ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、ヨルダン川、セーヌ川、テムズ川、揚子江、漢江、信濃川(日本最長367km)・・・世界でもいろんな川を見てきたが、「川幅」という言葉は、その川の水が実際に流れている幅を指すのだと思ってきた。
聖書で名高いヨルダン川は、想像していたより余りに小さく、幅が狭過ぎたし、6695kmと世界最長のはずのナイル川も、カイロ周辺ではこんなに幅が狭いのかとがっかりした。
恥ずかしながら、「川幅」とは水が実際に流れているところではなく、最悪時に備えた堤防の間の距離、だと知ったのは最近のことだ。
08(平成20)年2月に国交省荒川上流河川事務所の調査で、鴻巣市馬室地区と、古墳時代末期の横穴墓地群「吉見百穴」で知られる吉見町の間を流れる荒川の川幅が最大2537mで、2位の四国の吉野川河口付近の2380m(徳島県)を157mしのいで、日本一だと判った。3位は静岡県の富士川(2016m)。
埼玉県境を流れる坂東太郎こと「利根川」は流域面積では日本最大、長野から新潟県へ流れる「信濃川」は長さ日本一と、荒川よりいずれも大きいから、予想外の結果だった。
「荒川はそんなにでっかい川なのか」と思った。よく調べてみると「川幅とは河川敷を含めた堤防間の距離」だというのである。台風や梅雨などの大雨の時を除けば、実際に水が流れている「水面の幅」は約30mしかない。「堤外地」と呼ばれる両岸の堤防の間には、麦畑と水田が広がり、約30戸の民家のほかに、町工場、神社まであるという。
実際に川幅が日本一になったのは、近年では07年9月の台風9号の時だった。「川幅が広いので、水位が急上昇することはなく、2階に避難すればまず安心」とのこと。
ここを渡る御成橋の両側に「川幅日本一」の大きな標柱が立っている。その河川敷(鴻巣市馬室)に広がるのが、「日本一広いポピー畑」だ。東京ドーム約2.5個分の12.5haの日本一広い敷地に3千万本の赤やオレンジのポピーが咲き誇る(5月)。シャーレポピーとカリフォルニアポピーの2種類で、ごみの不法投棄防止が目的だったというから面白い。シーズンには「ポピーまつり」が開かれる。
それなら御成橋が日本最長の橋かと、建設省のホットラインステーションに聞いてみたら、そうではなく、おなじく本県の荒川と入間川の両方をまたぐ国道16号の「上江(かみごう)橋」が、一般国道で河川にかかるものとしては最長だとの話だった。
「上江橋」は、川越行きと春日部行きの橋が密接していて、1997年に出来た川越方面行きが1609.9mと一般国道にかかる橋として日本最長だという。
上流の鴻巣市大芦の河川敷には、これまた日本最長のアーチ橋「荒川水管橋」(1100.95m)がある。水管橋とは水道管が川や鉄道などを横断するための橋のことだ。高さ13~25m。車道も鉄道も併設しない。両側に直径2mの管が2本通っており、その間に幅1mほどの作業用通路がある。
利根川の利根大堰で取水し、地下トンネルを流れて県営行田浄水場で消毒、この水管橋で荒川を越え、毎時2830tの水が荒川右岸の熊谷、東松山、本庄各市や比企・入間郡に送られる。84年7月に完成した。
この付近にも、秋(10月末)には1000万本のコスモスが咲き誇る。
鴻巣は花の町で、「プリムラ」「サルビア」「マリーゴールド」も出荷量は日本一を誇っている(06年度)。
鴻巣には東日本最大級の花市場「鴻巣フラワーセンター」がある。スクリーンを見ながら座席の端末機で応札するという最新式の自動セリシステムが導入されている。一度訪ねたことがある。
農業産出額の4割を花が占めるこの市では、コミュニティバスの名称も「フラワー号」。小さい頃から子供に花に親しんでもらおうと、「食育」ならぬ「花育」に取り組んでいる。
日本人は「日本一」「世界一」が大好き。ギネスに載る記録をつくろうと、各地でいろいろな催しが行われる。
鴻巣市は“川幅日本一”を市のPR材料の一つに位置付け、うどんの幅が5cm以上10cmのもある「川幅うどん」の普及など名物づくりに励んでいる。15年3月末草加で開かれた第12回県のB級グルメでは、8回目の出場で1位に輝いた。埼玉県の母なる川、荒川の恵みである。
