ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

本多静六 その生涯

2010年06月27日 18時17分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 その生涯

遠山益氏の話を続けよう。

静六は1866(慶応2)年、現在の埼玉県久喜市菖蒲町の豪農、折原家の8人兄弟の6番目に生まれた。家は名主で、田畑は12町あったが、9歳の時父が脳出血で急逝。このため折原家は没落、中学校にも行けず、農業を手伝った。

14歳で東京・四谷の島村泰氏(元岩槻藩塾長)の書生になり、島村氏の勧めで、17歳で東京の官費の「東京山林学校」に入学した。

最初の試験には落第、悲観して古井戸に飛び込んだ。途中でひっかかり、「同じように投身した塙保己一は盲目ながら、6百余巻の『群書類従』などを書いた」という祖父の言葉を思い出し、這い出して、一命を取り留めた。

入学出来たと言っても、中学を出ていないので、52人中50番、ビリから2番目の成績だった。「東京山林学校」は駒場農学校と合併し、「東京農林学校」となり、さらに「東京帝国大学農科大学」と改称した。

代数や幾何は落第点をとっていたが、天性の努力家で、卒業時には優等生で恩賜の銀時計をもらった。

在学中、大学の先生の仲介で、元彰義隊頭取、本多晋の娘、詮子と結婚。婿養子になり、姓が本多と変わる。学生結婚である。

24歳で卒業すると、ドイツへ私費留学した。賊軍の元彰義隊に十分な金があるはずはなく、横浜からマルセイユまでの船旅は、3等船室だった。

機関室の上でエンジンの音で眠れず、南京虫やダニに悩まされた。食事は最悪。それに船酔いが加わり、40日間地獄のような苦しみだった。

入学したのはドイツのドレスデン郊外のターラント山林学校。同じ年、ミュンヘン大学へ入学。25歳で大学から「ドクトルエコノミー」の博士号を取得した。

「エコノミー」の名がついているのは、ドイツでは森林を経済財と考え、林学は農学部ではなく、経済学部に属し、経済学や財政学も勉強させられたからだ。これが、後の蓄財に役だったのは言うまでもない。

1892(明治25)年、西欧を視察した後、帰国、「東京帝国大学農科大学助教授」となる。25歳だった。静六の祝賀会をしてくれたのが、同じ埼玉県の深谷市出身で、当時、JRの前身である日本鉄道の社長も務めていた渋沢栄一だった。

鉄道が東北の地吹雪に悩まされていた渋沢のために、26歳で我が国初の鉄道防雪林の設置に加わる。20代半ばで国家的事業に参画したわけだ。渋沢との交遊は終生続いた。

第1号防雪林の名残は今でも、青森県野辺地周辺のJR東北線に残っている。当時、育った林は駅で製材し、枕木や駅舎の建設に使った。駅に製材担当助役がいたという。静六の「ドクトルエコノミー」の勉強が実を結んだのである。

28歳で東京専門学校(現早大)の講師にもなるが、静六らの提案で千葉県清澄に我が国初の大学演習林ができた。この演習林の製材は、学校の先生の退職金に充てられた。造林の経済効果である。

32歳で「森林植物帯論」で我が国初の「林学博士」。33歳で東京府森林調査嘱託になり、府の奥多摩の水道林造成に関係する。同じ年、「東京帝国大学農科大学教授」に就任、34歳で日比谷公園設計調査委員となり、「造園学者」への道を開くことになる。

驚くのは20代の若さで、「我が国初」の仕事をいくつもこなし、新しい分野に挑戦していく意欲である。日比谷公園が開園したのは1903(明治36)年。日露戦争が始まる1年前だ。「阪の上の雲」時代の雰囲気が、静六の履歴からひしひしと伝わってくる。 (写真は秩父の森林科学館前にある銅像)



本多静六 明治神宮の森

2010年06月27日 13時43分39秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 明治神宮の森

遠山益氏の話を続けよう。

本多静六が残した造林で、最大の遺産は東京の「明治神宮の森」であろう。静六は1915(大正15年)、明治神宮造営局の参与に任命された。静六は東大の教え子たちと協議の末、「自然状態の森にしたい」と考えた。はっきりと言えば「ヤブのような森に」というのである。

