たまたま梅雨の晴れ間に恵まれた10年7月10日の土曜日、いつもの仲間と秩父の三峰神社に出かけた。もう何年、いや何十年ぶりのことだろうか。
この神社には、日本神話の中で私が最も興味を持っているヤマトタケルノミコト(日本武尊)の巨像がある。いくつもの巨石の上に1970(昭和45)年に建てられたこの銅像は、本体は5.2m、地上15m。左腰に剣を指し、5本の指を開いた右手を差し伸べている。
東征の際、横須賀市走水を船出して東京湾を千葉に向かって渡ろうとした際、襲ってきた嵐を鎮めようと、自ら入水して果てたオトタチバナノヒメ(弟橘媛)に、「ああ、わが妻(吾が妻)」と呼びかけている姿であろう。
オトタチバナノヒメが、入水時に詠んだ「さねさしさがむのおのに もゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも=さねさし相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問いし君はも」という有名な歌がある。
相模の野でたぶらかされて、火攻めにあったミコトが、東征の前に叔母のヤマトヒメ(倭姫)からもらった剣(草なぎの剣)と火打ち石を使って難を逃れた時、オトタチバナノヒメの身の安全を気遣ってくれたミコトに応えて詠んだ歌である。
「愛のために一身を捧げる」。日本の数多くの恋の歌の中で最も素晴らしいものの一つではあるまいか。
三峯神社には、山梨県から群馬県の碓井峠に向かうミコト一行が埼玉・山梨県境の雁坂峠で道に迷ったとき、山犬(狼=日本狼)が道案内した。ミコトは、そこに日本国の「国生みの神」である「イザナギ(男神)」「イザナミ(女神)」の国造りをしのんで神社を創建したと伝えられる。
三峰とは、神社の奥の宮がある「妙法ケ岳」(1329m)、「白岩山」(1921m)、東京都の最高峰「雲取山」(2017m)のことだという。
修験道では必ず顔を出す役小角(えんのおづぬ)がこの三峯で修業したとの言い伝えがあり、修験道の道場として知られた。山また山、ぴったりの道場である。
昔は埼玉県の行き止まりの辺境だったのが、国道140号線の雁坂峠に「雁坂トンネル」ができ、山梨県に抜ける「秩甲斐街道」となったので、せっかくの秋の「秩父もみじ街道」も通り抜けの道になった。
神社に通ずる「三峯ロープウエー」も老朽化で廃止され、今ではバスだけ。
しかし、訪れる人が少なくなった分、昔の神秘性が戻っている。標高1102mのこの神社には、梅雨も明けないのに、早くもセミのカナカナが鳴き、山萩が咲いていた。雲取山への登り口では、雨上がりとあって初めて「ギンリョウソウ」も見た。
「狛犬」ならぬ「山犬」が守るこの神社は、女性にも人気の新しいパワースポットになった。絶滅したといわれる山犬(おおかみ)を探し続けている人もいる。年に100万人が訪れるという。社殿も見事に復旧されていて、都会の喧騒が嫌いな人に向いている。
アンドリュー・ワイエスのコレクター
絵を見るのは大好きだ。東京に通っていた頃は、上野の国立博物館を筆頭に目ぼしい美術館の主要な展覧会はほとんど見た。
どこの県にも県立美術館はある。わが埼玉県にも、JR北浦和駅からほど遠からぬ北浦和公園のなかにあり、この公園は昔から私の好きなところだ。
会社通いを止めて、暇つぶしに加入させてもらったシニア大学の教室は、この公園に道路を隔てて向かい合った公民館の中にある。
その大学のカリキュラムの一つに「県立美術館見学」があり、一緒に美術館に出かけた。“学生”が125人もいるから大変だ。
学芸員の説明を聞くと、大変面白い。開館以来よく来ているとはいえ、企画展を見に来る程度だから知らないことが多い。
一番興味を惹かれたのは、この美術館が女優・若尾文子の夫だった黒川紀章の設計だということだった。黒川紀章はこれをきっかけに各県の美術館、ついには遺作の東京・六本木の「新国立美術館」に至ったのだというである。建築には絵と同様、昔から関心がある。
もう一つ飛び上がるほどびっくりしたのが、9月25日から12月12日(10年)までこの美術館で展示している「アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語」の出品作約200点のすべての所有者が、埼玉県は朝霞市の倉庫業者だということだった。