14年10月11日夜、鴻巣市の荒川河川敷の糠田運動場で開かれた「第13回こうのす花火大会」では、正4尺玉の花火が打ち上げられ、「世界最大の打ち上げ花火」としてギネス世界記録に公式認定された。
重さ約450kg、地上約800mの空に直径約800mの大輪を描いた。
15年3月にはJR鴻巣駅東口に、この4尺玉の実物大のレプリカ(直径約120cm)と打ち上げた鉄製の煙火筒(高さ6m、直径約130cm、重さ10t)の組み合わせの展示がお目見えした。「世界一四尺玉煙火筒」と大書してある。(写真)
市や主催者の鴻巣市商工会青年部では、「こうのす花火大会」を街の顔にしようとしている。大会のトリを飾るこの「四尺玉」、16年には打ち上げに失敗した。
さいたま市水道局が年に3回発行している「水と生活」をたまたま目にして、12年4月号をめくっていると、住んでいるマンションの同じ通り、それも目と鼻の先に「小水力発電」をしている「白幡発電所」という発電所があることが分かった。
発電所というと、北陸の「黒部ダム」のように、大きなダムに水を蓄え、その落差を利用してタービンを回し、大量発電するものと思い込んでいた。
地震と大津波による福島原発の破損以来、どうして電力を確保するかが日本の大きな課題になっているのはご承知の通りだ。
「秩父地方を除いて、山もダムもない埼玉県のような平地でどのようにして発電するのだろう」。
好奇心だけは人一倍高いので、水道局にぜひ一度見せて欲しいと頼んでいたら、5月10日、「白幡配水場」の裏にある“発電所”に案内してもらえた。
その東側は、「親水公園」になっている。入り口は反対側にあって、階段を上って、何度か散歩に来たことがある。子供を遊ばせたり、本を読んだりするのに最適だ。
この配水場には1万トンの配水地が二つあるので、その上を緑地に利用しているのだ。
発電所というと、すぐ「縦のライン」を考えがちだが、ここには落差を生ずる大きな貯水タンクがあるわけでもない。
写真のように発電所が「横のライン」に寝ているのである。
なぜそれで? 説明を聞くと
この水は、さいたま市西部の荒川に近い県営大久保浄水場から来ている。ちょっと上流の取水口で取水した荒川の水を浄水して流してくる。
浄水場と配水場に高低差がほとんどないので、流すためにはポンプで圧力を加える必要がある。
1時間に1200トンもの水が流れてくるので、その圧力と流量を利用して、横に寝ている水車を回して発電するのである。
運転開始は04(平成16)年で、年間発電量は約41万kw。
一般家庭の約120軒分とのことだが、配水場の動力として使われているので、外には出せず、この配水場の必要電力の21%をまかなう程度である。ざっと年間400万円かせいでいる勘定とのこと。
水は24時間流れて来て、発電し続けているわけだから、夜には必要電力を超すこともあり、その際にはシャットダウンする。
環境庁が半分負担する補助事業で、総工費4千万円。すでに、モトはとっている。
身近な発電施設には屋根などを利用した太陽光発電がある。太陽光や風力に限らず、こんな小規模発電も近所にあるのだと知って参考になった。
10年10月14日の埼玉県民の日。東武も西武鉄道も全線460円で一日乗り放題だというので、東武東上線の終点寄居まで出かけることにした。寄居町の荒川沿いにある県立「川の博物館」を見るためだ。
全国初の「水の体験型総合博物館」で、完成時には日本最大を誇った水車や、荒川に沿った地形を千分の一に縮尺した「荒川大模型173」、日本画家川合玉堂の陶板画(いずれも屋外展示では日本最大)がある。一度訪ねてみたいと思っていたからだ。
調べてみると、終点より二つ手前の鉢形駅が近い。歩いて20分の所にあった。水車は直径23m。岐阜県恵那市に1m長いのができたので、第2位になったものの、さすがに大きい。(写真)
木の劣化などで15年夏から稼働を中止していたが、建て替えが決まり、19年2月から解体作業が始まり、7月28日の完成式典で直径24.2mの日本一の木製水車に返り咲いた。
荒川の模型は、その延長173kmにちなんだもので、甲武信ヶ岳山中の源流から東京湾に流れ込むまでの全貌が立体的に分かる。玉堂の陶板画は、重要文化財に指定されている名作「行く春」を、長さ21m,高さ5mの信楽焼にして本館外壁に展示している。
