団地とは。夫婦と子供2人を想定した2DK。ダイニングキッチン(DK)に6畳、4畳半。フロアにはテーブルと椅子もある洋風間取り。バスに水洗トイレ、それに洗濯物を干せるベランダ。家賃は月収の約40%。
40~60平方m。ダイニング(食堂)とステンレスの流し台のあるキッチン(台所)をスペース節約のために一つにし、銭湯に出かけるのではなく内風呂付きで、汲み取り式ではなく水洗トイレつきだった。
1958(昭和33)年、「団地族」という言葉が生まれた頃には、これだけが揃っている日本住宅公団(55年設立)の「公団住宅」は、あこがれの的だった。
埼玉県には、東武東上線や東武伊勢崎線沿線などに大規模団地が続々と立ち、東京からのあぶれ族を核とする「人口爆発」を支えた。
「日本住宅公団史」をめくると、1955(昭和30)年度から79(同54)年度までに、賃貸、分譲合わせて約10万4千戸ができ、さいたま県は、東京都、大阪府、千葉、神奈川県に次いで5番目だった。
県の人口が700万人を超し、全国5位、市が40と全国一の数になったのも、この団地建設が基礎になった。
住宅公団の県内初の大規模団地は、「霞ヶ丘団地」だった。ふじみ野市霞ヶ丘にあり、東上線上福岡駅から歩いて3分。
2階建て長屋スタイルのテラスハウスが多く、1959(昭和34)年入居開始当時は、公団の関東支所(東京、千葉は東京支社)で最大(204棟、1793戸)の団地だった。
老朽化して、高層の「コンフォール霞ヶ丘」に建て替えられているので、昔を知る人は少なくなってきそうだ。
ふじみ野市には、上福岡駅を挟んでもう一つ古い公団住宅がある。上野台にある「上野台団地」である。
旧陸軍弾薬工場(火工廠)の跡地に出来たもので、1960(昭和35)年竣工当時は、関東支所最大(2080戸)とされた。
「霞ヶ丘団地」と「上野台団地」は、有名な「八千代台団地」(千葉県八千代市、57年)、高島平団地(東京都板橋区、72年)、「香里団地」(大阪府枚方市、58年)、「男山団地」(京都府八幡市、71年)などとともに「東洋一のマンモス団地」と呼ばれた。
今では「ギネス世界一」だが、当時はまだ「東洋一」自慢だったのである。
「東洋一」と言えば、草加市の「草加松原団地」(5926戸、62年)、春日部市の「武里団地」(5559戸、63年)も、竣工時そう呼ばれた。
草加の人口は、1年間で約2万人増加し、人口増加日本一を記録したほど。2万人以上が暮らした「武里団地」には何年か住んでいたことがある。当時は東洋一とは知らなかったし、その実感も余りなかった。
県内にはこのほか、上尾市西上尾小敷谷に「西上尾第一団地」(3202戸、69年)、「西上尾第2団地」(3033戸、70年)もある。
もっと大きいのは、武蔵野線新三郷駅に近い三郷市の「みさと団地」である。総住宅戸数は、1万戸に近い9867戸。人口2万3千人を擁する国内指折りのマンモス団地。
南ブロック(1-6街区)は5階建て低層住宅、北ブロック(8-14街区)は11階建て高層住宅が多い。
1973(昭和48)年、第1次入居開始なので、老朽化も目立ってきた。
巨大なマンモス・クラスだけを挙げてみたが、東京に隣接する埼玉県は全国屈指の団地県だった。
団地の林立には問題もあった。草加松原団地の場合、98%近くが都内へ通勤、県内勤務はわずか1.8%で、ベッドタウンそのものだった。また、南浦和団地に住む人の83%が東京の人だった。
草加松原団地では、公団が上水道、ごみ、し尿処理場などは公団が整備したものの、小学校2つと中学校1つの建設費は草加市持ちだった。
「これでは受け入れ市の財政負担が増えるばかりで、埼玉県の住宅対策にはならない」と「住宅団地お断り」の声が各地で高まってきた。
県と住宅公団との話し合いで、関連施設の整備も考慮した大規模団地(2500~3千戸)の建設と県民の優遇入居促進も要望された。
住宅不足解消のため住宅公団に代わって、県営住宅や県住宅供給公社の比重が高まって来るのである。
戦後、激増した県人口 16年がピークに
現役時代、人口問題の勉強会に入っていたこともあって、人口動態には非常に興味がある。
