カスリーン台風
荒川と利根川と二つの大河を持つ「川の県」埼玉県にとって、川の恵みは計り知れない。だが、ひとたび台風や豪雨に見舞われると、「母なる川」は様相を一変、文字通りの「荒れる川」に豹変する。
利根川沿いの住民は、土盛りした避難用の「水塚」を作り、食料を備蓄、最悪に備えていた。県東部の15市町村に2014年にも千余が残っていた。馬や家畜も避難したという。
最も恐いのは、この二つの川の堤防が同時に決壊することである。・
その悪夢が現実になったのが、第二次世界大戦の敗戦間もない1947(昭和22)年9月に起きたカスリーン台風のもたらした豪雨禍だった。
2017年はその70周年に当たる。
埼玉県は、死者の数こそ101人と、関東、東北を含めた被害地域全体の1930人に比べ少ないものの、利根川と荒川を初め中小河川の堤防が83か所で決壊、当時の県内316市町村のうち、7割以上が被害を受け、約35万人が被災、家屋の被害は流出396、全壊725戸に上った。大正、昭和を通じて最大の水害だった。(県史、通史編7)
「明治43年の大洪水」(1910年)と記憶される荒川、利根川の洪水では、県内の平野部全域が浸水、堤防決壊945か所、死者・行方不明者241人、流出家屋998、全壊家屋610に上ったとある(利根川百年史など)。
江戸時代では、「寛保2年の洪水・高潮」(1742年)があり、利根川や荒川などの上流域で発生した大洪水が江戸下町を直撃、3900人以上、春日部周辺で9千人超の溺死者が出るなど、約2万人の犠牲者が出たという推定もある。
長瀞町の長瀞第二小学校裏の崖には、岩肌に「水」と刻んだ「寛保洪水位磨崖標」(県指定史跡)が残っている。現在の平水面から20mの高さで、洪水の水位の記録では日本一高いと言われている。
カスリーン台風は、利根川流域の東京の下町で被害が大きかった。しかし、堤防が破れたのは荒川が先だった。
カスリーン台風は典型的な「雨台風」だった。強風による被害は余り出ていない。日本に接近した時には勢いは衰えていて、関東地方の太平洋岸をかすめただけ。
しかし、停滞していた前線に台風が南からの湿った空気を供給、前線が活発化して、1947年9月14日から15日にかけて県内などに記録的な大雨を降らせた。
13日からの雨は15日夜半までに秩父市では、611mm(年間降水量の45%)に達した。明治34年の洪水時を上回る記録的な豪雨で、荒川は警戒水位を大きく突破していた。15日午後8時過ぎ、熊谷市久下新田地先で左岸の堤防2か所が100mにわたって決壊した。
16日午前0時20分、北埼玉郡東村新川通(現加須市大利根町)の利根川の堤防が水防団の必死の土のう積み作業のかいなく、約350mにわたって決壊した。
この洪水で利根川沿いの栗橋の最高水位は9.17mで、明治43年の水位より約3m高かった。
新川通には対岸との渡し船の乗り場があり、堤防のかさ上げも行われておらず、「かみそり堤防」のあだ名があった。
かみそりのように薄く、切れやすいという隠語であった。その上、戦時中の乱伐で山は裸同然、地面に保水能力はほとんど残っていなかった。轟音をたてて雨は山を崩し、流れ落ちた。
これも含め、支川も合わせて24か所で決壊、関東1都6県の死者は1100人に上った(国土交通省利根川上流河川事務所)。
利根川右岸(南側)堤防の決壊は、埼玉県の東部平野の低地が濁流に飲み込まれ、下流の東京も水没することを意味する。「利根川右岸を死守すること」が江戸時代から利根川治水の根幹だった。
濁流は、古利根川筋を南下、春日部、吉川を水浸しにし、18日の午後には東京の江東地区に到達、下町に壊滅的な打撃を与えた。
新川通堤防決壊による洪水は、75kmの地域を108時間で東京湾に到達したという。
二つの大河のほか、渡良瀬川、入間川、都幾川などの中小河川も氾濫した。
建設省(現国土交通省)の試算では、カスリーン台風の被害総額は国家予算のざっと5分の1に当たるとされる。もし現在、カスリー台風級の台風で利根川が同じ場所で決壊したら、国の中央防災会議は、加須市、春日部市、三郷市、2日後に到達する東京都足立区まで約230万人が住む530平方kmが浸水すると公表している。
この大水害は、戦後の政府の治水対策の原点になった。群馬県の利根川上流に治水と利水を兼ねたダムが相次いで建設され、護岸も強固になったので、この台風後利根川の堤防の決壊は起きていない。
国土交通省利根川上流河川事務所では、カスリーン台風の被害を後世に伝えようと9月16日を「治水の日」と定め、毎年慰霊・継承の式典を開いている。
現場には地元でカスリーン公園が作られ、「決潰口跡」や「台風の記念碑」(写真)が立っている。
利根大堰 行田市
湖沼などを入れると、滋賀県、茨城県、大阪府に及ばないものの、県土の中で河川が占める面積が3.9%と、埼玉県は川の占める面積が日本一と「川の県」である。
河川面積が広いのは、流域面積が日本一で、延長322kmと信濃川に次ぐ利根川が県北と県東の県境を流れ、埼玉県の「母なる川」荒川が貫通していて、その支流が数多くあるからだ。
流域面積とは、念のため、「河川の四囲にある分水界によって囲まれ、降水が川に集まる区域(広辞苑)」だから、河川面積とは違う。
県民には利根川より荒川の方がなじみが深い。私は若い頃、群馬県で仕事をしたこともあるので、利根川にも愛着があって、河川からの日本最大の取水量を持つ「利根大堰」にも興味を抱いてきた。
近くまで何度も接近しながら、行きそびれていたので、羽生市に出かけたのを機に、13年の夏の終わり、初めてこの大堰を訪ねた。
