ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

小谷三志と女性の富士山初登頂 川口市鳩ヶ谷

2016年06月28日 17時54分03秒 | 近世


 富士山は江戸時代、女人禁制の風習が続いていた。女性は吉田口登山道の2合目にある、御室浅間神社で足止めされた。そのために、神社東南2キロには「女人天拝所」が設けられていた。

記録として残っている女性の富士登山第一号は、江戸・深川の「高山たつ」という25歳の女性で、天保3(1832)年9月下旬のことだった。彼女を連れて登ったのは、富士講第八世の行者小谷三志(こたにさんし)である。

 富士講とは、富士山を信仰の対象にする山岳宗教である。

 たつは尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を勤めた女性。高山右近の直系だったという。辰年生まれ、名も辰、この年も辰年だったので、三志は彼女に「三辰」という行者名を与えた。

まげを結わせ、男装させて5人の同行者を加え、7人で登った。登山者の少ない時期を狙ったので、山頂付近はすでに雪に埋もれていた。このとき三志は68歳だった。

三志は武蔵国足立郡鳩ヶ谷宿(川口市鳩ヶ谷)の生まれ。富士山烏帽子岩で断食修行して入定(にゅうじょう)した、富士講の身禄派の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)の流れをくむ行者だ。身禄派は庶民に支持されていた。

 三志は、身禄の教え「四民平等」と「男女平等」を人々に説き、富士信仰を実践道徳と結びつけた「不二道」を生み出し、自らも実践につとめた。最盛期には5万余の信者がいたという。三志は161回、富士山に登った。身禄は男女平等の立場から女性による登頂を勧めており、その教えを実行したのだった。

三志の弟子は5万人を超したとされ、二宮尊徳の報徳思想にも影響を与えたと言われる。

 三志の墓は、川口市鳩ヶ谷桜町の地蔵院(慈眼寺)にある。(写真) 鳩ヶ谷には今でも、三志の三男が江戸時代に開いた鰻屋(湊屋)があり、和菓子屋で三志最中を売っているところもある。

女性は、どんな時でも登れなかったわけではない。富士山の場合、庚申(かのえさる)の年には女性の登山を許可した。富士山が一夜にして出来上がったという孝霊天皇5年は庚申に当たる。富士山誕生記念の特別女性サービス年だった。

庚申年の寛政12(1800)年の「大鏡坊道者帳」によれば、たつに先立ち、富士登山の2000人の宿泊者のなかに3人だけ女性がいたという。どのような女性であったかは、分かっていない。たつの後にも、男装して富士登山を行った女性が少なからずいたというが、これも不詳。

 近世で登頂がはっきりしている富士登山女性第2号は、幕末のイギリス人外交官パークスの夫人。登頂は慶応3(1867)年9月だ。

 ちなみに、外国人の富士登山第一号は、幕末に日本駐在の総領事として来日したイギリスの外交官オールコック。万延元(1860)年7月、オールコック以下イギリス公使館員6人ら8人で登った。全部で100人余、馬30頭で一隊を組んだという。このときの模様は、オールコックの著書『大君の都―幕末日本滞在記』(岩波文庫)に書かれているという。

女人禁制が解除されたのは1872(明治5)年のことだった。


NHK大河ドラマ「八重の桜」とさいたま市

2013年12月21日 20時23分18秒 | 近世


埼玉県は江戸に近かったせいもあって、歴史的に有名な人物と意外なつながりがあることがままある。

13年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公、八重に関係する二人もそうだったのには驚いた。

八重の属した会津藩の初代藩主で、後に幕府で副将軍として名君と讃えられた保科正之は、さいたま市緑区大牧に知行地を持っていた武田信玄の二女に当たる見性院(けんしょういん)が養育した。

また、八重が結婚した同志社大学の創立者、新島襄の母親(つまり八重の姑)のとみ(登美とも)は、同じさいたま市の浦和区仲町(当時は中町)の生まれだった。

保科正之が大牧とつながりがあったのには深い事情がある。

長野県高遠町立歴史博物館資料叢書6号の「名君保科正之公」(春日太郎編)などによると、正之の父親は徳川2代将軍秀忠だった。母親になった神尾静(お静、お志津とも)は、秀忠を育てた乳母付きの女中の中でも最も身分の低い下女だった。

しかし、目鼻立ちが整い、しかも非常に利発な娘だったことから、秀忠に見初められ、寵愛を受ける身となり、一度流産した後ふたたび懐妊した。正之は1611(慶長16)年、お志津の姉の嫁ぎ先である神田で生まれた(「会津松平家譜」)。秀忠は「幸松丸」と名づけた。

