ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

秩父の三峯神社

2012年11月30日 20時01分05秒 | 寺社



たまたま梅雨の晴れ間に恵まれた10年7月10日の土曜日、いつもの仲間と秩父の三峰神社に出かけた。もう何年、いや何十年ぶりのことだろうか。

この神社には、日本神話の中で私が最も興味を持っているヤマトタケルノミコト(日本武尊)の巨像がある。いくつもの巨石の上に1970(昭和45)年に建てられたこの銅像は、本体は5.2m、地上15m。左腰に剣を指し、5本の指を開いた右手を差し伸べている。

東征の際、横須賀市走水を船出して東京湾を千葉に向かって渡ろうとした際、襲ってきた嵐を鎮めようと、自ら入水して果てたオトタチバナノヒメ(弟橘媛)に、「ああ、わが妻(吾が妻)」と呼びかけている姿であろう。

オトタチバナノヒメが、入水時に詠んだ「さねさしさがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも=さねさし相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問いし君はも」という有名な歌がある。

相模の野でたぶらかされて、火攻めにあったミコトが、東征の前に叔母のヤマトヒメ(倭姫)からもらった剣(草なぎの剣)と火打ち石を使って難を逃れた時、オトタチバナノヒメの身の安全を気遣ってくれたミコトに応えて詠んだ歌である。

「愛のために一身を捧げる」。日本の数多くの恋の歌の中で最も素晴らしいものの一つではあるまいか。

三峯神社には、山梨県から群馬県の碓井峠に向かうミコト一行が埼玉・山梨県境の雁坂峠で道に迷ったとき、山犬(狼=日本狼)が道案内した。ミコトは、そこに日本国の「国生みの神」である「イザナギ(男神)」「イザナミ(女神)」の国造りをしのんで神社を創建したと伝えられる。

三峰とは、神社の奥の宮がある「妙法ケ岳」(1329m)、「白岩山」(1921m)、東京都の最高峰「雲取山」(2017m)のことだという。

修験道では必ず顔を出す役小角(えんのおづぬ)がこの三峯で修業したとの言い伝えがあり、修験道の道場として知られた。山また山、ぴったりの道場である。

昔は埼玉県の行き止まりの辺境だったのが、国道140号線の雁坂峠に「雁坂トンネル」ができ、山梨県に抜ける「秩甲斐街道」となったので、せっかくの秋の「秩父もみじ街道」も通り抜けの道になった。

神社に通ずる「三峯ロープウエー」も老朽化で廃止され、今ではバスだけ。

しかし、訪れる人が少なくなった分、昔の神秘性が戻っている。標高1102mのこの神社には、梅雨も明けないのに、早くもセミのカナカナが鳴き、山萩が咲いていた。雲取山への登り口では、雨上がりとあって初めて「ギンリョウソウ」も見た。

「狛犬」ならぬ「山犬」が守るこの神社は、女性にも人気の新しいパワースポットになった。絶滅したといわれる山犬(おおかみ)を探し続けている人もいる。年に100万人が訪れるという。社殿も見事に復旧されていて、都会の喧騒が嫌いな人に向いている。


フカペディア 深谷市

2012年11月29日 16時36分25秒 | 市町村の話題


インターネットの検索に慣れている人なら、「ウィキペディア」を知らない人はあるまい。

みんなで創る百科事典で、とうの昔、かさばる百科事典を処分したので、私にとってはなくてはならないものだ。

アクセスするのはまず、もちろん日本語版だが、いま一つ。国際的なものなら英語版に限る。

日本語のは、国際的な標準に照らせば水準はまだまだだ。大学なども自校の宣伝にもなるのだから、研究成果をどしどし載せてほしいものだ。

たまたま、新聞の埼玉版で深谷市の「ウィキペディア」を目指す「フカペディア」というのがあるのを知った。12年10月から始まった。

アクセスしてみるとなかなか面白い。

私のブログでも、深谷市のことは何度も書いてきた。渋沢栄一の崇拝者で、ネギも大好きなせいもある。何度この市を訪ねたことか。

素晴らしいのは、私みたいに部外者ではなく、「フカペディア」は、市民が筆者であることである。

たとえ私のような昔からの老木ファンでも、深谷市の「榧(かや)老木」が、樹齢1200年を超しているのは初めて知った。

「菊泉」で知られる滝沢酒造には、高さ25mを超す赤レンガの煙突と酒蔵と貯蔵庫を結ぶ「空中廊下」がある。

「ブロ包」とは、ブロコッリー専用包丁、「おっぺす」とは「圧力を加える」という方言だという。

フカペディア投稿希望者には、「視点を変えれば深谷にはさまざまな魅力がある」「歩け!とにかく歩け!」と、物書きの原点を教えているのも頼もしい。

「読みやすい記事を書く」ためのアドバイスもある。

何の基礎知識もなく、書き放題、垂れ流しがソシアル・メディアの現状だから、「コミュニケーションが目的ではありません」とはっきりと断っている。

こんなすごいのが全国に広がってつながれば、素晴らしい日本の知の世界が広がりそうな気がする。

13年6月には、全国広報コンクールの広報企画部門で入選した。








水潜寺 秩父札所34番 結願寺 皆野町

2012年11月27日 14時37分13秒 | 寺社



水潜寺は、秩父札所34番の結願の寺である同時に、日本百観音の結願の寺でもある。(写真)

秩父34箇所観音霊場は、秩父市、横瀬、皆野、小鹿野町の狭い範囲に点在している。

これに対し坂東33箇所は、東京都、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉、神奈川の1都6県。西国33所は、関西の京都、大阪の2府に和歌山、奈良、滋賀、兵庫4県と岐阜県に広がる。

