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法務省の在留外国人統計(18年6月末現在)を基に、ぶぎん地域経済研究所がまとめた調査結果によれば、市区町村別の在留外国人数(居住者)は川口市が3万4905人で全国3位だった。トップは東京都新宿区の4万4652人、2位は同江戸川区の3万5648人。県内では2位が川越市の8204人、3位が戸田市の7186人。
県内の在留外国人数は17万3887人で全国5位だった。
厚生労働省の外国人雇用状況によると、18年10月現在6万5290人で全国5位。在留資格別にみると、「技能実習」の在留資格は1万3150人、全国6位で全体の20.1%を占める。
国籍別でみると、ベトナムが1万6572人でトップ、2位は中国の1万4239人、3位がフィリピンの1万642人。働く業種で最も多いのは製造業2万5827人、次いで建設業6505人、卸・小売業6253人。
主な理由は、「鉄道や道路が便利」(45%)が最も多く、「犯罪が少なくて安心」(41%)、「住まいを見つけやすい」(36%)が続いた。
さいたま市の清水勇人市長は、市の人口が18年9月18日、130万40人と130万人を突破したと発表した。
同市は01年5月、浦和、与野、大宮の3市が合併して、人口103万5千人でスタート、03年政令指定都市になった年には約105万人だった。05年に岩槻市の編入で10区118万人になった後、一年に1万人ずつ人口が増え、合併後17年で27万人増えたことになる。
18日時点の人口は、南区が最多で18万8397人、見沼区16万2583人、浦和区16万1582人と続いている。
120万人を突破したのは07年10月。それ以来人口増加率が最も高かったのは、緑区が14.7%、浦和区12.0%、南区10.7%だった。緑区の9月18日の人口は12万4534人。
全国20の政令市(人口50万以上)では9番目の人口。昨年1月から1年間の人口増加率は0.83%で、川崎市、福岡市に次いで3番目に高かった。
18年3月に発表された国立社会保障・人口問題研究所の将来推計人口では、130万人突破は「2020年以降」だったが、それより2年早い達成となった。
さいたま市の人口が増え続ける主な理由は、鉄道網が整備され、東京への通勤が便利になったためである。01年に埼玉高速鉄道が開通、JRでは同年に湘南新宿ライン、15年に上野東京ラインがそれぞれ運転を開始した。
都心へのアクセス向上で、駅周辺はマンションや住宅開発が進み、人口流入が相次いだ。特に子育て世代からの人気が高く、ここ5年間でも転入者の6割が20~30代で、子どもの誕生につながる。
20~40歳代を対象に調査、18年春発表された民間調査による「関東圏住みたい街ランキング」でも、大宮が9位、浦和が10位と、市内きっての2地区が県内で初めてトップ10入りした。
18年9月現在のさいたま市民の平均年齢は43・98歳で埼玉県平均より約1・3歳若いことからも、子育て世代の流入が裏付けられる。
京浜東北線さいたま新都心駅近くに1400戸の大規模プロジェクトなどマンション建設ラッシュは続いており、人口の増加基調は続きそうだ。
それでも30年頃からはさすがに人口は減少に転ずる見通しだという。今の現役世代が歳をとり、高齢化の波が急速に押し寄せる。65歳以上の人口は、15年の約29万人から45年は1.5倍の44万人になると推計されている。75歳以上は、同じ30年間で倍近い約25万人に増えると予想されている。(朝日、読売、東京新聞による)
全国一のペースで進む高齢化
2010年の国勢調査では、埼玉県の平均年齢は43・6歳。沖縄、愛知、滋賀、神奈川県に次いで47都道府県の中で5番目に若い県だった。
ところが、人口760万人(15年の国勢調査)の埼玉県で、高齢化が全国一のペースで進んでいるというから驚く。