大牧生まれという説もあるようだ。

秀忠の正室お江は、織田信長の姪で、6歳年上の姉さん女房。ひどい焼きもちやきで、秀忠も恐がって正式には側室を持った記録がないというほどだった。

お江はすでに3人の男の子を生んでいたのに、その嫉妬を恐れた秀忠は命を奪われるのを警戒して見性院にお江に知られないように幸松丸の養育を頼んだ。

秀忠は最初の懐妊中から老中に相談して静を預かってくれるように見性院に頼んでいた。幸松丸を預かった時、見性院は70歳を越していた。

見性院は、徳川家康から大牧に6百石の知行地を与えられていた。ここには幸松丸より4歳上の息子を持つ武田家の家臣が住み、管理していた。

見性院は知行地ではなく、現在の八王子市上恩方町にあった金照庵などに住んでいたので、幸松丸は見性院に連れられ、大牧を訪ね、その息子と遊ぶこともままあった。

幸松丸は7歳の時、武家の教育を受けるため、見性院が知っていた高遠城主の保科正光の養子になった。

その後、高遠藩、山形藩、初代会津藩主を経て幕府で異母兄・家光、ついで家綱を補佐、名君の道を歩むことになる。

1622年に死んだ見性院は、大牧の静泰寺(現・緑区東浦和)に葬られた。正之は境内に霊廟をつくり、霊を慰めた。現在の墓石は、後に会津藩によって建てられ、県の指定史跡になっている。(写真)

一方、新島襄の母親とみは、中山道浦和宿中町の穀物問屋「鍵屋」の中田六之丞の長女として生まれた。江戸に奉公に出て、3番目の奉公先の板倉藩(福島)で、家老と安中藩(群馬)士だった新島襄の祖父・新島弁治が親しかった縁で、その息子新島民治と結婚した。

娘4人の後、初めて生まれた長男が新島襄である。襄は米国から帰った後の改名だ。幼名は「七五三太(しめた)」だった。

とみは、新島襄が八重と結婚後、襄の自宅離れに住み、洗礼を受け、襄の死後6年の1896(明治14)年、90歳で死んだ。

「名君保科正之公」が読めたのは、たまたま訪れたさいたま市の東浦和図書館で、「八重の桜」にちなんで保科正之関係の図書を展示していたため。新島とみの話は、さいたま市シニア大学の校友会報にあった片岡恭子さんのエッセイに触発されたものである。

城下町岩槻の鷹狩り行列 

2013年11月05日 19時40分36秒 | 近世
城下町岩槻の鷹狩り行列 さいたま市岩槻区

さいたま市の区制施行10周年を記念して約400年前、鷹狩りが大好きだった徳川家康が岩槻を訪れた行列が13年11月3日午後、岩槻の目抜き通りになっている元日光御成通(おなりみち)で再現された。

到着した家康一行を岩槻城主が出迎える趣向で、本物の鷹を腕に載せた本職の鷹匠(たかじょう)10人 (写真)のほか、公募した約70人が目付け役、槍持ち、腰元などに扮し、沿道約1kmを埋めた約1万人の見物客を喜ばせた。

実際に放鷹(ほうよう)や、槍持ちの槍合わせ、腰元のなぎなた踊りなども披露された。

チョウゲンボウやハヤブサなどの鷹類を空に放すと、大きさがほぼ同じのカラスが驚いて、「すわ、縄張り荒らしか」と仲間を大挙呼び集めて戻ってくる珍しい場面も見られた。

興味を引かれたのは「岩槻黒奴」が歓迎の奴振りを披露したことだった。

奴(やっこ)は、武家の身分の低い雇い人で、外出する際、荷物の運搬などの雑用をこなした。農民や町民が雇われてなることが多く、参勤交代の時には多数必要になるので、臨時雇いもあった。

「岩槻黒奴」は、背中に白い菱形を染め抜いた黒木綿の半纏(はんてん)を着ていたため、その名がある。岩槻総鎮守・久伊豆(ひさいず)神社の祭礼などで、若衆が粋な黒半纏を着て 神輿の先に立ち練り歩いた。

最近は久伊豆神社は「クイズ」とも読めるので、「クイズ神社」として有名になり、ファンや関係者が訪れる。」

江戸後期には「岩槻黒奴」は、「日光の赤奴」「甲府の白奴」と並んで「日本三奴」とされていたのに、1954(昭和29)年を最後に姿を消した。

さいたま商工会議所青年部の有志が「伝統の灯を消すな」と立ち上がり、08(平成20)年に54年ぶりに復活、岩槻まつりで「奴振り」を披露、久伊豆神社の秋の例大祭でも奉納した。

スタートした時には11人だった。10年には「岩槻黒奴保存会」も発足、数も70人を超え、岩槻保育園の園児や岩槻商業高校インターアクトクラブの協力を得て、色々なイベントに参加している。

家康は小さい頃から鷹狩りが大好きで、一生に1千回以上行ったと言われる。死んだのも鷹狩りの後だった。当初は大名の動向把握や民情視察などが狙いで、日帰りもあれば、3か月かかるのもあったとか。

江戸に移ってからは、娯楽や健康増進色が強まり、江戸近辺の現在の県内の岩槻、鴻巣、忍、川越、越谷、大宮、浦和、戸田などに出かけることが多かった。

その休養や宿泊のため、御殿や御茶屋が各地に設けられ、岩槻周辺では越ヶ谷御殿がよく利用された。

県内の江戸に近いところは将軍家、その外側は徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)などの御鷹場に指定され、現在の浦和や大宮は紀伊徳川家の御鷹場になっていた。

