富士山は江戸時代、女人禁制の風習が続いていた。女性は吉田口登山道の2合目にある、御室浅間神社で足止めされた。そのために、神社東南2キロには「女人天拝所」が設けられていた。
記録として残っている女性の富士登山第一号は、江戸・深川の「高山たつ」という25歳の女性で、天保3(1832)年9月下旬のことだった。彼女を連れて登ったのは、富士講第八世の行者小谷三志(こたにさんし)である。
富士講とは、富士山を信仰の対象にする山岳宗教である。
たつは尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を勤めた女性。高山右近の直系だったという。辰年生まれ、名も辰、この年も辰年だったので、三志は彼女に「三辰」という行者名を与えた。
まげを結わせ、男装させて5人の同行者を加え、7人で登った。登山者の少ない時期を狙ったので、山頂付近はすでに雪に埋もれていた。このとき三志は68歳だった。
三志は武蔵国足立郡鳩ヶ谷宿(川口市鳩ヶ谷)の生まれ。富士山烏帽子岩で断食修行して入定(にゅうじょう)した、富士講の身禄派の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)の流れをくむ行者だ。身禄派は庶民に支持されていた。
三志は、身禄の教え「四民平等」と「男女平等」を人々に説き、富士信仰を実践道徳と結びつけた「不二道」を生み出し、自らも実践につとめた。最盛期には5万余の信者がいたという。三志は161回、富士山に登った。身禄は男女平等の立場から女性による登頂を勧めており、その教えを実行したのだった。
三志の弟子は5万人を超したとされ、二宮尊徳の報徳思想にも影響を与えたと言われる。
三志の墓は、川口市鳩ヶ谷桜町の地蔵院(慈眼寺)にある。(写真) 鳩ヶ谷には今でも、三志の三男が江戸時代に開いた鰻屋(湊屋)があり、和菓子屋で三志最中を売っているところもある。
女性は、どんな時でも登れなかったわけではない。富士山の場合、庚申(かのえさる)の年には女性の登山を許可した。富士山が一夜にして出来上がったという孝霊天皇5年は庚申に当たる。富士山誕生記念の特別女性サービス年だった。
庚申年の寛政12(1800)年の「大鏡坊道者帳」によれば、たつに先立ち、富士登山の2000人の宿泊者のなかに3人だけ女性がいたという。どのような女性であったかは、分かっていない。たつの後にも、男装して富士登山を行った女性が少なからずいたというが、これも不詳。
近世で登頂がはっきりしている富士登山女性第2号は、幕末のイギリス人外交官パークスの夫人。登頂は慶応3(1867)年9月だ。
ちなみに、外国人の富士登山第一号は、幕末に日本駐在の総領事として来日したイギリスの外交官オールコック。万延元(1860)年7月、オールコック以下イギリス公使館員6人ら8人で登った。全部で100人余、馬30頭で一隊を組んだという。このときの模様は、オールコックの著書『大君の都―幕末日本滞在記』(岩波文庫)に書かれているという。
女人禁制が解除されたのは1872(明治5)年のことだった。