人口は汐の満ち干と同じで、ひたひたと確実にやってくる。大騒ぎを始めている高齢化、人口減少もとうの昔から予測されていたことだ。
国勢調査は1920(大正9)年に始まり、5年ごと10月1日に行われる。以来、ひたすら右肩上がりを続け、人口増加率が日本一を誇ったこともある本県も、下降に転じそうだ。
人口を棒グラフ、増加率を折れ線グラフでまとめた県統計課の表を眺めていると、感慨深いものがある。
始まった20年にはわずか132万人(全国で16番目)だった。さいたま市の15年の人口が126万人(国勢調査)だから、県全体で現在のさいたま市程度の人口しかなかったことになる。
増加率を見ると、40(昭和15)から45(同20)年。60(同35)年から85(同60)年の25年間の伸びが目立つ。いずれも増加率が日本一だったころである。
40~45年は、敗戦間近な44~45年の1年間の伸びがめざましい。多くの軍需工場が京浜工業地帯から県内へ避難、学童や縁故者などの疎開者がどっと流入したからだ。
人口は40万人以上増え、45年には200万人を突破した。増加率は24%にも達した。
60~85年は、住宅団地や工業団地が一斉に造られ、本県が東京のベッドタウン化し、農業県から工業県に変貌した時期である。
35年に243万人(全国10位)だったのが、65年301万、75年482万、85年586万とうなぎのぼり。
85年には北海道を抜いて全国5位になり、この25年間に人口は2.4倍に増え、全国一の増加県になった。90年には640万人。
ついでながら、県人口が500万になったのは1977年、600万は87年、700万人は2002年だった。
都心から30km圏内の草加、八潮、越谷、新座などの人口は5倍以上に激増した。
北葛飾郡三郷村は、団地のおかげで、村になったのが56年なのに、64年には町、72年には市へと三段跳びをした。
その昔、10世紀初頭、武蔵国ができた頃には、埼玉県域の人口は約9万人と推定している歴史書もある。
1876(明治9)年、埼玉の現在の県域がほぼ確定したころは、ざっと90万人だったという。
県人口は2016年がピークで約730万(全国で5番目)。伸び率は前回比0・9%で過去最低だった。20年には713~724万、25年には700万、40年には630万人(人口問題研究所)に減少するという予測もある。
15年の国勢調査の結果では、63市町村で23市町村が人口増、40市町村が減を記録した。最も増えたのはさいたま市で126万人に。増加率では戸田市が10・6%と最大、吉川市が6.8%でこれに次いだ。減少数の最多は所沢市の6049人。人口は33万5000と越谷市を下回り5位になった。
減少数が大きいのは熊谷、本庄、行田市といった群馬県よりの県北部で、減少率が最大だったのは東秩父村の12・2%、次いで小鹿野町の9・9%だった。
超高齢化の進行とともに気になる数字である。
14年1月1日時点の総務省の人口動態調査では、外国人の流入は、中国人、ベトナム人が主で川口市(1370人)が最も多かった。県内への外国人の増加人数は約3978人で、47都道府県で一番多かった。
川口市の外国人人口は2万2958人で、さいたま市を上回り県内で最も多かった。埼玉県の日本人の人口の伸びは9007人だったので、外国人の流入で支えられている割合が高い。
東西103、南北52キロ㍍と東西に長い埼玉県は面積3800平方km。日本の都道府県の中では、広さでは39番目。狭い方から9番目といった方がいいだろう。
NHKの夕方の天気予報を見ていれば分かるように、東京都よりは大きい。面積では、東京都は45位、大阪府は46位なのだ。
全国に8つある内陸県(海なし県)で、7つの都道県に囲まれている。東京都、千葉、茨城、栃木、群馬、長野、山梨県である。
隣接県が一番多いのは長野県の8つで、岐阜県は埼玉と同じ7つだ。
この中に埼玉県は723万人(15年5月1日)の人口を持ち、東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぎ5位。人口密度は1平方キロ㍍当たり1900人で、東京都、大阪府、神奈川県に次いで4位である。
