ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

健康長寿埼玉プロジェクト 

2012年02月29日 14時15分36秒 | 県全般
健康長寿埼玉プロジェクト 

急速な高齢化の進展に伴い、必然的に増える老人医療費をいかに抑えるかが、日本の課題になっている。

県では、08(平成20)年度から埼玉を日本一の健康長寿県にしようとする「健康長寿推進プロジェクト」に取り組んでいる。

これは上田知事の11年夏の知事選の三大公約の一つでもあった。

県最西北端の秩父郡の小鹿野町(人口1万4千人弱)は、65歳以上が約4千人弱、高齢化率は29%に近く県内で2番目に高い。30%突破も目前だ。

それなのに「75歳以上の一人当たり医療費」が50万円台で当時は県内で一番低く、全国平均に比べても27万円も少ないことが注目されていた。

2、30年前から始まった保健師による栄養や運動のきめ細かな指導の効果があったと見られる。

小鹿野町の後期高齢者医療費が低いのは、患者の入院日数と通院日数が短くてすむからである。そのためには退院後、自宅で療養できるように、医療と福祉の連携、通院減らしには予防医学として、栄養や運動指導など保健との連携が必要だ。

町には230人もの「保健補導員」がいて、その役割を担う。60の地区に各4人いる勘定で、住民に選ばれて委嘱される。地域の絆が昔から確立されていたのだ。

山岳部で持ち家率や同居率が高く、野菜作りなど身体を動かして農作業ができる場所が身近にあるという恵まれた条件もある。

町長や保健師らの献身的な努力も見逃せない。町の職員が考えた「お達者体操」も親しまれている。

小鹿野町の成果に注目した県は、09年度から小鹿野町をモデルに、人口規模や地域性が似た、ときがわ町と鳩山町で3年間、小鹿野町に習って、ひんぱんな健康相談、健康教室の開催、住民参加などの方式を導入したところ、生活習慣病の予防などに効果が出たという。

これに力を得て12年度から、より人口の多い市でも実施することを決め、まず坂戸、東松山、朝霞、13年度から加須、和光、春日部、久喜の計7つのモデル市に補助金を出した。

坂戸市には、栄養指導はお手のものの女子栄養大学があり、その協力を得て、ビタミンB群の1種で、ホウレンソウやブロッコリーなどに含まれる葉酸の摂取を促す「葉酸プロジェクト」を進めている。葉酸は、妊婦のほか、動脈硬化、認知症、脳梗塞、ガン予防にも役立つとされる。

葉酸プロジェクトの一つとして、葉酸やビタミンC、カルシウム、鉄分、が豊富で栄養価が高い地元産のハーブ「さかどルーコラ」の栽培もある。

地元の筑波大付属坂戸高校農業科の先生と生徒が育てたもので、主として葉をサラダで生食する。イタリア料理で知られてきたルッコラとは別種だという。

女子栄養大学では、地元企業と連携、葉酸ブレッド、葉酸カレー、葉酸たまご、葉酸ドレッシングなどを商品化している。

坂戸市は03年、「あなたの出番!おいでおいで健康づくり計画」を策定、健康なまちづくりを始めた。06年度には、健康づくりをコンセプトとした地域再生計画が総理大臣に認定された。薬学部のある城西大学、歯学部のある明海大学も協力している。

東松山では、お得意のウオーキング、高齢者が働くコミュニティ・カフェの開設。団地の多い朝霞市では、団地ぐるみの閉じこもり・介護予防、シニアによる保育支援制度による生きがいづくりなどが実施された。

東松山の毎日1万歩を目指すウォーキング、加須市の筋力トレーニングでは、一人当たり医療費が抑制できることも分かった。

埼玉県は全国で5番目に平均年齢が低い県だった(10年国勢調査)。一方で高齢化のスピードが一番速い県でもある。健康長寿推進事業がどのような成果を生むか、埼玉県だけでなく、老人大国日本の将来もかかっている。

県では15年度、ウォーキング、筋トレを推奨プログラムとしてモデル都市の対象を新たに志木市や三芳町など20市町に広げる。参加する自治体に補助金を出して健康寿命の延長と、医療費抑制を目指す。

健康寿命とは、65歳になった県民が健康で自立して生活できる期間を指す。具体的には、介護保険制度の要介護2以上に認定された時点を障害発生時点と考え、それまでの期間を健康寿命と考えるのだという。

県衛生研究所の計算では、13年度の男性平均は16.85年、女性平均は19.75年だった。

志木市では、11年度の健康寿命が男性17.68年、女性20.56年とともに県内1位だったのに、13年度には13年度には男性が3位、女性が4位に後退した。健康寿命1位復活を目指す。(埼玉新聞)

