ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

小谷三志と女性の富士山初登頂 川口市鳩ヶ谷

2016年06月28日 17時54分03秒 | 近世


 富士山は江戸時代、女人禁制の風習が続いていた。女性は吉田口登山道の2合目にある、御室浅間神社で足止めされた。そのために、神社東南2キロには「女人天拝所」が設けられていた。

記録として残っている女性の富士登山第一号は、江戸・深川の「高山たつ」という25歳の女性で、天保3(1832)年9月下旬のことだった。彼女を連れて登ったのは、富士講第八世の行者小谷三志(こたにさんし)である。

 富士講とは、富士山を信仰の対象にする山岳宗教である。

 たつは尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を勤めた女性。高山右近の直系だったという。辰年生まれ、名も辰、この年も辰年だったので、三志は彼女に「三辰」という行者名を与えた。

まげを結わせ、男装させて5人の同行者を加え、7人で登った。登山者の少ない時期を狙ったので、山頂付近はすでに雪に埋もれていた。このとき三志は68歳だった。

三志は武蔵国足立郡鳩ヶ谷宿(川口市鳩ヶ谷)の生まれ。富士山烏帽子岩で断食修行して入定(にゅうじょう)した、富士講の身禄派の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)の流れをくむ行者だ。身禄派は庶民に支持されていた。

 三志は、身禄の教え「四民平等」と「男女平等」を人々に説き、富士信仰を実践道徳と結びつけた「不二道」を生み出し、自らも実践につとめた。最盛期には5万余の信者がいたという。三志は161回、富士山に登った。身禄は男女平等の立場から女性による登頂を勧めており、その教えを実行したのだった。

三志の弟子は5万人を超したとされ、二宮尊徳の報徳思想にも影響を与えたと言われる。

 三志の墓は、川口市鳩ヶ谷桜町の地蔵院(慈眼寺)にある。(写真) 鳩ヶ谷には今でも、三志の三男が江戸時代に開いた鰻屋(湊屋)があり、和菓子屋で三志最中を売っているところもある。

女性は、どんな時でも登れなかったわけではない。富士山の場合、庚申(かのえさる)の年には女性の登山を許可した。富士山が一夜にして出来上がったという孝霊天皇5年は庚申に当たる。富士山誕生記念の特別女性サービス年だった。

庚申年の寛政12(1800)年の「大鏡坊道者帳」によれば、たつに先立ち、富士登山の2000人の宿泊者のなかに3人だけ女性がいたという。どのような女性であったかは、分かっていない。たつの後にも、男装して富士登山を行った女性が少なからずいたというが、これも不詳。

 近世で登頂がはっきりしている富士登山女性第2号は、幕末のイギリス人外交官パークスの夫人。登頂は慶応3(1867)年9月だ。

 ちなみに、外国人の富士登山第一号は、幕末に日本駐在の総領事として来日したイギリスの外交官オールコック。万延元(1860)年7月、オールコック以下イギリス公使館員6人ら8人で登った。全部で100人余、馬30頭で一隊を組んだという。このときの模様は、オールコックの著書『大君の都―幕末日本滞在記』(岩波文庫)に書かれているという。

女人禁制が解除されたのは1872(明治5)年のことだった。


緑茶から「カテキン」の発見者 辻村みちよ 桶川市

2016年06月16日 07時57分29秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


 新茶がおいしい季節になった。緑茶は、その風味に加えて、健康面の効用からたしなむ人が増えてきている。「カテキン」とは、タンニンと並ぶ緑茶の渋み成分のことで、コレステロールや中性脂肪を下げ、成人病、がん予防などで注目されている。

 1929(昭和4)年に世界で初めて、緑茶から「カテキン」を結晶として抽出し、その分子構造を明らかにしたのが、桶川町(桶川市)出身の女性だったと知ったのは最近のことだ。

 「カテキン」の発見に先立ち、緑茶にビタミンCが豊富に含まれていることを共同研究で明らかにし、32(昭和7)年、45歳で当時の東京帝国大学から日本で最初の農学博士の学位を与えられた。

 理科系に強い女性は最近「リケジョ」と呼ばれる。その「リケジョ」のはしりの一人ともいうべきこの人は、家庭も子供も持たず、80歳の生涯を研究一筋に捧げた。

 お茶博士・辻村みちよは1888(明治21)年、現在の桶川市に生まれた。尋常小学校の校長を務めていた父親の影響で、まず小学校の教員になった。向学心が強く、1909(明治42)年、東京高等女子師範学校(お茶ノ水女子大)に入学、理科を専攻した。

 後に女性で日本初の博士(理学博士)になる保井コノの指導を受けて学に志した。卒業後7年教諭を務めた後、20(大正9)年、北海道帝国大学(北海道大学)農芸化学科の食品栄養研究室の無給副手(助手)になった。女子入学の前例がないと許可されなかったからである。

 ここではカイコの栄養について研究、2年後に東京帝国大学医学部の医化学教室に移ってビタミンやイチョウのたんぱく質を研究した。関東大震災で同教室が全焼、23(大正12)年に理化学研究所に移り、緑茶の成分研究に取り組んだ。

 鈴木梅太郎研究室で、三浦政太郎との共同研究で緑茶にビタミンCが多く含まれていることを発見、北米向けの日本茶の輸出拡大に寄与した。緑茶からタンニンを結晶で取り出し、その化学構造を明らかにするなどの研究成果も出した。