家康の鷹狩り行列は、東海から関東にかけての関係地で実施されていて、岩槻に先立ち10月20日に鴻巣市でも、出身の俳優照英が家康に扮して、行われている。

江戸時代の日本一の力持ち 越谷市

2012年07月10日 19時44分53秒 | 近世
江戸時代の日本一の力持ち  越谷市

12年の七夕の昼間、越谷市役所で開かれた「第一回日光街道宿場町サミット in 越ヶ谷宿」という集まりを見に行った。

入り口に並んでいた多くのパンフレットの中で、最も魅かれたのは「越谷で生まれた 江戸時代の 日本一の力もち 三ノ宮卯之助」という一枚だけのものだった。

越谷の人なら誰でも知っている人だろう。何も知らなかったから、私には大ニュース。無知という特権である。これが出かけてみる楽しみの一つだ。

このパンフレットによると、「三ノ宮卯之助」は、もともと「一ノ宮」とか「二ノ宮」とか、神社みたいな名の持ち主ではない。

1807(文化4)年、今から200余年前、岩槻藩領三野宮村(現・越谷市三野宮)で生まれた。「三ノ宮」の方が「三野宮」より格好いいではないか。

卯之助は生まれつき小柄で虚弱だった。猛練習で頭角を現した「努力の人」である。

越谷は、元荒川沿いの低地だったから、幕府の新田開発の力入れもあって、「武州越ヶ谷米」と呼ばれ、「太郎兵衛もち」というもち米は江戸でも評判だった。

収穫した米俵を担ぐためや近くの元荒川に河岸もあったので、力持ちが必要で、力比べも行われていた。

卯之助は単なる力持ちだけではなかったようだ。近隣の力持ちを組織化して、全国興行を打ったのだ。

その足跡は、遠く姫路城の城下にまで及び、姫路市には石を持ち上げる卯之助の銅像もある。

1833(天保4)年、卯ノ助26歳の時には江戸深川の八幡宮境内で、11代将軍・徳川家斉の前で怪力ぶりを披露したこともある。力持ち興行を将軍が見たのは、このほかに例はないという。

卯之助は、1848(嘉永元)年、江戸力持番付で最高位の東大関(横綱はなく大関が最高位)になった。巡業で回った地域も一番広く、残っている力石も所在が分からなくなったのも含め38個と最も多いという。

「力石」という言葉がある。力試しに持ち上げた石のことで、神社などに残っている。その大きなものは「大磐石(だいばんじゃく)」と呼ばれる。

日本一の大磐石(力石)は、桶川市寿町の稲荷神社にある。実に610kg。市の指定文化財に指定されていて、「稲荷神社の力石」として知られる。「嘉永5(1852)年2月」と刻まれているので、45歳の時のものである。(写真)

どのようにしてこれを持ち上げたのか。このパンフレットには、卯之助研究の第一人者である郷土史家・高橋力氏所蔵の卯之助の興行の引札(ちらし)には、仰向けに寝た男が、両足で小舟を持ち上げ、馬に乗った武士と馬引きが乗っている「人馬船持ち上げ」の図がある。このような“足指し”という技を使ったのではないかと推定されている。

小舟に牛一頭を乗せたものを持ち上げるのも「売り物」だった。

地元の越谷市にも力石は、三野宮神社に4個、久伊豆神社に1個など6個あり、市の有形文化財に指定された。県内には力石が全国一多いという。

1854(嘉永7)年、江戸の大名屋敷で開かれた東西力自慢の対決試合で卯之助は勝ち、東西の日本一になった。その祝宴の帰り道、突然、苦しみ出し、48歳で死んだ。毒殺とも食中毒ともいわれる。

越谷市では、卯之助誕生200年を記念して始まった「力持ち大会」が開かれている。

この原稿は、高橋力氏ら越谷の卯之助研究家の書かれたものに基づく。

「老中の城」 川越 忍 岩槻

2012年03月26日 17時02分04秒 | 近世

「老中の城」 川越 忍 岩槻 

埼玉県にいた大名で、全国に知られているのは、5代将軍綱吉の側近で、その名も側用人だった柳沢吉保に限らない。吉保は、大老格まで上り詰めたが、本物の老中になったことはなかった(老中格)。

じじむさい感じが強いこの「老中(ろうじゅう)」とは何か。もともとは徳川家の「年寄」に由来する。農村でいろいろのことを決める長老たちによる合議制を導入したものとされる。「年寄衆」とも呼ばれ、寛永の頃、「老中」の名が定着してきた。

一人ではなく合議制で、定員は4~5人。おおむね2万5千石以上10万石以下の譜代大名から選ばれた。譜代大名とは、関が原の戦い以前から家康の家来だった者だ。

10万石を超すと大老だ。幕末の井伊大老のように臨時の職で、常置の職としては、老中は幕府の最高の地位。月番制で幕政一般を取り仕切った。

老中たちが評議で決め、将軍は形式的に認可するだけだったから、幕政の実質責任者である。町奉行、勘定奉行、大目付などを指図した。

藩邸に戻ると藩主としての仕事が待っているので、勤務時間は午前10時から午後2時までだった。

埼玉県関係の藩主で、松平吉保と並んで知名度が高いのは、川越の先輩藩主、松平信綱だろう。

3代将軍家光の小姓時代からの側近中の側近、名目上の官位の入った「松平伊豆守信綱」という名で知られる。大変な知恵者で、「知恵伊豆(知恵出づ)」と呼ばれた。

吉保と違って、本物の老中で忍藩主(3万石)を経て、川越藩主となった。老中といっても、なったのはまだ30代の後半のことだから、今のような高齢化時代の「老人」とは違う。