若い頃、埼玉にどっと流入した「団塊の世代」(1947~49年生まれ)が老人の仲間入りをしたためである。
埼玉県は東京に隣接している地理的条件から、東京都に近い市に、転入者から転出者を差し引いた「社会増」がプラスされる形で、人口増を続けてきた。
17年1月末発表の総務省の「人口移動報告」によると、16年の県内への転入者から県外転出者を差し引いた「転入超過数」は1万5560人と11年連続でプラス、東京都,千葉県に次いで3位。さいたま市が県内トップ、越谷、三郷、志木、草加など県南の市が続いている。さいたま市は8655人で、全国の市町村別でも、東京都特別区(23区)、大阪市、札幌市に次いで4位だった。
この転入超過に「自然増」が加わり、県人口は、1977年に500万人、87年に600万人、2002年に700万人を突破した。
ところが、近年、その伸びが鈍ってきた上、高齢者の伸び率が全国最高を記録していることが分かった。
総務省が14年4、6月に発表した人口推計と人口動態調査で確認されたもので、2013年10月1日時点の人口推計では、埼玉の65歳以上の人口は前年比で4.8%、75歳以上でも5.4%と、いずれも47都道府県で最も高い伸び率だった。65歳以上が総人口に占める割合は23.0%で、前年比1.0%上昇した。
14年10月1日時点の総務省人口推計では、65歳以上が173万人と総人口の24.0%(前年比1.0%増)、75歳以上が73万人と10.1%(前年の9%台から10%の大台に)を占め、その伸び率は4.6%、4.7%といずれも47都道府県で最も高かった。県民のざっと4人に1人が65歳を越えようとしているわけである。
10年の国勢調査で75歳以上の割合は8.2%で日本一、65歳以上に占める要介護(支援)認定者の割合(11年度末)も13.5%と日本一だった。
日本最高齢どころか世界最高齢で、ギネスワールドレコードの持ち主も14年6月以来、埼玉県人だったが、15年7月7日死亡した。さいたま市中央区の百井盛さん(112)で、1903(明治36)年福島県生まれ、約60年前から現在のさいたま市で暮らし、県立与野高校の校長などを務めた。
救いは、65歳以上の高齢者のスポーツ行動者率が58.2%(11年10月)と日本一であることである。スポーツで身体を動かす老人は健康だからだ
国勢調査に基づく人口推計は毎年発表される。県の65歳以上の増加率が全国で最高なのは、10年の国勢調査からすでに4年続いている。
総務省が16年10月26日発表した15年国勢調査の確定値によると、65歳以上の人口は、178万人と前回調査から22%増え、千葉、神奈川県を上回り、全国トップの増加率となった。総人口(約726万人)にしめる割合は24.8%と4.4ポイント上昇した。
これは突然起こった現象ではない。県の高齢者の増加率が全国一になるのは、予測されていたことだ。
12年3月末時点の住民基本台帳に基づく人口動態調査(総務省)では、埼玉は東京、千葉とともに、初めて死亡者数が出生者数を上回る「自然減」に転じている。
「自然減」になれば、「社会増」がなければ、人口は増えない。
県内63市町村のうち43市町村で人口が減っていると確認されたのは、住民基本台帳に基づく総務省の人口動態調査(14年1月1日時点)である。
熊谷市の1143人を筆頭に、久喜市の819人が続き、春日部市や秩父市も700人規模で減少した。
戸田市や志木市など東京に近い県南部の市町を中心に20市町では人口が増えた。
県内への外国人の増加人数は3978人で、47都道府県で一番多かった。中国人、ベトナム人が主で川口市(1370人)が最も多かった。
川口市の外国人総数は2万2958人で、さいたま市を上回り県内で最も多かった。
JR京浜東北線蕨駅から徒歩約8分、蕨駅から東京駅まで30分の位置にある、川口市芝園町の都市再生機構(UR)の「芝園団地」では、約4500人の入居者のうち半数以上の2500人超が外国人。9割以上が中国人で、日本人は高齢者、中国人は子育て世帯が多い。