これを全部回ったら大変だろう。

ところが、水潜寺に詣でて、観音堂(本堂)の前にある、百観音の砂が集められている「百観音御砂」の足型の上に足を乗せて拝めば、日本百霊場の功徳が得られるとされる。

足元を見ると、確かに「足型の上で拝めば百観音巡礼の功徳がある」と明記してある。

結願堂の前には百寺の名を記した石輪を回せる「百観音功徳車」もある。

6体のお地蔵様が並ぶ6地蔵も7観音もそろっている。

結願の寺だから他の33観音の石像がずらり並んで迎えてくれる。

まだ33箇所を回り終えていないのに、早々と水潜寺に来たのは、秩父鉄道の皆野駅から便数は少ないものの、町営バスがあり、約20分。距離は6kmぐらいで、歩いても1時間半くらいで来られるからだ。

それと山の中の寺なのになぜ「潜水」という海にあるような名がついているのか、この目で確かめたかったからだ。

本堂の右手の山に自然にできた岩屋があり、通り抜けられるようになっている。そこには清水が湧いていて、観音詣でが終わった人は中をくぐって、その水で身を清め、聖なる世界からまた俗世間に帰っていく慣わしだった。

そこから水潜り寺が水潜寺になったのだという。

その岩屋をぜひ潜ってみようと楽しみにしていたのに、今は落石や落木の恐れがあるというので、立ち入り禁止になっている。

岩屋の水はパイプで引いてきて「水くぐりの長名水」の名で飲めるようになっている。飲んでみると冷たくおいしい。

「水かけ地蔵尊」も近くにあり、長名水を三杯かけて願い事を三度唱えるとかなうとか。

「撫でぼとけ」で知られるオビンズル様も讃仏堂の左側にある。

この寺で拝めば功徳、御利益が一杯だ。

子連れの熊が数度目撃されているので、「熊出没注意」の張り紙があるのが、いかにも山寺にふさわしかった。

皆野町出身の俳句界の長老・金子兜太氏の

 曼珠沙華 どれも腹出し 秩父の子

の句碑が立っているのも似つかわしい光景だった。

結願寺らしく、水潜寺の本尊は、中央に一木造り室町時代の作とされる「千手観音」、脇に西国を象徴する阿弥陀如来(西方浄土)、坂東を象徴する薬師如来(東方瑠璃光世界)を配している。

有難い限りである。

帰りはバスの便が少ないので、秩父鉄道・親鼻駅まで歩いた。寺から少し下りると、「秩父温泉・満願の湯」がある。

地下数百mから湧出する、全国有数のアルカリ性が極めて高い天然温泉だという。

入ってみようかと思った。だが、満願ではない身。これ以上ばちあたりを重ねては、と遠慮してヤマを下った。

駐車場は車で一杯だった。

法性寺 秩父札所32番 小鹿野町

2012年11月25日 19時15分34秒 | 寺社


法性寺(ほうしょうじ)は、珍しいものが多い札所である。

山門は、秩父札所で唯一の鐘楼門。2階建てで、1階に仁王、楼上には鐘を吊ってある。

本尊に代わってその前に安置されている本堂の「お前立ち観音」は、船の上に乗って、宝冠の上に笠をかぶり、櫂を持っている珍しいお姿で、「お船観音」と呼ばれる。観音さまが船をこいでおられるのだから、一見の価値がある。この寺が「お船観音」と呼ばれる由縁である。(写真)

このため、猟師や船員、船舶関係者の人々の信仰が篤いと言われ、山の中の寺としては特異な存在だ。

東京の浅草寺の本殿裏にはこれを模した観音像が祀られているという。

この札所には「船」にちなむものが他にもある。奥の院は長さ200m、高さ80mの船の形をした巨岩からなり、「般若のお船」と呼ばれる。この岩も「お船観音」の名前の由来になっている。

ここからの眺めは、秩父札所で一番素晴らしい。県の自然環境保全地区に指定されている。

奥の院への道は、急勾配だ。大岩の洞門をくぐって、本堂から往復1時間から1時間半かかるので、脚に自身のない人は、本堂前の遥拝所で拝んだ方がよさそうだ。

木立の中の岩盤の上に立つ観音堂は 総ケヤキで四方舞台造りの優美で魅力的な建物である。「鳳凰が羽を舞い降りたよう」と形容される。

観音堂の裏の岩窟の砂岩には、蜂の巣状の多くの穴がある。大昔、秩父にまで海が広がり、秩父湾と呼ばれた時代に海に浸されていた証拠である。

「海退」で海が後退し、岩の表面から水が蒸発すると、塩類ができ、その部分がもろく崩れる風化現象の名残だ。

これに触発されて、法性寺の帰路は、「ようばけ」まで脚を伸ばして、秩父の古代をしのんだ。

本堂の前にある「長享2年秩父札所番付」も興味をそそった。長享2年と言えば、1488年。室町時代、加賀の一向一揆など農民の一揆が激しかった頃である。

「番付」とは「札所を回る順番」のことのようで、現在の順路とは違っている。法性寺は、今では32番だが、15番になっている。

1番は、現在17番になっている定林寺だ。当時は、秩父大宮郷(現在の秩父市)を基点にして順路が定められたためである。

この番付は33番までしかない。真福寺(現在札所2番)が加わって、34寺になり、現在のような順路が定まったのは江戸時代の初期だという。

室町時代のこの頃にはすでに、札所の順番が成立していた貴重な資料として県の有形文化財に指定されている。

法性寺は花の寺でもある。

山門を入るとすぐ左手に「これより花浄土」と墨書してある。「東国花の寺百ケ寺」の標札もかかっている。

春はミツバツツジ、初夏はコケのじゅうたん、秋にはサルスベリとシュウカイドウ、それに紅葉と続く。「秩父の苔寺」「シュウカイドウの寺」として親しまれている。

巡礼ではなく、ハイキングやトレッキングの人は「環境整備基金」として300円払ってくれとのことなので、迷わず300円を箱に投じた。

ベン・シャーン展 県立近代美術館 さいたま市

2012年11月25日 11時13分48秒 | 文化・美術・文学・音楽

県立近代美術館で12年11月から13年1月までの日程で「ベン・シャーン展」が始まり、さっそく見に行った。(写真はポスター)