「埼玉発世界行き」奨学金

2012年02月27日 13時42分13秒 | 県全般

「埼玉発世界行き」奨学金

「グローバル人材育成」という言葉がにわかにクローズアップされてきた。若い世代の「内向き志向」を克服し、広い世界に目を向けさせようと、文部科学省などが中心になって旗振りしているものだ。

県の広報紙「彩の国だより」の11月号を見ると、グローバルに活躍できる人材を育成しようと、県ではさる11年度から県国際交流協会に「埼玉グローバル人材育成基金」(10億円)を創設し、「埼玉発世界行き」奨学金の支給を開始したとある。

毎年250人超、14年度までに約1100人を海外の大学や高校に送り出し、基金と留学生の数は4年連続で都道府県の中でトップの実績だという。

終戦後、米国留学のためフルブライト留学制度があった。今と違って若い世代が「外向き志向」に燃えていた頃、その留学は憧れの的だった。

ところが最近では、留学は進学、就職に不利になるかもと、日本の留学生の数は04年度の8万人台をピークに11年度には6万人台を割っている。

留学に伴う経済的負担を軽減し、留学促進支援のため、今や県の段階でも奨学金制度が設立されたというから驚いた。

大学生を対象にする学位取得コース、協定留学コースと高校生留学コースの3つがある。いずれも給付型。

学位取得コースは一人年間最大100万円が補助され、4年間も可能。

学位取得は県などによる選考があり、競争率も高い。米国では、コロンビア、カリフォルニア州立、ニューヨーク州立大学やドイツやフランスの大学に留学している。

協定留学コースは、海外の大学と交換留学などの協定(授業料免除協定)がある大学の学生が対象で、半年以上で1年が多い。渡航費など一人最大20万円補助。

高校生留学コースは、3か月以上。半年から1年が多い。一人最大60万円を補助。学校長の許可が必要。

13年度では、学位取得が20、協定留学が200、高校生が61の計281人が奨学金を与えられた。

留学生では女性の方が3対2の割合で多く、大学生では、埼玉大、独協大、東京国際大などの学生が多いという。

東京都や大阪府でも奨学金制度はあるが(13年度)、高校生向けで、本県の場合、大学や大学院生も含まれているのが評価されている。

県の取り組みは、地域における先進的な取り組みを表彰する「プラチナ大賞」(総務省など後援)の第2回(14年)で審査員特別賞を受賞した。「プラチナ大賞」とは、アイデアあふれる方法で、社会や地域の課題を解決している自治体や企業の取り組みを賞というかたちでたたえようとするものだ。

せっかくの制度なのに、応募者が伸び悩んでいるのが頭痛の種だ。




日光御成道まつり 川口市

2012年02月09日 17時00分16秒 | 祭・催し



川口市と鳩ヶ谷市の合併一周年を記念する「川口宿 鳩ヶ谷宿 日光御成道(おなりみち)まつり」が、12年11月11日(日)に開かれた。

人口58万になった両市が、徳川家康を祭る日光東照宮参拝往復の御成道の宿場だったことから企画されたもので、300年ぶりに八代将軍吉宗による社参(神社参拝)行列などを再現した。

市民など総勢1800人が当時の衣装などで、川口側1.5、鳩ヶ谷側1.1kmを練り歩き、約18万人の見物客が川口駅から地蔵院までの本町大通りと県道122、105号線の両側を埋め尽くした。

吉宗には、テレビドラマ「暴れん坊将軍」で吉宗を演じた松平健(58)、岩槻藩主の姫役にはアイドルグループ「HKT48」の指原莉乃さん(19)が起用され、人気を盛り上げた。

川口元郷駅から鳩ヶ谷駅までの移動には埼玉高速鉄道を利用した。

社参行列に先立ち、小、中、高などのマーチングバンド、獅子舞、囃子神楽、木やりの郷土芸能が披露され、三代将軍家光時代の岩槻藩初代藩主・安部正次の参勤交代の大名行列も再現された。

大名行列にはおそろいの衣装の腰元衆も多数参加、踊りを披露した。

大名行列に続いて、平安時代末期から昭和初期に活躍した両市にゆかりの著名人の歴史行列も繰り広げられた。最後が日光社参行列で、健さんは人力車に乗って現れた。

沿道で見ていて最も興味を魅かれたのは、「川口歴史行列絵巻」だった。

先頭は源義経。「え!なぜ? 」。ガイドブックによれば、「義経記」に1180年、源氏再興にかける頼朝に合流しようと、奥州から鎌倉に向かう義経が小川口(川口市)で、兵をあらためたとの記述がある由。