多文化共生の研究者や学生の協力で、「芝園ふるさと祭り」には中国人も参加、中国人の自治会員も徐々に増え、役員も誕生した(東京新聞)。東大や早慶大など8大学30人の学生や院生らが参加して、「芝園かけはしプロジェクト」が15年2月に発足。交流を進めている(朝日新聞)。
15年1月1日の人口動態調査では、県の総人口は前年比0.22%増の30万4896人。県内の外国人の人口は 6487人増の12万6719人になった。
県の日本人の人口は、自然増減は5329人と11年以来のマイナスなのに、転入者と転出者の差である「社会増減」がプラスで、全体として9561人増えた。
法務省のまとめでは、県内の外国人は11年以降増加し、15年末時点で13万9656人と、都道府県別で5番目に多い。国・地域別では150か国・地域から来ていて、最も多いのは中国の5万5716人で、フィリピン1万7820人、韓国人1万5548人が続いている。
秩父地方や北部を歩いていると、赤ちゃんの姿などまず見当たらず、人影も少ないのに気づく。道に迷っても人がいないので聞きようがない。商店街には閉まったままの店、農村部には廃屋が目に付くようになった。
国立社会保障・人口問題研究所が、10年の国勢調査を基に13年3月に発表した「地域別将来推計人口」によると、40年に埼玉県の人口は、90万人減って630万人になる。
65歳以上の割合は20%が35%。驚くべきは75歳以上の人口の絶対数で、埼玉と神奈川県は10年の2倍以上になる。
同研究所が14年4月に公表した「世帯数の将来推計(都道府県別)」では、35年には本件の75歳以上の独り暮らし世帯は22万3000世帯と、対10年比で35%増になり、全国で最高の増加率を示すという。
15年の国勢調査に基づく推計では、県内の75歳以上人口は45年に131万4000人まで増える。東京都、神奈川県、大阪府に次ぐ4番目の多さになり、増加率は1.70倍と沖縄県(1.75倍)に次ぐ高さだ。
法務省が19年4月12日発表した18年10月1日現在の人口推計によると、県の総人口は全国5位の733万人。75歳以上の人口は92万2000人と前年比5.5%増え、47都道府県で最も高い伸び率を示した。総人口に占める75歳以上の割合も12.6%に上り、15歳未満(12.2%)を上回った。
数字が多いので恐縮ながら、忘れてはならない埼玉県の深刻な人口動態である。
中央公論が14年6月号に掲載した「消滅する市町村523全リスト」は、市町村名が列挙されているので、人口急減に直面している全国の市町村に衝撃を与えた。
企業や労働組合の幹部らでつくる有識者の研究機関「日本創生会議」(座長・増田寛也元総務相)の「人口減少問題検討分科会」が、40年までに全国の市町村の約半数49.8%に当たる896市町村で、20~39歳の出産適齢の若年女性が半分以上減るとの試算に基づき、「消滅する可能性がある市町村」523の名前を公表したからである。
本県関係では、63ある市町村の中で秩父地方などの21、つまり3分の1が「消滅する可能性がある市町村」に該当し、うち人口が1万人を切る9町村は「消滅の可能性が高い」とされた。
若年女性が半分以上減る市町村は当然、総人口も減るわけで、社会保障の維持が困難になり、雇用も確保しづらくなるので、消滅の可能性が出てくると予測されている。
県内では、「消滅する可能性がある」とされる21市町村の中に、市でも東部の幸手、北部の行田、中部の北本、東南部の三郷、比企地方の飯能、秩父地方の秩父の6市が含まれている。
「消滅する可能性が高い」とされる1万人を切る9町村には、秩父郡の横瀬、長瀞、皆野、小鹿野町、東秩父村、比企郡の鳩山、ときがわ町、児玉郡の美里町、入間郡の越生町が入っている。