最大の功績は、「島原の乱」の鎮圧である。

発生したのは1637(寛永14)年10月。日本史上最大の一揆で、当時16歳のキリシタン天草四郎に率いられた農民、漁民、商工業者、浪人、キリシタン(カトリック)ら約3万7千人が、過酷な年貢負担や宗教迫害に耐えかねて、島原半島と天草諸島で決起、島原半島の原城に篭城した。

幕府はまず、板倉重正を総大将とする九州諸藩の討伐軍を送ったが、総大将が突撃して戦死する始末で、急きょ老中の信綱が派遣された。信綱の軍勢は13万近くにのぼった。

信綱は兵糧攻めに持ち込み、翌年2月末、総攻撃で落城させた。篭城軍は3万4千が戦死、女・子供を含め生き残った3千人が斬首された。皆殺しである。

島原藩主松倉勝家は、過酷な年貢取り立てで一揆を招いたとして、改易(武士を平民に落とし、領地・家屋敷を没収)処分後、斬首された。江戸時代に大名が切腹ではなく、斬首されたのはこの一人だけである。

島原の乱は以前、島原が有馬晴信、天草が小西行長、とキリシタン大名の領地だったことから、よくキリシタン一揆といわれる。その一面はあったとはいえ、百姓一揆の性格が強かったことが、この処分を見ても分かる。

信綱はこの乱の後、老中首座として幕政を統括した。キリシタン取り締まりを強化、カトリックのポルトガル人を追放、プロテスタントのオランダ人を長崎・出島に隔離して、幕府の鎖国体制を完成させた。

一揆鎮圧の功で1639年、3万石増6万石(後に7万5千石)で川越藩主になった。藩主時代、城下町の整備や江戸と結ぶ新河岸川や川越街道を整備、野火止用水(伊豆殿堀の別名も)を開削させるなど、川越藩への貢献も絶大だ。

明治維新後、川越が埼玉で初めて市になった基礎を築いたのも信綱だとされている。

このような大物ながら、人望はいま一つだったらしい。下戸で、好きなことは政治問答。茶の湯、和歌、舞、碁、将棋をたしなまず、政務一筋だったからからだ。墓所は、新座市の平林寺にある(写真)。

幕政に貢献したのは、この二人だけではない。埼玉県立歴史と民俗の博物館の図録の「歴代藩主一覧」で数えてみると、老中を務めた藩主は、知名度こそ低いとはいえ、川越藩で信綱を含めて7人、忍、岩槻藩で各6人、実に19人もいる。

この三つの藩の城が、「老中の城」と呼ばれたゆえんである。老中など幕府の要職に突いた大名は、江戸に常駐したため、任地を訪れるのは限られた時だけだった。


川越藩主 柳沢吉保

2012年03月26日 16時17分45秒 | 近世
川越藩主 柳沢吉保 

「無知とは怖いものである」、とつくづく思った。

大宮公園の片隅にある「埼玉県立歴史と民俗の博物館」は好きな施設で、よく出かける。何か催しを見に行くと、新しい知見が得られるのがうれしい。

12年3月20日の春分の日から「大名と藩 天下泰平の立役者たち」という特別展が始まったので、早速その日に訪れた。

島津77万石(実際はその半分程度だったらしい)の薩摩出身なので、「埼玉県にそんな有名な大名や藩があったかな」と、あまり期待していなかった。

展示品の数も少なく、とりたてて見るものもなかったので、将来何かの参考になることもあるかと、700円の図録を買って帰った。

晩酌をやりながら、「ごあいさつ」や「総説―北武蔵野大名と藩」に目を通しているうち、思わず酔いが醒めてきた。(写真)

小藩だと侮っていた北武蔵(埼玉県)の大名と藩が実は、江戸幕府の政治を牛耳っていたことが分かったからである。

たとえば、柳沢吉保。この名には学生時代からなじみがある。暇があれば、東京・駒込の六義園に足を運んだ。大学に近く、つまらない授業をさぼっては好きな本を読んで過ごす素晴らしい木陰を与えてくれた。何度行ったか分からない。

入り口に六義園の説明板があったので、吉保の名前は頭に刻み込まれている。東京都・本駒込にあるこの庭園は、吉保の下屋敷(別邸)だった。大名庭園では天下一ともいわれた「回遊式築山泉水庭園」(文字どおり築山と池をめぐってながめる庭)で、国の特別名勝に指定されている。

「六義」とは何か。「古今和歌集」を編んだ紀貫之が、その序文に書いている六義(むくさ)という和歌の六つの基調を表す言葉だという。

中国の詩経にある漢詩の分類法で、体裁は「風、雅、頌」、表現は「賦、比、興」の六つなのだそうだ。

驚くのは、吉保の和歌に対する造詣の深さである。六義園は、この六義を、古今の和歌が詠んでいるように庭園として再現しようとしたもので、設計は吉保本人によると伝えられる。