ベン・シャーンといっても若い人にはなじみが薄いかもしれない。先にこの美術館で展覧会が開かれたアンドルー・ワイエス同様、20世紀のアメリカを代表する画家の一人。

震えるような繊細な線で戦争、人種差別、迫害、貧困で虐げられた人々の悲しみや怒りを優しく描き続けた。

「線の魔術師」とも呼ばれる。

ユダヤ系リトアニア人で米国へ移住、社会的テーマを中心に制作を続け、1930年代から60年代に活躍、1969年に死亡した。

驚くのは、今回展示された約300点が、他館から借りたものではなく、朝霞市のコレクション「丸沼芸術の森」のものだということだ。

芸術の森コレクションによるこの美術館のベン・シャーン展は、2006年以来二度目。前回より約百点も増え、小品が多いとはいえ、その点数に圧倒される。

11年から12年にかけて、日本の各地で回顧展が開かれるなど、ベン・シャーンへの関心が高まっているようで、平日でもけっこう見に来る人が多いのも驚きだ。

この美術館のアンドルー・ワイエス展も、この芸術の森のコレクションの所蔵品だった。

この芸術の森は長年、若手芸術家の支援を続けており、ベン・シャーンの作品もその参考になるようにと集められた。

ベン・シャーンには、社会問題をテーマにした作品が多い。今回の展示でも、フランスの「ドレフュス事件」、米国の「サッコとヴァンゼッティ事件」といった有名な冤罪事件や、キング牧師を中心とする米国の「公民権運動」、ナチズム反対のためのポスターなどもある。

1954年に日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験で被爆、無線長だった久保山愛吉さんが死亡した「第五福竜丸」事件も、雑誌のための挿絵原画などが見られる。

ベン・シャーンは「福竜丸(ラッキー・ドラゴン)・シリーズ」として、約10年描き続けたという。

このような社会的事件を題材としたものに限らず、シェークスピアや聖書を題材にしたものなどにも、素晴らしいものがあり、その多才さをうかがわせる。社会派リアリズムの画家という評価にはおさまり切らない幅の広さだ。

初めてベン・シャーンの作品に接したのは、大学の図書館の画集で見た「解放」だった。この展覧会にはない。

第二次世界大戦後のフランス解放のニュースを聞いて1945年に描かれたもので、戦争で吹き飛ばされたアパートと瓦礫を背景に、残っていた回転柱にぶら下がって遊ぶ三人の子どもたちの光景である。

白い風が強く吹きつける中で、顔がはっきり見えるのは一人だけ。だが、ぶら下がっているだけで、その表情は決して解放の喜びではない。

以来、ベン・シャーンといえば、この絵がいつも頭に浮かんでくる。

「解放」は、ニューヨーク近代美術館所蔵で、回顧展の際、放射能汚染を心配して福島県立美術館には貸し出されず、話題になった。

福竜丸事件を対象にしたベン・シャーンが存命なら、「どう対応したかな」とふと思った。

アンドリュー・ワイエスのコレクター 朝霞市

2012年11月23日 19時46分10秒 | 文化・美術・文学・音楽

アンドリュー・ワイエスのコレクター

絵を見るのは大好きだ。東京に通っていた頃は、上野の国立博物館を筆頭に目ぼしい美術館の主要な展覧会はほとんど見た。

どこの県にも県立美術館はある。わが埼玉県にも、JR北浦和駅からほど遠からぬ北浦和公園のなかにあり、この公園は昔から私の好きなところだ。

会社通いを止めて、暇つぶしに加入させてもらったシニア大学の教室は、この公園に道路を隔てて向かい合った公民館の中にある。

その大学のカリキュラムの一つに「県立美術館見学」があり、一緒に美術館に出かけた。“学生”が125人もいるから大変だ。

学芸員の説明を聞くと、大変面白い。開館以来よく来ているとはいえ、企画展を見に来る程度だから知らないことが多い。

一番興味を惹かれたのは、この美術館が女優・若尾文子の夫だった黒川紀章の設計だということだった。黒川紀章はこれをきっかけに各県の美術館、ついには遺作の東京・六本木の「新国立美術館」に至ったのだというである。建築には絵と同様、昔から関心がある。

もう一つ飛び上がるほどびっくりしたのが、9月25日から12月12日(10年)までこの美術館で展示している「アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語」の出品作約200点のすべての所有者が、埼玉県は朝霞市の倉庫業者だということだった。

ワイエスの絵は渋谷の文化村などでこれまで二回見た。それが埼玉県に関係があったとは露知らなかった。

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は2007年、ブッシュ大統領から芸術勲章を受けたほどの米国の国民的画家。米北西部のメーン州などで、米国の原風景とそこで暮らす身近な人々を、主に水彩やデッサンで描いた。

代表作はニューヨークの近代美術館にある「クリスティーナの世界」。メーン州でスウェーデン系のオルソン家の、モデルになった姉クリスティーナと弟のアルヴァロをモチーフにして30年描き続けた「オルソンハウス・シリーズ」は有名で、世界的にも高く評価されている。

「クリスティーナの世界」は、そのシリーズの一つ。今度の展覧会には「クリスティーナの世界」の最初の習作など約2百点が展示されている。

クリスティーナはポリオで生まれつき足が不自由だったが、独立心が強く、車椅子や松葉杖は使わなかった。アルヴァロは漁師だったのに、クリスティーナ看病のため、ブルーベリー栽培に転向した。

ワイエスは、二人が亡くなるまでその生活の断面の全てを描いた。シリーズ最後の年の絵は、誰もいなくなった寂しいオルソン・ハウスである。

体育の日の10月10日(10年)、県立美術館で、この朝霞市のコレクターの講演があった。須崎勝茂氏(写真)。朝霞市の貸倉庫会社「丸沼倉庫」の社長である。1978年に27歳で家業を継いだとき、父親に「経営に携わるものは何か趣味が持ったほうがいい」と言われた。