鳩谷兵衛尉重元(はとや・ひょうえのじょう・しげもと)は、鎌倉時代に鳩ヶ谷を治めた武士。

中田安斎入道安行(なかだ・あんざいにゅうどう・やすゆき)は室町中期の豪族で、安行の「金剛寺」を開創した。いずれも鳩ヶ谷、安行の地名の由来だ。

安行に近い赤山陣屋に居館を構え、関八州を治めた関東郡代・伊奈半十郎忠治(いなはんじゅうろうただはる)らの伊奈家の面々も初代忠次から改易(領地を没収)された12代まで顔をそろえた。

見沼代用水を開削した井沢弥惣兵衛為永(いざわ・やそべい・ためなが)、「安行植木の開祖」吉田権之丞(よしだ・ごんのじょう)、江戸後期に川口の鋳物師増田安次郎とともに当時製作不可能とされた18ポンド・カノン砲を造った砲術奉行の高島秋帆(しゅうはん)・・・。

女性では、幕府最後の御年寄・滝山(錫杖寺が墓所)なども姿を見せ、老人には極めて愉快だ.った。











日光御成道 川口市

2012年02月09日 14時23分12秒 | 街道・交通



江戸時代の中山道や中世の鎌倉街道・・・の通路だったので、道沿いに都市が発達した“道の県”埼玉で、「日光御成道(おなりみち)」が脚光を浴びようとしている。

この道沿いの宿場町だった川口市と鳩ヶ谷市が合併して川口市になったのを記念して、12年1月下旬から2月初めまで、市の中央図書館と市民ホールで「日光御成道展」とシンポジウム開かれた。11月11日には、日光への将軍行列を再現した。

この道のことは、余り知らなかったので、展覧を見に出かけた。

御成道とは、江戸幕府を開いた徳川家康を祭る「日光東照社(東照宮)」に将軍や将軍の世継ぎ(大納言)などが、その命日(4月17日)に行われる例祭に、参詣(日光社参)する道として整備された。

江戸の本郷追分(東京都・文京区)から、幸手宿で日光道中(日光街道)と合流するまでの12里(48km)。追分とは、道が左右に分かれるところを指す。

本郷追分は、現在の東大農学部前にある。中山道の起点日本橋からちょうど1里(4km)で、1里塚があった。御成道はここで中山道(現国道17号線)と分かれるのである。

5つの宿場があった。岩淵の後、川口、鳩ヶ谷と続き、大門、岩槻(いずれもさいたま市)の各宿を経て、幸手宿の手前の幸手追分で日光道中に合流した。日光道中の脇街道というわけだ。

日光道中は、芭蕉が「奥の細道」の第一歩として、日光へ向かって千住から草加、粕壁(春日部)と、曾良を連れてたどった道である。

将軍は社参の際、岩槻城を宿泊地にしたため、御成道は、江戸時代初期には「日光道中岩槻通り」「岩槻道」などとも呼ばれていた(11年の浦和博物館の「日光御成道」特別展による)。

当初から整備されていたわけではなく、3代家光の時代までは、日光道中の越谷から岩槻に向かい日光に向かっていたようだ。将軍社参にふさわしい道として整備されたのは、1640(寛永17)年頃だという。

日光社参は、片道3泊4日で計17回行われた。始まりは、1617(元和3)年、2代将軍秀忠の時。将軍時代2回、引退して大御所になってから1回と計3回。家康への崇敬の念の強かった三代家光は、実に9回も社参を繰り返している。

社参の狙いは、徳川家の威信を天下に知らしめることだった。このため莫大な費用がかかった。お供をする大名や旗本、御家人、その随伴員、動員される人馬の数・・・。

先頭が岩槻に到着した頃、最後尾が江戸城を出発するというほど大規模なものだった。

幕府財政の悪化を理由に、4代家綱(2回)の後、日光社参は一時休止されていたのは当然のことだ。

ところが、享保の改革を断行、幕府や庶民、農民に倹約を強制したはずの8代吉宗も1728(享保13)年、供奉者13万3千人、人足22万8千人、馬30万5千頭の規模で大掛かりな社参をした。

1776(安永5)年の10代家治の社参では、前回から48年ぶりということもあり、吉宗の社参の規模を真似た。

社参は1843(天保14)12代家慶を最後に終わった。すでに失墜しつつあった幕府の威信回復を図ろうとしたため武家等の供奉(ぐぶ)者は15万に及んだという。

このおびただしい人馬の調達は、沿道の宿場や村々に押し付けられた。それだけではない。道の修理、掃除、藪の刈り取り、荷物の輸送や宿の準備など大変な負担である。

このような過大な沿道への負担が、街道こそ違うが、幕末の埼玉県下を揺るがす「伝馬騒動」につながっていくのである。



中山道

2012年02月07日 18時36分31秒 | 街道・交通


「中山道」は、東京と京都を結ぶ大動脈ながら、「東海道」に比べて、知名度は低い。東海道が海沿いなのに対し、中山道は、「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれた。