市町村は、市が40と日本一、町は22、村は1つだけ。計63の市町村がある。
埼玉県には「日本一」がけっこうある。「市の数」もその一つ。愛知の38、千葉の37、北海道の35をしのぐ。
市とは一体何だろうか。地方自治法第8条では①原則として人口5万以上②中心市街地の戸数が全戸数の6割以上③商工業等の都市的業態に従事する世帯人口が全人口の6割以上――という条件がある。
埼玉県の場合、市の人口はさいたま(125万、全国の市では9位)を筆頭に、川口(57万)、川越(35万)、所沢(34万)、越谷(33万)(14年6月)の順で並んでいる。
埼玉の市の特徴は、五日市とか六日市とかいった市場の所在地ではなく、元宿場町が多いことだ。埼玉では、日光・奥州街道(現在の4号線)、京都三条大橋に至る中山道(現17号線)に沿って、宿場町が形成された。
それが基礎になって、日本の高度成長が始まる昭和30年代後半から、東京の衛星都市として転入者が激増、昭和35年(1960年)から25年間に県南地域を中心に埼玉の人口は2.4倍に膨れ上がった。それが、日本一の市の数を生んだ背景にあることは言うまでもない。
市町村の総数では、北海道の179、長野県の77についで3位。北海道は町が129で1位、長野県は村が35で1位だ。
比較の対象を日本から世界に目を転じてみよう。
UNFPA(国連人口基金)の「世界人口白書」(2014年)によると、人口が700万人台の国は、多い順からイスラエル、ヨルダン、パプアニューギニア、香港、ブルガリア、トーゴの6つある。
埼玉県の人口は香港730万、ブルガリア720万の間で102番目になる。
国連加盟国は193なので、ざっと数えて人口では中ぐらいの国だと言える。
「グラフで見る2011年度県経済のすがた」などによれば、埼玉県の名目GDP(この場合は県内総生産)は、20兆3700億円(2577億ドル)で、OECD加盟国の国内総生産と比較すると、22位のフィンランドと23位のチリとの間。つまり23位である。
国内では、東京都、大阪府、愛知県、神奈川県についで5位になっている。
県内総生産で、主要国の中で23位とは思いもかけなかった順位で、埼玉県の実力に驚いた。
ところが、一人当たり県民所得(12年度)になると、280万6千円で、03年度(292万2千円)さえ下回り、関東地方1都6県の最低と言うからまた驚く。
行く末は誰が肌触れむ紅の花
どうやら草食人種だったように思える芭蕉にしては、色気のある句である。
染料として日本で最も古くから栽培されてきた紅花と言えば、まず山形を思い出す。江戸時代から最上川流域は日本一の産地で、今でも加工用や切花用に栽培され、山形県の花に指定されている。
桶川の紅花は、江戸で種を譲り受けて、栽培したのが始まりだった。最上川流域と比べ、気候が温暖なため、一月早く収穫でき、「早場もの」として喜ばれた。
取引価格が反当たり、米の2倍もしたので、栽培農家が増え、「最上紅花」に次ぐ全国第2位の生産量を誇った。
幕末には、最上地方を上回る値で取引された。桶川の紅花は、「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれ、桶川は臙脂景気でにぎわった。
皇女和宮が宿泊した桶川宿は「紅花宿」とも呼ばれたほどだった。
桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れられたのは、京都とも江戸とも取引があったことを物語っている。
市内の稲荷神社には、紅花商人から寄進された石灯籠2基が残されている。
「臙脂」の漢字をつらつら眺めていると、芭蕉の句ではないが、なにか年増芸者の色気を感ずる。臙脂とは、「濃い紅色」「黒味のある紅色」のことである。
梅雨どきに黄色い花を咲かせる紅花は何回も見ているけれど、一本の花としては丈も低く、その色も目を奪うほどではないので、一度群生したべに花を見てみたいものだと思っていた。
新聞を見ると、14年6月21、2の両日、「第19回べに花まつり」が開かれるというので、朝早くから出かけた。なにしろ市農業センター周辺など3か所で約30万本のべに花が楽しめるというのだから。
