ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

造幣局さいたま支局 さいたま市

2016年12月01日 17時25分40秒 | 名所・観光


16年10月3日、「独立行政法人造幣局さいたま支局」が新都心の近く、三菱マテリアル跡地にオープンした。東京・池袋のサンシャインシティ近くにあった「東京支局」が移転、「さいたま支局」に名前が変わったのである。

「支局」というから「本局」はどこにあるのだろう。大阪市にある。「通り抜けの桜」で有名なところだ。

支局はもう一つ広島市にあって、銅、ニッケル、アルミなどの貨幣の素材になる金属の鋳造を一手に引き受けている。丸い硬貨の原型は、円形(えんぎょう)と呼ばれる。広島支局で鋳造され、さいたま支局などへ送られてきて仕上げ工程が施される。

日頃目にする1円、5円、10円、50円、500円硬貨は「通常硬貨」と呼ばれる。さいたま支局の主な業務は、通常貨幣ではなく、「プルーフ貨幣」セット、勲章の製造、貴金属製品の品位証明などである。500円玉も造っている。

「プルーフ貨幣」とは、収集のための貨幣だ。流通している貨幣とデザインは同じで、市中でも使用できる。表面を鏡のように磨き、模様を鮮明にするため圧印を2回打ちするなど、特別丁寧に製造されている。

勲章にもいろいろある。旭日章は民間用、瑞宝章は公務員用。さいたま支局では22ある勲章のうち、旭日は小綬章、瑞宝章は中綬章、小綬章を製造している。

日本で開かれるオリンピックのメダルも造幣局で造られる。

品位証明は、製造・販売業者からの依頼で品位試験を行い、合格したものに「ホールマーク」を打ち、品位を証明するものだ。

一般の見学者にとっては、併設されている博物館が面白い。歴史を振り返れば、永い間“日本最古”の流通貨幣とされてきた「和同開珎(ちん)」は、708年、秩父市黒谷にある和銅(にきあかがね 製錬を必要としない自然銅)が発見されてでき、元号が「和銅」と改元されたほどだから、貨幣と埼玉県との関係は深い。

約1000点が展示されていて、普段はあまり目にしない各種の勲章やオリンピックの金、銀、銅メダルなどのほか、地方自治法施行60周年を記念した都道府県の記念貨幣もある。埼玉県の表面は渋沢栄一と川越の時の鐘の組み合わせ、裏面は埼玉スタジアム2002になっている。慶長大判、小判などの古銭ももちろんある。

1932(昭和7)年に発行され、発行枚数さえ分からないことから、”幻の金貨”といわれる20円金貨もある。

桜好きにとってうれしいのは、博物館沿いに200mの桜並木ができていることである。(写真  パンフレットから) まだ3~4年の中木だが、50本ずつ両側に合わせて100本。

八重(里)桜が主で約20種類。多い順に関山が12本、奈良の八重桜が7本、松月が6本、思川、一葉、天の川、普賢象などが各5本、白妙、福禄寿などが各4本・・・といった感じである。珍しいことに、どこにでもあるソメイヨシノは一本も植わっていない。

童謡「雨降りお月さん」などで知られる詩人野口雨情の宇都宮市の邸内にあった珍しい「雨情枝垂れ」も4本ある。

「浪速の春の風物詩」とされる本局の「通り抜けの桜」(133種・349本)、広島市内一のお花見スポットになっている広島支局の「花のまわりみち」(約60種・約220本)には、及ばないものの、さいたま市の花の名所になるだろう。遅桜の季節が待たれる。


大谷ホタルの里 さいたま市

2016年06月06日 13時01分08秒 | 名所・観光


1260haと広大な見沼田んぼが昔、本当の田んぼだった頃、源氏ボタルの名所として知られていた。江戸時代には「大宮の蛍狩」の版画が有名だったし、明治中頃から宮中などにも数千匹の単位で献上されていたという。

ホタルがいなくなったのは、田んぼが少なくなったからである。今や見沼の本当の田んぼの割合は6%を切っている。それも加田屋(かたや)新田など一部に限られていて、農家ではなく、委託されたNPOが米育ての体験農園として使っているところもある。

新田の北側にあるさいたま市の「大谷ホタルの里」で、源氏ボタルが飛び始めたというので、梅雨入りを翌日に控えた16年6月4日(土)、見沼田んぼのベテランガイドの案内で、ほとんどが女性の観賞ツアー客と一緒に現地とその周辺を訪ねた。

見沼は何度来たか数えられないほど来ていて、この里も昼間には何度も訪れたことはあるものの、夜間出かけるのは初めてだった。

 子供の頃は、鹿児島の田舎に住んでいたので、近くの小さな川にそれこそホタルが飛び交っていた。上京して、さいたま市に住むようになって、時々ホタル狩りに出かけたものの、見るのは平家ボタルだけ。源氏ボタルを見たことはなかったので、行く気になったのだ。

ガイド氏の資料によると、源氏ボタルは平家ボタル(8mm前後)の2倍ほどの大きさで体長15mm。身体が大きいので、光も明るい。成虫時、源氏の背中には十字架のような模様があるが、平家には縦に一筋の線があるだけ。

 源氏が曲線を描いて飛ぶのに対し、平家は直線的に飛ぶ。食べ物は源氏が主にカワニナなのに、平家はタニシ等の淡水生巻貝という。食の範囲が広いので平家の方が飼育しやすい。

 大きな違いは飛び始めの時期である。源氏が6月初めから、平家はひと月遅れの7月からだ。ホタルのシーズンは源氏とともに始まるわけだ。

 「ホタルの里」は、見沼区の「七里総合公園」と「思い出の里市営霊園」の間の西福寺の東側斜面林にあり、井戸から水を引く水路などがつくられ、自然環境の中でホタルがみられるようになっている。

 掲示板が立っていて、道をたどれば低い柵越しにホタルを眺められる。

 この夜はシーズンの初めの土曜日とあって、近くの路上には多くの車が駐車、子供連れの家族や子供の団体など多くの人が詰めかけていた。

 しかし、ホタルはなかなか気難しい昆虫のようで、日が暮れて暗くなればすぐに発光し始めるわけではない。

ガイド氏の話では、8時頃以降で、曇天で蒸し暑く、風が弱いという条件が整う必要がある。そのうえ「雨が降ると光らない」とのことで驚いた。

 この日は何とか条件にかなったようで、水路の向こうの林の葉陰にいくつかの光が点滅するのが見えた。見えたといっても、光りっぱなしではなく、すぐ暗くなってしまう。

 いくつかの光は左右、中央の3か所で見られた。「どうか飛んでくれ」と待っていると、一匹が左の葉陰から右の葉陰へと飛んだ。「観客の気持ちを察したショウマンシップをわきまえた立派なホタル芸人だ」と、思わず拍手したくなる。

 続いて飛んでくれないかと待っているのに、後続ホタルは出ない。葉陰のホタルは時々ついたり、消えたり。小一時間になるととだんだん飽きてきて、帰る人も出てくる。

わがグループも帰りの車の方に動き始めたので、しんがりについて歩いていると、右の葉陰の下から1匹のホタルがするすると上がってきて、飛行の姿を見せてくれた。

飛んでいるのを見たのはこの2匹だけで、左右の葉陰で光ったり消えたりしていたホタルを全部数えても、見物人の方が多かったような気がする。小型のデジタルカメラでは手におえないと、はやばや撮影はあきらめた。