モデルは仁徳天皇の御陵だ。前方後円のこの御陵は、江戸時代に前方が崩れて修復した以外は、一切手つかずで青々とした森に覆われている。

「明治神宮の森」は、昔からの森の延長と考えている人が多い。ところが実体は「100%の人工林」。世界でも珍しい人工都市林なのである。仁徳御陵も人工林で、長い年月を経ると、自然林と見紛う森になる格好の実例だった。

実生から育てるには時間がかかるので、全国から献木を受け付けた。関東近辺からは、大八車に巨大なクスを運んでくる姿も見られた。北は樺太、南は台湾と全国各地からの献木を中心に約12万本、365種が植えられた。約11万人の青年団員が勤労奉仕した。

現在は約250種に樹種は減り、逆に本数は17万本に増えているという。

当時の総理、大隈重信がイメージしていたのは、伊勢神宮や日光東照宮のような杉や松の針葉樹を主とした荘厳な森だった。

ところが、皇室の御料地(所有地)だった約70万平方mのこの地は、畑がほとんどで荒れ地のような関東ローム層の乾燥地で、調査の結果、針葉樹には適さないことが分かった。

そこで、針葉樹ではなく、日本列島の森の原風景であるクスやシイ、カシを中心とする常緑広葉樹(照葉樹林)を主材にすることに大隈もやむなく同意した。

シイやカシなら、おなじみのドングリで、世代交代が可能で、その循環で人手をかけなくとも「天然更新」で原生林のような「永遠の杜(もり)」づくりが可能になる。

静六らは、なるべく早く境内の雰囲気をつくるためアカマツなどの針葉樹を植え、その下にシイ、カシ、クスノキなどの広葉樹を植えた。そのうち広葉樹が伸びて、森林を支配していった。

森林総合研究所の群落動態研究室長正木隆氏は、11年8月川口市のSKIPシティの講演で、「静六氏が考えていた森林の極相(永遠の杜)は常緑広葉樹を主体とした針葉樹との混交林だった」と語っていた。これは最近の研究成果とも合致する。

明治神宮の森は、人工林でありながら、このような理念に裏付けされた森なのである。植栽してから10年で90周年。神宮の森は静六や弟子たちが想定した林相状態に近づきつつある。

静六は、巨万の富を得ても、子孫には美田(遺産)を残さなかった。その代り、後世の我々に、いかにも日本的な美林を残したのだった。この森には年間1千万人が訪れる。

本多静六 初の林学博士 久喜市

2010年06月26日 20時47分02秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

本多静六 初の林学博士 久喜市

「本多静六」の名を聞いてすぐピンと来る人は、全国ではもちろん、生まれ故郷の埼玉県でも決して多くはない。

初めて知ったのはもう何十年前のことだろう。日比谷公園のレストラン「松本楼」のテラスの前に立つイチョウの古木――「本多静六の首賭けイチョウ」だった。

71歳までの勤務先の本社が大手町や銀座だったので、日比谷公園は勤務中のずる休みの場所だった。この楼では何度もカレーやコーヒーを楽しんだ。

現在の日比谷交差点にあったこのイチョウは、1901(明治34)年の道路拡張で伐採されようとしたのを、この公園の設計者だった静六が、「私の首を賭けても移させて」と「活着は不可能」と反対する東京市議会議長の星亨(ほしとおる)に懇願、今の場所まで450m移動させた話に、その名はちなむ。

行きつけのさいたま市中央図書館で図書館友の会と共催で「永遠の森づくりと本多静六」と題する講演会があるとのことで、予約して出かけた。

講師が、母方の曾孫で、細胞生物学の専門家として知られる遠山益(すすむ)氏(お茶の水女子大学名誉教授)というからなおさらである。

300冊以上の本を書き、「東大教授で億万長者」だったマルチ人間の静六は、04年頃から著作権が切れたのを幸いに、「蓄財」や「人生成功の指南役」としての本が10冊ほど復刻されていて、その道で読んだ人が多いかもしれない。

その二つには何の関係もなかった私にとっては、静六は、我が国初めての「林学博士」であり、日本の「都市公園の父」である。静六が初めて手掛けたのが、練兵場だった日比谷公園の設計だった。

遠山氏によると、公園の設計は赤レンガの東京駅などの設計で知られる辰野金吾博士が引き受けていた。建築家ではあっても造園学は知らず、困っていた博士は、当時、東京府の水道水源林の造成に関与していた静六に出会い、ヨーロッパの公園を見てきた静六にこの仕事を押し付けた。