上田清司知事は「この予測は、地方から大都市への人口流出が現状のまま続くと仮定している。人口流出は落ち着きつつあり、正しいかどうかは疑問」と語っており、県計画調整課が自治体間の人口移動のデータを精査して検証する。
人口の増減には、移動による「社会増減」と出生と死亡の差の「自然増減」がある。この予測は「社会増減」の人口流出に伴う若年女性の人口減にスポットライトを当てたものだった。
県では、社会減とともに自然減も始まっている。
総務省が発表した住民基本台帳に基づく人口動態調査(13年3月末)によると、自然減は2356人だった。出生者5万6881人に対し、死亡者は5万9237人である。
一人の女性が何人の子供を産むかという合計特殊出生率は、全国平均を下回る状態が続いている。
他県からの転入者が転出者を差し引いた社会増が9076人あったので、かろうじて人口増を支えた。
この調査では外国人人口も初めて対象になった。11万6081人で、加須市の人口とほぼ同じ数だというから驚きである。
市町村別では、川口市が2万1682人で最も多く、さいたま、川越市が続いた。今後転入者という場合、日本人と外国人を分けて考える必要がありそうだ。
消滅の危機をすでに肌で感じている市町村は、存続のために転入者を呼び込み、現住民を留めるためのあの手この手を考え出そうとしている。
県がまとめたその対策によると、行田市では、若い世帯が市外から転入して1年以内に住宅を取得すれば最高60万円、施工業者が市内なら特別割引、エアコンの無償設置などの特典もあり、最大で100万円の補助になることもある。
川島町では、町内で住宅を購入した40歳未満の人は固定資産税を減免、ときがわまち町では、若者に売買や賃貸可能な空き家を紹介する「空き家バンク事業」を始めているという。(産経)。
市町村が存続をかけて頭をしぼる時代が到来したのである。
減り始めた埼玉都民
「埼玉都民」、「東京県民」という言葉がある。同じ言葉を埼玉県から見たのと、東京都から見たのとの違いである。
70過ぎになって東京都への通勤を止めて、“24時間サイタマン”になるまで、まさしくその一人だったので、その実態はよく分かる。
朝早く(これは仕事の都合で、朝早い時もあれば、午後になることもある)家を出て、大混雑の電車に飛び乗る。時間が不規則な仕事だったため、帰宅時には酒が入り、ほとんどが午前様。家では寝るだけで、睡眠不足は出先の職場のソファーで補った。
土、日、休日は疲れがたまっているので、ひたする眠り、小さな子供へのサービスはほとんど出来なかった。
家では「パパはお休み中」で、近所や町内会との付き合いはまずない。だから、住んでいる地域のことは知らないし、関心もない。
地方選挙で誰が知事をやろうが、市長をやろうが無関心で、名前もうろ覚え。投票にもほとんど行かない。
衛星都市とかベッドタウンという言葉がある。私には文字どおりベッドタウンだった。
私ほど極端な例はそれほど多くないだろうが、程度の差があるだけだろう。
5年ごとの国勢調査に、「昼夜間人口比率」(夜間人口100人当たりの昼間の人口)、他市町村への通勤・通学比率があると知ったのは、東京通いを終えた後だった。
他市町村への通勤・通学が多いと、昼間の人口が少なくなるので、昼夜間人口比率が低くなるわけである。
最新の10年の国勢調査によると、昼夜間人口比率で埼玉県は88.6%と全国で最も低かった。東京都や大阪府周辺の県が低く、埼玉に続いて、千葉、奈良、神奈川、兵庫の順だった。
人口の1割以上が昼間は埼玉県を空にしているわけで、昼夜間人口の全国最低は、1990年の国勢調査から5回連続で続いている。
県内総人口(10年当時約719万人)に対する県外への通勤・通学者の比率は17%で、前回調査についで全国で最高だった。
比率ではなく実数では、県外に通勤・通学する15歳以上の県民は約106万人で、神奈川に次いで全国2位だった。比率では神奈川より高いのは、神奈川の方が人口が多いからだ。