 このブログではホタルの数を数えるのに「匹」を使った。ガイド氏によると正確には「頭」と数える由。トンボやチョウ、アリなどの昆虫も同じで、象やライオン同様に「頭」なのだそうだ。

 住み着いたホタルも増えてきたが、毎年幼虫を放流、えさのカワニナも自給できておらず、見沼田んぼの別のところで採取しなければならないようだ。

 歌の文句にあるように、「ホタルが飛び交う」姿を見るには、何度も根気よく通う必要がありそう。文字どおり群舞や乱舞が見られるようになるのはいつのことだろうか。


黒山三滝 越生町

2015年05月20日 17時44分06秒 | 名所・観光


越生町には何度も出かけているのに、町の西南端にある黒山三滝には行ったことがなかった。

1950(昭和25)年には、日本観光地百選の瀑布の部で第9位に選ばれ、「県立黒山自然公園」にも指定されるなど県内有数の観光地として知られる所。この新緑の季節にはぴったりだろうと思って、15年5月18日の月曜日、早起きして電車とバスで出かけた。

東武東上線を坂戸で東武越生線に乗り換え、終点の越生で降り、バスに乗り換え終点の黒山で下車、1km坂道を登ると着く。

驚いたのは、「黒山鉱泉館」が閉館していたことだった。明治の初めに発見され、田山花袋、野口有情など文士らに愛され、「大正7(1918)年 田山花袋紀行の地」の記念碑が残っている。

帰りにバスを待ちながら地元のおばさんの話を聞いていると、バスの終点前にある「東上閣」も閉館、食堂やお土産品店も3,4店に減ってしまったという。

三滝は室町時代に修験道の修行の場として開かれた。三滝から山道をたどれば、修験道にはつきものの「役行者」の石像もある。

三滝は、越辺川(おっぺがわ)源流域の三滝川に、上に男滝(おだき)(落差11m)、下に女滝(めだき)(落差5m)の二つが2段にかかっていて、(写真)歩いて少々下流に天狗滝(落差14m)がある。

男滝、女滝の前には橋があって、橋柱に「三滝川」「夫婦僑」と書いてある。

三滝は幕末期から江戸では有名だったらしい。パソコンで検索してみると、越生の津久根出身で、吉原遊郭の副名主に出世した尾張屋三平が男滝、女滝を男女和合の神と見立てて、江戸に紹介、吉原を中心に信仰を集めた。三滝周辺は、信仰と遊山を兼ねた行楽地として栄えたという。

黒山のバス停近くには、渋沢平九郎の自刃の地の石碑がある。渋沢栄一の妻千代の弟で、栄一がパリ万博親善使節団の一員として渡欧する際、万一の場合に備えて「見立て養子」とした。

平九郎は振武軍に入り、飯能戦争で官軍と戦ったが破れ、故郷を目指して逃走中、敵兵に遭遇した。3人まで切り伏せたが、自らも傷つき、切腹して死んだ。22歳だった。

鎌倉時代、平泉に落ちのびようとする源義経主従が、富士山を望むその景観のあまりの美しさに何度も振り返ったことから、その名がある「顔振峠」(こうぶりとうげ 530m)にも近くハイキングにも好適だ。

植物好きな人なら、谷が狭く、湿っているため、暖地性のアオネカズラなどのしだ類の集落が見られる。県の天然記念物に指定されている。

自然に恵まれ、初夏は新緑、秋は紅葉が美しい。室町時代以来の由緒のあるこの景勝地を何とかよみがえらせてほしいものだ。

あしがくぼの氷柱 横瀬町

2015年01月20日 17時41分17秒 | 名所・観光



西武秩父線の芦ヶ久保駅は、池袋方面から来ると、正丸駅を過ぎ、長い正丸トンネルをくぐったらすぐだ。終点の西武秩父駅まであと横瀬駅しかない。正丸トンネルは、大手私鉄で全国2位(4811m)の長さを誇る。

去年についで9日から2度目の氷柱の公開が始まったと新聞で読んで、15年1月19日にさっそく出かけた。

月曜日だというのに結構な人出である。駅から歩いて約20分で行けるというのが売り物である。

秩父にはこのほか、氷柱をPRしている所は「三十槌(みそつち)の氷柱」(秩父市大滝)と「尾ノ内百景氷柱」(小鹿野町)の2か所にある。いずれもここから30kmほど離れていて車が必要だ。

「三十槌」は荒川の岩清水が凍った天然のつららだが、「尾ノ内」は両神山を源流とする同渓谷の水を、町の西秩父商工会青年部がパイプで水を引き、吊り橋の裏の斜面の木々にかけて作ったもの。「あしがくぼ」はこれを参考にした。この三つを合わせて「秩父の三大氷柱」と呼び、年々来場者が増えている。駅の近くで地の利があるため、「あしがくぼ」が一番多く、19年冬は前年より2万人増の12万人を超えた。

「あしがくぼ」の場合、裏山の雄岳と雌岳のある二子山(882・7m)の兵(ひょう)ノ沢から細いパイプで水を引き、スプリンクラーで散水して創る。

高さ30m、幅120mにわたる氷柱群で、(写真)毎週土曜日には、午後8時までライトアップする。

手前の正丸駅では見かけなかったのに、トンネルを出ると、線路脇に雪が残っているので驚いた。

「トンネルを出たら雪国だった」という趣である。

「こちらの標高が高いので正丸とは3度の温度差がある」と地元の人が教えてくれた。朝の最低気温が氷点下6度前後になるので自然凍結するとか。現場は日中、陽が照っていてもひんやりするほどだ。

受付があり、「環境整備協力金」として中学生以上は200円とられる。

その代わり登山道を登った広場で氷柱を見下ろしながら温かい甘酒か紅茶が飲める。甘酒は地元の蔵元の酒粕を使い、紅茶は横瀬町特産のものだ。

「日陰で寒い所なので、昔は近くにスケートができたり、氷を切り出す所もあった」というが、氷柱があったわけではない。秩父の先輩の尾ノ内の氷柱造りを習った発想である。

県も駅前から山を開き、延長360m、幅約2.5mの遊歩道を整備するのに協力した。足が滑らないようにチップが敷き詰められている。

駅近くには、イチゴ摘みなどを楽しめる観光農園が散在する「あしがくぼ果樹公園村」や丸山鉱泉旅館、武甲温泉もあるので、希望者にはバスで無料送迎する。

西武鉄道の芦ヶ久保第3隧道(トンネル)が間近にあり、電車からも氷柱が見えるので、西武鉄道では下りの特急「レッドアロー号」の一部を停車させたり、ライトアップを車窓から見学できるように徐行したりする。

本数は少ないものの、現場に向かう登山道には、「電車が来たら手を振ろう」という呼びかけが貼ってあった。

「秩父三大氷柱」3か所を回るバスツアーを運行したり、温泉を無料で利用できるスタンプラリーもある。

初公開の14年は、秩父の大雪で閉鎖されるまで32日間で約1万7000人を集めた。今年は3月1日までの52日間で5万人の集客を狙う。(東京新聞)