和歌とともに庭園作りへの吉保の打ち込みようが分かる。学問好きだったと伝えられる吉保は、大変な教養人だったのだろう。

ところが、吉保に対する一般的なイメージは違う。

授業をサボっては、六義園で昼寝した当時は、時代劇の全盛時代だった。時代劇映画で決まって悪役として登場するのが、吉保と十代将軍家治の同じく側用人(そばようにん)を務めた田沼意次である。

五代将軍綱吉の時、将軍親政のため、将軍と大老や老中の間を取り次ぐために新設したのが側用人である。その側用人だったのが吉保で、老中格だった。

綱吉は、生類(しょうるい)憐みの令で、「犬公方」と呼ばれ、江戸庶民の悪評を買った。その側近中の側近だから、評判がいいはずはない。吉保邸には贈賄する人が行列し、露店ができたという話さえある。

おまけに、綱吉時代に起きた忠臣蔵事件では、吉保が重用していた儒学者、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の切腹論にくみしたので、二人の悪評に拍車がかかった。

この吉保、30台半ばで7万2千石で川越藩主に、10年務め、ついで15万石で甲府藩主に栄転、幕府では大老格まで上り詰めた。

川越藩では、在任中に訪れることはなかったが、三富(さんとめ)新田を開拓、甲府藩では城と城下町を整備、「是(これ)ぞ甲府の花盛り」とうたわれたほど繁栄させた。行政的な手腕もあったようだ。

綱吉が死去すると、手塩にかけて造った六義園に隠居した。綱吉は生前、実に58回、この庭園を訪れたと言う記録があるという。両社の関係の深さが分かる。

武州世直し一揆

2011年03月10日 18時01分49秒 | 近世

武州世直し一揆

埼玉県は地理的に、生糸の貿易港だった横浜、幕府のお膝元江戸にも近かったので、横浜や江戸で起きていることがすぐ波及する。秩父事件は、横浜から輸出される生糸の値段が、世界不況や政府のデフレ政策で暴落したのがきっかけだった。

「明和の中山道伝馬騒動」(1764年)から102年後の1866(慶応2)年、今度は埼玉県域の中山道以西の村々と上州、八王子までを巻き込んだ幕末期最大の農民一揆「武州一揆」が発生したのも、ペリーの来航(1853)による安政の開港と対外貿易、第二次長州征伐で米や油、綿の値段が4倍前後に高騰、たまりかねた農民が打ち壊しに立ち上がったものだった。

一方、輸出品の養蚕・製茶などに関係した農家には巨利を得たものもあり、血洗島村(現深谷市)の渋沢栄一の叔父に当たる宗助は、この年に付近の農家六軒と共同出資して、奥州蚕種(蚕のたまご)を仕入れ、横浜で売却、約千両の純利を得たという。

このような貧富の格差の拡大に対し、「世直し」「世均し(ならし)」のスローガンを掲げ、「杓子と椀、箸」の図柄を持つ「世直し大明神」などの幟(のぼり)の下に貧農が結集したのである。

この年は天候不順で、蚕や作物が不作になったことが加わり6月13日、秩父郡上名栗村の農民たちが、二人の首謀者らを中心に上名栗の正覚寺に集まり米の値下げを要求して一揆が始まった。麓の飯能では穀物屋四軒が打ち壊された。この後、一揆勢はいくつかに分かれ、駆り出しに応じて同時多発的に蜂起が各地で起きた。

対象になったのは、豪農、豪商、米屋、質屋、横浜での生糸取引で儲けた浜商人(生糸仲買人)。米や金の施し、質草の無償返還を要求、応じなければ宅や蔵を打ち壊すことが多かった。

最初、中心になったのは約30人といわれるが、雪だるま的に増え、所沢では3万人に増えていた。参加したのは合わせて10万人ともいわれる。埼玉県で15、群馬県で2郡の202村を巻き込み、520軒の豪農、役所が打ち壊された。

農民たちの武器は、鉈、鋸、鍬、斧、まさかり、鎌など農民が日常使用する道具類で、刀や槍、鉄砲などの武器は原則禁止。一揆中の行動規律は厳しく、金品の奪取、婦女子への暴行は禁止されていた。後の秩父事件の軍律に似ている。

15日以降、幕府側は鎮圧に転じた。中山道を北上した一揆の一派は、現高崎市の岩鼻代官所を目指した。18日、群馬の新町宿を襲ったところを、代官所と高崎藩の連合軍に弾圧され、死傷者26、逮捕者300~400人を出して壊滅、一揆は約一週間で終わった。

逮捕者は全部で4千人に上り、首謀者の上名栗村(現在の飯能市)の大工島田紋次郎は死刑、おけ職人新井豊五郎は島流しになった。

百年余を経ているものの、伝馬騒動と武州一揆は、お上に農民が集団で立ち向かうという反抗精神で相通ずるものがあり、その気骨は秩父事件に受け継がれているようにみえる。


中山道伝馬(てんま)騒動

2011年03月07日 18時14分34秒 | 近世


秩父事件のことを調べるため、分厚い県や市町村史をめくっているうちに、埼玉県では江戸時代を通じて約90もの農民騒動が起きていることが分かった。

この中で最も大きいのは1764(明和元年)に発生した「中山道伝馬騒動」である。江戸時代最大の農民一揆で、参加者は桶川宿で最大規模に膨れ上がった。この事件の背景を知るためには、まず伝馬とはなにかを説明しなければならない。

