ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

南越谷阿波踊り 越谷市

2011年08月30日 13時48分26秒 | 祭・催し



最近、日本の祭りに興味を持っている。日本の祭りの踊りの中で一番好きなのは、「阿波踊り」である。

さいたま市近くの南越谷で「南越谷(なんこし)阿波踊り」をやっていることを知ってはいた。10年に初めて出かけてみて、その盛況ぶりに驚いた。

「日本三大阿波踊り」の一つだという。三大というより「三番目の規模の」といったほうが正確だろう。11年の第27回目にも出かけた。雨もよいの空模様ながら、多くの人が詰めかけている。二日間で徳島や先輩の高円寺からの招待連を含む70連、5千人が踊り、60万人が見物に来るという触れ込みだった。

病み付きになって第30回にも出かけたら、参加蓮は78、踊り手は約6千人になっていた。人出はこれまで最高の70万人に上ったという。

午後5時過ぎスタートのここの踊りを見ていると、子供も多く参加していて、この地に根ざしてきたのではないかという感じがした。

親に連れられた3歳前後の子が、祭り衣装を着て、泣きべそをかきながらついていく姿も見た。その耳には一生、阿波踊りのリズムが残るだろう。5-12歳の「こどもにわか連」もある。

白シャツ姿の「阿波踊り振興会」のスタッフも多数出て、整理や清掃に励んでいて頼もしい。暑い最中なので、各種のウチワが次々手渡されるのもありがたい。

「ヤットサー ヤット ヤット」「エライヤッチャ エライヤッチャ」のリズムは、日本人にはピッタリで、誰でも踊りたくなるような魅力がある。よく観察していると、見物人の中に無意識に手や腰を動かしている人もいる。

「まさに踊らにゃソンソン」なのである。全国で30か所以上で阿波踊りがあるというのもうなずける。

徳島につぐ規模の東京・高円寺の阿波踊りにも出かけた。11年で第55回目。南越谷より二回り先輩だ。東日本大震災で自粛して、夜ではなく昼間開催(午後3-6時)だった。広くない通りに、いつもなら150連、踊り手1万人、観客百万人超が詰めかけるというからすごい。

400年の歴史を持つ徳島では、4日間で踊り手10万、人出130万人超という。

高円寺駅に降り立つと、ガードマンや警察官がいっぱい。柵がものものしく、一方通行になっていて、指示された通路に沿って、やっと踊りが進む通りに出ても、人垣が厚くて囃子は聞こえてもよく見えない。

高円寺はガード下を中心に焼き鳥や焼肉、寿司屋が多いところだ。踊りが見えないなら、入ってみようと思っても、これまた人でいっぱい。安くて美味そうな焼き鳥屋もあるのに食べずじまいだった。

高円寺に比べればはるかに新開地の南越谷では、通りも広く、じっくり見られる。「踊る阿呆」にも「見る阿呆」にもスペースがあるのがうれしい。

南北に走る東武伊勢崎スカイツリー線を挟んで東西に走る4本の目抜き通りが“演舞場”になり、駅前などに流し踊りとは一味違う舞台踊りや組み踊り用の舞台もある。

駅裏に安さと新鮮なもつ煮やもつ焼きで人気の店もあり、久しぶりにたらふく食べた。

聞けば、始まったのは1985(昭和60)年。越谷市に本社を置く徳島県出身の実業家、故中内俊三氏が、越谷への恩返しと正調阿波踊りを広めたいという一念から南越谷商店会に提唱したもので、最初は3万人の人出だったという。

26歳で妻子を残して上京、バナナ行商から身を起こして、埼玉県南部を中心に戸建て分譲住宅などで知られるハウスメーカー「ポラスグループ」の創設者になった。

メセナ(企業が行う文化支援活動)といえば、大企業のやることというイメージが強い。今でも寄付者のトップ(1千万円)を占める大きな名簿を見上げながら、南越谷にもこのような先達(せんだつ)がいたことに、PR業界の端くれだった者の一人として感慨を覚える。

17年11月28日には芸術文化の振興に貢献した企業に贈られる「メセナアワード2017」(企業メセナ協議会主催)の優秀賞「街が踊る賞」を受賞。同じ月の5日には徳島市であった「秋の阿波おどりコンテスト」(徳島県など主催)で、越谷市の「南越谷商店会 勢=きおい=連」が優勝した。

勢連は1989年に設立されたしにせの連の一つで、コンテストには徳島県外の1府4県から7つの連が参加した。


トトロの森 所沢、入間、東村山、東大和市

2011年08月06日 10時24分47秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

トトロの森 所沢、入間、東村山、東大和市

「里山」――。分かっているようで、分からない言葉である。「里にある山」。辞書を引くと、「里」とは、山中などで人家が集まった集落。「山」は必ずしも高くなくてもいい。平地の林も含むから、関東流に言えば、昔の武蔵野の雑木林のことだ。