遊歩道の木に、「浅間神社付近で熊の目撃情報あり」という掲示があり、駅では熊よけの鈴が400円で売っていた。

県に観光地がないなら「氷の芸術」を自分で創ってやろうという発想で、その意気やよし。だが、暖冬だと氷柱ができず、20年は「営業中止」に追い込まれた。


花田苑  能楽堂 越谷市

2014年06月16日 18時49分56秒 | 名所・観光



「五月晴れ」とは文字どおり「五月の晴れの日」のことだと思っていた。確かにそのように使われることも多いものの、本当は「梅雨の晴れ間」のことだという。あわてて辞書を引いてみるとそのとおりである。

五月晴れを絵に描いたような6月14日(土)、前から気になっていた越谷市立の日本式庭園「花田苑」を訪ねた。

老夫婦や子供連れの夫婦など、なんとなく人が多いなと思って聞いてみたら、前夜NHKで紹介されたためだった。

「花田苑」とは風流な名前だ。「花田」とは地名である。新方川に面した地域で、公園が多く、「花田苑」には「花田第6公園」という別名がある。地図で確かめると、この地区には第1から第6までの花田公園の他、新方川緑道には「花田スポット公園」もある。

花田の少し北には「キャンベルタウン野鳥の森」。キャンベルトウンとはオーストラリアの姉妹都市の名前だ。

西には藤で有名な総鎮守「久伊豆神社」や「緑の森公園」「アリタキ植物園」もある。天気のいい日にぶらぶら散歩するにはうってつけの地域である。

「水郷こしがや」とか「川のあるまち」と呼ばれるように、越谷市には元荒川、葛西用水など多くの川や用水が流れ、それぞれに緑道がついているので、「水と緑のまち」を実感できる。

市役所に近い、元荒川と葛西用水をまたぐ斜張橋(真ん中の塔からケーブルで橋げたを吊る橋)「しらこばと橋」が市のシンボルになっている。

市役所東側の葛西用水沿いには180mの「葛西用水ウッドデッキ」が完成、音楽やダンス、地場農産物の直売などに利用されている。

JR武蔵野線の越谷レイクタウン駅前の「イオンレイクタウン」は、国内最大のスケールで、東京・上野の不忍池の約3倍の広さの大規模調整池に面しているエコ・ショッピングセンターである。

敷地2.6平方mの広大な「花田苑」は、驚きでいっぱいだ。オープンしたのが1991年、隣接している「こしがや能楽堂」は1993年だから、他の日本式庭園や能楽堂に比べ、新しさが魅力である。

作庭したのは中島健氏。モントリオール万博日本館や日本芸術院などの名園を残した戦後を代表する造園家だった。

当時の島村慎市市長らが「市民が誇れる日本文化の伝承拠点を」と、区画整理事業で生まれた近隣公園用地を全国で初めて日本庭園に活用したのが花田苑だった。

入り口には堂々とした長屋門がある。江戸時代の名主だった大成町の宇田家の長屋門を原寸どおり復元した。

典型的な回遊式池泉庭園だから、真ん中に4000平方mの池があり、木橋があり、石橋があり、飛石がある。小さいながら灯籠もある。小さな茶室や四阿(あずまや)、滝もしつらえられていて、水の垂れる音がする。(写真)

池には大きな緋鯉が悠然と泳ぎ、数こそ少ないものの、トンボも蝶も飛んでいる。林の中からシジュウカラのような泣き声が聞こえてくる。

琴や三味線のバックグラウンド・ミュージックを聴きながら。豆砂利の道を歩いていると、「埼玉にもこんな所があったのか」とうれしくなってくる。

7月には蛍観賞の夕べも開かれる。

銅版ぶきの能楽堂も目を見張るばかりだ。日本建築の粋を集めたような造りで、能舞台は樹齢400年の木曾ヒノキを使用した。

観世流の能楽師、関根祥六さんが市出身の縁から、「こしがや薪能」の開催など「能楽によるまちづくり」を目指して、地域のシンボルとして建築された。建物は全国でも数少ない屋外の能舞台を持つ。総工費は能舞台7.8億円、花田苑10.5億円だった。

四半世紀を経て、庭園の約1万4000本の植栽は大きく育ち、季節の花も約50種類ある。

「日本文化伝承の館」と名づけられていて、邦楽や日本舞踊、詩吟、茶道、華道など伝統芸術の拠点施設になっている。9月の薪能は毎回満席だ。

庭と言えば県内では、飯能市の能仁寺の「池泉回遊式蓬菜庭園」は、桃山時代の作とされ、「日本名園百選」に入っている。


川越まつり 

2013年08月08日 16時02分31秒 | 名所・観光

川越まつり 

川越市は「小江戸(こえど)」と呼ばれる。

「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかり」と言われるそうだ。確かに他の小江戸を売り物にする市、例えば栃木市や千葉県佐原市などに比べると群を抜いている。

大田道灌の像は関東でいろんなところで見かける。川越市役所前に立つ銅像は、市制50周年に庁舎を新築した際にできた。その碑文には、小江戸どころか「川越城、江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので川越は江戸の母と呼ばれた」とあるので、驚いてしまう。

江戸城ができた頃は、川越の方が江戸を上回る先進地で、「逆に江戸が小川越だったのか」と思うと愉快である。

その川越市が、12年に市制90周年を迎えた。それを記念した川越まつりが10月20、21日の週末に開かれたので、久しぶりに出かけた。(写真)

川越市は人口35万人。今でこそ県都さいたま(約126万人)や川口(約59万人)に次ぐ第3位ながら、江戸時代の繁栄を引き継ぎ、1920(大正9)年の第一回国勢調査では、当時の川越町は、約2万5千人で大宮町、浦和町をはるかにしのいでいた。

このため、市になったのは県内で初めて。札幌市などと同じ1922(大正11)年だった。

ちなみに、浦和市が市になったのは1934(昭和9)年で、全国の県庁所在地で最も遅く、県内では川越、熊谷、川口に次ぐ4番目だった。

火力、水力発電所ができて、最初に電灯がともり、電車が走ったのも県内初。埼玉県のトップランナーだった。今でも繁華街はさいたま市大宮区に次ぐ第2位のにぎわいを誇る。

ウィキペディアによる川越市の記述は、微に入り細にわたり、実に面白く、こんなのを読んだのは初めてだ。

その川越市の基礎を築いたのが川越藩主だった松平信綱だった。「知恵伊豆」と呼ばれたほどの頭の持ち主。「天草の乱」を終息させた功績で、忍藩の藩主から川越藩に栄転した。

川越でも街の整備をもちろん、江戸と結ぶ新河岸川の開削、川越街道の改修など江戸と川越の距離を縮めたほか、玉川上水や野火止用水を造らせた川越の恩人である。墓は、野火止用水に隣接する紅葉の名所平林寺(新座市)にある。

