳴りつけたりした。劇作家への敬意から原則として戯曲には手を加えなかった。劇作家の苦労を知っていたからだ。

近年は闘病しながら演出を続け、15年12月に体調を崩し、入院していた。16年5月12日午後1時25分、肺炎による多臓器不全で、東京都内の病院で死去した。告別式は16日正午、東京都港区南青山青山葬儀所で。喪主は妻で女優の真山智子(本名・蜷川宏子)さん。写真家・映画監督の実花さんは長女。

 

 

 


蜷川幸雄 さいたまゴールド・シアター 芸術劇場

2011年12月25日 10時20分38秒 | 文化・美術・文学・音楽



小学校の頃から映画きちなので、まともに演劇を見たことがない。さいたま市中央区(元与野市)に、演劇を主とする「彩の国さいたま芸術劇場」ができた時も、建物を眺め、受付の辺りをちょっとのぞいて見ただけだった。

この劇場は、埼京線与野本町駅西口から徒歩7分の距離にある。オープンが1994年。14年で開館20周年になる。地上4階、地下2階。演劇などの大、小ホール、音楽ホール、さらに映像の専用ホールを持ち、稽古場、練習場、舞台芸術に関する資料室もある。外観も城砦のように堂々としている。国内最高レベルの舞台劇場という触れ込みだ。

舞台設備機器の更新やバリアフリー対策、外壁補修工事をして11年10月リニューアルオープンした。

川口氏出身の日本を代表する演出家の一人、故蜷川幸雄が06年来、この劇場の「芸術監督」を務めていた。

リニューアルオープン後の初公演が宝塚のトップスター安蘭けいを起用した「アントニーとクレオパトラ」だった。蜷川はこの劇場で、シェークスピアの全戯曲37をすべて上演しようとしていて、没後32番目の「尺には尺を」が常連された。

蜷川がこの劇場でやっていたのはシェークスピア・シリーズだけではない。

55歳以上をメンバーとする日本では唯一、世界でも珍しい高齢者だけの劇団「さいたまゴールド・シアター」を06年に立ち上げた。

11年12月には6日から20日まで第5回公演の「ルート99」を披露した。

10年に文化勲章を受けた蜷川の演出に加え、「日本のチェーホフ」とも呼ばれ、いま人気の岩松了の書き下ろしというから、興味をそそられた。

そのうえ、「ゴールド・シアター」の団員42人の平均年齢が72歳という親近感もあって、18日の日曜日午後の公演を見に出かけた。

団員は、06年公募の際、応募した1200人以上の中から厳選された。女性26、男性16と女性の方が多く、東芝府中工場に44年勤続、東電集金課所属、市役所職員、NHKアナウンサー、教員、会社役員、主婦と、経歴はさまざま。

稽古をこの劇場でするので、地元の埼玉県在住者が18人、ついで東京が多く神奈川、千葉、栃木、茨城と関東各県から来ている。

16年で結成以来10年になったので、平均年齢77歳から最高齢90歳という高齢国日本を先取りするような年齢構成になっている。

岩松氏は、このシアターの07年の第一回公演「船上のピクニック」の脚本も手がけた。

「ルート99」は、沖縄の基地を舞台にしたやや難解なドラマである。

驚いたのは、補助席が出るほどの人気で、入場券も当日、一時間近く行列してやっと手に入った。

観客は老人が多いのだろうと思っていたら、大間違い。補助席の周辺は若い人ばかりだった。

正面の天井下にしつらえられた特設舞台から始まり、すり鉢状、半円形の観客席の底にある舞台の周囲、観客席の階段、さらには補助席の列の前と、役者たちはセリフを大音声で発しながら動き回り、小ホール全体が舞台といった感じ。その体力と音声に圧倒された。

ポーランドの演出家カントールの主宰していた老人劇団に刺激を受け、シルバー(銀)より上のゴールド(金)と名づけた。生活者として経験を積んだ人たちの力を借りて、これまでとは違う新しい演劇をやろうと思った。稽古場は「老い」との闘いで、血圧計も用意してある・・・