埼玉県は、川は荒川、利根川、道は中山道や日光街道に依存して発展してきた。今でも、県の主要な市はこの道沿いにあることからも明らかだ。伝馬はまさしく、中山道、日光街道、それに日光御成街道の副産物だった。

中山道には多くの宿場があった。宿場には、公用の荷物を運ばせるため、人と馬が常駐している「問屋場」があった。前の宿場から来た荷物を次の宿場に運ぶためである。人馬の数は中山道では、一日に人足50人と馬50頭、日光街道はその半分ずつと定められていた。公用だと無料、一般の旅人は有料。徳川家康が始めた制度である。

中山道には加賀藩など39藩の参勤交代の行列が通った。行列は100から2千人にのぼった。数が多いと、問屋場の定数ではまかないきれず、不足した人馬を周辺の村から出させる「助郷(すけごう)」という制度があった。4月から9月までが多く、農繁期と重なって、農民の大きな負担になっていた。

この年幕府は、日光東照宮で翌年150回忌が営まれるのを理由に、中山道と日光街道で助郷村を増やす計画(増助郷=ましすけごう)をたて、街道から十里四方の埼玉、群馬県の195の村の村役人に本庄宿に出頭するよう命じた。

この年は、朝鮮通信使が来訪、これまでにない高額な負担金を支払わされたばかりだった。いつも人馬を徴収される定(じょう)助郷村では、「国役金」と呼ばれた負担金が免除されるのに、増助郷村では免除されない。

本庄宿の増助郷村に指定された村の農民は不公平感にたまりかねて12月16日、本庄宿に近い児玉郡十条村(現美里町)の川原に集まり、幕府の老中に増助郷中止を願い出る一揆を起こした。幕府が禁じている強訴(ごうそ)である。

一揆勢は本庄宿で上州(群馬県)勢と合流、江戸を目指して本庄、深谷、熊谷、鴻巣、桶川宿と南下した。幕府は、熊谷宿で忍藩を使って追い散らそうとしたものの、押し出しと打ち壊しが繰り返された。

宿場ごとに数は増え、桶川宿では5、6万(10数万とも)人になった。江戸時代の農民暴動の中で最も大規模な「明和の伝馬騒動」(天狗騒動、武上騒動=武蔵と上州)である。中山道沿いの日光街道沿いの長野、栃木県の村々でも蜂起が起きた。

幕府は、攻勢に押され、増助郷を中止せざるをえなかった。29日、桶川に関東郡代で農民の信頼が厚い伊奈半左衛門忠宥(ただおき)が撤回を伝え、一揆は収まったかに見えた。農民の全面勝利である。

だが続いて、年末から翌正月にかけて宿場以外の、足立、比企、高麗、入間、埼玉郡の各地でも、豪農や商人を狙う打ち壊しが始まった。川越藩の藩兵などが出動、八日ごろにはすべて鎮圧された。この二つを合わせ、参加総数では200余村、20万人余とも言われる。この騒動は天草以来の大騒動と言われた。

伝馬騒動は、増助郷反対だけではなく、貧農たちの不満が爆発した事件で、その後も県内各地で打ち壊しは続発した。

首謀者だった児玉郡関村(現美里町関)の名主・遠藤兵内(ひょうない)が1766年、43歳で死罪・獄門の刑(さらし首)になったほか、360余人が流刑、入牢、追放などの刑に処せられた。その三分の二以上が村役人だった。

平内は義民として崇められ、美里町では関観音堂にある宝筐印塔を「義民遠藤兵内の墓」として文化財に指定している。

近くの児玉神社には「義民遠藤兵内お宮」(関兵霊神社)があり、近くの川の橋のたもとに「義民遠藤兵内之碑」が立っている。(写真)

騒動から百年後、「正一位関兵霊神」の官位が与えられ、神として、美里町関の観音堂に祭られている。

当時の関村の名主・中沢喜太夫が作詞した

「昼夜暇なき御伝馬なれば 民の苦しみ諸人の難儀」「吾はもとより諸人の為に 捨てる命は覚悟の上と・・・」

という「兵内くどき」は、今も歌い、踊り継がれている。


皇女和宮降嫁の大行列 桶川市

2010年12月18日 18時43分57秒 | 近世



新聞で「皇女和宮降嫁150年記念前夜―切り絵とゆかりの品々でたどる旅」と題する展示が、桶川市の歴史民族史料館で開かれているのを知った。10年のことである。

出かけてみると、こんな大事(おおごと)だったのかと驚き、これまでの不明を恥じた。

桶川宿の当時の人口1444人、家数347軒、本陣1,脇本陣1,旅籠36の桶川宿に、朝廷と幕府の威信を賭けた総勢4万人とも伝えられる大行列が通過して一泊した。県内では本庄、熊谷宿に次ぐ宿で、桶川から戸田の渡しを越えて江戸・板橋宿を目指した。

