青森県で2年間、仕事をしたことがあるので、明治から大正の随筆家、名文家として知られた紀行作家・大町桂月の名には親しみがある。
酒と旅を愛し、十和田湖と奥入瀬をこよなく愛した。晩年には高知から八甲田山麓の秘湯蔦温泉に本籍を移し、その地で死んだ。
十和田湖と奥入瀬を世に紹介したことで有名で、奥入瀬には
住まば日の本 遊ばば十和田
歩きや奥入瀬 三里半
という有名な石碑が残っている。
13年6月、実測したことはないというので高さは10数m、関東に300以上あるといわれる「富士塚」の中で最大級、日本でも指折りとされる所沢市の「荒幡富士」を梅雨の合間に訪ねると、桂月が文章を書いた「荒幡新富士築山碑」(1921=大正10年建立)が登り口に立っていて、懐かしかった。
海抜(標高)は、山頂に基準点があり、118・5m。
桂月は、何度もこの塚を訪れ、頂上からの眺望を賞賛したという。桂月が来たこと自体、この塚の知名度を物語っている。
「荒幡富士」は、狭山丘陵の「トトロの森」の「いきものふれあいの里センター」のすぐ近くにある。「荒幡富士市民の森」の中にあり、西武園ゴルフ場や荒幡小学校にも近い。
「富士塚」といえば、富士山ゆかりの浅間神社がつきものだが、この塚は浅間神社の境内にある。旧荒幡村に5つあった神社の合祀(ごうし)を機に富士塚もこの地に移築し、村民融和を図ろうと築かれた。
1884(明治17)年から1899(同32)年まで15年かけて、農閑期に延べ1万人の村人がモッコで土を運び、積み上げて造った。
ジグザグの約80段の石の階段があり、何合目かを示す石の道標もある。今では転落防止の鉄製のロープもついていて、安全だ。7月1日には山開きも行われる。
山頂からは360度、見晴らしがよく、西武園や西武ドームのほか、丹沢と陣馬山の間に富士山が見えるはず。残念ながらこの日は曇っていて、富士山は見えなかった。
富士塚と言えば、川口市の見沼代用水と通船堀が連結する所に、県内最古(1800=寛政12年)の「木曾呂塚」があり、国の重要有形民俗文化財(国指定史跡)に指定されている。皇太子も視察された。あれで高さ5.4mだというから約10mと言っても馬鹿にできない。
当時は、登ってお参りするのが目的の「富士講」は、富士山を対象にする信仰「富士信仰」をバックに、江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどのにぎわいを見せた。
その講の一つ「不二講」は、鳩ヶ谷出身の小谷三志が始めたもので、天保年間、女人禁制の富士山に江戸深川の尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を務めた女性高山たつを男装させ、初めて登頂させたことで知られる。
「富士信仰」こそ日本の山岳信仰の代表だった。
と言っても、実際の登山はなかなか出来なかったので、富士山のミニチュアを造って、登ったつもりになる。
富士塚は、富士講が盛んだった関東、県内には170基と最多の塚があるという。富士見市とかふじみ野市という市名さえあるのだからうなずける数字である
富士山が世界遺産に内定したいま、こんな庶民の夢を担った身近な「富士塚」のことを少しは考えてみたい。
「荒幡富士」は「荒幡富士保存会」の人々が、地震で崩れても補修している。先の東日本大地震でも被害を受けていて、少し低くなったという。市では実測を検討している。
志木市には、本町の敷島神社に「田子山富士塚」、上宗岡の浅間神社に隣接して「羽根倉富士嶽」がある。田子山富士塚は古墳の上に土を盛り、1872(明治5)年に出来たもので、高さ約9m。富士塚としては初めて県有形民俗文化財に指定されている。
関東には300以上あるとされるが、170基は県内にあるという。