ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

金子兜太百年祭 皆野町

2019年09月27日 16時37分45秒 | 金子兜太



18年2月に98歳で亡くなった俳人、金子兜太さんの生誕百年になる19年9月23日、少年期を過ごした秩父の皆野町で「金子兜太百年祭」が、町の文化会館ホールで開かれた。

同時に、医師だった父親の元春さんが開業した医院「壺春堂=こしゅんどう」で、兜太さんの記念館になる「壺春堂記念館」が初めてお披露目された。兜太さんの実家で、皆野小から旧制熊谷中までここで過ごした。

元春さんも、俳号「伊昔紅=いせきこう)を持つ俳人で、ここで句会を開いていた。伊昔紅は皆野町の代名詞になっている「秩父音頭」を周りの協力を得て、卑猥なものから全国に通用する民謡に創り変えた。

木造2階建てのこの記念館は、同じ敷地内で医院を継いだ兜太さんのおいでの桃刀=ももと=さんやゆかりの人たちの「兜太・産土=うぶすな=の会」が改修・保存・寄付を呼びかけ、屋根や外壁などの修復が進行中。カフェなども年内にオープンする予定で、会では記念館を「兜太ファンの聖地」にするとともに、国の登録有形文化財にする手続きを進めている(毎日新聞)。

午後に開かれた百年祭には、全国から集まった兜太ファンなどホールの定数満席の約600人が集まった。舞台の両脇には、この祭りには出席できなかった瀬戸内寂聴さんの大きな花束が置かれ、俳人・宇多喜代子さんはぎりぎりで大阪から新幹線でかけつけた。

ドキュメンタリービデオ「天地悠悠 兜太・俳句の一本道」(74分)が上映された後、俳人・黒田杏子さんの司会で、俳句誌「兜太TOTA」、兜太さんの「海程」同人などの俳句関係者ら13人によるリレートークがあり、興味深いエピソードが次々に披露された。

この映画は、兜太さんが最後を迎えるまでのあしかけ7年を兜太俳句を軸に映像に収めたもので、監督は,NHKのディレクター・プロデューサーの河邑厚徳=かわむら・あつのり=氏。

ガンや認知症をわずらった話もあり、最後の言葉はファンにとって必見のビデオになるだろう。



見沼通船堀の閘門 開閉実験 さいたま市

2019年09月16日 11時03分20秒 | 川・水・見沼
見沼通船堀の閘門 開閉実演 さいたま市

一度見てみたいものだと思いながらも毎年行けず、「今度こそ」と勢い込んで自転車で出かけた。

2010年8月25日は処暑を過ぎたのに猛暑の真っ盛り。暑さで知られる熊谷市などと並んで、さいたま市もNHKの天気予報で「35度を超すでしょう」組に挙げられていたから、午前10時前だというのに、着いたらもう汗でぐっしょりだ。

驚いたのは、堀沿いをぎっしり埋めた人出である。1982年以来の「国指定史跡」だから、さいたま市のシニア大学北浦和分校の「史跡めぐり」の”学生さん“たちなど老人が多いのはうなずける。夏休みの宿題の「自由研究」にはうってつけだと、母親と一緒の小学生たちも大きなノートを持ってせっせとメモしていた。

10時と15時の二回、実演された。「今年も3千人くらいでしょうか」とのこと。「見沼通船舟歌」の歌詞を刷り込んだうちわとともに、通船堀と見沼代用水路の資料が渡され、さいたま市教育委員会の文化財保護課の専門家がマイクで一々解説してくれる。

難しい言葉ばかりだ。「見沼」、「見沼代用水路」、「通船堀」、「閘門(こうもん)」。さいたま市民でも知らない人が多いので、非常に助かる。

「見沼」と言っても、本当の沼があるのではない。芝川の低湿地に形成された「見沼」は、江戸時代初期に「溜井」になり、農業用水に使われていた。それが八代将軍徳川吉宗の新田開発で干拓され、「見沼たんぼ」に代わった。

見沼に代わって、利根川の行田で取水した農業用水を供給するのが「見沼代用水」だ。「見沼溜井の代替用水路」という意味である。幹線水路は約60。支線を含めると約100キロ㍍。完成したのは1728年(享保13年)。約1200町歩(約1200㌶)の新田が生まれた。

灌漑面積は200余か村、12600㌶におよび、幕府の米の収入は、毎年5千石増えた。

吉宗が紀州(和歌山県)から呼び寄せた農業土木技術”紀州流”の達人、井沢弥惣兵衛為永の手で、延べ90万人を使い6か月で完成した。こんな短期に完成したのは、冬場の農閑期に工事をしたので、人手が確保できた、工区分けをして各村で工事を請け負った、手間のかかる構造物は、江戸の大工が受け持ったのと、事前に綿密な測量と計画がなされたためとされる。

「見沼たんぼ」は、現在の見沼区から緑区を中心に広がる。広さは約1200㌶。首都圏に唯一残された一大緑地で、さいたま市が誇るべき財産。だが現在、たんぼが広がっているわけではない。

見沼代用水は、東側の東縁(16キロ㍍)と西側の西縁(22キロ㍍)に分かれ、その中間をたんぼの排水路である「芝川」が流れる。縁は「べり」と読み、「ふち」と読むと、この地では馬鹿にされる。

さいたま市と川口市が接するさいたま市の最南端の、芝川と東縁、西縁が最も接近する緑区大間木で、三つの用水路を東西に結ぶのが、約1キロの「通船堀」。水はちょろちょろ流れているものの、現在使われてはいない。この堀を使って、全盛期はたんぼの収穫米が江戸に出荷されていた。

最も難しいのは「閘門(こうもん)」である。辞書を引くと、「高低の差のある水面で船を昇降させたり、水量を調節したりする装置の水門」とある。漢和辞典を見ると、「閘」とは、「門をあけたてすること」だという。

芝川は東縁、西縁より3㍍低かった。江戸から着いた荷物を縁まで運び上げるためには、通船堀に二つの関(閘門)を設け、門を閉めて関の中に水を貯め、水位を上昇させてから船を進ませる必要があった。

「船が山を登る」パナマ運河と同じ方式である。ヨーロッパや中国では古くから建造されていた。日本の閘門もパナマ運河(1914年開通)よりもちろん古い。見沼代用水の3年後1731(享保16)年に開通した見沼通船堀は、「日本最古」が触れ込みだった。最近では他にもっと古いところもあると分かってきたので、「最古」は使わないようになった。

これも井沢弥惣兵衛為永の手になるものである。

この日は、通船堀東縁の芝川寄りの一の関と二の関の間(90㍍)で、当時の半分に縮尺した、底が平らな「ひらたふね」を浮かべ、一の関(幅約3㍍)の柱に「角落(かくおとし)」と呼ばれる高さ約18センチメートル、厚さ約6センチメートルの木枠を下から順に8枚、2㍍近くまで積み上げて、水をせき止め、水位を上昇させる姿が再現された。(写真)

芝川は荒川(隅田川)に流れこむので江戸と結ばれていた。芝川の堤防(八丁堤防)に船が着くと、堀沿いに住み込んでいた船頭20人ぐらいが通船堀の土手から綱を引いて一の関まで引き上げたという。

この日は、地元の保存会による当時の「見沼通船船頭歌」や踊りも披露され、当時をしのんだ。暑さにめげず来た甲斐があったイベントだ。

県は19年9月4日、この用水は国際かんがい排水委員会(ICID、本部インド)」が定める「世界かんがい施設遺産」に選ばれたと発表した。この制度は14年に始まり、18年8月までに国内で35施設が登録されている。