県外への通勤・通学者のうち東京都への流出者は約94万人(就業84万人、通学10万人)だった。前回05年の国勢調査では、100万人超だったので、1990年から続いていた大台を割り込んだ。
1985年には約86万人だったが。90年に約109万人と大台を突破、95年に115万人のピークを迎えた後も、減少傾向ながら大台を維持していた。
もっとも混雑率が高いとされる山手線と京浜東北線は、首都圏トップクラスの200%を超していたが、16年には160~170% と「広げて楽に新聞を読める」150%に近づいたというから、うらやましい限りだ。
前回と比べると、就業者が5万人余減っている。高齢化で定年を迎え、退職し始めたのものとみられる。
今後も減少すると見られるものの、94万人は大げさに言えば、“民族移動”とも言える。これだけの数の人が毎日、東京との間を往復しているわけである。
この民族移動が埼玉県に与える影響は大きい。
団地とは。夫婦と子供2人を想定した2DK。ダイニングキッチン(DK)に6畳、4畳半。フロアにはテーブルと椅子もある洋風間取り。バスに水洗トイレ、それに洗濯物を干せるベランダ。家賃は月収の約40%。
40~60平方m。ダイニング(食堂)とステンレスの流し台のあるキッチン(台所)をスペース節約のために一つにし、銭湯に出かけるのではなく内風呂付きで、汲み取り式ではなく水洗トイレつきだった。
1958(昭和33)年、「団地族」という言葉が生まれた頃には、これだけが揃っている日本住宅公団(55年設立)の「公団住宅」は、あこがれの的だった。
埼玉県には、東武東上線や東武伊勢崎線沿線などに大規模団地が続々と立ち、東京からのあぶれ族を核とする「人口爆発」を支えた。
「日本住宅公団史」をめくると、1955(昭和30)年度から79(同54)年度までに、賃貸、分譲合わせて約10万4千戸ができ、さいたま県は、東京都、大阪府、千葉、神奈川県に次いで5番目だった。
県の人口が700万人を超し、全国5位、市が40と全国一の数になったのも、この団地建設が基礎になった。
住宅公団の県内初の大規模団地は、「霞ヶ丘団地」だった。ふじみ野市霞ヶ丘にあり、東上線上福岡駅から歩いて3分。
2階建て長屋スタイルのテラスハウスが多く、1959(昭和34)年入居開始当時は、公団の関東支所(東京、千葉は東京支社)で最大(204棟、1793戸)の団地だった。
老朽化して、高層の「コンフォール霞ヶ丘」に建て替えられているので、昔を知る人は少なくなってきそうだ。
ふじみ野市には、上福岡駅を挟んでもう一つ古い公団住宅がある。上野台にある「上野台団地」である。
旧陸軍弾薬工場(火工廠)の跡地に出来たもので、1960(昭和35)年竣工当時は、関東支所最大(2080戸)とされた。
「霞ヶ丘団地」と「上野台団地」は、有名な「八千代台団地」(千葉県八千代市、57年)、高島平団地(東京都板橋区、72年)、「香里団地」(大阪府枚方市、58年)、「男山団地」(京都府八幡市、71年)などとともに「東洋一のマンモス団地」と呼ばれた。
今では「ギネス世界一」だが、当時はまだ「東洋一」自慢だったのである。
「東洋一」と言えば、草加市の「草加松原団地」(5926戸、62年)、春日部市の「武里団地」(5559戸、63年)も、竣工時そう呼ばれた。
草加の人口は、1年間で約2万人増加し、人口増加日本一を記録したほど。2万人以上が暮らした「武里団地」には何年か住んでいたことがある。当時は東洋一とは知らなかったし、その実感も余りなかった。
県内にはこのほか、上尾市西上尾小敷谷に「西上尾第一団地」(3202戸、69年)、「西上尾第2団地」(3033戸、70年)もある。
もっと大きいのは、武蔵野線新三郷駅に近い三郷市の「みさと団地」である。総住宅戸数は、1万戸に近い9867戸。人口2万3千人を擁する国内指折りのマンモス団地。