静六も公園の設計はやったことはなかったの、1903(明治36)年に完成すると、各新聞とも「洋風都市公園の第1号」と絶賛、静六は造園学者として、日本の著名な公園のほとんどを占める70~80の公園の設計・改良を手掛けることになる。

私も全国の公園の多くを見て回った。さいたま市の大宮公園、埼玉県秩父市の羊山公園、会津若松市の鶴が城公園、水戸市の偕楽園、群馬県の敷島公園、長野県小諸市の懐古園、福岡市の大濠公園・・・などに静六が携わっていることを知ると、静六の手のひらを回っていただけだと悟った。

巨樹も好きで、いろいろ見て回った。静六にも「大日本老樹名木誌」の著書がある。人間にも巨樹としか呼びようのない大人物がいるものだ。静六もその一人。畏れ多くも静六と呼び捨てにしたのは、煩雑さを避けるためだ。

埼玉県の現在の久喜市菖蒲町の豪農折原氏の生まれながら、東京帝国大学農科大学の学生時代、彰義隊の首領(頭取)だった本多晋の婿養子になり、本多姓になった。

久喜市の菖蒲総合支所5階に記念館があり、関わった全国の公園70か所の写真や所在地、日比谷公園と青森県野辺地町の鉄道防雪林の400分の1模型などが展示されている。

記念館は、15年度に本田家から新たに資料約1100点が寄贈されたのを機に改装され、厳選された約15点が新たに展示され、19年1月新装オープンした。

静六が1902年(明治35年)に小笠原群島視察で発見した桑の巨木の標本も登場した。高さ約2m25cm、幅約95cm、厚さ約4cmの一枚板で、「日本最大の桑の木」と伝えられてきた。

妻で、日本で4人目の女性医師となった銓子(せんこ)と幕末の彰義隊の幹部だった義父の晋(すすむ)の資料も加わった。

 

 


 
 
 
 
 


のぼうの城 行田市

2010年06月16日 16時51分05秒 | 名所・観光
のぼうの城 行田市

行田市の「さきたま古墳公園」で開かれた10年のB級グルメ第3回大会を見た後、“のぼうの城”を訪ねた。市の古墳公園や「古代蓮の里」には前にも来ているのに、城は初めてだった。

”のぼうの城“は、和田龍さんのベストセラー歴史小説のタイトルで、本当の名は「忍城(シノブジョウではなくオシジョウと読む)」。この城は、湿地帯を巧みに利用、守りやすく攻めにくい、関東きっての名城とうたわれた。豊臣秀吉の小田原攻めの際、周りの城が次々落ちていく中で、石田三成の水攻めに一月以上耐え抜き、最後まで落城しなかった唯一の城として知られる。

成り上がりの秀吉も、ゴマすりの三成も若い頃から嫌いなので、その攻撃に耐えた忍城のことは気に入っている。

“のぼう”とは、「でくのぼう」の略で、その時、たまたま城代(城主代理)になった成田長親のこと。長親は、城主の氏長の従兄弟。背の高い男で、のそのそ歩く姿からそのあだ名がついた。何事にも不器用で運動は特に苦手。馬にさえ乗れない。その男が、三成側の余りにも高飛車な降伏要求に怒って、戦う決意を固めたのである。

氏長は、従うように見せて、裏で豊臣側へ降伏を内通、城の主だった将兵とともに北条氏の小田原の籠城に参加していた。

三成の軍勢は2万を超すのに、長親側はその10分の1。三成は高松城の水攻めにならって、忍城を包囲、全長14kmの堤を築き、利根川、荒川の水を引き入れた。それでも落城しなかったので、「城が浮くためではないか」と“浮き城”の名が生まれた。忍城は、小田原陥落の後開城した

グルメ大会は、古墳公園前の駐車場で開かれたので、すぐ近くの日本一の円墳「丸墓山古墳」(直径100m、高さ16m)に登った。その名のとおり、丸い古墳で、春には頂上に桜が咲いて見事。その頂には、水攻めの時、三成が本陣を置いた。ここから見ると、忍城は目の前だ。