利根川と荒川は今も深く結びついていて、昔は荒川が利根川の支流だったこともあったことも分かって、二つの川への親しみが一層深まった。
利根大堰は、埼玉側は行田市、群馬側は邑楽郡千代田町にある。河口から154km、利根川のほぼ中間に位置する。全長692m、可動式のゲートが12門あり、サケなどが遡上する魚道が3基。約700mの「武蔵大橋」がかかっていて、両県を結ぶ県道が走る。
大堰の上流右岸に取水口が接していて、沈砂池を経て、江戸時代から300年の歴史がある農業用水「見沼代用水路」、「武蔵水路」、葛西用水などにつながる農業用水「埼玉用水路」、川底を潜って群馬県側へ導水する農業用水「邑楽用水路」、行田浄水場へつながる「行田水路」と5つの水路に送水する。
60億立方mを超す利根川の年間流出量のうち、約30%約20億立方mをここで取水する。その量が日本一なのだ。取水された水は、埼玉県と東京都の計約1300万人の水道水や両都県の約2万3300haの農業用水、隅田川の浄化用水などに使われている。
利根川には江戸時代につくられた8か所の取水口があった。都内からの需要も合わせて取水口を統合し、1か所から各地に水を送ることにした。2年半を超す工事を経て、68年4月に大堰からの取水が始まった。最大で毎秒134立方mの取水ができる。
運用から50年たった18年4月3日で累計取水量は900億立方mに達したという。琵琶湖の3.3杯になる。
私が最も興味を魅かれたのは、「武蔵水路」である。行田市から鴻巣市糠田の荒川まで14.5km、農業用水ではなく、水道水など都市用水を送っている。この水路で利根川と荒川が直接結びついているのである。
東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。埼玉県民の水道はてっきり荒川の水に頼っていると思っていた。さにあらず、大半は利根川というから驚きだ。
武蔵水路で荒川に入った水は、埼玉県用はさいたま市の大久保浄水場、東京都民用は、ちょっと下流の秋ケ瀬取水堰の上流で取水され、東京都の朝霞浄水場などを経て都内へ送られる。
「坂東太郎」の別名がある利根川は今、千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。
太平洋に向かったのは、江戸時代に行われ利根川東遷事業の結果である。それ以前は、埼玉県内では埼玉県内では荒川は利根川の支流で、利根川は東京湾に流れ込んでいた。
洪水防止と舟運のため利根川と荒川を切り離し、利根川を東に、荒川は西に移動させる大工事で、県内に「古利根川」「大落古利根川」とか「元荒川」などの名が残っているのは、そのためである。
武蔵水路は切り離された二つの川を、首都圏の水需要に応えるため再び結びつけたわけで、利根大堰から武蔵水路へ流れていく水を眺めていると、ある種の感慨を覚える。
完成したのが1967年で、老朽化し通水能力が3割方低下し、耐震性が不足しているので、通水しながら改築が進められている。
さいたま市水道局が年に3回発行している「水と生活」をたまたま目にして、12年4月号をめくっていると、住んでいるマンションの同じ通り、それも目と鼻の先に「小水力発電」をしている「白幡発電所」という発電所があることが分かった。
発電所というと、北陸の「黒部ダム」のように、大きなダムに水を蓄え、その落差を利用してタービンを回し、大量発電するものと思い込んでいた。
地震と大津波による福島原発の破損以来、どうして電力を確保するかが日本の大きな課題になっているのはご承知の通りだ。
「秩父地方を除いて、山もダムもない埼玉県のような平地でどのようにして発電するのだろう」。
好奇心だけは人一倍高いので、水道局にぜひ一度見せて欲しいと頼んでいたら、5月10日、「白幡配水場」の裏にある“発電所”に案内してもらえた。
その東側は、「親水公園」になっている。入り口は反対側にあって、階段を上って、何度か散歩に来たことがある。子供を遊ばせたり、本を読んだりするのに最適だ。
この配水場には1万トンの配水地が二つあるので、その上を緑地に利用しているのだ。
発電所というと、すぐ「縦のライン」を考えがちだが、ここには落差を生ずる大きな貯水タンクがあるわけでもない。
写真のように発電所が「横のライン」に寝ているのである。
なぜそれで? 説明を聞くと
この水は、さいたま市西部の荒川に近い県営大久保浄水場から来ている。ちょっと上流の取水口で取水した荒川の水を浄水して流してくる。
浄水場と配水場に高低差がほとんどないので、流すためにはポンプで圧力を加える必要がある。
1時間に1200トンもの水が流れてくるので、その圧力と流量を利用して、横に寝ている水車を回して発電するのである。
運転開始は04(平成16)年で、年間発電量は約41万kw。
一般家庭の約120軒分とのことだが、配水場の動力として使われているので、外には出せず、この配水場の必要電力の21%をまかなう程度である。ざっと年間400万円かせいでいる勘定とのこと。
水は24時間流れて来て、発電し続けているわけだから、夜には必要電力を超すこともあり、その際にはシャットダウンする。
環境庁が半分負担する補助事業で、総工費4千万円。すでに、モトはとっている。
身近な発電施設には屋根などを利用した太陽光発電がある。太陽光や風力に限らず、こんな小規模発電も近所にあるのだと知って参考になった。
「彩湖という人造湖をご存じですか」と聞いてみると、東京の人はもちろん、埼玉県の人でも知らない人が多い。「荒川第一調整池は」と聞いてみると、ほとんどの人が首を傾げる。
戸田市、さいたま市、和光市、朝霞市、志木市にまたがり、ハンノキ林で知られる秋ヶ瀬公園と人造湖「彩湖」を含めた一帯の河川敷が荒川第一調節池。