桶川市には、JR高崎線の東側の加納地区に「べに花ふるさと館」がある。昨年はここがメイン会場だったのに、今年は圏央道・桶川北本インターチェンジ新設の関連工事で道路が混雑しているので、高崎線西側の川田谷地区に移された。
城山公園や、生涯学習センターや農業センターがある。紅花畑が数か所あり、群生した紅花を見ることができた。(写真)
桶川駅から無料の臨時バスを運行させ、公園では熱気球の試乗会もあった。紅花染め体験や摘み取り体験もあった。
恋人や意中の人への思いを絶叫する「べに花畑で愛を叫ぶ」の企画もあった。
桶川の紅花つくりは、化学染料の普及でいったん滅んだものの、愛好家や桶川ロータリークラブが山形県から種子を譲り受け 徐々に栽培を再開、市のイベントで種子の無料配布も行った。
市も1994年から「べに花」をシンボルにした「べに花の郷(さと)づくり」に乗り出し、96年から「べに花まつり」を始めた。栽培農家は19軒に増え、「べに花生産組合」も出来ている。
市のマスコットキャラクター「オケちゃん」は頭に黄色い花を頂いている。「べに花まんじゅう」も「紅花かすてら」もある。
総合スーパー「ユニー」は14年11月、ショッピングモール「ベニバナウォーク」をオープンした。
臨時バスで駅に帰る途中、最近話題になっている、水着姿の「桶川の美少女」の像も見えた。ライオンとパンダを従えて県道川越栗橋線の傍らに立つ、
「五月晴れ」とは文字どおり「五月の晴れの日」のことだと思っていた。確かにそのように使われることも多いものの、本当は「梅雨の晴れ間」のことだという。あわてて辞書を引いてみるとそのとおりである。
五月晴れを絵に描いたような6月14日(土)、前から気になっていた越谷市立の日本式庭園「花田苑」を訪ねた。
老夫婦や子供連れの夫婦など、なんとなく人が多いなと思って聞いてみたら、前夜NHKで紹介されたためだった。
「花田苑」とは風流な名前だ。「花田」とは地名である。新方川に面した地域で、公園が多く、「花田苑」には「花田第6公園」という別名がある。地図で確かめると、この地区には第1から第6までの花田公園の他、新方川緑道には「花田スポット公園」もある。
花田の少し北には「キャンベルタウン野鳥の森」。キャンベルトウンとはオーストラリアの姉妹都市の名前だ。
西には藤で有名な総鎮守「久伊豆神社」や「緑の森公園」「アリタキ植物園」もある。天気のいい日にぶらぶら散歩するにはうってつけの地域である。
「水郷こしがや」とか「川のあるまち」と呼ばれるように、越谷市には元荒川、葛西用水など多くの川や用水が流れ、それぞれに緑道がついているので、「水と緑のまち」を実感できる。
市役所に近い、元荒川と葛西用水をまたぐ斜張橋(真ん中の塔からケーブルで橋げたを吊る橋)「しらこばと橋」が市のシンボルになっている。
市役所東側の葛西用水沿いには180mの「葛西用水ウッドデッキ」が完成、音楽やダンス、地場農産物の直売などに利用されている。
JR武蔵野線の越谷レイクタウン駅前の「イオンレイクタウン」は、国内最大のスケールで、東京・上野の不忍池の約3倍の広さの大規模調整池に面しているエコ・ショッピングセンターである。
敷地2.6平方mの広大な「花田苑」は、驚きでいっぱいだ。オープンしたのが1991年、隣接している「こしがや能楽堂」は1993年だから、他の日本式庭園や能楽堂に比べ、新しさが魅力である。
作庭したのは中島健氏。モントリオール万博日本館や日本芸術院などの名園を残した戦後を代表する造園家だった。
当時の島村慎市市長らが「市民が誇れる日本文化の伝承拠点を」と、区画整理事業で生まれた近隣公園用地を全国で初めて日本庭園に活用したのが花田苑だった。
入り口には堂々とした長屋門がある。江戸時代の名主だった大成町の宇田家の長屋門を原寸どおり復元した。
典型的な回遊式池泉庭園だから、真ん中に4000平方mの池があり、木橋があり、石橋があり、飛石がある。小さいながら灯籠もある。小さな茶室や四阿(あずまや)、滝もしつらえられていて、水の垂れる音がする。(写真)