陶芸の手ほどきを受けていたとき、芸術家たちが仕事場がなくて困っていることを知り、朝霞市に母と「丸沼芸術の森」を設立、外国人を含め十数人が制作に励んでいる。238点のワイエス・コレクションもこの森の所有だ。

ワイエスの絵も、この画家たちの役に立てばと伝えたところ、応じてくれたものだった。この森は1985年に始まったが、世界的なアーティスト村上隆もこの村育ち。約20年間ここで制作に当たった。

「オルソン・ハウス物語」は、日本各地の美術館で展示されたほか、米国各地、さらにスウェーデンでも開かれた。「巨匠の作品を自分の絵だけで世界で展覧会ができる」人物は現在、日本にはまず見当たらない。


観音院 秩父札所31番  小鹿野町

2012年11月23日 17時00分40秒 | 寺社



12年4月、仲間と二度目の秩父札所めぐりに出かけた。今度は34寺中で最西端の31番「観音院」だけである。

秩父札所の中で最高の景観を誇るとされるだけに、さすがに素晴らしかった。

西武秩父駅からバスで40分。老人の足だから終点の栗尾で降りて、坂道を同じくらいの時間歩く。

「花街道」の名に恥じず、名物の「しだれ桃」が、坂の下から上に順に開き始めていた。

「しだれ、梅、桜」には慣れているものの、「しだれ桃」、それも一本ではなく、道の両脇のあちこちに咲こうか、咲くまいか、微妙な状態にあるのを見たのは初めてだった。

白、紅一色のもあれば、同じ木に白、紅の花が別々についているもの、もっとすごいのは花の中に白、紅の混じっているもの。満開になればさぞ美しかろう。

中国人が昔から桃が好き。「桃源郷」という言葉があるのを思い出した。この春、寒冬の反動で、ソメイヨシノの満開を食傷するほど見たので、「しだれ桃」の美しさは、中国的で格別だった。

この寺は、仁王門に一本石造りとしては日本一の仁王像があるので知られる。木作りの仏像があるのと同じように、一本の砂石から彫り出したものだ。

4mを超す荒削りな石像。地元の日尾村の黒沢三重郎と信州伊那郡の藤森吉弥の作で、明治元(1868)年に完成したとある。

この石は、寺の奥の観音山から切り出された。地元産である。昔は秩父地方の墓石は、ここから切り出されたものが多かった、という。

仁王門から本堂まで296段の急な階段を登る。手すりもあり、赤い四角の杖もあるので、それを借りて上る。

般若心経の字数は276.それに回向分の20字を足した数なのだそうだ。「お経(心経)を唱えながら登ってください」と書いてある気持ちがよく分かる。

階段の両側に多くの句碑が立つ。本堂が改築された際、埼玉県俳句連盟の役員有志が建立した、と記念碑にある。なかなかの作品が多く、いちいち読んでいたら、登るのに時間がかかった。

本堂は大きな岩を背にしており、左手に落差20mの滝がある。水量が多かった時代には、修験者たちが荒行に励んだという。滝下の池の上に不動明王の像があり、池には大きな鯉が泳ぐ。

滝の左側の断崖の大岩には、県指定史跡の磨崖仏10万8千体が刻まれていると書いてある。風化摩滅のため判然としない。

この岩は、2、3千万年前の海底に小石や砂が積もってできた礫質砂岩だという。

秩父が大昔、海底にあったことは聞いたことがある。海底の岩が隆起して目前にあるわけで、感慨を禁じえない。

本堂からさらに階段を登ると、芭蕉の句碑もある東奥の院だ。西奥の院は、土砂崩れがあったため、閉鎖されている。

東奥の院から西奥の院を遠望すると、多くの石仏の姿も見える。この高みに立つと、秩父札所で最西端のこの寺が「西方浄土」と見なされた気持ちが分かる。

無住(無住職)の寺(曹洞宗)ながら、奉賛会の中の5人が、交代で365日朝8時から午後5時まで詰める。ご苦労様としか言いようがない。

本堂の近くで「秩父札所サイクル巡礼」のポスターを見かけた。札所巡りにもサイクリングの時代が到来したようだ。

坂道が多いとはいえ、34寺合わせて100kmだから、若くて元気なら難しい距離ではない。

観音院の手前にある地蔵寺は、札所ではなく水子供養の寺である。1971(昭和46)年の落慶式には、住職の知人だった当時の佐藤栄作首相も祭文を読み、写経を納めた。

山の山腹の何か所かに、赤いおべべ(おかけ)に赤い風車のついた1万4000体を超す水子地蔵が、ずらり並んでいる光景はショッキングである。

建立由来を記した石碑には、第二次大戦後、優生保護法が制定されて以来、胎児の中絶は、当時すでに3千万を超えていたと書いてあり、二重のショックを受けた。

しだれ桃に観音院、地蔵寺と札所最西端に来た甲斐が十分にあった。

映画「のぼうの城」 行田市

2012年11月23日 14時05分59秒 | 文化・美術・文学・音楽


ほんとに久しぶりで「映画館」で映画を見た。

学生時代は映画キチで映画評論家を目指していた。昼夜6本を見ることも珍しくなかった。白黒時代のフランス映画から、当時はやりの次郎長ものまで映画は手当たりしだいに見た。