日本橋から6番目の宿場で、当時の成年男子が一日に歩く平均的な距離10里(約40km)という立地の良さが、桶川宿がにぎわった理由だった。

仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の妹である和宮は、公武合体のかけ声の下、第14代将軍家茂に嫁ぐため京都から江戸に下った。1846年生まれだから下向の1861年から引くと、数えで16歳、満で15歳。今で言えば中学三年生の歳である。

江戸下向の際

 惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも

と詠んだと言うのは有名な話だ。

一行の総数は、「京都方約1万、江戸方約1万5千、通し人足約4千、警護の各藩1万・・・」という記録が残っている。嫁入り道具は東海道経由の別便で一足先に送られていた。

まさに長蛇の列で、一つの宿を通りすぎるのに4日かかったという。50kmにもなり、先頭が桶川に着いたときには最後尾はまだ熊谷だったという記述も、最初は「誇張だろう」と思っていたのに、信じられるようになった。

この大行列は、中山道69次、いや江戸時代の5街道始まって以来の出来事だったと言われるゆえんである。

なぜ中山道が選ばれたのか。中山道は大きな川がなく川止めの心配がないため、「姫街道」と呼ばれたとおり、それまでも京都の姫君の幕府へのお輿(こし)入れには、利用されていた。

今度は初めての皇女なので、長い行列が旅人や外国人が多い東海道より往来の妨げにならないことに加えて、警備がしやすいのも大きな理由だった。尊皇攘夷派の和宮奪還などもうわさされたからだ。

ほかに、東海道には「薩埵(さった)峠」(静岡市)や、浜名湖の「今切(いまぎれ)の渡し」など、「さった=去った」「切れる」と、婚姻には縁起の悪い地名があったのも理由の一つとされる。

染めた撚糸(より糸)で飾った和宮を乗せた輿(こし)の前後に、警護の藩士を含めて総勢ざっと4万人。これが1861(文久元)年10月20日、京都を出発、約530kmの道のりを24泊25日の日程で、11月15日に江戸に入った。

桶川宿に泊まったのは11月13日。本陣到着は午後2時、出発は翌午前nえむ時。早暁の出で立ちである。こんなに早く起こされる和宮もさぞ眠たかったろう。これに先立ち、県内の中山道宿で最も大きかった本庄宿は11日、熊谷宿は12日の宿泊だった。和宮ももうクタクタだったに違いない。

ひたひたと津波のように近づいてくるこの大行列を前に、桶川宿は戦争のような騒ぎだった。次の板橋宿までの宿は小休止だけで、直行することになっていたからだ。桶川で全部の人馬の乗り換え、荷物の継ぎ送りをしなければならなかった。

このため板橋までの間の上尾、大宮、浦和、蕨宿の人足はすべて桶川に集められた。人足3万6450人、馬1799頭に上った。桶川宿では人馬を提供する義務のある助郷(すけごう)59村に112村が加えられ、飯能、所沢からも人足が徴発された。

人足とは馬や牛でさえ「頭」と数えられるのに、「人足」は、人間を「頭」ではなく、足を二本で一本と数える方法。人口の「口」や人手の「手」と並んで人を数える漢字の面白さである。

人馬だけではない。和宮の泊まる本陣はもちろん改装。普通の参勤交代では最大でも3千人ぐらいなので、その十倍を超す一行の夜具布団、膳や椀は他の宿場からその人数に見合うよう借用料を払って調達した。

宿泊当日には、旅籠はもちろん、商家、農家などすべての家が宿所として徴発された。

通行の前後の三日間は公用以外の通行禁止、通りに面する二階の窓は目張りして、上から見下ろしてはならない、道端で正座して迎える、寺などの鐘を鳴らすのも禁止――など細かいお触れが出た。

関係の村々や沿道の人々にとって、江戸時代を通じて最大の出来事で、その負担や苦労も最大だった。

桶川には本陣遺構(写真)がある。県内の中山道筋で残っている本物の本陣はここだけ。建坪207坪のうち、和宮が泊まった上段の間、次の間、湯殿、御用所(トイレ)が保存されている。(非公開)

上段の間では、壁に吊り具をつけ、ハンモックのように寝具を吊るして、下から槍などで襲撃されないようにしていたというから大変だ。

近くに観光協会の「中山道宿場館」がある。当時の宿場をしのぶ資料がいろいろ展示されていて、その全貌が分かる。興味があるなら訪ねるといい。館員も親切で面白い。

この歴史的大イベントを記念して桶川市では、文化の日の桶川市民まつりで中山道で「皇女和宮行列」のパレードを再現する。和宮は16歳から18歳の女性を市民から公募する。


関東郡代 伊奈氏

2010年11月15日 10時11分14秒 | 近世



大学時代、映画に凝っていたので、西部劇のかたわら時代劇もよく見た。時代劇でよく登場するのは「悪代官」で、それ以来、代官は「悪」と決め込んでいた。

ところが最近になって、「神様・仏様」と農民を初めとする庶民から慕われた代官が昔の埼玉県にいたことを初めて知った。関東郡代の伊奈氏である。

代官とは、御存知のとおり、天領(幕府直轄地)を支配し年貢徴収などの民生をつかさどった役人のこと。伊奈家は、陣屋(代官のいる所)を初代の忠次が関東代官頭として現在の伊奈町に、三代目忠治(ただはる 忠次の二男)から十二代目忠尊(ただたか)までが関東郡代として川口市に置いた。