里山は全国どこにでもある。中でも有名なのは、宮崎駿(はやお)監督が、アニメ「となりのトトロ」の構想を練ったと言われる狭山丘陵だろう。

この丘陵は、東西11、南北4km。総面積約3500ha。埼玉県と東京都5市1町にまたがる武蔵野台地の中央にある。植物1千種超、昆虫2千種以上、オオタカなどの鳥類約2百種。大都市近郊に残された貴重な緑の孤島だ。

お決まりの乱開発や、不法投棄、廃棄物処理場、墓地の建設などで失われようとしたこの里山を荒廃から救ったのが、市民からの寄付でまかなうナショナルトラストの土地買い上げだった。

これまで、この森はてっきり東京都に属すると思っていた。最近、近くの狭山湖(山口貯水池)、多摩湖(村山貯水池)などを仲間と訪ねる機会があったので、地図をよく見ると、「トトロの森」の一号地は、西武ドームのすぐ近くの埼玉県側の所沢市にあると分かって、11年7月の暑い日、木蔭を求めて出かけた。

埼玉県では、「県立狭山自然公園」の中にある。一帯は、アクセスが西武狭山線、西武多摩湖線。西武園ゴルフ、西武園ゆうえんち、西武園競輪場・・・と西武資本の牙城である。狭山山不動寺も西武と関係があることは別項で書いた。

東京都に接し、西武資本の進出地。それは、取りも直さず、雑木林といえど地価の高さを意味する。歩いてみると、西武の保有地の看板が目につく。「トトロの森」の取得は、バブル景気の中で、地価との戦いだったろうことは、容易に想像できる。

“狭山丘陵ナショナルトラスト”公益財団法人「トトロのふるさと基金」が発足したのは、1990年4月。

「トロロの森」1号地は、墓地開発計画のあったクヌギなどの雑木林約1183平方mだった(91年取得)。この基金は全国からの募金で支えられているので、子供たちの小遣いを含め、1万人以上の思いが込められていた。(写真)

所沢市が周辺にその4倍の土地を買い、埼玉県もその周りを買収した。

2号地は5年後の96年、3号地は2年後の98年、4号地は3年後の2001年にやっと取得できた。10号地を取得するまで1号地から19年かかった。

20年3月には、所沢市東狭山ケ丘5丁目の雑木林を取得した。取得地はこれで52か所計約9.7㌶となった。地主が無償で寄付した所もある。

広さはまちまちで1千平方mから5千平方m程度まで(9号地は100平方以下)。税の関係で相続時に取得交渉することが多い。地主が無償で寄付した所もある。

「丘陵の良好な所を残すには全然足荻野豊りない。確保できたのは『点』だけです」と、当時の地元出身の基金事務局長荻野さんは語っている。

1号地から歩き始めると、まさにその実感が強い。飛び飛びで、小さく、断片的、フェンスで囲まれているところもある。牧歌的な「トトロの森」のイメージはがわくところは数えるほど。それを求めるなら、東京都側の東村山市の八国山緑地周辺を散策したほうがいい。

朝日新聞によると、荻野さんには、詩の仲間に宮崎駿監督の妻の朱美さんがいた。朱美さんを通じて、駿さんの許可を得て、「トトロの森」の名前を、基金に使う許可を得た。いつの間にか狭山丘陵全体が「トトロの森」の愛称で呼ばれるようになった。PRの勝利である。

宮崎監督は、所沢市在住。同市と東京都東村山市の境にまたがる、柳瀬川両岸の「淵の森」(約5700平方m)で「となりのトトロ」の構想を練ったと言われる。自ら3億円を投じて、市民団体「淵の森保全協議会」を作り、その会長になり、トトロの森財団の顧問も務めている。

宮崎監督は毎朝林を歩いてごみ拾いをしてからアトリエに向かい、毎週住民と川の掃除をし、年に一度全国から集まったファンとともに下草刈りをする。

2008年には、宮崎監督に敬意と感謝の気持ちから、米国の有名なアニメーション・スタジオが「TOTORO Forest Project」の名で各国のアーティストに絵画や彫刻の無償寄付を呼びかけたところ、約20か国の約190人が計205点を提供、チャリティー・オークションを開き、その売上金約20万ドル(約2千万円超)が全額寄付された。基金ではこれを7、8号地の購入に当てた。

さいたま市見沼などを歩くと、埼玉県にも1984年から「さいたま緑のトラスト基金」がある。第一号取得地のさいたま市見沼の周辺斜面林(90-91年)など合わせて11号地。トトロの森の中にも取得地がある。見沼の斜面林は、訪ねる度に素晴らしい遺産だと思う。