この川越まつりも、1648年、信綱が総鎮守氷川神社に神輿、獅子頭、太鼓などを道具を寄進して、祭礼を奨励したことに始まる。

最初は氷川神社の神輿行列だった。元禄の1698年、江戸の祭りの花形だった「踊り屋台」が初めてお目見え、現在のような笠鉾形式の山車になっていった。

江戸の日枝神社の「山王祭」と神田明神の「神田祭」の祭礼行列の山車は、一年交代で江戸城に入り、将軍も見物したため、「天下祭」と呼ばれていた。

ところが明治に入ると、東京は市電の架線が張り巡らされ、背の高い山車の引き回しが困難になった。山車の巡行は姿を消し、神輿中心になった。

川越では、山車を中心とする江戸の天下祭の豪華絢爛さが350年の時代を超えて引き継がれている。05年には「国指定重要無形民俗文化財」に指定された。

江戸型の二重鉾で、最上部にはせり上がり式になっている豪華な衣装の歴史的人物の人形が立つ。信綱を初め、道灌、徳川家康、家光、川越ゆかりの川越太郎重頼(源頼朝の命で娘を義経に嫁がせ、誅殺される)、仙波二郎安家(川越市仙波を治めていた頼朝の御家人)など27町会の29台の山車がある。

川越市も「猩猩」の山車を持ち、幸町は2台持つ。川越まつり会館では本物の山車を、2台ずつ入れ替えながら展示しているので祭りがなくても見物できる。

街角で山車が出会うと、川越の山車の最大の特徴である360度回転する「回り舞台」を使って囃子台を向き合わせ、囃子合戦をする「ヒッカワセ」がまつりの呼び物だ。

例年なら15台くらいなのに、90周年とあって、10年ぶりに29台全部が登場した。高さ約8m、重さ5~6tの巨体。

蔵造りの町並みの通りに沿った巡行経路には見物人があふれ、まるで朝のラッシュ時の駅のホームのような混雑ぶり。

余りの人並みに押され、モンドセレクションで最高金賞を得ているサツマイモが原料のビール「COEDO紅赤」を初めて飲んで早々に退散した。

市観光課によると、二日間で100万を超す人出があったとのこと。川越の人口の実に3倍だ。

「川越氷川祭の山車行事(川越まつり)」は16年12月1日、全国33の「山・鉾・屋台行事」の1つとしてユネスコ(世界教育科学文化機関」の無形文化遺産に登録されることが決まった。

この影響もあって、17年の川越市を訪れた観光客は、計704万人、初めて年間700万人を突破した。外国人観光客数も17万1000人と前年比43・7%(5万2000人)と大幅な伸びを見せ、国内全体の21・8%増を大きく上回った。

名所別では「川越まつり」が98万5000人、「時の鐘」が前年と同じ110万人、「菓子屋横丁」が25%増の100万人だった。

18年は前年比11%の734万人で過去最高、外国人観光客は同42%増の28万人で過去最高。国籍は台湾、タイ、香港、中国の順だった。


 


日本の航空発祥の地 所沢市

2013年07月07日 15時11分24秒 | 名所・観光


現役時代、羽田空港のクラブで、航空問題をカバーしていたことがあるので、飛行機に対する関心は人一倍強い。

所沢市の約50haの「県営所沢航空記念公園」は、県内最大規模の都市公園だ。日本で初めて「陸軍所沢飛行場」ができ、飛行場を使って初めて飛行機が飛んだ所なので、何回か来たことがある。2025(平成23)年はそれから100年になるというから、思い入れはひとしおだった。

航空発祥記念館も4月2日にリニューアルオープンしたというので、暇を見つけてまた訪ねてみた。

西武新宿線航空公園駅東口から歩く。日本で初めて飛行したアンリ・ファルマン機をイメージしたこの駅は関東の駅百選に選定されている。公園入り口近くに第二次大戦後日本で初めてできたターボプロップ「YS-11型」中型旅客機が目に入る。懐かしい機である。

公園に入ると、米軍払い下げの「C-46型」輸送機の近くに「所沢航空発祥100周年記念碑」が立っていた。

ここには1911(明治44)年4月1日、幅50m、長さ400mの飛行場が完成した。その4日後の4月5日午前5時37分、徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機「アンリ・ファルマン」が、1分20秒間、高度10mで800m飛んだ。次に米国製のライト兄弟機で日野熊蔵大尉が飛んだ。こんなに朝が早いのに数千人の見物人が押し掛けたという。

当時、飛行場は「空を飛ぶ夢のような乗り物」にお目にかかれるというので、周辺には桟敷が敷かれ、見物人でにぎわった。初物好きで、好奇心旺盛な日本人は昔からいたのだ。

その4か月前の10年12月19日、東京代々木練兵場(現代々木公園)で、この徳川大尉のファルマン機が日本で初飛行、次いで日野大尉はドイツ製のハンス・グラーデ機で飛んでいた。

所沢飛行場は、このフランス製2機、ドイツ製1機、米国製1機の4機でスタートした。国産機や飛行船の開発の拠点になり、翌年には初の国産民間機「奈良原式第2号機」、最初の国産軍用機「会式1号機」が完成した。

日本初の航空機事故もこの公園近くで発生、その記念碑が立っている。1913(大正2)年、東京・青山練兵場からこの所沢飛行場に帰還中、突風のため左翼が破損、操縦学生、木村鈴四郎・徳田金一両中尉が乗るフランス製ブレリオ機が墜落・死亡した。ブレリオ機は単葉機で、当時世界最高性能といわれた。

1916(大正5)年、大阪まで飛んだ国産飛行船「雄飛号」ができたのもここだった。

1919(大正8)年、当時最先端の航空機製造国だったフランスは機体のセールスを兼ねて、航空教育団(63人)を派遣、約15カ月、航空技術を指導した。陸軍航空学校も設置された。その団長で空軍将校のフォール大佐の胸像が所沢公園に残っている。2019年は100年に当たるのを記念して、教育団の子孫も来日、4月7日記念式典が開かれた。

食べたことはないが、「フォールカツレツ」がフランス人たちが通った「市内の割烹 美好」に残っているという。 当時、フランスで修業を済ませ、日本の西洋料理の先駆者として知られたシェフが、ここにいたことに驚く。

プロペラにちなんだ「プロペ通り」「ファルマン通り」「飛行機新道」という名の通りもあり、所沢銘菓「ファルマン」や焼き菓子「雄飛焼」もある。所沢は飛行機がらみの町である。

県内最大規模の都市公園だから、運動場、野球場、テニス場、子供冒険広場、日本庭園・茶室、ドッグランなどもある。桜の季節には約500本、フジ、アジサイ、ユリノキなど四季を通じて花木が楽しめ、子供たちや市民の憩いの場所だ。


ゼロ戦のエンジンの音 所沢航空発祥記念館

2013年07月06日 11時07分56秒 | 名所・観光


2012年12月1日(土)。この日は私にとって「ゼロ戦の日」だった。
所沢航空発祥記念館でゼロ戦のエンジンの音が聞けるというのだから、前日からいくぶん興奮していた。