荒川第一調整池とその中にある彩湖は、さいたま市の中央部から川口市にまたがる見沼田圃(たんぼ)に匹敵するほどの水と緑の大規模空間なのに、もっと活用されていいのではないか。
エジプトはナイル川の賜物だと言われる。それに習って言うと、埼玉県は荒川の賜物だ。
荒川はその名のとおり、「荒れる川」である。この川を治めるため、地元の人々も為政者も力を尽くしてきた。この荒川第一調整池や彩湖もその努力の一つである。
第一の名が付いているのは、この調節池のすぐ北の羽根倉橋と上江橋の間に荒川第二調節池、その上流に第3、第4、第5の調節池の計画があったからだ。調整池とはふだんは公園などに使用、洪水、台風の増水の際は一時的に貯水、下流の被害を少なくする平地のダムである。
第一調整池は、広い川幅を活かして、川の中にもう一つの堤(囲ぎょう堤)を築いてつくられた。着工は1970年。1995年に一般公募で真ん中の湖が彩の国にちなんで彩湖と命名され、彩湖が完成したのが1997年。第一調整池全部が完成したのは2004年である。計画から完成まで34年もかかった大工事だ。
羽根倉橋から笹目橋までの5.8km。総面積は彩湖の5倍強の5.85平方km、 貯水量は彩湖の4倍弱の3千9百万立方m。「平地のダム」で、人工の自然空間だ。
その中で常時、水を湛えている貯水池が彩湖である。周囲8.5km、面積1.18平方km、深さ10.7m、総貯水量は1060万立方m(埼玉県人口の6日分)。この貯水量は洪水時の見沼田圃(たんぼ)の湛水量とほぼ同じだ。
彩湖は、洪水対策と同時に東京の夏場の渇水対策も兼ねる。荒川に余剰水がある時は水を貯め、足りない場合は、貯めている水を、水道用水を取水している秋ヶ瀬取水堰の上流に補給し、水道用水を確保する。
ここで取水された水は左岸の大久保浄水場から、さいたま、戸田、川越、志木など16市1町約380万人、右岸の朝霞浄水場からは東京23区の西部などへ供給されている。
水質保全のため、噴水でプランクトンの細胞を破壊したり、湖底3か所に設置したパイプから気泡を発生させ、水の対流を起こさせ、水質悪化を防ぐ曝気循環装置もある。4か所に設置された階段状の滝に、湖底から組み上げた水を流して水中に酸素を送って水質改善を図ることもできる。
水質悪化を恐れて、湖面でボートやモーターボート、ヨットなどの使用は許されていない。
彩湖周辺の自然環境も整備されていて、湖の北部のさいたま市南区側には「荒川彩湖公園」、湖の中部の戸田市側には「彩湖・道満グリーンパーク」が広がり、市民の格好の遊び場になっている。さいたま市側には「田島ヶ原サクラソウ自生地」もあり、シーズンにはサクラソウ祭りでにぎわう。
湖の中心部をまたぎ、戸田と和光市を結ぶ幸魂(さきたま)大橋は、埼玉県を代表する斜張橋で橋長約1500m。東京外環自動車道と国道298号線が通る。
この橋より南側は、野鳥と自然保護のため、立ち入り禁止になっていて、オオタカ、ハヤブサ、ノスリなどのタカ類、コミミズクなどのフクロウ類など貴重な野鳥を見かけることもある。野鳥観察にも使われている。
代表的なのは繁殖のため南から渡ってくる夏鳥オオヨシキリで、湖の周辺のアシ原で子育てをするため、「ギョギョシ ギョギョシ」とにぎやかだ。
植物に興味がある人なら、彩湖・道満グリーンパークの一角にトダスゲの保存地がある。彩湖自然学習センターもあるので、訪ねてみたら勉強になる。
さわやかな風に吹かれて、荒川の高い堤防の上から遠く秩父の山を望める。堤防から荒川や彩湖、公園、武蔵野線の鉄橋や幸魂大橋を眺めると、実に幸せな気分だ。見沼田圃と荒川第一調整池と、二つの首都圏屈指の大規模な水と緑の空間を持つさいたま市民らは、本当に恵まれている。
栃木、群馬、茨城、埼玉の4県にまたがる渡良瀬遊水池(3300ha)が、ルーマニアのブカレストで開かれるラムサール条約第11回締約国会議に合わせて、12年7月3日に「ラムサール条約湿地」に登録された。
日本から新規登録されるのは9か所で、合わせて46か所になる。
渡良瀬遊水地は、東京ドームの700倍、人工的なものとしては日本最大の遊水池。栃木県栃木市、小山市、野木町、群馬県板倉町、茨城県古河市、埼玉県加須市の4県4市2町にまたがる。
栃木県が約9割を占め、埼玉県分は加須市の旧北川辺町地域の80haしかない。登録されたのは2861haで、加須市分は51ha。
東京から約60kmに位置し、浅草発の東武日光線を使えば、加須市の柳生駅が南の玄関口。大人気のスカイツリーと結ぶ有力な観光資源になると期待されている。
遊水池の南側は、栃木と埼玉県の県境が入り組んでいて、中央エントランスは栃木市の飛び地。観光案内所の役割をする「道の駅きたかわべ」は加須市だ。
かなり前に6千羽の白鳥の渡来で有名な新潟県の阿賀野市の瓢湖を訪ねたことがある。このため、ラムサール条約に登録されている湿地は、渡り鳥の飛来地かと思っていた。
今度調べてみると、渡り鳥に限らず、「国際的に重要な湿地」であることが条件だと分かった。
渡良瀬遊水池は何が重要なのだろうか。
関東地方では代表的な「低層湿原」。北海道を除けば本州では最大の面積のヨシ原(1500ha)があり、トネハナヤスリ、タチスミレなど植物60種、タカの一種のチュウヒなど野鳥44種、昆虫23種、魚類5種の国指定の絶滅危惧種を支える。
ツバメ類の一大集結地でもあり、水鳥の渡りの拠点として重要だ。世界に250羽しかいないというオオセッカもやってくる。
このように、9つあるラムサール条約の登録の国際基準のうち3つを満しているという。
植物は約1千種が記録されている。