南ブロック(1-6街区)は5階建て低層住宅、北ブロック(8-14街区)は11階建て高層住宅が多い。
1973(昭和48)年、第1次入居開始なので、老朽化も目立ってきた。
巨大なマンモス・クラスだけを挙げてみたが、東京に隣接する埼玉県は全国屈指の団地県だった。
団地の林立には問題もあった。草加松原団地の場合、98%近くが都内へ通勤、県内勤務はわずか1.8%で、ベッドタウンそのものだった。また、南浦和団地に住む人の83%が東京の人だった。
草加松原団地では、公団が上水道、ごみ、し尿処理場などは公団が整備したものの、小学校2つと中学校1つの建設費は草加市持ちだった。
「これでは受け入れ市の財政負担が増えるばかりで、埼玉県の住宅対策にはならない」と「住宅団地お断り」の声が各地で高まってきた。
県と住宅公団との話し合いで、関連施設の整備も考慮した大規模団地(2500~3千戸)の建設と県民の優遇入居促進も要望された。
住宅不足解消のため住宅公団に代わって、県営住宅や県住宅供給公社の比重が高まって来るのである。
戦後、激増した県人口 16年がピークに
現役時代、人口問題の勉強会に入っていたこともあって、人口動態には非常に興味がある。
人口は汐の満ち干と同じで、ひたひたと確実にやってくる。大騒ぎを始めている高齢化、人口減少もとうの昔から予測されていたことだ。
国勢調査は1920(大正9)年に始まり、5年ごと10月1日に行われる。以来、ひたすら右肩上がりを続け、人口増加率が日本一を誇ったこともある本県も、下降に転じそうだ。
人口を棒グラフ、増加率を折れ線グラフでまとめた県統計課の表を眺めていると、感慨深いものがある。
始まった20年にはわずか132万人(全国で16番目)だった。さいたま市の15年の人口が126万人(国勢調査)だから、県全体で現在のさいたま市程度の人口しかなかったことになる。
増加率を見ると、40(昭和15)から45(同20)年。60(同35)年から85(同60)年の25年間の伸びが目立つ。いずれも増加率が日本一だったころである。
40~45年は、敗戦間近な44~45年の1年間の伸びがめざましい。多くの軍需工場が京浜工業地帯から県内へ避難、学童や縁故者などの疎開者がどっと流入したからだ。
人口は40万人以上増え、45年には200万人を突破した。増加率は24%にも達した。
60~85年は、住宅団地や工業団地が一斉に造られ、本県が東京のベッドタウン化し、農業県から工業県に変貌した時期である。
35年に243万人(全国10位)だったのが、65年301万、75年482万、85年586万とうなぎのぼり。
85年には北海道を抜いて全国5位になり、この25年間に人口は2.4倍に増え、全国一の増加県になった。90年には640万人。
ついでながら、県人口が500万になったのは1977年、600万は87年、700万人は2002年だった。
都心から30km圏内の草加、八潮、越谷、新座などの人口は5倍以上に激増した。
北葛飾郡三郷村は、団地のおかげで、村になったのが56年なのに、64年には町、72年には市へと三段跳びをした。
その昔、10世紀初頭、武蔵国ができた頃には、埼玉県域の人口は約9万人と推定している歴史書もある。
1876(明治9)年、埼玉の現在の県域がほぼ確定したころは、ざっと90万人だったという。
県人口は2016年がピークで約730万(全国で5番目)。伸び率は前回比0・9%で過去最低だった。20年には713~724万、25年には700万、40年には630万人(人口問題研究所)に減少するという予測もある。
15年の国勢調査の結果では、63市町村で23市町村が人口増、40市町村が減を記録した。最も増えたのはさいたま市で126万人に。増加率では戸田市が10・6%と最大、吉川市が6.8%でこれに次いだ。減少数の最多は所沢市の6049人。人口は33万5000と越谷市を下回り5位になった。