記念館では世界で唯一飛行可能なゼロ戦を、12年12月から米国の航空博物館から借用して展示した。

機体が老朽化しつつあるので、大事をとって今回は空を飛ばせず、エンジンをふかしてプロペラの回転音を聞かせるだけにとどめた。

戦争時代に子どもだった者にとって

♪ エンジンの音轟々(ごうごう)と
  隼は征(い)く雲の果て ♪

で始まる軍歌「加藤隼戦闘隊」の歌詞とリズムは耳に染み付いている。

「隼」は、陸軍の、ゼロ戦は「零式艦上戦闘機」の名前どおり海軍の戦闘機だった。

陸軍と海軍の違いはあれ、同じ戦闘機のエンジンの音だから大差はあるまいと、「隼」の歌を口ずさみながら所沢に向かった。

記念館に近い西武新宿線の航空公園駅に降りると、館に向かう高年の男性の姿が目立った。午前11時過ぎ館に着くと、すでに長い行列が出来ていて、当日券は全て売り切れていた。

この日は、午前11時、午後1時半、午後2時50分の3回、10分間観客の前でエンジンを始動させる(プロペラを回す)予定で、420人ずつ館に隣接したシート囲いの特設会場で見学させることになっていた。

午後1時半以降の券なら手に入るだろうと、タカをくくっていたのが裏目に出たのだった。

そのまま引き返すのは残念なので、シート囲いの外にいるガードマンに聞くと、「エンジンの音だけなら、聞こえますよ。感動しましたね」とのこと。

それならと時間をつぶして、午後1時半に来て見ると、周囲は人で一杯。録音機材を手にしている人も多かった。

うなぎ屋でうなぎは食べず、匂いをかぐ落語みたいな話である。

終戦直前、大阪から鹿児島県の隼人町に疎開していた。現在の鹿児島空港が特攻機の基地になっていて、小学校に通う頃、必ず編隊を組んで南に向かっていった。

ゼロ戦も特攻機にも使われたというから、あの中にこの音が混じっていたのだろうか。

低く重いエンジンの響きを聞きながら、まさに感慨無量だった。

このゼロ戦は、「52型」。「栄21型」と呼ばれるエンジンを積んでいる。1943年の三菱重工業製。

44年にサイパン島の飛行場で米軍に無傷の状態で捕獲され、57年に米カリフォルニア州の民間航空博物館「プレーンズ・オブ・フェーム」に移管された。

エンジンは一部の部品が交換されているものの、ほぼ原型どおりで、飛行可能なゼロ戦は世界でもこの1機だけ。今でも年間15~20時間飛んでいるという。

日本には17年ぶり3回目の里帰りで、78年には埼玉県桶川飛行場、95年には茨城県龍ヶ崎飛行場などで飛んでいる。

1943年製だからすでに69年。70歳に近い。日本同様、ゼロ戦も年老いたのである。

今回空を飛ばず、地上でエンジンの音を聞かせるだけにしたのは、この高齢のためであろう。

記念館では、「エンジンの老朽化で、エンジンの音を聞けるのは、これが最後になるかもしれない」という。

このエンジンの音は、日本への告別の調べだったのかもしれない。

その後、音なしで見るだけの入場券もあることが分かり、撮ったのがこの写真。

小型でいかにも軽快そう。だが、防護性能を犠牲にして、格闘性能と長距離飛行に特化して各国の戦闘機と渡り合ったあげく、米軍機に歯が立たなくなると特攻機で終わったゼロ戦の哀れな末路を思い出して、気は重かった。

全部で約1万機余作られたこのゼロ戦、人気が高く、展示は13年3月末までの予定が8月末まで延期された。入場者は約14万人に上った。

堀越二郎 ゼロ戦の設計者に脚光 航空発祥記念館

2013年07月05日 17時51分59秒 | 名所・観光


ゼロ戦を設計した堀越二郎は、1903年6月22日、群馬県藤岡市生まれ。所沢航空発祥記念館では生誕110周年に当たるのを記念して、13年6月22日から9月1日まで「堀越二郎の生涯」と題する企画展を開き、貴重な資料を公開、約30分の堀越の生涯を描く映画も、館内の大型映像館で上映したところ、これまた人気を呼んだ。

スタジオジブリの宮崎駿監督が堀越の半生をモデルにフィクションで描くアニメ映画「風立ちぬ」も、7月20日から上映される予定で、今回のゼロ戦里帰りをきっかけに、にわかに堀越二郎がスポットライトを浴びている。

この資料は、堀越の長男の雅郎さんがさる5月、東京都の自宅屋根裏部屋などで、ゼロ戦開発過程の実験記録など約千点の遺品を見つけ、記念館に寄贈した。GHQに焼却を命じられていたのを、隠していたものだった。

記念館では、東大大学院の航空宇宙工学の教授の協力を得て、調べたところ、未公開の貴重な資料と分かり、公開に踏み切った。

生家がある藤岡市の藤岡歴史館にも、堀越の親類から約500点の資料が寄贈されていて、その中に、ゼロ戦の後継機として開発が進められながら、試作機が完成する前に終戦になり、“幻の戦闘機”になった「烈風改」の設計図17枚もあった。

この機は、米国の爆撃機B29に対抗するために飛行高度1万m以上と想定されていた。

ジブリがアニメを制作するのを契機に藤岡市が調べたところ、寄贈資料の中に見つかったのである。

堀越二郎が生まれたのは、くずしくもライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年だった。

小学生の頃から航空機に夢中になり、東京帝国大学の工学部航空学科を首席で卒業、現在の三菱重工業に入社、全金属製の96式艦上戦闘機の設計主任を務めた後、戦前の日本の航空技術の頂点を極めたゼロ戦の設計主任も担当した。

エンジンの出力が限られているので、ネジ一本無駄にしない徹底した軽量化を図り、軽い超々ジュラルミンを世界で初めて使用、航続距離と格闘性能で一時は世界無敵の傑出したゼロ戦を完成させた。

航空機は、自動車の百倍にも及ぶ部品点数を持つ、高度にシステム化された工業製品だという。

戦争中に培われた技術は、戦後の国産旅客機YS-11に引き継がれ、堀越らもこの設計に参加した。

1964年の東京オリンピックでは聖火リレーに利用され、国内定期路線に就航、世界12か国で活躍した。

堀越は防衛大や日大生産工学部で教授も務め、1982年78歳で死んだ。

記念館で上映された映画では、日本がドイツと組んで第二次大戦を戦ったことを批判する言葉を夫人には漏らしていたことがうかがわれる。

1945年8月15日に記された「終戦日誌」には、「日本に壊滅をもたらした政策を指導した者が全部去らなければ腐敗の種は残る」と軍部と政治家への厳しい批判が便箋二枚につづられていたという(東京新聞)。