鳥類は、カイツブリ、サギ、ガン、カモ、シギチドリ、クイナ、ワシタカ類をはじめとして、日本で見られる野鳥の約半分252種が確認されていて、その繁殖・越冬・中継地として利用されている、特にチュウヒの大規模な越冬地である。そのほか、八イイロチュウヒ、ノスリ、ミサゴなどを主とする越冬ワシタカ類の豊富さは国内屈指。
湿地性の昆虫の宝庫でもある。昆虫の種類の多さは有名で、1700種が確認されている。この地の名が冠されたワタラセハンミョウモドキをはじめ、オオモノサシトンボ、ベッコウトンボ、シルビアシジミなどの湿地性の絶滅危惧種、準危惧種等が数多く発見されている。(数字は渡良瀬遊水池アクリメーション振興財団の資料による)
二回しか行ったことがないので、目にしたことのないのがほとんどだ。これだけ挙げられると、この遊水地が「湿地の生物たちの宝庫」であることがよく分かる。
この遊水地は、貯水池(谷中湖)、第1、2、3調整池に分かれていて、中央部にウォッチングタワーがあり、一望できる。
バードウォッチング、昆虫観察、魚釣り、パラグライダーなど年間100万人が訪れている。熱気球によるバルーンレースも4月に行われる。これを機にもっと活用されていい一大観光資源である。
3月下旬の「ヨシ焼き」は、春を呼ぶ風物詩になっている。
もちろんのこと、水没した谷中村の史跡保存ゾーンもあり、足尾銅山の公害に敢然と立ち向かった田中正造翁をしのべる。
福岡河岸 新河岸川 ふじみ野市
海も大きな湖もないものの、県土に占める河川の面積割合は、埼玉県が日本一である。
群馬、茨城の県境を流れる利根川、奥秩父の甲武信ヶ岳中腹から「埼玉県を貫流する母なる川 荒川」の二つの大河。入間川など数多くの川がある埼玉県は「川の国」である。
県では、知事の音頭とりで「川の国 埼玉」を目指して、県民が川に愛着を持ち、ふるさとを実感できるようにと、平成20(2008)年度から4年間、「水辺再生100プラン」を進めてきた。河川70、農業用水30か所である。
その一つ、ふじみ野市の福岡三丁目周辺の新河岸川の岸辺整備が完成、記念式典が開かれるというので、12年4月29日(日)に出かけてみた。
新河岸川には思い入れがある。現役時代、川の浄化の問題を追っかけていた。不老川などに通っているうち、見たこともないこの川への興味が募っていた。
汚い話で恐縮だが、川越からサツマイモを、江戸から肥料としてのし尿を、運んだこの川には、小さな頃百姓として小さな畑を耕し、肥え桶を担ぎ、二輪の荷車で運んだ最後の世代として、親近感があったからである。
新河岸川は、川越市の伊佐沼から荒川と並行して流れ、現在の和光市の下新倉で荒川に合流するまでの約32kmの短い川だった。
しかし、舟運では川越から東京・浅草の花川戸まで約120km、川越地方と江戸(東京)を結んだ。
江戸時代初期の17世紀半ば、当時の川越藩主の松平信綱が整備し、昭和初期まで約300年間、輸送路として重要な役割を果たした。
川幅は、水量保持のため蛇行しているので、一様でなく、約23~150m、水深は約90cm~4.5mだった。
帆を広げた高瀬船の写真が残っているので、今とは違って、これくらいの幅があったのだろう。
船荷は、浅草への「下り」には、サツマイモなどの農産物、木材、薪、炭など、川越方面への上りには、肥料用の灰、干鰯、鳥糞、瀬戸物、金物、荒物、酒、酢、砂糖、塩、干物などだった。
上りには「空き俵」もあった。米産地から東京に出荷された米俵が、サツマイモを詰めるために必要だったからである。
上りの肥料用のし尿(下肥)は、「肥舟(こえぶね)」で運ばれた。「下肥を満載して上ってくる場合、上流に行くほど下肥が水で薄められ、水増しされていることあった」というから笑える。
船便は貨物だけではなく、乗客を運ぶ「早舟」と呼ばれる屋形船の定期便もあった。川越を夕方出発し翌朝に千住、昼に浅草花川戸に到着する夜行の「川越夜船」もあった。「飛切船」という超特急もあった。
サツマイモや野菜を運ぶ便は、秋から冬、雁が来る季節に運行するので「雁舟」と呼ばれた。なんと風流な名前ではないか。
新河岸川には、上・下新河岸などの始発の「川越五河岸」を初め、20数か所の河岸場(船着場)があった。その中で、舟運の中期から後期にかけて、川舟が一番多かったのは、この日記念式典のあった「福岡河岸」だったようだ。
ここに集荷が集まり、3軒の回漕問屋があった。その中で江戸後期から明治後期まで隆盛を極めたのが、「福田屋」である。
十数棟あったうち残った主(母)屋、帳場、台所、文庫蔵、それに木造三階建ての見ものの「離れ」が市に寄贈され、「福岡河岸記念館」になっている。(写真)
「離れ」は1900(明治33)年頃、福田屋十代の星野仙蔵が接客用に建てた。3階まで通し柱が使われ、1923(大正12)年の大正大震災にも耐えた。仙蔵の心意気が伝わってくる建物である。
仙蔵は、文化人で、衆議院議員にも選ばれ、さらに剣術「神道無念流」の免許を持ち、剣道場の館長も務めた。特別公開されていたので、三階まで急な階段を上る。晴れた日には富士山、筑波山、それに東京スカイツリーも見えるという。一回、月見にも来てみたいものだ。
川はまだ、白くにごっているのが残念だ。近くの「養老橋」の下には船着場も造られた。川沿いには、斜面林沿いに木製チップを敷いた全長900mの遊歩道もできた。木を見、雑草を眺めながら、往復して、昔の新河岸川の雰囲気を十分堪能した。
県では12年度から、川筋ごとに複数の自治体ぐるみで河川環境改善を図る「川のまるごと再生プロジェクト」を、大落古利根川(杉戸、宮代、松伏町、春日部市)など10河川を対象にして始める。10月にも着工するという。期待したい。