「映像万年筆論」などという迷論にだまされて、本さえ読まず映画に没頭した

その反省もあって、最近は、テレビで古い名画をたまに見るだけだ。

それでもなぜ映画館まで足を運んだのか 

「のぼうの城」のためである。その映画の舞台になった行田市の古墳群や古代ハス池も何度も訪ね、背景については百も承知だ。

そこへ来たのが

「堂々! 2週連続・第1位! 」「空前絶後のとんでもない《大逆転》に驚き笑う! 興奮と感動の劇場内、これを見ないと今年は終わらん! 」

という朝日新聞の広告である・

「戦国最後の大合戦、驚愕の実話!200万部を越える大ベストセラー映画化! 」とも付記してある。

最近、小説にも興味がないので、読んではいない。「それほどならば」と、重い腰を上げた。
浦和駅前のコルソ内のユナイテッド・シネマ浦和。60歳以上の老人は1800円のところを1000円で見られると聞いて驚く。

昔、ションベンの匂いのする三本立て映画館に慣れていたので、座席も素晴らしく、座席が階段状に並んでいるのにも驚く。

ウイークデーの昼間だったので、ガラガラかと思っていたら、老人が仲間連れで来る姿が多く、真ん中の席は埋まっていた。

約2時間半、紙芝居的な面白さは十分で、観客は終わって、配役の名前が流れても席を立たない。

全国公開から3日間で観客動員数41万人弱、興行収入5億円余、埼玉県内20の映画館では、知事を初め、県人口比6%を上回る約12%にあたる約5万人が観賞したという数字がうなずける。

観客動員数ランキングでは、1位が地元「ワーナーマイカルシネマズ羽生」、2位が「熊谷シネティアラ21」だったという。5位にはさいたま市の各シネコン(複合映画館)が入ったという。

「ぶぎん地域経済研究所」は12月中旬、この映画の公開に伴う県内への経済波及効果を約38億円とはじいた。

筋書きは、忍(おし)城に石田光成の大軍2万が攻め込み、水攻めにめげず、「のぼうさま」と呼ばれる臨時城代・成田長親(ながちか)が奮戦するというもの。

開城のはずだったのに、戦いの発端は、交渉に来た使者のなめきった傲慢な態度に対する反発だった。

北条氏の小田原城の支城の中で、最後までただ一つ開城しなかった忍城への共感がこれだけの県内の観客を動員したのだろう。

日頃「ださいたま」と呼ばれている埼玉県民の屈折した感情が背景にある。

映画は斜陽といわれて久しい。しかし、年々増える老人たちを惹きつけるテーマを持つものなら、たとえローカルなものでもまだまだ頑張れると、テレビにはない素晴らしい音響を聞きながら思った。

研究所によると、週末に大型バスが訪れるなど、観光客が増えているほか、関連グッズや土産物の売れ行きは公開前に比べ5~10倍になっているという。

人口減少率が非常に高い行田市の活性化の起爆剤になることを期待したい。この映画には行田市民のそんな願いが込められている。

音楽寺 秩父札所23番 秩父市

2012年11月17日 18時22分45秒 | 寺社




2014(平成26)年は、秩父札所34ヶ所観音霊場の開創780周年に当たる。12年に1度の午歳(うまどし)総開帳の年である。

3月から11月までは、全札所の厨子(ずし)の扉が開かれていて、普段は秘仏としてお目にかかれない観音様をじかに拝顔できるばかりか、「お手綱(たずな)」と呼ばれる外に出された綱の片方を握ると、観音様と手をつなぐこともできるからというから有難い。

午歳に総開帳をするのは、馬が観音様の眷属(一族)だとされるからとか、開創の1234年が甲午(きのえうま)歳だったからだという。

目ぼしい札所はもう何か所も訪ねた。一番行きたかったのは名前も素敵な23番音楽寺だった。秩父駅から歩いても行けるところにあるので、「いつでも行ける」とこれまで敬遠していたのに、4月5日、花見の帰りに思い切って出かけた。

訪ねたかったのは、音楽好きなこともある。この寺は、その名から音楽を志す人たちが、ヒット祈願などのために訪れることで知られる。

この寺の御詠歌は

 音楽のみ声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう峰の松風

である。

札所を開いた権者(ごんじゃ 仏・菩薩が衆生を救うため仮の姿で現れた者)13人が、松風を聞いて、菩薩の音楽を感じたために「音楽寺」と名づけられたという。本堂の裏手に13人の石仏が立っている。山号は「松風山」である。

音楽好きと言っても声を上げることしか音楽には能がない。この寺に来たかったのは何よりも、秩父事件の始まりに関係するからである。

1884(明治17)年11月1日夜に椋神社に集結、「困民党」を名乗って蜂起した農民たちが小鹿坂峠を越えて南下して、2日にこの寺に集結した。寺の鐘楼の梵鐘(吊り鐘)を打ち鳴らし、約3000人が大宮郷と呼ばれていた秩父の町に駆け下っていった、その現場をこの目で見たかったからだ。(写真)

境内には「秩父困民党無名戦士の墓」と書いた石碑があり、「われら 秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」と刻まれている。

秩父人の心意気である。

秩父駅から来ると、荒川をまたぐ530mの「秩父公園橋」を渡る。主柱から斜めに張った鋼鉄製のケーブルで橋を支える斜張橋が、楽器のハープに見えるので「ハープ橋」とも呼ばれる。

音楽寺は、秩父市と小鹿野町にまたがる約4kmの秩父長尾根丘陵沿いに開かれた「秩父ミューズパーク」の北口を入って間もない右手にある。

秩父札所中最高の景観と言われるとおり、この寺から見下ろす秩父の市街地の眺めは絶景というに値するだろう。右手に削り取られた武甲山が見える。

近くに展望すべり台、展望台を兼ねた「旅立ちの丘」があることからも眺望の良さが分かるだろう。梅林、四季の百花園も近くにある。

「旅立ちの丘」は、1991年に近くの影森中学校の校長小嶋登(故人)が作詞、女性の音楽教師坂本(旧姓)浩美が作曲、今では全国の卒業式でトップの人気になっている「旅立ちの日に」にちなんだものだ。影森中の生徒によるコーラスも流れる。この二人は、県から「彩の国特別功労賞」が贈られた。