池には大きな緋鯉が悠然と泳ぎ、数こそ少ないものの、トンボも蝶も飛んでいる。林の中からシジュウカラのような泣き声が聞こえてくる。
琴や三味線のバックグラウンド・ミュージックを聴きながら。豆砂利の道を歩いていると、「埼玉にもこんな所があったのか」とうれしくなってくる。
7月には蛍観賞の夕べも開かれる。
銅版ぶきの能楽堂も目を見張るばかりだ。日本建築の粋を集めたような造りで、能舞台は樹齢400年の木曾ヒノキを使用した。
観世流の能楽師、関根祥六さんが市出身の縁から、「こしがや薪能」の開催など「能楽によるまちづくり」を目指して、地域のシンボルとして建築された。建物は全国でも数少ない屋外の能舞台を持つ。総工費は能舞台7.8億円、花田苑10.5億円だった。
四半世紀を経て、庭園の約1万4000本の植栽は大きく育ち、季節の花も約50種類ある。
「日本文化伝承の館」と名づけられていて、邦楽や日本舞踊、詩吟、茶道、華道など伝統芸術の拠点施設になっている。9月の薪能は毎回満席だ。
庭と言えば県内では、飯能市の能仁寺の「池泉回遊式蓬菜庭園」は、桃山時代の作とされ、「日本名園百選」に入っている。
なぜ大宮が「鉄道のまち」と呼ばれるのか。
大宮駅2015年3月16日、1885(明治18)年の開業以来130周年を迎えた。金沢に向かう北陸新幹線も2日前の14日から停車を始めており、長野新幹線は北陸新幹線に統一された。これまでの東北、上越、山形、秋田の新幹線に北陸を加えて新幹線5路線が通過することになった。
16年3月26日には、新函館北斗まで開業する北海道新幹線も停車を始め、通過する新幹線は6路線になった。
京浜東北線や埼京線、湘南新宿ラインのJR在来線のほか、東武鉄道の野田線(愛称アーバンパークライン)や埼玉新都市交通「ニューシャトル」の発着駅でもある。
2015年度の新幹線を含む計12路線が通る大宮駅の1日平均の乗降客数は約70万人に近い。
今はやりの言葉で言えば、「ハブ空港」ならぬ「ハブ駅」だ。JRの駅のホーム数では東京、上野駅につぐ第3位の多さである。
旅客サービスのほかに、駅の北側には、「国鉄大宮工場」と呼ばれていた、検査・修繕用のJR東日本大宮総合車両センター(客車)、JR貨物大宮車両所(貨物)がある。
「旧国鉄大宮工場」の敷地の北に「鉄道博物館」と「大宮大成鉄道村」があり駅の南側の1927年にできた旧大宮貨物操車場が「さいたま新都心」になっている。
当初から「鉄道のまち」だったわけではない。
出遅れたのだ。大宮が「鉄道のまち」になったのは、遅れを挽回するため、私財を投げうって尽力した先人たちの努力のおかげである。
名誉市民・白井助七。
この人のことを知ったのは、通っていたさいたま市のシニア大学の総会が開かれた「市民会館おおみや」に隣接する児童公園・山丸公園の一隅に、その顕彰碑が立っているのを見つけた時だった。
西口のソニックシティ前の鐘塚公園にも胸像が立っている。
1883(明治16)年、私鉄の「日本鉄道株式会社」の手で、東京から北へ向かう鉄道が上野・熊谷間に初めて開業した時、浦和駅の次は上尾、鴻巣駅で、大宮駅はなかった。
中山道の宿場町だったのに、明治維新後衰退し、この開業当時は243戸しかなく、無視されたのだった。
高崎線が高崎まで延長され、深谷、本庄の2駅が開設されても、大宮駅はできなかった。
「これでは中山道の交通の拠点だった大宮が取り残されてしまう」。先見の明を持っていた助七は、地元の有力者たちに呼びかけ、時の県令(知事)や日本鉄道に対し、請願・陳情を繰り返した。
助七らは、停車場用地の無償提供を申し出た。
ちょうどその時、日本鉄道では、宇都宮に抜ける東北線をつくるに当たって、分岐駅をどこにするかを検討していた。候補の一つは熊谷、二つ目が大宮だった。
検討の結果、助七らの陳情もあって、宇都宮への距離が短く、鉄橋の工事費が安くつく大宮分岐が決まり、2年後の1885(明治18)年3月、大宮駅が開設された。その4か月後に東北線の大宮―宇都宮間は完成した。
こうして、「鉄道のまち大宮」の基礎が築かれた。助七らは「鉄道のまち」の父といえるだろう。日本鉄道の大宮工場の誘致でも、助七は土地を提供した。その土地を基に工場は、1894(明治27)年操業を開始した。