ワイエスの絵は渋谷の文化村などでこれまで二回見た。それが埼玉県に関係があったとは露知らなかった。
アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は2007年、ブッシュ大統領から芸術勲章を受けたほどの米国の国民的画家。米北西部のメーン州などで、米国の原風景とそこで暮らす身近な人々を、主に水彩やデッサンで描いた。
代表作はニューヨークの近代美術館にある「クリスティーナの世界」。メーン州でスウェーデン系のオルソン家の、モデルになった姉クリスティーナと弟のアルヴァロをモチーフにして30年描き続けた「オルソンハウス・シリーズ」は有名で、世界的にも高く評価されている。
「クリスティーナの世界」は、そのシリーズの一つ。今度の展覧会には「クリスティーナの世界」の最初の習作など約2百点が展示されている。
クリスティーナはポリオで生まれつき足が不自由だったが、独立心が強く、車椅子や松葉杖は使わなかった。アルヴァロは漁師だったのに、クリスティーナ看病のため、ブルーベリー栽培に転向した。
ワイエスは、二人が亡くなるまでその生活の断面の全てを描いた。シリーズ最後の年の絵は、誰もいなくなった寂しいオルソン・ハウスである。
体育の日の10月10日(10年)、県立美術館で、この朝霞市のコレクターの講演があった。須崎勝茂氏(写真)。朝霞市の貸倉庫会社「丸沼倉庫」の社長である。1978年に27歳で家業を継いだとき、父親に「経営に携わるものは何か趣味が持ったほうがいい」と言われた。
陶芸の手ほどきを受けていたとき、芸術家たちが仕事場がなくて困っていることを知り、朝霞市に母と「丸沼芸術の森」を設立、外国人を含め十数人が制作に励んでいる。238点のワイエス・コレクションもこの森の所有だ。
ワイエスの絵も、この画家たちの役に立てばと伝えたところ、応じてくれたものだった。この森は1985年に始まったが、世界的なアーティスト村上隆もこの村育ち。約20年間ここで制作に当たった。
「オルソン・ハウス物語」は、日本各地の美術館で展示されたほか、米国各地、さらにスウェーデンでも開かれた。「巨匠の作品を自分の絵だけで世界で展覧会ができる」人物は現在、日本にはまず見当たらない。
2014(平成26)年は、秩父札所34ヶ所観音霊場の開創780周年に当たる。12年に1度の午歳(うまどし)総開帳の年である。
3月から11月までは、全札所の厨子(ずし)の扉が開かれていて、普段は秘仏としてお目にかかれない観音様をじかに拝顔できるばかりか、「お手綱(たずな)」と呼ばれる外に出された綱の片方を握ると、観音様と手をつなぐこともできるからというから有難い。
午歳に総開帳をするのは、馬が観音様の眷属(一族)だとされるからとか、開創の1234年が甲午(きのえうま)歳だったからだという。
目ぼしい札所はもう何か所も訪ねた。一番行きたかったのは名前も素敵な23番音楽寺だった。秩父駅から歩いても行けるところにあるので、「いつでも行ける」とこれまで敬遠していたのに、4月5日、花見の帰りに思い切って出かけた。
訪ねたかったのは、音楽好きなこともある。この寺は、その名から音楽を志す人たちが、ヒット祈願などのために訪れることで知られる。
この寺の御詠歌は
音楽のみ声なりけり 小鹿坂の 調べにかよう峰の松風
である。
札所を開いた権者(ごんじゃ 仏・菩薩が衆生を救うため仮の姿で現れた者)13人が、松風を聞いて、菩薩の音楽を感じたために「音楽寺」と名づけられたという。本堂の裏手に13人の石仏が立っている。山号は「松風山」である。
音楽好きと言っても声を上げることしか音楽には能がない。この寺に来たかったのは何よりも、秩父事件の始まりに関係するからである。
1884(明治17)年11月1日夜に椋神社に集結、「困民党」を名乗って蜂起した農民たちが小鹿坂峠を越えて南下して、2日にこの寺に集結した。寺の鐘楼の梵鐘(吊り鐘)を打ち鳴らし、約3000人が大宮郷と呼ばれていた秩父の町に駆け下っていった、その現場をこの目で見たかったからだ。(写真)
境内には「秩父困民党無名戦士の墓」と書いた石碑があり、「われら 秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを 拒否しない」と刻まれている。
秩父人の心意気である。