「ミューズ」とは、ミュージック(音楽)などの語源になっているギリシャの芸術の女神の名をとったもので、音楽堂、野外ステージなどの文化施設のほか、約50面のテニスコートやフットサル、流れるプール(夏季)、サイクリングセンターなど多彩なスポーツ施設やコテージ(100棟)がある。

尾根を走るスカイトレイン、自転車、歩行者用の「スカイロード」の両側には約3kmのイチョウ並木があり、癒しの森・花の回廊もあって、シャクナゲ、アジサイ、スイセン、サルスベリ、十月桜など各種の花が1年中楽しめる。

年間170万人が訪れるという。


西善寺 秩父札所8番 コミネモミジ 横瀬町

2012年11月17日 13時56分14秒 | 寺社



一本のモミジでこんなに素晴らしい巨木を見たことはない。

12年11月17日に歩き仲間と訪ねた、秩父札所8番の西善寺の境内にあるコミネモミジである。

思わず

 小倉山峰の紅葉心あらばいまひとたびの御幸待たなん

百人一首の歌を口ずさみたくなるほどだ。

目の前に武甲山が迫り、削られてはいても、威容を見せる。

埼玉県の指定天然記念物で樹齢約600年。

幹回り3.8、高さ7.2m、枝の幅は南北18.9、東西20.9、傘回り56.3m

というから、高さよりも枝が四方にひろがり、その広がりの輪が大きいことが分かる。初めて見ると圧倒されるほどだ。太い幹はまるで波のようにうねり、風格を感じさせる。(写真)

関東地方では最大のモミジと考えられるという。

西善寺が、「東国花の寺百ヶ寺 埼玉1番」に指定されているのもうなずける。関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、01年にできたもので、モミジは花ではないものの花として扱われている。


11月中旬の紅葉シーズンには、札所参り・御朱印以外の見物人や写真撮影者からそれぞれ100、200円を任意で徴収している。昨年集まった20万円余はコミネモミジ基金として、軽自動車が東北大津波の被害地、気仙沼商工会議所に寄贈された。

このモミジは東北復興にも役立っているわけである。

モミジに興味を持ち始めたのは、前年、川口市安行のモミジ専門植木園「小林もみじ園」を訪ねて以来である。約3千坪に400種余が植わっていて、まるで植物園のようだ。

そのホームページなどを読んでいると、「日本はカエデ科植物の宝庫」だと分かる。

植物学では、モミジもカエデも「カエデ」といい、どちらもカエデ科カエデ属に分類されている。モミジという科も属もない。その区別は主に盆栽や造園業で行われている。

カエデは、カエルの水かきのように葉の切れ込みが浅いので、蛙手(かえるて)から「カエデ」、モミジは「紅葉ず(もみず)」という動詞の古語が転じたもので、葉の切れ込みが深く赤ちゃんの手に似ている。葉は5枚以上。

西善寺のコミネモミジは、数えてみると葉が五つに分かれていた。

日本の代表的なモミジ、イロハモミジ(別名タカオカエデ)は葉が5-9裂するので、イロハモミジの一種なのだろう。

世界的にみてカエデは、数多くの野生種が凝縮したように日本に自生している。紅葉が美しく、モミジとして親しまれているカエデは、中国や朝鮮半島に数種の自生があるだけで、それ以外は日本列島にあるのだそうである。

日本は「さくらの国」であると同時に「モミジの国」なのだ。

もみじは春モミジも含め、日本には原種、園芸品種合わせて400種類以上あるというから驚く。

モミジは秋だけでなく、春の芽吹きも夏の緑葉も真冬の雪化粧も美しい。今度はその季節にも訪ねてみよう。

「花の寺」というだけあって、初夏にはボタン、初秋には約30本のキンモクセイ、さらにムクゲやサルスベリ・節分草・福寿草なども咲き、年間を通じ花を楽しめるというから。

「ぼけ封じの寺」の別名もある。


紅葉中津峡 秩父市

2012年11月12日 17時59分17秒 | 名所・観光
紅葉中津峡 秩父市

12年11月9日、中津峡は紅葉の真っ盛りだった。

埼玉県随一の紅葉の絶景ポイントと聞いていたので、一度は訪ねたいとかねがね思っていた。幸い好天。秋の陽を受けた紅葉は光り輝き、予想をはるかに上回る豪華さだった。

紅葉にもいろいろある。イロハモミジ、ツタ、ハゼ、ウルシ、ドウダンツツジ、ニシキギのように文字どおり紅いのもあれば、イチョウ、ブナ、コナラのように黄葉、つまり黄色いもの、クヌギのように茶褐葉とでも呼ぶべきか、茶色っぽいものもある。

それぞれの色の違った葉が並存したまま目に映るのが、いわゆる紅葉なのだろう。

自然の紅葉では、黄葉、茶葉が多い。中津峡のは所々に紅葉が際立ち、豪勢さを盛り上げる。

地図を見れば分かるように中津峡は、奥秩父の中で最も西側にある。北進すれば志賀坂峠で群馬県、西進すれば三国峠で長野県に至る。

埼玉・長野県境の十文字峠を源にする中津川が深い峡谷をえぐる。両岸に、100mにも及ぶ絶壁がそそり立つところもある。それが全山紅葉しているのだから、圧倒される。

奥秩父随一の美観で県の名勝地に指定されているのも十分うなずける。

中津峡の問題はアクセスである。

さいたま市の武蔵浦和から鉄道、バス、徒歩で出かけると、武蔵野線で秋津で西武池袋線に乗り換え、飯能で特急に乗り換え、西武秩父駅から走って秩父鉄道お花畑へ。終点の三峰口で西武観光バスに乗って約50分。中津峡の中心地、相原橋で下車するまで3時間以上かかる。特急を使うのはバスに乗り遅れないためである。日に数本しかないからだ。

相原橋から徒歩で仏石山トンネルを迂回して川沿いの仏石山遊歩道と持桶トンネルの手前にある深紅の「持桶の女郎もみじ」(写真)を見て、持桶トンネルを迂回して川沿いの持桶遊歩道へ。