県のふるさと雇用再生基金を使ってハローワークなどを使って募集、12人からなる「忍城もてなし甲冑隊」を結成した。剣舞を披露、観光客との記念撮影に応じたり、甲冑の着付け教室も開く。忍城址の郷土博物館を訪ねたら、さっそく活動している姿が見られた。

10年9月には、古代蓮の里に隣接する水田に、「のぼうの城」のカバーイラストに描かれている長親や一般公募の「忍城」のデザインが3色の稲で浮かび上がった。関東最大の「田んぼアート」で、来年は日本一を目指す。

江戸時代、防衛拠点として重要だった忍藩には徳川家康の四男の松平忠吉が入った。10万石で「老中の藩」とも呼ばれ、親藩・譜代の城主の中から江戸幕府の老中、大老などの要職につくものが続出した。

明治維新とともに取り壊されたが。天守閣がなかったこの城の中心だった「御三階櫓」(写真)が復元されていて、市の郷土博物館になっている。見学者は100万人を突破した。

         

国宝「金錯銘鉄剣」 行田市

2010年06月14日 04時07分10秒 | 古代 和同開珎 金錯銘鉄剣・・・

国宝「金錯銘鉄剣」 行田市

行田市は、西に2007年に国内最高の40.9度の気温を記録したこともある熊谷市、東に鯉のぼりの生産量日本一、世界一の100mのジャンボ鯉のぼりで有名な加須市に接している。最盛期には全国の約8割(約8500万足)を生産、「足袋の行田か行田の足袋か」と全国に知られていた。

この行田市にさきたま古墳群がある。「県立さきたま古墳公園」(さきたま風土記の丘)になっていて、「県立さきたま史跡の博物館」もある。近くに「古代蓮の里」もあるので、埼玉では古代にもっとも関係が深いところである。

さきたま古墳群は5世紀後半から7世紀初め頃に造られた9基の大型古墳が集まる東日本最大の古墳群。国の史跡に指定されている。

5世紀後半に造られた稲荷山古墳から、1968年に出土したさびた鉄剣を、78年にX線で調べたところ、115の漢字(表57 裏58)が金象嵌されていることが分かった。

当時の埼玉では、金は手に入らないし、象嵌の技術も無かったので、この剣は大和で作られたと見られる。

解読したら、「わたしはワカタケル(獲加多支鹵)大王=雄略天皇に仕え、天下を治めるのを補佐した。先祖は代々「杖刀人首(じょうとうじんしゅ)」を務めてきた。この刀を作らせ、功績を記して記念とする」といった趣旨のことが書かれていた。

雄略天皇は万葉集巻頭の歌

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし=へら)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

の作者とされる。

熊本県の江田船山古墳の太刀の銘にも「ワカタケル大王」とあることから、九州から関東を支配していたと見られる。中国の「宋書倭国伝」の「倭の五王」のうち「倭王武」に当たるとされている。日本の国名が登場するのは7世紀後半になってからで、5世紀の日本は倭と呼ばれていた。

このためこの鉄剣は、「日本の古代国家が成立した空白の5世紀を解く重要資料」として「100年に1度の発見」「20世紀日本考古学の最大の収穫」と関係者を驚かせた。

その人物の名は「ヲワケ」と判読されている。ヲワケの先祖は、代々「杖刀人首(じょうとうじんしゅ)」(親衛隊長)を務めてきたと書いてある。古墳の被葬者はヲワケなのか、つまり北武蔵の豪族なのか、それとも大和から派遣された者なのか、詳細は明らかでない。

5世紀後半には大和の勢力が北関東まで及んでいたことが分かる貴重な資料として、1983年この古墳の他の出土品とともに国宝に指定され、「金錯銘鉄剣」の名で、さきたま風土記の丘にある「県立さきたま史跡の博物館」に展示されている。この博物館は、所蔵品のうち107点が国宝だ。

「金錯銘鉄剣」は、全長約75cm、重さ約600g。刀匠たちが7年かけて現代の技術で、115文字の銘文を刻む際にも金の割合を忠実に再現、13年11月、県に寄贈され、同博物館に展示された。(写真)

この古墳群の中には、日本最大の円墳だった「丸墓山古墳」があるのでも知られる。古墳時代、これだけの古墳群を築ける権力のある大豪族がいたことは、この地が古代関東の中心地だったことを物語っていて、決して「ださいたま」ではなかったことを示している。