ゼロ戦は堀越にとって、戦闘機というより自分の持てるものを全て注ぎ込んだ技術の結晶で、「美しい」存在だったことが、この映画や著書などからもよく分かる。

百観音温泉 久喜市

2013年03月02日 16時53分00秒 | 名所・観光
百観音温泉  久喜市

埼玉県の広報誌「彩の国だより」(月刊)の「知事コラム」はいつも面白い。13年3月号は、「『ネガポ』で明るく」というものだったが、大笑いした。

「ネガポ」とは、英語の「ネガティブ(否定的)」な言葉を「ポジティブ(肯定的)」なものに言い換える「ネガポジ変換」の略語だそうだ。

女子高校生三人が考え出したもので、主婦の友社から出た約600例収録の「ネガポ辞典」が売れているという。

例えば、「いいかげん」は「おおらか」、「不幸」は「これから幸せになれる」、「おならが出た」は「健康的」といった具合だ。

この調子で行けば、人に悪口を言われても、くよくよせず発想の転換で明るく前向きに生きていける。ものにはすべて、裏(陰)があれば表(陽)があるからだ。

観光面では、文字どおり「無い無い尽くし」。頭が痛い埼玉県にはぴったりの辞典だろう。

13年1月末、貴重な経験をした。無いはずのものがあったのである。

北隣の群馬県は、「おんせん県」の名称をめぐって、大分県と競っているというのに、火山がないわが埼玉には、鉱泉(冷泉)はあっても、熱い湯が噴き出す本当の温泉はまずないものと思い込んでいた。

ところがどっこい。

県内唯一、57度の湯が1分間に千リットル自噴する全国屈指の日帰りの療養型天然温泉が、JR宇都宮線東鷲宮駅の西口から徒歩でわずか3分の所にあると、今ごろ知って出かけた。

ちょうど創業11周年感謝祭の終わりに近く、平日なのに、何か所もある駐車場は一杯。祝祭日には、駐車場はもちろん中も大混雑という。

なにしろ、メタンガスの圧力で1500mの地下から有り余る湯が噴出してくるのだから、濾過機などを一切使わず、内湯・露天全ての浴槽で100%の源泉を、加水加熱せず掛け流しで使っている。豊富な湯が常に浴槽に注がれているので、循環措置は無く、完全放流式。

火山に近く、山深く渓流もある、いかにも温泉らしい温泉地でも、掛け流しは今では少なくなっているのに、関東平野のど真ん中、田んぼの中で、掛け流し湯に入れるのだからうれしい。

火山帯はなくても、地下深くから湧く平地型温泉もあると専門書にもあるので、これはその代表の一つだろう。埼玉県向きの温泉である。

ここでは内湯より露天風呂の方が、はるかに大型で、広い。立ち湯(深さ1.3m、湯温45~6度)も、寝湯も、上から落ちるのではなく、ノズルで上から吹き付ける打たせ湯もあり、温泉気分を満喫できる。

「日本天然温泉審査機構」の調べでは、源泉、泉質、引湯、給排湯方式、加水、新湯注入率の6項目で、いずれも自然度・適正度が5つ星(優良)で、全国最高クラスの数少ない天然温泉だった。6項目全てで5つ星というのは、全国でも10数か所だそうだ。

溶け込んでいるミネラルが高濃度の「高張性」で、「日本有数の泉質を誇る贅沢な温泉」とパンフレットはうたっている。

元は太古の海の水だから、泉質は「ナトリウム塩化物強塩温泉」。塩素イオンとナトリウムイオンが最も多い。アワが浮き、いくぶん褐色を帯びていて、指を舐めてみると、さすがに塩からい。

神経痛、腰痛などの痛み、慢性消化器病、疲労回復などのほか、アトピー、アレルギー、花粉症にも効くという声もある。

女性の肌をしっとりスベスベにする、いわゆる「美人の湯」には、ナトリウムイオンとカルシウムイオンを含んでいる共通点があるとか。この湯にもカルシウムイオンも多いので、美肌効果もある。

「百観音」の名を冠した化粧水や酒、だんごやまんじゅう、構内に百観音を祀った堂もある。

100m掘るごとに3度(埼玉の場合は約2.5度とも)、地温は地表より高くなるというから、運に恵まれれば、熱くなった化石海水による「温泉県埼玉」も夢ではない。実際、他にも高温、自噴の温泉もあるようだから、訪ねてみよう。

紅葉中津峡 秩父市

2012年11月12日 17時59分17秒 | 名所・観光
紅葉中津峡 秩父市

12年11月9日、中津峡は紅葉の真っ盛りだった。

埼玉県随一の紅葉の絶景ポイントと聞いていたので、一度は訪ねたいとかねがね思っていた。幸い好天。秋の陽を受けた紅葉は光り輝き、予想をはるかに上回る豪華さだった。

紅葉にもいろいろある。イロハモミジ、ツタ、ハゼ、ウルシ、ドウダンツツジ、ニシキギのように文字どおり紅いのもあれば、イチョウ、ブナ、コナラのように黄葉、つまり黄色いもの、クヌギのように茶褐葉とでも呼ぶべきか、茶色っぽいものもある。

それぞれの色の違った葉が並存したまま目に映るのが、いわゆる紅葉なのだろう。

自然の紅葉では、黄葉、茶葉が多い。中津峡のは所々に紅葉が際立ち、豪勢さを盛り上げる。

地図を見れば分かるように中津峡は、奥秩父の中で最も西側にある。北進すれば志賀坂峠で群馬県、西進すれば三国峠で長野県に至る。

埼玉・長野県境の十文字峠を源にする中津川が深い峡谷をえぐる。両岸に、100mにも及ぶ絶壁がそそり立つところもある。それが全山紅葉しているのだから、圧倒される。

奥秩父随一の美観で県の名勝地に指定されているのも十分うなずける。

中津峡の問題はアクセスである。

さいたま市の武蔵浦和から鉄道、バス、徒歩で出かけると、武蔵野線で秋津で西武池袋線に乗り換え、飯能で特急に乗り換え、西武秩父駅から走って秩父鉄道お花畑へ。終点の三峰口で西武観光バスに乗って約50分。中津峡の中心地、相原橋で下車するまで3時間以上かかる。特急を使うのはバスに乗り遅れないためである。日に数本しかないからだ。

相原橋から徒歩で仏石山トンネルを迂回して川沿いの仏石山遊歩道と持桶トンネルの手前にある深紅の「持桶の女郎もみじ」(写真)を見て、持桶トンネルを迂回して川沿いの持桶遊歩道へ。

「女郎もみじ」が中津峡の目玉で、この二つの遊歩道から眺める紅葉が中津峡の華である。

なぜ「女郎もみじ」と呼ばれるのか。

その由来について、秩父観光協会大滝支部に残るメモによると

かつて中津峡には48の瀬があり、48の丸木橋がかかっていた。そんな昔の秋のある日、もみじが盛りを迎えた持桶に、山奥には見られないあでやかな男女がなぜか突然現れた。

二人は紅葉の美しさと手持ちの酒に酔いしれ、たわむれに舞い踊った。

二人がどこから来たのか、どこに帰ったのか、見た村人はおらず、いつとはなく姿を消していた。

そこにある日本のもみじの紅葉が二人のあでやかな姿に似ているので、人々は「女郎もみじ」と呼ぶようになった。

紅葉は300年余を経ているという。

持桶遊歩道から「彩の国ふれあいの森」にある「こまどり荘」に向かう途中にある民宿中津屋でこの話を聞いた。寒い日だったので、昼間から二人にあやかって銘酒「秩父錦」二本を熱燗で飲み、その昔をしのんだ。