島崎藤村の「夜明け前」の書き出しで有名なように「木曽路はすべて山の中にある」からである。碓氷峠、和田峠、塩尻峠もある。

「木曽街道69次」は、「東海道53次」より宿場が16も多いのだから、当然距離も長い。

135里余あるから、東海道より9里余長かった(1里は約4km)。「中仙道」「仲仙道」とも書かれるが、幕府は「中山道」に統一した。平坦な埼玉県内は例外で、中山道の一般の印象は、「山の中の道」なのである。

江戸日本橋を基点に、板橋を最初の宿場として、荒川を戸田の渡しで越え、埼玉県に入り、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の9つの宿場を過ぎ、神流川を渡って群馬県に入る。

道筋は、ほぼ現在の国道17号線に沿っていて、県内の道幅は5間から6間(9~11m)だった。

5街道の一つだから参勤交代に使われた。幕府は各街道を通行できる大名の規制をしていて、1821(文政4)年には49藩が利用した。

中山道を順路とする加賀藩など41藩と、東海道が順路ながら幕府の許可を得た彦根藩など8藩である。徳川御三家の尾張藩や紀伊藩も何度か通行している。

百万石の加賀藩の行列は、最も多い時で3500人、普通の時で2000人前後だった。

江戸から金沢まで約120里(480km)、日数は平均して11、12泊だった。1日平均で約10里(40km)歩いたことになる。

金沢新幹線が走る時代、まさに今昔の感がある。東海道より道程が長いのに、利用されたのは、通行量が少なく、難所も少なかったからだった。これらの数字は、「埼玉・歴史の道50話」(県立博物館編著 埼玉新聞社)による。

さいたま市のシニア大学に通ったので、中山道の講義も聞いた。

「中山道」をなぜ、「なかせんどう」と読むのか初めて分かった。昔、「山陽道」も「山陰道」もいずれも、「さん」ではなく「せん」と読んでいたのだという。

中山道を使うと、大きな川越えがなく、日程の計算がしやすい利点もあった。

また、川の多い東海道は、渡る際、かごを人夫に担がれて下から見上げられる。このため京都から江戸にお輿入れする姫君に嫌われて、川が少ない中山道は、『姫街道』と呼ばれた、という講師の話が面白かった。

中山道の宿場の中で、本庄が一番人口と建物が多い宿場だった。

今は日本一面積が小さい市として知られる、さいたま市の南隣の蕨の方が浦和宿より大きかった。

蕨宿の方が大きかったのは、ご承知の通り、幕府が反乱の江戸への波及を恐れて、川に橋を架けさせない政策をとったためだ。

荒川の「戸田の渡し」が川留めになった際、宿泊の施設が必要だったので蕨宿の方が栄えたのである。

歌川広重の浮世絵版画「東海道53次」は、海外にも名をとどろかしている。この広重が「木曽街道69次」(全71景)にも手を染めていることは、余り知られていない。

江戸日本橋から京都三条大橋までを69の宿場で結び、全行程約135里2町(約534km)。「次」とは「宿る」「泊まる」という意味だったという。71景とは宿は板橋から始まるのに、基点の日本橋が第1景になっていて、中津川(岐阜県)が2景あるからである。

広重が47景、美人画で知られた渓斎英泉が24景を描いている。埼玉関係9景は栄泉の筆になる。

浦和宿は煙が立つ浅間山の遠望、大宮と鴻巣宿には富士山の遠望付きである。

埼玉県最後の宿場本庄は、利根川の水運で栄えていたので、天保年間、家数1212、宿内人口4千人超、旅籠屋70軒で、中山道最大規模の宿場だった。

深谷宿は、中山道の中で旅籠屋が一番多く80軒あった。飯盛旅籠が多かったという。(「中山道69次を歩く」 岸本豊著 信濃毎日新聞社」による)

日本橋を早朝4時に出発(七つ立ち)して、一泊目は上尾宿、2泊目は深谷宿で過ごす人が多かった。桶川宿は、江戸から約40.8km。
当時の旅は1日約40kmだったから、参勤交代の大名は桶川で一泊、板橋宿で衣服を改め日本橋に向かった。桶川宿は一般人の最初の宿になることも多かった。(「木曽街道六拾九次 望月義也コレクション(合同出版)」による)

(写真は浦和本陣跡)