と廊下の壁に掲示されている回顧写真展の「蜷川語録」の中にあった。

蜷川はこの劇場で、次代の日本演劇界を支える人材育成のため、09年からこの劇場で若手演劇集団「さいたまネクスト・シアター」も立ち上げていた。

こんな劇場が自転車で行ける距離にあるのも埼玉県のありがたさである。駅から劇場までの通りは、「アートストリート」と名付けられ、主演級の役を務めた俳優の手形のレリーフが20台以上並んでいて、さいたま市中央区では、70代ほどまで増やす予定だという。
 


終戦前夜の大空襲  熊谷市

2011年12月11日 09時57分19秒 | 市町村の話題



1945(昭和20)年、父親の勤務先だった大阪市に住んでいたので、夜間空襲は日常茶飯事だった。防空壕から帰ってみると、社宅の防火壁の裏の住宅群が、みごとに焼け落ちてなくなっていたこともあった。

どこまでも続く焼け落ちた市街地に石の灯篭だけが、間隔を置いてポツンポツンと立っていた荒涼とした光景を今でも思い出す。当時、小さな裏庭にも、灯篭が立っていたのだろうか。

8月15日の終戦記念日前後に、最近決まって、埼玉新聞や全国紙の埼玉版に熊谷大空襲関連の記事が載る。丹念に切り抜いてきた。

その切り抜きや、埼玉県史や熊谷市史、熊谷市立図書館の労作「熊谷空襲の記録と回想」、「熊谷空襲 昭和20年8月14日夜のこと」(鯨井邦彦編著)をめくると、その惨事が如実に分かる。

初めて熊谷を訪れた時、中心部を流れる川の名が「星川」と聞いて、風流な名前だと感じいったものだ。「星渓園」(写真)を源泉とする清流だ。

「星川通りには、約2mの間隔で焼夷弾が突き刺さっており、立ち並んだ家々が炎に包まれていた」(当時21歳の藤間豊子さん=朝日新聞)。水をなくしたこの川に水を求める遺体が折り重なっていたという。

まもなく終戦の8月15日になろうとする14日午後11時30分頃から15日午前2時頃までB29型爆撃機約80機の焼夷弾による無差別じゅうたん爆撃で、当時の人口6万(現在10万)の中で死者266人、星川などの中心部では100人近くの死者が出た。負傷者約3千人、被災戸数は全戸数の4割の3600超、被災者は全人口の28%の1万5390人(死者、負傷者を含む)。市街地の74%が焼けた。

この最後の空襲では、神奈川県小田原、群馬県大田、伊勢崎、高崎、桐生各市、前橋市の一部なども対象になった。地方は違うが、油田と製油所のあった秋田市土崎や、山口県岩国市、海軍工廠のあった同県光市も爆撃された。

埼玉県内で空襲による最大の被害となり、熊谷市は県内唯一の「戦災指定都市」になった。軍用機製造の「中島飛行機(群馬県太田市)」の子会社や下請け工場が標的にされたらしい。

15日午後5時頃に火はようやく消えたが、数日にわたって火はくすぶり続けた。

星川のすぐ近くの弁天町に住んでいた作家森村誠一さんは、当時12歳で自宅を焼かれ、故郷を失った。

「熊谷の空襲は、翌日の終戦に吸収されて、ほとんど知られていない。だが、すでにポツダム宣言の受諾が決定された後に我らが町の熊谷が焼かれたという事実は決して忘れてはなるまい。熊谷市は、太平洋戦争における最後の犠牲であり、まったく無意味な葬り去られた犠牲の羊(スケープゴート)であったのである」

と、森村氏は『市民がつづる熊谷戦災の記録』に寄稿している。

「透き通った水の中に、死体が累々と横たわっていた」。この体験が氏が作家を志す「原体験」になった(毎日新聞)。

爆撃に参加したB29の航空士の一人は、

「我々は攻撃目標に向かっているというのに、ニューヨークではVJDAY(Victory Japan Day)を祝っているとラジオで聞く。」

という手書きノートを、熊谷市に兄弟がいるカナダ在住の日本人に手渡している(読売新聞)。

なぜ熊谷が空襲の対象になったのか。埼玉県の県庁所在地に間違えられた(明治の初期3年間熊谷県の県庁所在地だった)とか、熊谷陸軍飛行学校で特攻隊員が養成されていたことなどが挙げられている。

民間人への無差別爆撃は、戦時国際法に違反することは明らかだ。

毎年8月16日に星川通りでは死者を悼んで灯籠流しが行われる。