秩父駅から来ると、荒川をまたぐ530mの「秩父公園橋」を渡る。主柱から斜めに張った鋼鉄製のケーブルで橋を支える斜張橋が、楽器のハープに見えるので「ハープ橋」とも呼ばれる。
音楽寺は、秩父市と小鹿野町にまたがる約4kmの秩父長尾根丘陵沿いに開かれた「秩父ミューズパーク」の北口を入って間もない右手にある。
秩父札所中最高の景観と言われるとおり、この寺から見下ろす秩父の市街地の眺めは絶景というに値するだろう。右手に削り取られた武甲山が見える。
近くに展望すべり台、展望台を兼ねた「旅立ちの丘」があることからも眺望の良さが分かるだろう。梅林、四季の百花園も近くにある。
「旅立ちの丘」は、1991年に近くの影森中学校の校長小嶋登(故人)が作詞、女性の音楽教師坂本(旧姓)浩美が作曲、今では全国の卒業式でトップの人気になっている「旅立ちの日に」にちなんだものだ。影森中の生徒によるコーラスも流れる。この二人は、県から「彩の国特別功労賞」が贈られた。
「ミューズ」とは、ミュージック(音楽)などの語源になっているギリシャの芸術の女神の名をとったもので、音楽堂、野外ステージなどの文化施設のほか、約50面のテニスコートやフットサル、流れるプール(夏季)、サイクリングセンターなど多彩なスポーツ施設やコテージ(100棟)がある。
尾根を走るスカイトレイン、自転車、歩行者用の「スカイロード」の両側には約3kmのイチョウ並木があり、癒しの森・花の回廊もあって、シャクナゲ、アジサイ、スイセン、サルスベリ、十月桜など各種の花が1年中楽しめる。
年間170万人が訪れるという。
12年11月9日、中津峡は紅葉の真っ盛りだった。
埼玉県随一の紅葉の絶景ポイントと聞いていたので、一度は訪ねたいとかねがね思っていた。幸い好天。秋の陽を受けた紅葉は光り輝き、予想をはるかに上回る豪華さだった。
紅葉にもいろいろある。イロハモミジ、ツタ、ハゼ、ウルシ、ドウダンツツジ、ニシキギのように文字どおり紅いのもあれば、イチョウ、ブナ、コナラのように黄葉、つまり黄色いもの、クヌギのように茶褐葉とでも呼ぶべきか、茶色っぽいものもある。
それぞれの色の違った葉が並存したまま目に映るのが、いわゆる紅葉なのだろう。
自然の紅葉では、黄葉、茶葉が多い。中津峡のは所々に紅葉が際立ち、豪勢さを盛り上げる。
地図を見れば分かるように中津峡は、奥秩父の中で最も西側にある。北進すれば志賀坂峠で群馬県、西進すれば三国峠で長野県に至る。
埼玉・長野県境の十文字峠を源にする中津川が深い峡谷をえぐる。両岸に、100mにも及ぶ絶壁がそそり立つところもある。それが全山紅葉しているのだから、圧倒される。
奥秩父随一の美観で県の名勝地に指定されているのも十分うなずける。
中津峡の問題はアクセスである。
さいたま市の武蔵浦和から鉄道、バス、徒歩で出かけると、武蔵野線で秋津で西武池袋線に乗り換え、飯能で特急に乗り換え、西武秩父駅から走って秩父鉄道お花畑へ。終点の三峰口で西武観光バスに乗って約50分。中津峡の中心地、相原橋で下車するまで3時間以上かかる。特急を使うのはバスに乗り遅れないためである。日に数本しかないからだ。
相原橋から徒歩で仏石山トンネルを迂回して川沿いの仏石山遊歩道と持桶トンネルの手前にある深紅の「持桶の女郎もみじ」(写真)を見て、持桶トンネルを迂回して川沿いの持桶遊歩道へ。
「女郎もみじ」が中津峡の目玉で、この二つの遊歩道から眺める紅葉が中津峡の華である。
なぜ「女郎もみじ」と呼ばれるのか。
その由来について、秩父観光協会大滝支部に残るメモによると
かつて中津峡には48の瀬があり、48の丸木橋がかかっていた。そんな昔の秋のある日、もみじが盛りを迎えた持桶に、山奥には見られないあでやかな男女がなぜか突然現れた。
二人は紅葉の美しさと手持ちの酒に酔いしれ、たわむれに舞い踊った。
二人がどこから来たのか、どこに帰ったのか、見た村人はおらず、いつとはなく姿を消していた。
そこにある日本のもみじの紅葉が二人のあでやかな姿に似ているので、人々は「女郎もみじ」と呼ぶようになった。
紅葉は300年余を経ているという。
持桶遊歩道から「彩の国ふれあいの森」にある「こまどり荘」に向かう途中にある民宿中津屋でこの話を聞いた。寒い日だったので、昼間から二人にあやかって銘酒「秩父錦」二本を熱燗で飲み、その昔をしのんだ。