 三浦政太郎は世界的ソプラノ歌手三浦環の夫として知られる。

 みちよは戦後、お茶ノ水大学教授、同初代家政学部長、退官後は実践女子大学教授、同名誉教授を歴任、69(昭和44)年、愛知県豊橋市の姪の家で80歳で死んだ。

みちよを敬愛していた姪は、自宅の庭にお茶ノ水女子大と実践女子大の教え子らとともに、みちよが生前、色紙に揮毫した「滋味」という文字を石碑正面に配した顕彰碑を建立した。

この碑は、2013年11月、生誕の地桶川市の中山道沿いの中山道宿場館近くのポケットパークに移設され、その功績を市民に伝えている。(写真)

 


大谷ホタルの里 さいたま市

2016年06月06日 13時01分08秒 | 名所・観光


1260haと広大な見沼田んぼが昔、本当の田んぼだった頃、源氏ボタルの名所として知られていた。江戸時代には「大宮の蛍狩」の版画が有名だったし、明治中頃から宮中などにも数千匹の単位で献上されていたという。

ホタルがいなくなったのは、田んぼが少なくなったからである。今や見沼の本当の田んぼの割合は6%を切っている。それも加田屋(かたや)新田など一部に限られていて、農家ではなく、委託されたNPOが米育ての体験農園として使っているところもある。

新田の北側にあるさいたま市の「大谷ホタルの里」で、源氏ボタルが飛び始めたというので、梅雨入りを翌日に控えた16年6月4日(土)、見沼田んぼのベテランガイドの案内で、ほとんどが女性の観賞ツアー客と一緒に現地とその周辺を訪ねた。

見沼は何度来たか数えられないほど来ていて、この里も昼間には何度も訪れたことはあるものの、夜間出かけるのは初めてだった。

 子供の頃は、鹿児島の田舎に住んでいたので、近くの小さな川にそれこそホタルが飛び交っていた。上京して、さいたま市に住むようになって、時々ホタル狩りに出かけたものの、見るのは平家ボタルだけ。源氏ボタルを見たことはなかったので、行く気になったのだ。

ガイド氏の資料によると、源氏ボタルは平家ボタル(8mm前後)の2倍ほどの大きさで体長15mm。身体が大きいので、光も明るい。成虫時、源氏の背中には十字架のような模様があるが、平家には縦に一筋の線があるだけ。

 源氏が曲線を描いて飛ぶのに対し、平家は直線的に飛ぶ。食べ物は源氏が主にカワニナなのに、平家はタニシ等の淡水生巻貝という。食の範囲が広いので平家の方が飼育しやすい。

 大きな違いは飛び始めの時期である。源氏が6月初めから、平家はひと月遅れの7月からだ。ホタルのシーズンは源氏とともに始まるわけだ。

 「ホタルの里」は、見沼区の「七里総合公園」と「思い出の里市営霊園」の間の西福寺の東側斜面林にあり、井戸から水を引く水路などがつくられ、自然環境の中でホタルがみられるようになっている。

 掲示板が立っていて、道をたどれば低い柵越しにホタルを眺められる。

 この夜はシーズンの初めの土曜日とあって、近くの路上には多くの車が駐車、子供連れの家族や子供の団体など多くの人が詰めかけていた。

 しかし、ホタルはなかなか気難しい昆虫のようで、日が暮れて暗くなればすぐに発光し始めるわけではない。

ガイド氏の話では、8時頃以降で、曇天で蒸し暑く、風が弱いという条件が整う必要がある。そのうえ「雨が降ると光らない」とのことで驚いた。

 この日は何とか条件にかなったようで、水路の向こうの林の葉陰にいくつかの光が点滅するのが見えた。見えたといっても、光りっぱなしではなく、すぐ暗くなってしまう。

 いくつかの光は左右、中央の3か所で見られた。「どうか飛んでくれ」と待っていると、一匹が左の葉陰から右の葉陰へと飛んだ。「観客の気持ちを察したショウマンシップをわきまえた立派なホタル芸人だ」と、思わず拍手したくなる。

 続いて飛んでくれないかと待っているのに、後続ホタルは出ない。葉陰のホタルは時々ついたり、消えたり。小一時間になるととだんだん飽きてきて、帰る人も出てくる。

わがグループも帰りの車の方に動き始めたので、しんがりについて歩いていると、右の葉陰の下から1匹のホタルがするすると上がってきて、飛行の姿を見せてくれた。

飛んでいるのを見たのはこの2匹だけで、左右の葉陰で光ったり消えたりしていたホタルを全部数えても、見物人の方が多かったような気がする。小型のデジタルカメラでは手におえないと、はやばや撮影はあきらめた。

 このブログではホタルの数を数えるのに「匹」を使った。ガイド氏によると正確には「頭」と数える由。トンボやチョウ、アリなどの昆虫も同じで、象やライオン同様に「頭」なのだそうだ。

 住み着いたホタルも増えてきたが、毎年幼虫を放流、えさのカワニナも自給できておらず、見沼田んぼの別のところで採取しなければならないようだ。

 歌の文句にあるように、「ホタルが飛び交う」姿を見るには、何度も根気よく通う必要がありそう。文字どおり群舞や乱舞が見られるようになるのはいつのことだろうか。