ミシュラン 長瀞町

2011年09月21日 17時45分24秒 | 名所・観光
ミシュラン旅行ガイド 長瀞町

生来、おっちょこちょいなので、11年5月中旬、「長瀞町がミシュランの旅行ガイドに、県内で初めて掲載された」と聞いて、てっきり高尾山(東京・八王子)と同じ評価(★の数)が与えられたのか、と早とちりした。

新聞をよく読んでみると、ミシュラン社の日本旅行ガイド本「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、評価も高尾山のように「わざわざ旅行する価値がある」の「★★★」(三ツ星)ではなく、長瀞町の宝登山(ほどさん)神社に「興味深い」の「★」(一つ星)が付いただけ、ということが分かった。

がっかりすることはない。県内の観光地といえば、川越や大宮の氷川神社がいつも筆頭。それより先にミシュランに紹介されたのだから、長瀞町や観光関係者だけでなく、上田清知事もブログで「町や鉄道会社などと共同で観光PRを実施する」と喜んだ。

長瀞町(正確に言えば長瀞を中心とする秩父地区)は、続いて9月5日、全国で20か所になる「日本ジオパーク」にも認定されたので、その相乗効果に期待している。

「ミシュラン・グリーンガイド」は1926年からグルメの格付けでも有名なフランスのタイヤ会社ミシュランが発行、世界中のツーリストに信頼されている。その日本旅行ガイド本「ジャポン」は07年4月に次ぐもので、5月13日発刊の仏語版改定版に掲載された。

これに「埼玉県と群馬県のツアー」が取り上げられ、長瀞については、秩父鉄道上長瀞駅から、「県立自然の博物館」や神社をめぐるコースのほか、都心からのアクセス、周辺の飲食店などが約1ページ紹介されているという。

宝登山は、標高497㍍。500㍍にも満たない。高尾山の599㍍より100㍍ほど低い。宝登山神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の途中、山頂に向   かっている際、火難に遭い、進退窮まったところを神の使いの山犬が火を消し止めて、助けてくれたことから約1900年前創建された。この故事から「火止山(ほどやま)」の名ができ、「宝登山」に変わった。

火災盗難よけの守護神として関東一円から年間100万余の参拝者が訪れる。)09年に136年ぶりの大改修工事をしたばかりで、極彩色の彫刻が見事。

秩父神社、三峰神社と並ぶ秩父三社の一つである。

9月に開業100周年を迎えた長瀞駅から神社まで徒歩15分。山頂には奥宮がある。神社から徒歩3分でロープウエイ乗り場山麓駅があり、山頂駅まで5分。山頂駅から徒歩6分で奥宮。山頂付近では、季節によってウメ、ロウバイ、ツツジが楽しめる。

宝登山神社には普通、長瀞駅から出かける。秩父鉄道で一つ秩父駅よりの上長瀞駅を使うなら、「県立自然の博物館」にも近く、荒川に降りると有名な「虎岩」も見られる。「虎岩」は、褐色と白色の層からなり、虎の縞模様を思わせるので、この名がある。

1916(大正5)年、盛岡高等農林の二年生だった宮沢賢治は、この模様を博多帯になぞらえて、

 つくづくと粋なもやう(模様)の博多帯荒川ぎしの片岩の色

と詠んで、親友に送ったとされる。「虎岩」もまた片岩なのだ。

近くの親鼻橋下の荒川右岸には美しいピンク色のこれまた有名な「紅簾石片岩」があり、その対岸が「長瀞舟下り」の出発点だ。

「長瀞舟下り」は、「ジオパーク」を川から見るのが主眼だから、「ジオパーク」と「ミシュラン」のコラボレーションが実現するだろう。長瀞観光の一つの未来図が描けそうだ。






長瀞ライン舟下り 

2011年09月20日 14時31分56秒 | 名所・観光
長瀞ライン舟下り 

埼玉県の母なる川「荒川」は、文字どおり「荒れる川」を語源とする。

東京・赤羽の岩淵水門で隅田川と別れて荒川放水路ができるまでは、江戸や東京の下町に何度も洪水をもたらし、恐れられた。

その上流に長い瀞(氵=さんずい、水の意、つくりは静か。静かな水=川)があるのは、皮肉な話だといつも思っていた。

そこを下るのだから、瀬(水流の急なところ)もなく、さぞゆったりしたもので、スリルも味わえまいと、これまで敬遠してきた。

ところが、「長瀞ライン下り」のパンフレットなどを見ると、けっこう川波が荒立っているところもあるようだ。

百聞は一見にしかずと、梅雨晴れの13年6月17日初めて乗ってみた。

運航ルートは、国指定名勝・天然記念物の岩畳の上流の親鼻橋(皆野町)から下流の高砂橋の南までの6km(Cコース約40分)。岩畳はそのちょうど中間点にあるので、親鼻橋―岩畳(Aコース約20分)と岩畳―高砂橋(Bコース約20分)に分かれる。

通しよりもAかBのどちらかに乗る人が多い。長瀞駅を降り、秩父鉄道を渡った所にある「長瀞ライン下り案内所」で乗船券を買って待っていると、バスが迎えに来て、出発点に向かう。

乗り場は橋の下で、私の乗ったAコースでは秩父鉄道の「荒川橋梁」をくぐって下る。

船は、大工経験のある船頭の手作りの和船(約1.5t)でエンジンなし。前後の船頭二人が長い竹ざおと後ろの櫂(かい)で操る。定員約20人。

船べりに長いビニール・シートがつけてあるのは、瀬を通る際、水がどっと入り込んでくるため、カメラや持ち物、衣服が濡れないようにするためだ。

短いコースなので、ゆっくり両岸を眺めている余裕はあまりないものの、「亀の子岩」や、岩畳の対岸には、「秩父赤壁」が迫り、「明神の滝」も見える。

夏の川風に加え、春には岩畳のユキヤナギ、秋には対岸の紅葉が美しい。

この日は、梅雨の合間とあって、水かさはふだんの日よりいくぶん高く、水の色も茶色くにごっていた。このため、流れも速く、岩畳の南端の到着地まで18分で着いた。

船頭さんの説明だと、この付近にはウグイやハヤ、オイカワ、コイなどの魚種が豊富。それを狙って、カワウが飛んでいるのが見えた。

離岸してまもなく「勢子(せいご)の瀬」、岩畳の目前に「小滝の瀬」があり、水が入ってくる。

長瀞ラインは、河口から約110kmのところにあるという。

カヌーを楽しむ若者の姿もあった。カヤックやラフティングも楽しめる。

船くだりは3月10日から12月4、5日まで。冬の荒川は、水も澄み、流れはとてもゆるやかなので、コタツ船も楽しめる。

「長瀞遊船」の名で1915年に創業、100周年を迎えた長瀞ライン下りは、観光川くだりのランキングで全国4位、年間230万人が利用するという。

長瀞駅の駅員さんの話だと、駅の海抜はざっと140m、宝登山神社の鳥居で200m、山頂で500m(細かくいえば497m)。

参道を登ると、冬の間に凍らせた天然氷をかき氷で食べさせる店に行列ができていて、旧新井家住宅近くの「花の里」ではハナビシソウが満開だった。







「紅廉石片岩」 長瀞町

2011年09月19日 12時46分20秒 | 名所・観光

「紅簾石片岩」長瀞町

宝石でも奇石でもない。中国のように奇岩怪石がそそり立っているわけではない。世界で最も美しいと言われる“岩石の女王”が荒川沿いの長瀞にあると聞いて、日本一の板碑(いたび)「野上下郷石塔婆」を訪ねた足で、現地を訪ねた。