減少数が大きいのは熊谷、本庄、行田市といった群馬県よりの県北部で、減少率が最大だったのは東秩父村の12・2%、次いで小鹿野町の9・9%だった。
超高齢化の進行とともに気になる数字である。
14年1月1日時点の総務省の人口動態調査では、外国人の流入は、中国人、ベトナム人が主で川口市(1370人)が最も多かった。県内への外国人の増加人数は約3978人で、47都道府県で一番多かった。
川口市の外国人人口は2万2958人で、さいたま市を上回り県内で最も多かった。埼玉県の日本人の人口の伸びは9007人だったので、外国人の流入で支えられている割合が高い。
東西103、南北52キロ㍍と東西に長い埼玉県は面積3800平方km。日本の都道府県の中では、広さでは39番目。狭い方から9番目といった方がいいだろう。
NHKの夕方の天気予報を見ていれば分かるように、東京都よりは大きい。面積では、東京都は45位、大阪府は46位なのだ。
全国に8つある内陸県(海なし県)で、7つの都道県に囲まれている。東京都、千葉、茨城、栃木、群馬、長野、山梨県である。
隣接県が一番多いのは長野県の8つで、岐阜県は埼玉と同じ7つだ。
この中に埼玉県は723万人(15年5月1日)の人口を持ち、東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぎ5位。人口密度は1平方キロ㍍当たり1900人で、東京都、大阪府、神奈川県に次いで4位である。
市町村は、市が40と日本一、町は22、村は1つだけ。計63の市町村がある。
埼玉県には「日本一」がけっこうある。「市の数」もその一つ。愛知の38、千葉の37、北海道の35をしのぐ。
市とは一体何だろうか。地方自治法第8条では①原則として人口5万以上②中心市街地の戸数が全戸数の6割以上③商工業等の都市的業態に従事する世帯人口が全人口の6割以上――という条件がある。
埼玉県の場合、市の人口はさいたま(125万、全国の市では9位)を筆頭に、川口(57万)、川越(35万)、所沢(34万)、越谷(33万)(14年6月)の順で並んでいる。
埼玉の市の特徴は、五日市とか六日市とかいった市場の所在地ではなく、元宿場町が多いことだ。埼玉では、日光・奥州街道(現在の4号線)、京都三条大橋に至る中山道(現17号線)に沿って、宿場町が形成された。
それが基礎になって、日本の高度成長が始まる昭和30年代後半から、東京の衛星都市として転入者が激増、昭和35年(1960年)から25年間に県南地域を中心に埼玉の人口は2.4倍に膨れ上がった。それが、日本一の市の数を生んだ背景にあることは言うまでもない。
市町村の総数では、北海道の179、長野県の77についで3位。北海道は町が129で1位、長野県は村が35で1位だ。
比較の対象を日本から世界に目を転じてみよう。
UNFPA(国連人口基金)の「世界人口白書」(2014年)によると、人口が700万人台の国は、多い順からイスラエル、ヨルダン、パプアニューギニア、香港、ブルガリア、トーゴの6つある。
埼玉県の人口は香港730万、ブルガリア720万の間で102番目になる。
国連加盟国は193なので、ざっと数えて人口では中ぐらいの国だと言える。
「グラフで見る2011年度県経済のすがた」などによれば、埼玉県の名目GDP(この場合は県内総生産)は、20兆3700億円(2577億ドル)で、OECD加盟国の国内総生産と比較すると、22位のフィンランドと23位のチリとの間。つまり23位である。
国内では、東京都、大阪府、愛知県、神奈川県についで5位になっている。
県内総生産で、主要国の中で23位とは思いもかけなかった順位で、埼玉県の実力に驚いた。
ところが、一人当たり県民所得(12年度)になると、280万6千円で、03年度(292万2千円)さえ下回り、関東地方1都6県の最低と言うからまた驚く。