(この原稿は主に、記念館でもらった資料、「上福岡市立歴史民俗資料館」の「新河岸川舟運の川舟とその周辺」(2004年)による。)
江戸初期の1655(承応4)年に開削された野火止用水は、「伊豆殿堀」とも呼ばれる。当時、幕府の老中で川越城主だった松平伊豆守信綱が造ったからである。今でも、平林寺裏の小さな橋に「伊豆殿橋」の名が残る。
私の乏しい日本史の知識だと、確か「守」とは地方の長官。川越藩主で伊豆半島を支配しているわけではないのに、なぜ「伊豆守」を名乗るのかかねがね不思議に思っていた。
調べてみると、江戸時代には、武家の官位は単なる称号に過ぎなかった。名判官大岡越前守忠相が越前の領主だったわけではないのと同じである。伊豆守の名は、老中職などを務める人に多かったという。信綱は、老中も務めていたので納得した。
信綱は“知恵伊豆”の呼び名があるほどの知恵者だった。9歳で後の三代将軍家光の小姓になった。1637年、島原の乱を鎮圧した功で、行田の忍城から川越城に転封。川越城を拡張・整備すると同時に、川越と江戸を結ぶ新河岸川を整備、舟運を始めた。さらに荒川の治水、川越街道の整備など現在の川越の発展の基礎を築いたのはこの人だ。
信綱は、江戸の水不足を解消するため多摩川から東京・四谷まで43kmの玉川上水を総奉行として完成させた(1653年)。その業績に対し、禄を増やす話を辞退、その代わりに玉川上水の水の3割を自分の領地だった野火止台地に分水する許可を得て、1655年に開削したのが上水から新河岸川まで約25kmの野火止用水だった。
玉川上水の工事でも起用した川越藩士・安松金右衛門に命じ、着工から40日で完成した。玉川上水から新河岸川まで勾配が緩いので、土地が低い所では、堤を築き、堤の上に水路を造った。総工費3千両とされる(玉川上水は5千両)。
この台地は武蔵野台地の一環で、赤土と呼ばれる関東ローム層から成る。水の浸透性が高く、「水喰土(みずくらいど)」と呼ばれたほどで、水の便が悪く、焼畑農業が中心だった。野火が広がり過ぎるのを防ぐため、堤防や塚のようなものが築かれたのが野火止だ。平林寺の中には野火止塚が残る。
水が無いので、住民は「カヤ湯」とか「芝湯」といって、刈り取ったカヤの上に寝転がったり、手足をこすりつけて風呂代わりにしたと伝えられる。
そんな所に、飲み水や生活用水、田の水にも使える水が野火止用水で届いたのだから、「伊豆殿堀」と農民たちが感謝したのは当然だった。
のちに新河岸川に「いろは48の掛樋(かけひ)」がつくられ、用水の水を対岸に送り、宗岡村(現志木市)の水田を潤した。
松平家の菩提寺の平林寺は岩槻にあった。1663年、信綱の遺志でこれを野火止に移すと、平林寺堀ができ、引水した。信綱の墓は平林寺にある。
平林寺や「野火止緑道」がある新座市は、かつての新羅郡が新座郡に改名された名残である。その昔の名「新羅」は朝鮮半島の「しらぎ」から来た人たちが住んでいたためで、最新技術を持っていて、芸術的センスも優れていた。
758年、朝廷は帰化した新羅の僧32、尼2、男19、女21人を武蔵国に移したのが新羅郡の始まりという。それ以前にも2回、新羅人が移されている。
新座郡に改名されてから「にいくら」と呼ばれた。新座、和光、朝霞、志木市一帯が新座郡だった。
716年に高麗からの帰化人を集めて、日高市近辺に置かれた高麗郡と並んで、武蔵国と朝鮮半島は深い関係にあったことが分かる。2016年は高麗郡建都1300年で記念行事が着々と進められている。
伊豆殿堀沿いの遊歩道を、こんな歴史を思い浮かべながら歩くのも楽しい。今度は平林寺裏だけではなく、25km全部を歩いてみよう。
久しぶりに新座市の「野火止緑道」を歩いた。厳密に言えば、いつものママチャリで出かけたのに、降りて押して歩いたのである。自転車に乗ってただ通り過ぎるのでは、埼玉県内で最も素晴らしいと自賛しているこの遊歩道に申し訳ないからだ。
出かける気になったのは、38年ぶりに野火止用水の本流を、延べ308mだけ地上に復元する工事が完成したという新聞記事を見たからだった。
宅地開発に伴うお決まりの水質悪化で、どぶ川の暗渠化は日本全国の習いだ。例にもれず、1973年頃から国道254号(川越街道)以北から新河岸川までは暗渠化され、地下の雨水管に流されていた。
市では最近、地区の土地区画整理事業に合わせ、本流の一部の地上化を進めていた。雨水管を流れる用水をタンクにため、ポンプで汲み上げ一日約9800tを流すのである。
復元といっても、「子どもが入っても事故が起きないように」との配慮から水深は5cm程度。開削当時の用水とはかなり違う。この程度の深さでは、飲料、生活、田んぼの用水にはならないからだ。
新座市では、12年春をめどにJR武蔵野線新座駅まで336mの支流も復元させる計画で、駅から紅葉の名所「平林寺」まで約3kmにわたって、このようなせせらぎに沿って散策が楽しめるようになるというから楽しみだ。
秋の紅葉で天皇も来られる平林寺を核に観光都市を目指す市にとって大きな前進だ
だが、野火止緑道とはこの程度と思ってもらっては困る。この緑道の魅力は、川越街道を「りょくどうきょう(緑道橋)」で越え、平林寺裏の「野火止緑道」に入ってからだ。(写真)
なにしろ「国指定天然記念物平林寺境内林」の裏を野火止用水の本流沿いに歩くのだから。東京都の「清流復活事業」で、本流に下水の二次処理水を送水し始めたのは1984年、それを三次処理水に改善したのは91年のことだった。
境内林は、クヌギ、コナラ、イヌシデ、エゴノキ、クリなどの雑木林にシラカシ、マツ、スギ、モウソウチクが混じり、地面にはクマザサなどが茂る典型的な武蔵野の里山。