伊奈氏は、現在の埼玉県の入間・比企地方を除くほとんどを、配下の代官などを通じて1590(天正18)年から1792(寛政4)年まで約200年間支配した。代官頭、関東郡代とは、諸代官を統括、交通、治水、土木、新田開発などの中心的な役割を担った。

伊奈氏のことを初めて知ったのは、伊奈町にある県民活動総合センターの講座に数回通った時だった。「伊奈備前守忠次公をご存知ですか。今年は忠次公没後400年の年です」というパンフレットで、10年10月31日に開かれたシンポジウムへの呼びかけだった。

裏面にはその一生を描いた漫画もついていた。忠次は、三河(愛知県)の生まれで、徳川家康に仕え、1590年、家康が関東に移された際、現在の伊奈町小室と鴻巣市にかけての武州小室・鴻巣領1万石を与えられ、小室に伊奈陣屋を構えた。伊奈町の名は忠次にちなんでいる。

さいたま市南浦和から東京外環自動車道にそって植木の里、川口市安行に向かうと、川口東インターチェンジのすぐ南に赤山城跡(同市赤山曲輪)がある。忠治以降12代までが陣屋を構えた所で、赤山陣屋跡とも呼ばれる。

陣屋全体の総面積は、東西、南北ともに1400mの正方形型の約60万坪で、当初の規模は大阪城外堀とほぼ同じスケールだった。二重の堀に囲まれ、家臣団の屋敷や菩提寺などもあり、城下町の感じだったという。

今では緑に囲まれた最高のハイキングコースで、記念碑(写真)前には足を休める所もある。

なぜ伊奈氏は「神様」「仏様」とまで慕われたのか。

政治とは古来、水を治めることだった。家康が関東に移ってきた頃の埼玉県は、「坂東太郎(利根川)」も「荒川」もその名のとおり暴れ放題。埼玉県東部から南部にかけては、低湿地帯で洪水の常習地だった。

利根川は江戸湾に流れこみ、荒川は、吉川市付近で利根川に合流していたというから驚きだ。坂東太郎と荒ぶる川(荒川)が増水して合流すれば、果たして何が起きるか。容易に想像がつく。

土木と治水・灌漑にたけた忠次と2代目忠治は、治水のため、「利根川の東遷」と「荒川の西遷」に着手した。

忠次亡き後、忠治らの後継者は最終的に、利根川の本流を東側の常陸川に結びつけ、千葉県銚子、つまり太平洋まで誘導、東京を利根川の洪水から解放した。荒川については、熊谷でせき止め、西側の入間川を通じて隅田川に流し込んだ。

優れた土木技術で堤を築き、用水を引き、新田を開発した。米の収穫は大幅に増えた。見沼溜井も忠治によって造成された。

忠次は、農民に桑、麻、楮(こうぞ)などの栽培を勧め、養蚕や炭焼き、製塩などを奨励、関八州(関東地方)は忠次によって富むとさえ言われた。

1707(宝永4)年、宝永の富士山噴火の際には、7代目忠順(ただのぶ)が小田原藩の避難農民の救済に奔走した。忠順は飢えた農民のために駿府にあった幕府の米蔵を開放、棄民を助けたが、幕府の追及を受け、切腹して死んだ。

1783(天明3)年、12代忠尊(ただたか)の時には、浅間山が大噴火、「天明の大飢饉」を引き起こした。江戸でも暴動や一揆が起こり、「天明の打ち壊し」が始まった。忠尊は幕府の下賜金で諸国から米穀を買い集め、庶民に廉売、危機を救った。

ところが、後継者問題や忠尊の行跡が幕府に疎まれ、1792(寛政4)年、伊奈家は関東郡代の職を解かれ、改易された(平民に落とし、領地・家屋敷を取り上げる)。赤山陣屋は徹底的に破壊された。

墓地は、忠次、忠治は鴻巣の勝願寺、4代目以降は、赤山陣屋跡近くの源長寺にある。

関東郡代・伊奈氏のことはもっと知られていい。伊奈町では18年3月、「伊奈忠次ー関東の水を治めて太平の世を築くー」と題するPR映像を作成、町のホームページや動画投稿サイト「ユーチューブ」で閲覧できるようにした。

町の人口は18年1月1日で4万4699人。伸びが鈍化しているため、24年に4万7000人にする目標を掲げている。このため忠次のPRを進め、移住・定着を促進、国の地方創生推進交付金を活用して、16年度から18年度までの3年間で総事業費約4150万円をかけ、観光に生かす事業を展開している。

伊奈氏屋敷跡がある丸の内地区の観光スポット化をめざし、地元の竹のチップをまいて散策路を整備しているほか、17年12月には蓮田市の神亀酒造と協力して、忠次と長男の忠政、二男の忠治から命名した日本酒3本のセット「伊奈氏3代」を発売、さらに「忠次せんべい」の開発、書籍も作成する予定。(この項日経による)