さきたま古墳公園には「埼玉県名発祥の碑」が建っている。埼玉の名の発祥には諸説あるが、この「さきたま」が「さいたま」になったというわけである。この公園は、現在も大字「埼玉(さきたま)」にある。万葉集には「さきたまの津」と記述され、風土記にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」と書かれているので、埼玉県という地名の発祥地であるとされている。

同じ「埼玉(さきたま)」地内に「前玉神社」がある。全国で唯一、古墳の上に建てられた神社とのことで、「さきたま神社」と呼ばれる。発祥の碑には、当時の畑和知事が「埼玉郡は律令で国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡の表記も行われた。埼玉は巨大な古墳群の所在地で、前玉神社が鎮座する場所である」と記している。知事のお墨付きというわけで、他の説よりも説得力がありそうだ。


さきたま古墳群 行田市

2010年06月14日 04時07分10秒 | 市町村の話題



お墓の上を歩くのはなんと気持のいいことかーー。埼玉県の東北部にある「さきたま風土記の丘」(さきたま古墳公園)にある「さきたま古墳群」の前方後円墳の上を、10年に初めて歩いた感想である。

日本の古墳とは、エジプトやインカと違って、天体観測とは無関係のようなので、ずばり墓である。

海もなければ、秩父地方を除けば山もない埼玉県。特に茨城県寄りの東北部はどこまでもまっ平らで、高いところはないから、古墳の高みは平野を見下ろす絶好の見晴らし台になる。それに梅雨直前のさわやかな風が渡って来ていたたからなおさらだ。

2千年前の古代蓮「行田蓮」が10万株も浮かぶ「古代蓮の里」(世界のハス約40種類約2万株もある)では、満開の美しさに思わず「すごい!」とうなったことは何度もあるのに、そこから近い日本でも有数の「埼玉古墳群」(19年9月、国の特別史跡=国宝に申請)を訪ねたのは初めてだった。

4年ほどカイロにいた頃、ギザのピラミッドなど石の古墳はいやというほど見た。土の古墳を見るのは、大和を訪ねて、「大山古墳(伝仁徳天皇陵)」などを遠くから仰いで以来のことだ。

その上を歩いた古墳は、5世紀後半に造られたと考えられる「稲荷山古墳」である。 (写真)高さは後ろにある円墳の方が高く11.7mだが、この平野ではけっこうな高さだ。晴れた日には、富士山、赤城山、筑波山なども望める。

稲荷山は、「世紀の大発見」と騒がれた有名な国宝「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」が出土した古墳だ。「金錯銘」とは、金で象嵌した文字という意味。

鉄剣の表、裏に金文字115字で、分かりやすく言えば「(墓の主)オワケの先祖は代々、(天皇)の親衛隊長を務めてきたが、オワケは雄略天皇に仕え、天下を治めるのを補佐した」「471年7月に刀に功績を刻んで記念とする」と万葉仮名風の漢字が刻まれている。

このオワケが何者であるかについては諸説がある。わずか115字ながら金石文(金属や石に刻まれた文)としては全国で最も長文だとのこと。この剣や出土した副葬品を展示してあるのが、古墳公園内の「県立さきたま史跡の博物館」。

稲荷山の隣の「丸墓山古墳」は、その名のとおり円墳で、6世紀前半に出来た。直径105mで日本で2番目の大きさ。奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半)が、17年11月、従来より20m以上大きい直径110mの円墳と分かったと発表されるまでは、国内最大の円墳と言われていた。

高さ18.9mの頂きや斜面にソメイヨシノが10本ほど植わっているので、シーズンには見事だが、根が古墳の内部を傷つけているのではという恐れもある。

「丸墓山古墳」は豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成の忍城水攻めの陣が置かれた所である。

そのほかにも、この古墳群ではもちろん、武蔵の国でも最大の未掘の前方後円墳「二子山古墳」や、実物の横穴式石室を古墳の中から見学できる「将軍山古墳」など合わせて9つの古墳がある。かつては40基もあったという。

時間を調べていけば、蓮の里、古墳公園、忍城などをめぐる循環バスがJR行田駅から利用できるし、古墳公園のまえでは名物「ゼリーフライ(おから入りコロッケ)」も楽しめる。ウォーキングには最適なコースだ。