日本鉄道は後に国有化された。「国鉄大宮工場」では、DC51機関車も作られた。
助七は1895(明治28)年、推されて大宮町長になったが、翌年執務中55歳で没した。
鉄道博物館の場合も、さいたま市は誘致のため25億円の基金を積み上げていて、それが建設費の一部に充てられた。
「鉄道のまち大宮」の駅も工場も「てっぱく」も、住民の協力でできたのである。
ファンには「てっぱく(鉄博)」の愛称で親しまれている大宮の鉄道博物館の人気がうなぎ上りだ。
JR東日本鉄道文化財団が設立・運営する歴史博物館である。07年10月14日の「鉄道の日」に開館、入館者は、18年5月26日に1000万人に達した。
観光資源に乏しい埼玉県では指折りの訪問者数で、上田清司県知事も県広報紙「彩の国だより」15年4月号の「コラム」で、「年間100万人の来館者は企業博物館で全国一」と書いている。
前身は、東京・万世橋近くにあった「交通博物館」。その前は東京駅にあったらしい。
子どもの頃から、はやりの「鉄子」ならぬ「鉄男(夫)」だった。勤務先にも近く、狭い博物館ながら、何度も通った覚えがある。
「てっぱく」にも開館直後から来た。歩いて北側5分の距離にある、今は「大宮大成鉄道村」と改名したスーパー銭湯にも出かけた。
「てっぱく」は、旅客車両の整備・修繕に当たるJR大宮工場(現・東日本大宮総合車両センター)の北側にあった廃車両解体場の敷地の跡地にできた。
ちなみに、駅南側の日本三大操車場の一つといわれた旧大宮貨物操車場の跡には、「さいたま新都心」ができている。
素晴らしいのは立地だ。博物館と言えば、古くてカビくさいイメージが強い。
ところが「てっぱく」は、車両センターの車両工場に隣接していて、引込み線が接続されているので、自由に行き来できる。
屋上の「パノラマデッキ」に上がれば、片側には本物の新幹線とニューシャトル(ゴムタイヤ式の埼玉新都市交通)、もう一方には京浜東北線や高崎線など在来線が走っているのが見える。
このニューシャトルで、始発の大宮から最初の駅が鉄道博物館駅である。
内部の見物に飽きた子どもたちが「あっつ、ハヤテだ」などと歓声を挙げている。子どもたちに最も人気があるのはこのパノラマデッキかもしれない。(写真)
3階の「ビューデッキ」で持ち込み弁当を開いていると、ガラス張りの向こうを新幹線が走り抜けていく。JRの脈動を実感できる博物館なのである。
館内では、日本初の蒸気機関車運転シミュレーターがあり、1115両と日本で最も多く造られ、最も人気のあった「DC51(でこいち)」の揺れや、シャベルで石炭(模造)をくべる作業さえ実感できる。この館の目玉の一つである。
25mプールに匹敵する広さと線路延長1400mの日本最大級の鉄道ジオラマ(立体模型)もあり、鉄道の一日を再現する。そのストーリーが面白い。
屋外には、ミニ運転列車もあって、子どもたちに大変な人気だ。
お召し列車や寝台車、特急列車など旧国鉄車両の実物もずらりと展示されている。1872年新橋-横浜間を走った「1号機関車」など、旧国鉄ファンの老人には懐かしい限りである。
1964年の東海道新幹線でデビュー、「団子っ鼻」の愛称で親しまれた「0系新幹線」も、もちろんある。30周年で、200系の運転室も初公開された。
17年7月、鉄道ジオラマを刷新、2階にあったセルフサービスのレストランは、1950~60年代の寝台特急の食堂車をイメージした「トレイン・レストラン」に改装、鉄道に関連する小説やl漫画、映画のほか、各地の駅弁を紹介する「鉄道文化ギャラリー」も出来ている。18年3月9日、国の文化審議会は、開館時から鉄博の車両ステーションに保存・展示されている大正期製造の「ED40形式10号電気機関車」を重要文化財に指定するよう答申した。鉄博の重文は、皇族用の「1号御料車」などこれで5件目となる。ED40形式は、旧鉄道省大宮工場(現JR東日本大宮総合車両センター)で製造され、造られた14両のうち現存しているのはこれだけ。