この雑木林を保存するために、高圧線の下の木を約20年周期で伐採、芽吹いた若木を育てている。雑木林は人手が加わらないと永続しないのである。
この雑木林は、首都圏では屈指の鳥類生息地。春から秋にはジョウビタキ、コガラ、コゲラ、シジュウカラ、アカハラ、カケス。秋から冬にはホオジロ、メジロ、アオジ、ヒガラ、イカル、コジュケイ。このほか、ルリビタキ、アオゲラ、キジバトなど約60種がいて、繁殖、越冬地として利用する。バードウオッチャーにはこたえられない。
その境内林の裏を歩くのだから素晴らしいのは当然だ。
野火止用水は、東京都の立川市で玉川上水から分水し、埼玉県の志木市の新河岸川まで約25km。流域は、東京都の立川、小平、東大和、東村山、東久留米、清瀬の6市、埼玉県の朝霞、新座、志木の3市と計9市に及ぶ。
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巨大な“地下神殿” 首都圏外郭放水路 春日部市
「川の県」と自称する埼玉には、さまざまな河川関係の地上施設がある。地下空間にも春日部市には、国交省江戸川河川事務所が管理する“地下神殿”と呼ばれる貯水・排水能力が世界最大級の巨大な地下排水路がある。
同省では春日部市とともに、公募で選んだ提携事業者の東部トップツアーズを交え、防災施設では日本初という民間運営による見学システムを導入、月間受け入れを拡大しようと実験を始めている。社会資本を観光に活用しようとする「インフラツーリズム」である。観光地の少ない県の新たな観光スポットだ。
「首都圏外郭放水路」――。周辺の中川、大落古利根川などの5つの中小河川で洪水が起きると、あふれた水を最大で内径30m、深さ70mの5ヶ所の立坑から取り込み、巨大な水勢を弱める調圧水槽(写真)にため、国道16号の地下50mに掘られた直径約10mの全長6.3kmの水を流していくトンネル(地下の人工河川)を通じて、水を排出するポンプ施設で川幅が広い江戸川に排出する。排水用の巨大な羽根車「インペラ」は直径3.7m、重さ約35tある。
地下放水路全体で、東京ドームの半分の約67万立方mをためることができる。19年10月の首都圏などを襲った巨大な台風19号では、12~15日までに稼働以来3番目の約1150万立方mを排出、周辺の中川・綾瀬川流域を水害から守った。
首都圏の洪水を防ぐのが主目的で、2300億円を投じて13年かけ、06年に完成した。浸水に悩まされていた周辺地区の被害は大幅に軽減された。
圧巻は、江戸川に最も近くポンプの手前にある「調圧水槽」と呼ばれる庄和排水機場下の巨大空間である。トンネルを流れてきた水の勢いを弱め、江戸川へスムーズに流し込むため、地下約22mに造られた長さ177m,幅78m,高さ18mの巨大な水槽である。広さはほぼサッカー場2面分ある。ポンプ運転に必要な水量の確保と逆流の水圧を調整するのが役割だ。
116段の階段を下りたこの巨大水槽が“地下神殿”と呼ばれる。59本の高さ18m、幅78m、重量500tの支えの円柱が林立する光景は、荘厳な雰囲気を漂わせているので、この名がある。(写真)
「アテネのパルテノン神殿のようだ」という人が多い。エジプトに3年余いた経験からすると、むしろルクソール宮殿を思わせる。ルクソールには直径3.6m、高さ21mの巨大な石柱12本が立つ。パルテノンは高さ約10m。
見沼代用水ができて、田んぼに変わる前の見沼には、竜が住み着いていたらしい。
関東郡代の伊奈忠治は1629(寛永6)年、現さいたま市緑区附島と川口市木曽呂の間に長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設して、水を溜め、この灌漑用ダムを「見沼溜井」と呼んだ。平均の水深2.7m、周囲は40kmもあった。
この見沼周辺には、竜にまつわる20近い伝説が残っている。
その1 夜な夜な鳴り響く怪しい笛の音。奏でるのは、妖艶な美女で、その音を追って若者たちが次々姿を消してしまう(見沼の笛)
その2 美しい笛の音をたどると、古井戸があり、中には無数のホタルが舞っていた(ホタルの御殿)
その3 悪さをする竜がいたため、日光帰りの左甚五郎に竜の像を彫ってもらい、国昌寺(緑区)の山門に封じ込めた。葬式の際、棺桶の中の遺体が消えるので、開かずの門にして、この竜も釘付けされた(開かずの門)
といった具合である。
見沼を干拓した井沢弥惣兵衛為永のもとにも夜、夢の中に美女に扮した竜神が現れ、工事中止を哀願した。行灯の明かりにゆれる女の影は竜だった。
弥惣兵衛が過労で病に倒れると、女は夜な夜な現れた。「新しい住みかが見つかるまで工事を中止してもらえまいか」という訴えだった。ある晩、家来が弥惣兵衛の寝床をのぞくと、蛇女が真紅の炎を吐きながら、弥惣兵衛の身体をなめまわしていた。
さすがに恐くなり、工事の詰め所を天沼の大日堂(大宮区)から、片柳の万年寺(ばんねんじ 見沼区)に移して、工事を完成させた。万年寺には弥惣兵衛の頌徳碑が残っている。
緑区宮本の武蔵一宮「氷川女体神社」では、14世紀頃から神輿を乗せた船を沼の最深部に繰り出し、沼の主である竜神を祭る「御船(みふね)祭」を行ってきた。
女体神社は、奈良時代以前に見沼のほとりに創建され、現在の本殿は、4代将軍徳川家綱が建立した由緒ある神社である。
1728(享保13)年に、干拓が完成し、御船祭ができなくなると、神社の前に丸い島を築いて、祭祀場を設け、「磐船祭」が行われるようになり、明治初年まで続いていた。