日本のナショナルトラスト運動は1964年、鎌倉市の乱開発について作家大佛次郎が朝日新聞に「破壊される自然」という随筆を掲載したことから始まった。

英国の運動を範として、知床半島の「知床百平方運動」、和歌山県天神岬の「市民地主運動」へと広がり、釧路湿原、柿田川(静岡県清水町)など全国で多くの地が加わった。


「原爆の図」 丸木美術館 東松山市

2011年08月04日 07時51分13秒 | 文化・美術・文学・音楽


広島市生まれながら、その時は満州の大連にいて、難を逃れた。広島駅近くの何も残っていない元の社宅跡や、原爆記念碑は学生時代以来、何度も訪ねた。

長崎も同様で、永井隆博士の家では、余りの小ささに涙を禁じ得なかった。

このため、「丸木美術館も訪ねなければならない」という義務感に駆られていた。それでもこの年まで行かなかったのは、その悲惨さに耐えられないと気が重かったからだ。

それが、思い切って行く気になったのは11年。8月6日が近づいてきたのと、福島第一原発の暴発のためだった。

「原発と原爆は、何が変わろう」。同じではないか、人間は原爆を動力とする原発を制御できるのか、という思いである。

広島の太田川近くの農家に生まれ、前衛的な水墨画家だった丸木位里(いり)は投下の数日後、原爆の悲惨さを目撃、洋画家の俊(とし)夫人もその一週間後合流した。

「原爆の図」は夫妻の共同制作で、30年以上にわたって描かれ、全部で15部からなる。縦1.8m,横7.2mの大きな屏風絵で、水墨や日本画の顔料が使われている。

描かれているのは、原爆で死んでいった人間たちの姿である。これが「人道に対する罪」でなくて何であろう。体験者からは「この絵はきれいすぎる」との批判もあったという。

夫妻は、反原爆とともに反原発を唱え続けた。広島、長崎の被曝者がつくる日本原水爆被害者団体協議会が、明確な「脱原発」方針を決めたのは11年夏だから、その先見の明が分かる。

反原発の具体的な行動もした。1989年、福島第二原発のポンプ損傷事故をきっかけに、電気料金の原発分24%支払い拒否のため丸木美術館ヘの送電を一年以上停止された。その翌年、太陽光発電コージェネレーションシステムを設置したのは、よく知られた話である。

俊は89年の「丸木美術館ニュース」に、「原発止めないと原発に殺される」を連載するなど、原発を「ゆっくり燃える原爆」だとして、事故の不安や放射能の恐ろしさを訴えていた。

1967年にオープンしたこの美術館は、二階の展示室には天窓があり、自然光が入る。最初から電気をできるだけ使わない設計になっている。電気使用量をなるべく抑えるため、夏場は扇風機で、エアコンを設置する予定は無いという(埼玉新聞11年5月26日付による)。

夫妻は21世紀を待たず、高齢で死亡した。福島第一で起きたことを知ったら何と言うだろうか。

夏場、扇風機なしでもしのげるのは、都幾川のほとりにあるこの美術館の立地のためである。さわやかな川風が吹きこんでくる。

美術館のミニ・ガイドブックによると、水俣病で知られる作家の石牟礼道子さんは「ここは、むかしむかしの国ではあるまいか。万葉あたりの郎女(いらつめ=若い女性)たちの住むところ」と賞賛した。

一羽や二羽ではない。ウグイスの声がしきりに林の中から響く。他の鳥の声も聞こえるのだが、何の鳥なのか同定できないのがもどかしい。

「まわりの豊かな環境は、丸木夫妻の残したもう一つの、とても重要な“作品”でもあるのです」と、このミニガイドは結ばれている。

訪ねると、まさにそのとおり。埼玉県内、いろいろ訪ねた中でこれほど素晴らしいところは初めてだった。(写真は二階からみた周囲の風景)

丸木夫妻が知人に教えられ、初めてこの地を訪れた時、眼下に流れる都幾川を見て、「広島の太田川上流に似ている」と思って、住居と美術館を建てようと決めたという。

原爆の図は、単に被害者の立場から描かれたものではない。「戦争の加害性」にも目を向け、原爆投下後の広島で起きた米兵捕虜虐殺事件や日本に強制連行されてきた朝鮮人の被曝問題もテーマとして扱っている。

広島でそんな事件があったことはこれまで知らなかった。広い美術館の敷地の隅に、関東大震災の歳、東京から埼玉に逃れてきた朝鮮人が流言飛語に基づき虐殺された事件を悼み、「痛恨の碑」が建てられている。

熊谷の70~80人を筆頭に本庄、神保原など県内全体で虐殺されたのは220~240人と推定されている(11年9月2日 埼玉新聞)。

この他、位里の広島の実家の一部を移築した「原爆観音堂」、晩年の夫妻のアトリエ「流々庵」、美術館の入口の向かいにある「八怪堂」、二人の遺骨の一部も埋葬されている「宋銭堂」なども興味をひく。

訪れた7月末、二人の絵本原画展も開かれていた。生涯に2百点以上の絵本や挿絵を残した俊夫人の作品の素晴らしさに驚いた。

「ひろしま忌」の8月6日は、入場料無料。

原発事故による放射能放出の実態が明らかにされていく中で

 原発が原爆になる地震国

という最近の川柳が頭にこびりついて離れない。

「原爆の図 丸木美術館 ミニ ガイドブック」参照