18年7月5日には、新館が完成、本館と合わせて総展示面積は約1.3倍の1万3500平方mになった。新館の展示ゾーンは「仕事」「歴史」「未来」の三つに分かれ、仕事は、乗務員や指令、メンテナンスなどの仕事を体験できるよう運転士や車掌用のシミュレーターを導入、歴史では明治時代以降の新橋、東京駅などの改札が再現された。未来ではアニメーションで未来の鉄道を疑似体験できる。
新館入口には、最高時速320kmで営業運転する東北新幹線などに使われている「E5系」の実物大模型と実際に山形新幹線で活躍した初代ミニ新幹線「400系」の車体を展示している。
新館オープンに合わせ、本館にも新たに専用の3Dグラスを付けて見る「てっぱくシアター」が設けられるなどリューアルされた。
さいたま市大宮は「鉄道のまち」と呼ばれてきた。大宮駅がJR宇都宮線と高崎線との分岐点で、京浜東北線の始終点、私鉄の東武アーバンパークライン(野田線)、埼玉新都市交通伊奈線の乗換駅と、関東でも十指に入るターミナル駅だからというだけではない。
むしろ、駅に隣接して「大宮工場」という国鉄・JRを裏から支える大きな施設があり、その工員らが近くに住んでいて、国鉄の企業城下町だったことの方が大きい。
さいたま市立博物館が2007(平成19)年に編集・発行した「鉄道の街さいたまー鉄道博物館がやってきた」によると、1928(昭和3)年には工場長以下2800人が働いていて、「鉄道工場中全国一の規模」だと、当時の大宮町が発行した「大宮」には書いてあるという。
大宮工場の前身「日本鉄道汽車課大宮工場」ができたのは1894(明治27)年なので、2014年は設立以来120周年に当たる。駅が出来たのは1885(明治18)年だから9年後のことである。
労働者は開設時には239人だったのが、最盛期の1946(昭和21)年には5千人を超えていたというから驚く。
現在の大宮区桜木町には国鉄の職員宿舎、寮、病院などがあり、一つの町をなしていた。
「大宮工場」はまさしく「鉄道のまち 大宮」のシンボルだった。
国有化に伴い、名称も次々変わり、現在の「大宮総合車両センター」になったのは、04(平成16)年のことである。
毎年5月の第4土曜日には「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」が開かれてきた。14年はさいたま市も120周年を記念して共催に加わり、駅周辺で様々なイベントが催された。
一度、工場の中をのぞきたかったので、この日に見物に出かけると、駅から工場まで長い行列ができていた。子供連れが圧倒的に多い。約3万人の人出だったという。
入り口に大きくどっしりした蒸気機関車が展示してあった。懐かしい「D51187」である。(写真)
「型式D51」は、主に太平洋戦争中、千台以上作られた日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ」の愛称で親しまれた。私にとって蒸気機関車とは「デコイチ」だった。
「187」は、国鉄大宮工場で製造された31両の同型車の第1号機で、1938(昭和13)年に製造された。
私が昭和14年生まれだから、ほぼ同じ歳を生き抜いてきたのかと思うと感慨が沸く。
この日の目玉は、片道1.7kmの蒸気機関車の試乗会だった。「D51」ではなく小型軽量の「C12」型だったが、計1500人分の乗車券はすぐ売り切れ、煙をもうもうと吐いて運行する度にカメラマンが人垣を作っていた。
この「C12」は、真岡鉄道のものだが、この車両センターで手入れしているものだ。
鉄道グッズや駅弁なども売られ、鉄道ファンにとってはうれしい一日だったようだ。
「鉄道のまち」にとって忘れられないのは、日本の貨物輸送に重要な役割を果たし、新鶴見(神奈川県)、吹田(大阪府)と並び、3大操車場と呼ばれた「大宮操車場」である。1927(昭和2)年にできた。
操車場とは、行き先がばらばらな貨車を1か所に集めて列車を編成して、送り出す場所である。
1984(昭和59)年、操車場の機能を停止、敷地のほとんどは「さいたま新都心」に変わった。
「去るものは日々に疎し」。新都心に操車場があったという記憶は年々薄れてきているようだ。