さいたま市の誕生などを機に「さいたま竜神まつり会」や神社が中心になって05年から5月4日に「祇園磐船竜神祭」が始まった。
「竜神まつり会」では01年、さいたま市誕生を機に、新たな市のシンボルにしようと、ヘリウムガスで膨らませる風船で巨大な「昇天竜」(50m位の高さに昇る)を作った。
これが人気を呼んで、04年以来ハワイのホノルルのフェスティバルに毎年参加、10年には上海万博の日本デーにも出演、12年には、会津若松市、13年には郡山市の「ふくしまフェスティバル」にも参加、弘前ねぷたや花笠踊り、浅草サンバ、沖縄エイサーなどと競演する。
12年10月20日には政令都市になったさいたま市の人口にちなんで、ギネスの公式認定員を招いて副都心のスーパーアリーナ前で4体のうち125mのを膨らませ、「世界最長の膨らむ像」としてギネスブックに登録された。
Longest Inflatable Sculpture(最長の膨らむ彫刻)。
さいたま市に待望の「世界一」が生まれたのである。
13年5月4日の竜神祭には、一目見ようと朝から出かけた。ところが、世界的なヘリウム不足で病院でも手に入らないほどで、自粛して、ギネスの10分の1の大きさの12mの竜(写真)を女体神社前で膨らませた。
この日は、弥惣兵衛の銅像が立つ見沼自然公園を振り出しに、万年寺、国昌寺、女体神社を巡る「見沼の竜伝説をたどって歩く会」も開かれた。
考えてみれば、巨大竜の出番は多い。125mの竜が堂々と空に昇る姿を一度見てみたいものだ。
さいたま市の「見沼田圃(たんぼ)基本計画」がまとまり、11年1月31日夜、浦和ロイヤルパインズホテルでそのフォーラムが開かれ、その報告と関係者によるパネルディスカッションがあった。
基本計画は、従来の取り組みでは、農地の耕作放棄や荒地化の進行、開発による侵食を防止できないと、新たな取り組みの方向として「見沼田圃を活用しながら保全する」という視点を打ち出した。来年度から具体的なアクションプランづくりを始める。
見沼田圃の約4割は農家が所有する農地である。耕作者・土地所有者や行政だけの環境保全では限界があるとして、市民や市外からの来訪者の意見も取り入れ、「土地利用」、「自然環境」、「農」、「歴史・文化」、「観光・交流」、「教育・市民活動」の6つの分野で、その現状を踏まえつつ、10の地区に分けて、特に重点的に取り組むべき施策を中心に、具体的な内容や方法を定めたアクションプランづくりを目指す。
見沼田圃は広大で問題も複雑なので、その全貌を知る人は少ない。この基本計画の「現況と課題」、「参考資料」は、見沼に関心を持つ人に取っては貴重な資料になるだろう。この計画書から要点をピックアップしてみよう。
見沼を田圃の名に惹かれて訪れたら、失望するのは間違いない。昔は広大な水田が広がっていたのに、今では水田は全部の6%程度。大都市近辺の立地条件を活かしてほとんどが畑作に転換、サトイモ、ヤツガシラなどの野菜や植木、苗木を作っているほか、ブルーベリー、梨、ブドウなどの観光農園に変わっているからだ。
見沼田圃は東西はまちまち、南北約14km、外周約44km,さいたま市がほとんどで計1261ha(うち南隣の川口市は58ha)。さいたま市が約1200ha、川口市が60haとすれば覚えやすい。さいたま市にとっては市の中央部に広がり、市の面積の約5.5%を占める。
見沼田圃の田、畑を合わせた農地は全体の4割の520ha、公園・緑地が128ha、河川(芝川)・水路(見沼代用水東、西縁)が96haで合計745ha。「緑と水」の空間は、合計すると全体の6割を占める。
荒地のほか、道路、調整池、公共施設、宅地、裸地(空地)、駐車場が残りの4割を占める。
公共施設や公園・緑地は増えている一方、農地は平成19年度までの10年間で100ha減少した。畑のほうが圧倒的に多い。畑443ha、水田76haである。耕作放棄地などの荒地が83haと水田の面積より多い。荒地は9ha増加した。
ここでもご多分にもれず、農家人口の減少、農業従事者の高齢化、後継者不足などで、遊休農地や耕作放棄地が増加し、農地の荒地化が進んでいる。残土置き場や資材置き場に変わったり、荒地には廃棄物が不法投棄されている所もある。
見沼田圃の魅力の一つだった見沼代用水沿いの斜面林も減少しており、「開かずの門」と呼ばれる山門に左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があり、見沼の龍神伝説を伝える「国昌寺」からボタンの名所、総持院に至る斜面林約1haが「さいたま緑のトラスト保全第一号地」として買収されたのは、代用水東縁の斜面林を守ろうとする一つの動きだった。
区域内の農地所有者を対象にした19年度のアンケート調査によると、見沼田圃のイメージは、「自然」、「みどり」、「散歩道」などプラス面の一方で、「不法投棄」、「抜け道」などのマイナス面も多い。
約半分は、農業を止めたい、農地以外の土地利用をしたい、農地を売りたい意向を持つ。見沼田圃の将来については、将来は農地以外の土地利用をすべきだと考えている人が約4分の1いた。
見沼田圃の緑は、農家の犠牲で支えられているのが現実だ。
実際、東京からわずか20~30kmしか離れていないのに、首都圏最大の大規模緑地空間が残されているのは奇跡のように見える。JR京浜東北線や武蔵野線、宇都宮線、東武野田線の駅からも1~2kmでアクセスも便利なのに。
荒っぽく言えば、見沼田圃を開発から救ったのは、1958(昭和33)年の狩野川台風だった。狩野川台風は、その名のとおり、天城山を源流として沼津市付近で駿河湾に注ぐ狩野川流域に死者・行方不明約930人、全壊・半壊家屋1300戸という未曾有の大災害を引き起こした。