名は「紅簾石片岩(こうれんせき・へんがん」。白い石英片岩が筋状に入っているので「紅簾石石英片岩」とも呼ばれる。「片岩」とは、圧力や温度などの変成作用を受けた変成岩のこと。

「武蔵型板碑」の原石の緑泥石片岩もその一種で、板状に割れるのが特徴。「秩父青石」「武蔵青石」とも呼ばれる。

それが「紅簾(赤いすだれ)」状になっているというのだから、その名だけで魅せられる。紅簾石を多く含み、石英、絹雲母が混じり合っているため、季節や時間で見る目には暗紫色や真紅色にも変化するという。国名勝、天然記念物に指定されているのに、立入禁止でもなく、自由に上にも乗れる。

私が訪ねたときは朱色に近いように見えた。岩上で紅色が強い部分を見ていると、その色合いや形状から官能的なものを感ずるほどだ。

秩父鉄道の親鼻駅から徒歩で約10分。親鼻橋のすぐ上流の右岸にある。国指定名勝・天然記念物「長瀞」の最も上流にある。これだけの規模の紅廉石片岩が露頭しているのは、世界でも珍しく、貴重な存在だという。

1888(明治21)年、この「紅簾石」を世界に先駆けて新鉱物として発見したのは、近代鉱物学の日本の草分け、東大教授の小藤(ことう)文次郎である。小藤文次郎は、ナウマン象の発見者としてその名を残すドイツ人お雇い教師のナウマンが、最初の東大地質学教授となった時の第一期生。

ドイツに留学し、36年間東大教授として秩父などの結晶片岩の研究を進めた。

ナウマンは、日本に初めて近代地質学を導入、1878(明治11)年、日本で初めての地質調査を長瀞で実施した。このため長瀞は「日本地質学発祥の地」とされる。

長瀞のキーワードは「変成岩」である。岩石にはそのできかたによって、火成岩、堆積岩、変成岩の三つがある。

火成岩は、マグマが溶けて冷えて固まったもので、花崗岩、玄武岩など。堆積岩は、礫、砂、泥、火山灰などが積もって、固まってできたもので、砂岩、泥岩、凝灰岩など。

変成岩は、このような岩石が、高い圧力や熱で、新しくできた岩石のことである。結晶片岩がその代表。

秩父鉄道の上長瀞駅に近い「県立自然の博物館」の前の川原の荒川左岸には、阪神ファンが喜びそうな、虎の毛皮の縞模様に似たこげ茶色の「虎石」がある。これが結晶片岩である。

1916(大正5)年、盛岡高等農林学校が毎年のように実施していた秩父への地質旅行の中に、当時2年生の19歳の宮沢賢治がいた。虎岩の美しい色と縞模様に感激して

つくづくと「粋な模様の博多帯」荒川岸の片岩の色

という句を親友に送った。

その歌碑が博物館の前に、「日本地質学発祥の地」の碑とともに残されている。

この長瀞を中心とする秩父地域を地質の世界遺産であるユネスコの「ジオパーク」指定を目指す運動が続いている。

長瀞は11年、その一歩手前の「日本ジオパーク」にやっと認定された。遅きに失したという感じだ。


「ようばけ」  小鹿野町

2011年09月18日 16時13分01秒 | 名所・観光

「ようばけ」 小鹿野町

昔から訳の分からない単語が好きだ。埼玉県は東京に近過ぎて、方言がほとんどないので、分からない単語は少ない。

青森に初めて赴任した時、「まいね」(だめ)という単語だけが聞き取れて、青森弁はドイツ語の響きに似ていると思ったものだ。

大学時代、単位取りとドイツ歌謡のためだけに第2外国語にドイツ語を選んだからだ。当時はまだドイツ語に人気がある頃だった。

「ようばけ」の語をはじめて聞いた時、「せいよう(西洋)お化け」のことかと思った。「面白い。一度見に行こう」と思ってすでに何年経つだろう。

秩父がさる11年、日本の「ジオパーク」の一つに指定されたこともあって、色々読んでいるうちに、「おばけ」ではないと分かったものの、行きたい気持ちは変わらなかった。

14年6月末、札所32番法性寺を訪ねた足を伸ばしてみた。

遠くから見ると、山崩れの現場のように見える。近づくと、幾つも横に長い筋が入って、幾層にもなっていることが見えてくる。これは崩れではなく地層の大「露頭」なのである。

よくよく見ると、砂岩の層と泥岩の層が互いに重なり合っているのが見える。

高校時代に、受験に役立たないと地学を学んでいないので、地球の歴史についてはからきし知らない。目の前にある「小鹿野町立おがの化石館」に飛び込んだ。

「2階のベランダからよく見えますよ」とのことで、上がって見ると、なるほどだ。「お化け」とか「山崩れ」と思っていたのが恥ずかしくなる。

「ようばけ」とは、「よう」と「ばけ」の合成語。「よう」とは陽(日)の当たる様子、「ばけ」とは秩父で崖のこと。「陽の当たる崖」である。あいにく曇り日だったので、陽の当たっている写真は取れなった。

赤平川の右岸の高さ約100m、幅約400mの大きな崖で、秩父地方では最大、全国でも有数な規模の露頭である。地層を観察するのに格好の場所なので、研究に訪れる人も多い。「日本の地質百選」にも選ばれている。

資料を読むと、現在の秩父盆地は約1500万年前、東側が外海に通じる湾(秩父湾)になっていて、砂岩や泥岩などの地層(新生代第3紀層)が約5千mの深さに堆積している。

盆地の川沿いからクジラなど、武甲山の山頂からも貝の化石が見つかっているのは、そのためだ。

周りの山地が隆起して、一辺が約12kmの正方形に近い盆地になって取り残されたのが秩父盆地なのだという。

1916(大正5)年、盛岡高等農林学校時代、学校の地質研修旅行でこの地や長瀞の岩畳、虎岩などを訪ねた宮沢賢治の歌碑が、「ようばけ」を望むこの化石館の裏に立っている。(写真)

 さはやかに半月かかる薄明の秩父の峡のかへり道かな 

「ようばけ」を見た後、宿への帰り道でできたと考えられている。

おがの化石館には、まだ不明なことが多く、「世界の奇獣」と呼ばれる「パレオパラドキシア」の骨格模型が展示してある。

「ようばけ」と同じ地層がある近くの般若地区で発見された哺乳類で、目、鼻、耳の位置からワニやカエルのように水陸両用の生活をしていたらしい。

骨格模型は、海を泳ぐ姿勢で復元しているとある。こんな怪獣がえさを探して秩父湾を泳いでいたと想像するだけで楽しくなってくる。陸に上がって近づいて来られたらそれこそ大変だ。

足に水かきのようなものがあり、歩くのは苦手だったようだが。

16年8月27,8日には、大型投影機を使って、このようばけの崖にパレオパラドキシアが泳ぎ、化石になっていく様子が映し出されて、人気を呼んだ。