「女郎もみじ」が中津峡の目玉で、この二つの遊歩道から眺める紅葉が中津峡の華である。

なぜ「女郎もみじ」と呼ばれるのか。

その由来について、秩父観光協会大滝支部に残るメモによると

かつて中津峡には48の瀬があり、48の丸木橋がかかっていた。そんな昔の秋のある日、もみじが盛りを迎えた持桶に、山奥には見られないあでやかな男女がなぜか突然現れた。

二人は紅葉の美しさと手持ちの酒に酔いしれ、たわむれに舞い踊った。

二人がどこから来たのか、どこに帰ったのか、見た村人はおらず、いつとはなく姿を消していた。

そこにある日本のもみじの紅葉が二人のあでやかな姿に似ているので、人々は「女郎もみじ」と呼ぶようになった。

紅葉は300年余を経ているという。

持桶遊歩道から「彩の国ふれあいの森」にある「こまどり荘」に向かう途中にある民宿中津屋でこの話を聞いた。寒い日だったので、昼間から二人にあやかって銘酒「秩父錦」二本を熱燗で飲み、その昔をしのんだ。

金昌寺 秩父札所4番 秩父市

2012年11月10日 13時46分14秒 | 寺社

12年10月中旬、歩き仲間と一緒に秩父札所の1番から5番を訪ねた。いずれも荒川の支流の定峰川や横瀬川の近くにあるお寺である。

四国巡礼には順番どおり回る「順うち」、逆から回る「逆うち」という言葉があるらしい。一番から順に訪ねたからといって、殊勝に「順うち」を始めたわけではない。この五つの寺がまとまっていて回りやすいだけのことだ。

「乱れうち」という言葉もあるそうで、何度目かになる秩父札所めぐりは、この言葉どおり、順番を選ばない。

西武鉄道の御花畑駅からバスで1番の四萬部(しまぶ)寺へ。古くから親しまれている高篠鉱泉郷の一角にある。本堂の右手の施食殿(せじきでん)では、毎年8月24日施餓鬼会(せがきえ)が行われる。

曹洞宗なので「餓鬼」の字は使わず、施食会(せじきえ)と呼ぶ。古い歴史を持つ行事で関東三大施餓鬼の一つに数えられている。

2番の真福寺へは長い坂道を登る。息を切らして上り詰めると、無住の寺だった。

秩父札所は33だったのに、後にこの寺を加え34にした由緒ある寺である。この寺を加えたため、西国33か所、坂東33か所と合わせて「日本百観音」になった。

九十九(九重苦)より百の方が良いということだろうか。

33とは気になる数字だった。観音様が33の姿に変化して、衆生を救うという意味だとのこと。古代インドでは3は「多数」を意味し、それを重ねた33は無限・無数・無辺にも通ずるという。観音様のご慈愛は無限にあるということだろう。

5つの寺のうち最も興味を引かれたのは、4番目の金昌寺だった。

山門には木造りでは秩父札所の中で最大の仁王がにらんでいて、左右の柱に大わらじもかかっている。ここの仁王はその健脚ぶりで信仰されてきたからだという。

全国から寄進された1300体を超す石仏があるので「石仏の寺」として知られる。有名なのは「酒呑み地蔵」で、右手に徳利を持ち、左手に飲み干した大盃を頭に伏せている。 (写真)

実にユーモラスで楽しそうな姿なので、酒呑み礼賛の地蔵かと思いきや、その反対で、お酒の上で失敗したこの地の名主が、「もう酒は呑みません」と代官の前で誓ったのに由来するという。「禁酒宣言地蔵」なのである。この地蔵に禁酒を誓う人もいるとか。

本堂の前の慈母観音(子育て観音)も有名だ。母親が子どもに乳を与えている姿で、このやさしい慈母の像は、女性ばかりではなく男性の心にも迫るものがある。

やっと授かった妻と子を相次いで失った人が、浮世絵師に生前の母子の姿を下書きさせたと伝えられる。この時代、母が胸をはだけて授乳する像は珍しい。

寺に隣接する荒船家の墓所で、すっかり忘れていた埼玉出身の有名代議士の立派な墓と銅像に出会った。

荒船清十郎氏。運輸大臣当時、自分の選挙区の高崎線深谷駅に急行を停車させ、国会で追及されて大臣辞任に追い込まれた人。

停車を了承した当時の国鉄総裁石田禮助氏が、国会で「武士の情け」と答弁したことは今でも語り種(ぐさ)になっている。

こんな出会いもあるので秩父札所めぐりは止められない。














雪の秩父札所巡礼

2012年11月08日 12時27分11秒 | 寺社
雪の秩父札所巡礼

「札所は観音を祭るお寺なんですか」。年甲斐もない愚問を発するほど、信仰心の持ち合わせはほとんどないのに、10年2月、6人で秩父の札所5か所を回るはめになった。

お年寄りの歩く会の会員になったからである。

西国33か所とか坂東33か所霊場といった具合に33か所が普通なのに、秩父だけは34か所ある。この三つを合わせて「日本百観音」というが、百にするため34か所にしたのだという。

33か所なのは、観音が33に化身(けしん)して衆生を救うという信仰に由来する。

秩父札所最後で、日本百観音の結願寺でもある34番は水潜寺という、ダイバーが喜びそうな名前で、結願すると長野の善光寺に詣でるのが習わしという。

四国88か所の霊場を巡拝する遍路の季語は春だというのに、秩父へのにわか巡礼を待ち受けていたのは冷たい雪だった。出発したさいたま市では曇りだったのに、秩父では滑らないよう足下に気を使って雪の「巡礼路」をたどる貴重な経験をした。(写真)