東京では気象庁開設以来という1日400mm近い豪雨を伴い、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍に達した。見沼田圃は全域が湛水、川口市市街地の大半も浸水した。
この時の見沼田圃の湛水量は約1千万立方mと言われた。その游水機能が注目され、1965(昭和40)年、宅地化や開発は原則として認めない「見沼三原則」が制定され、治水の観点から開発抑制策がとられている。
1995(平成7)年には県が「見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針」を策定、土地利用を「農地、公園、緑地等」に制限、1998(平成10)年から荒地化の拡大や新開発を防止するため、土地の買い取りや借り受けによる公有地化推進事業が始まっている。
このような保全の流れの中で、基本計画とアクションプランは見沼に新時代を切り開くことができるかどうか。(歴史は別項の「見沼 移り変わり」参照)
見沼 その移り変わり さいたま市
さいたま市の中央部にある「見沼」は、東京都心から北へ20-30kmのところにあり、自然や農地が色濃く残る1260haの「首都圏最後の広大な緑地空間」。東西10km、南北14km。日光の中禅寺湖よりちょっと大きい広さである。東京ドームの270倍もあるそうだ。
私の好きな散歩場所だ。と言っても、歩いては大変。ママチャリでも周回するだけで半日、冬などは日が暮れてしまう。
見沼に最も近いところにあるさいたま市立浦和博物館が「見沼のうつりかわり」と題する特別展を開いていたので、建物見物を兼ねて初めて出かけた。
その建物は、「鳳翔閣」と呼ばれる洋風建築で、1878(明治11)年に建てられた県師範学校の校舎の玄関部だった。老朽化で解体されたのを復元したもので、2階バルコニーの柱頭にはアカンサスの葉の彫刻もある。
キツネノマゴ科のアカンサスは、よく目にするが、そんな使い方もあったのかと見直した。東京の日銀本店、赤坂離宮(迎賓館)、三井本館ビル、明治生命館などでも見られるという。念入りに庭にアカンサスが植えてある。
小さな博物館で、展示は二階の回廊部分だけなので、多くは望めないものの、その歴史が簡潔に分かった。
〈縄文時代から中世〉
・約6千年前の縄文時代 地球温暖化の時代で、海が浦和や大宮の方まで入り込み(縄文海進)、見沼は海の底。周辺には貝塚が見つかっている。その後、海が退き(海退)、東京湾と分離し、弥生時代には見沼は大きな沼に変わった
〈江戸時代になって〉
・1629(寛永6)年 徳川家光の命で関東郡代だった伊那半十郎忠治が八丁堤(約870m)を築き、見沼を灌漑用水池とし、平均水位約1mの「見沼溜井」ができ、下流域を潤す。反面、溜井周辺の水田が水没した。大雨の時には周辺部の水田に被害が及んだ。溜井の上流部は排水不良に苦しみ、周辺や上流の村々から何度も溜井廃止の請願が出されていた。
・1728(享保13)年 享保の改革の一環として新田開発を進めた「米将軍」八代徳川吉宗の命を受け、紀州藩の井沢弥惣兵衛為永(写真)が八丁堤を切り、溜井を干拓して見沼田んぼが誕生した。周囲約40km、約1200ha。「見沼代用水」(約60km)を開削、必要な水は利根川(行田市)から取水した。取水地には今、利根大堰が建設されている。着工からわずか6か月で完成した。この用水は、見沼溜井の北端(現上尾市)で東縁(16km)と西縁(22km)と東西二本の用水に分け、田を順々に潤し、最後は最も低い中央の芝川に流し込む。現在も使われている日本でも指折りの農業用水で、関東平野では最大。現在の総延長は84km。
・1731(享保16)年 為永は江戸と水路で結ぶため、東西の見沼代用水とその中央を流れる芝川を結ぶ全長約1kmの運河「見沼通船堀」(国指定史跡)を八丁堤の近くに作った。見沼通船堀は代用水と芝川の水位差が約3mあったので、4か所の関門で水位を調整しながら船を通す、パナマ運河と同じ「閘門式」。パナマより59年早かった。平成17年(2005年)、皇太子殿下はこの堀を視察、メキシコの第4回世界水フォーラムで「江戸と水運」のタイトルで基調講演された
〈第二次大戦後〉
・1958(昭和33)年 狩野川台風で見沼たんぼ全面冠水。その貯水機能は約1千万立方mで、下流の川口市などの洪水被害を和らげ、その治水効果が注目される
・1965(昭和40)年 治水の観点から「見沼3原則」。原則として農地の転用、つまり田んぼの宅地化は認めない。緑地維持のためのいわゆる「見沼についての憲法」とされる
・1969(昭和44)年 国の減反政策始まる。稲作から野菜、生花、植木への転換活発化
・1995(平成7)年 「見沼田圃の保全、活用、創造の基本政策」。開発はせず、治水機能を保持しながら、農地、公園、緑地等の土地利用を図る。土地の公有化、借り上げの促進
このような長い歴史を持つ見沼は、「見沼三原則」以降も、市営霊園計画、代用水の三面護岸化、ゴミ処分場設置など、何度も開発の波にさらされてきた。
その中で見沼田んぼの大半が、市街化調整区域で開発が規制されている。この貴重な大規模緑地空間を守ってきたのは、粘り強く、息の長い多くの市民運動だった。
見沼代用水の支線を含めた総延長は約190km。見沼の真価を理解するためには、一度でも歩いたり、自転車に乗って回ってみることだ。「東京にこんなに近いところにこれほど広い緑地が広がっているとは」と驚くのは必至である。絶滅(準絶滅)危惧種55を含め、700種の野草があると、自分の足で歩いて確かめた研究者もいる。