歩いたのは、帰りの時間を考えて26から30番の5か所だけ。27番の大渕寺の「月影堂」の別名がある観音堂の近くに高さ16.5mの剣を手に持つ大きな白衣の「護国観音」がある。「高崎観音」(41.8m)「大船観音」(25.4m)と並ぶ寺院にある関東三大観音の一つである。

本堂のかたわらで一口飲めば33カ月長生きするという有難い「延命水」を飲んだ。

28番の橋立堂は、武甲山の西麓に当たり、高さ65mの武甲山の岸壁を背にして観音堂が立つ。

本尊は馬頭観音というだけあって、観音堂の隣には馬堂があり、親子の馬の木像が安置され、境内に馬の銅像がある。馬とのかかわりが強いところだ。「馬の観音さま」として信仰されてきた。

馬頭観音は今では、馬の守護神として祭られ、動物供養の性格が強い。

本来は、俊足を生かして四方を駆け回り、諸悪を蹴散らし、食い尽くすとされている。他の観音の表情が女性的で優しいのに比べ、目尻を吊り上げ、怒髪天をつき、牙をむき出した憤怒(ふんぬ)の相をしている。

このため、菩薩ではなく明王に分類され、「馬頭明王」とも呼ばれる。

馬頭観音が本尊となっている札所は珍しく、100観音霊場の中で西国29番松尾寺とここだけだという。

ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。全国でも数えるほどしかない縦穴(傾斜穴)で、全長約130m。洞内くぐりは、「弘法大師の後姿」などの奇岩でいっぱいなので、秩父札所きっての夏の行楽地としてにぎわう。

29番長泉院は、「よみがえりの一本桜」と呼ばれるしだれ桜で知られる。季節ごとに花が美しい寺である。

29番から30番法雲寺に向かってすぐ、札所ではないが、清雲寺には県の天然記念物に指定されている樹齢600年のしだれ桜の巨木(エドヒガン)がある。

法雲寺は、花と緑につつまれた美しい寺である。ご本尊は、鎌倉建長寺の道隠禅師が中国から持ち帰った通称「楊貴妃観音」。雪景色も写真のように素晴らしく、季節を変えてまた来たい。

浦和おどりで「よろよろ」踊る

2012年11月03日 17時53分49秒 | 祭・催し
浦和踊りで“よろよろ”踊る      

どういう風の吹き回しか、12年7月15日(日)の浦和踊りで踊るハメになった。

はげ頭。白髪が脇にだけは生えている。はげ隠しの帽子は必需品で、室内でもかぶっていることが多い。背は低く、手はかがんでも地に着かないほど短く、足はさらに短い。お腹だけは出ている。

こんなメガネの後期高齢老人が、36回もの歴史ある踊りの列に加わってもいいものだろうか。

密かに待っていた「梅雨の最後雨」も降らなかったので、実際に踊ったのだから驚きだ。猛暑の予想を裏切って、午後5時過ぎ、踊る時間には快い風さえ吹き、最高の踊り日和になった。

わがさいたま市のシニアユニバーシティ北浦和校第10期10班は、今や男性3、女性4のわずか7人ながら、大学院卒業生でつくる校友会の男女の副会長が二人もいる“大班”だ。

女性の副会長さんは、楽譜も読める経験の持ち主。浦和踊りなど朝飯前。各班二人の割り当てだから、「男性も一人」と物好きな私にお鉢が回ってきたのだろう。

6月22日、初めて皆が集まった。校友会の踊り手は第3期から第11期(まだ大学院)までの105人。第10期からは踊り手は男女合わせて14人。

女性が多いのは当然ながら、男性も4人。北浦和10期の校友会の会長さん、各班の班長さんと肩書きで無理やり“人身御供”にされたような方が多い。「無役御免」は私だけ。

男性連は踊りなどほとんど初めて。それは私も同じだ。

愚妻方の三姉妹の、存命の二賢夫も同じ酒好き。一年に一度車好きの義弟の運転で全国各地を車や時にはレンタカーで回る。一夜の座興でお座敷で「安来節」も「阿波踊り」も習った。

ハンドルさばきが玄人はだしの義弟の踊りのうまさに比べ、「よろよろ」「ゆらゆら」とついていく運動神経皆無の私の下手振りー。その対照がおかしいと、いつも爆笑、という酒の最高の肴になる。

この浦和踊りの男性軍、最初は愚痴が多かったのに、やがて皆が豹変し始めた。

著しいのは会長さんである。練習の打ち上げ会で聞くと、会社時代、全国大会にも出場した合唱団で奥さんにめぐり合ったとのこと。もともと音感がある人なのだろう。

全6回の練習を待たず、あっという間に上達された。聞けば、寝ていてフトンの中でも手足を動かし、夢にまで踊りを見たとか。「ハマッテしまった」のだ。

あまりにも楽しそうに踊られるので、後ろのほうでピノキオよろしく、ぎこちなく動いている私にはまばゆいばかりの存在だった。

すっかり浦和踊りのファンになられた会長さんは、「校友会の例会では、皆で浦和踊りをやろう」と提唱されている。

ご承知のとおり浦和踊りは、都はるみが歌っている。美空ひばりなき後の演歌歌手の中で、私が一番好きな「はるみチャーン」なのだ。曲は、はるみを世に出したあの市川昭介である。

クラッシク以外で、演歌をわざわざ会場に聞きに行ったのはこの人だけだ。

カラオケもない深夜の暗い酒場ではるみの歌を、何度歌ったことだろう。一緒に歌った何人かはすでに他界した。

この踊り、わずか400mを、4、50分で踊るのだからと、タカをくくっていた。ところが、半分ぐらい過ぎると疲れて足ももつれ、「よろよろ」してくる。

後ろの女性の厳しい叱咤の声も何度も聞こえ、まるで針のむしろだ。

それでも倒れもせず、完歩ならぬ“完踊”したのだから、後でみんなで飲んだ酒は実にうまかった。


 恥を覚悟はるみを踊るよき日かな
 
 立っているの踊っているのと孫が聞く 柳三