この荒川の模型と館内の展示で、「荒川の西遷」とはどのようなものだったのかをやっと理解できた。西遷とは、関東代官頭だった伊奈忠次が荒川を治めるために考え出したもので、利根川の支流だった古荒川を熊谷の久下でせき止め、和田吉野川まで誘導、入間川を経て隅田川で江戸湾に流し込んだ。
利根川を常陸川に結びつけ,銚子へ流し、江戸を洪水から守った「利根川の東遷」と並ぶ江戸初期の大河川工事である。それまで利根川は、江戸湾へ注いでいた。
この展示は、ボックスの中で、裃を着た忠次の人形が地図を使って西遷と東遷の構想を説明する仕組み。何冊か本を読んでも、分かりにくかったが、この視聴覚による説明でなるほどと理解できた。百聞は一見に如かずだ。
このような河川の人工的な流路変更(付け替え)は、「瀬替」と呼ばれた。この瀬替で、荒川の原型が完成した。荒川の西遷工事を指揮したのが忠次の二男忠治である。
県内には、「元荒川」「古利根川」と「元」や「古」のつく川が残っているわけもよく分かった。
館内では、「船車」(船水車、水車船とも)の模型が面白かった。船の側面に水車を据え付けたもので、ふだんは固定されているが、増水すると移動、陸への引き上げも可能。江戸時代からあり、明治末期に全盛期を迎えた。
荒川には相当数あり、荒川上流の風物詩だったそうだ。玉堂の陶板画もこれをモチーフにしている。館内だけでなく、実際の川面に復元すれば、関心を呼ぶのでは・・・。
荒川の中下流の洪水地帯には、農家の敷地の一部を土で高く盛り上げ、蔵を建て、ふだんは食料庫、非常時には家族が一時的に避難する施設があった。信濃川や筑後川などにも同様なものがあり、呼び名も違う。荒川では「水塚(みずか)」と呼ばれた。その模型もあり、先人の水との戦いぶりがしのばれる。
秩父の山で伐採した木を下流に落とす「鉄砲堰」の実演は勇壮だし、荒川の舟運を担った帆船「荷船(にぶね)」(高瀬舟)も復元されている。荒川の魚を見せる小型水族館「渓流観察窓」も付属している。アドベンチャーシアターや荒川ワクワクランドなどの子供用施設も楽しめる。
荒川の流域は、県面積のほぼ3分の2を占める。埼玉県の「母なる川」である。「かわはく」と略称されるこの“荒川博物館”をあれこれ見回るうちに、日が暮れてしまった。
「彩湖という人造湖をご存じですか」と聞いてみると、東京の人はもちろん、埼玉県の人でも知らない人が多い。「荒川第一調整池は」と聞いてみると、ほとんどの人が首を傾げる。
戸田市、さいたま市、和光市、朝霞市、志木市にまたがり、ハンノキ林で知られる秋ヶ瀬公園と人造湖「彩湖」を含めた一帯の河川敷が荒川第一調節池。
荒川第一調整池とその中にある彩湖は、さいたま市の中央部から川口市にまたがる見沼田圃(たんぼ)に匹敵するほどの水と緑の大規模空間なのに、もっと活用されていいのではないか。
エジプトはナイル川の賜物だと言われる。それに習って言うと、埼玉県は荒川の賜物だ。
荒川はその名のとおり、「荒れる川」である。この川を治めるため、地元の人々も為政者も力を尽くしてきた。この荒川第一調整池や彩湖もその努力の一つである。
第一の名が付いているのは、この調節池のすぐ北の羽根倉橋と上江橋の間に荒川第二調節池、その上流に第3、第4、第5の調節池の計画があったからだ。調整池とはふだんは公園などに使用、洪水、台風の増水の際は一時的に貯水、下流の被害を少なくする平地のダムである。
第一調整池は、広い川幅を活かして、川の中にもう一つの堤(囲ぎょう堤)を築いてつくられた。着工は1970年。1995年に一般公募で真ん中の湖が彩の国にちなんで彩湖と命名され、彩湖が完成したのが1997年。第一調整池全部が完成したのは2004年である。計画から完成まで34年もかかった大工事だ。
羽根倉橋から笹目橋までの5.8km。総面積は彩湖の5倍強の5.85平方km、 貯水量は彩湖の4倍弱の3千9百万立方m。「平地のダム」で、人工の自然空間だ。
その中で常時、水を湛えている貯水池が彩湖である。周囲8.5km、面積1.18平方km、深さ10.7m、総貯水量は1060万立方m(埼玉県人口の6日分)。この貯水量は洪水時の見沼田圃(たんぼ)の湛水量とほぼ同じだ。
彩湖は、洪水対策と同時に東京の夏場の渇水対策も兼ねる。荒川に余剰水がある時は水を貯め、足りない場合は、貯めている水を、水道用水を取水している秋ヶ瀬取水堰の上流に補給し、水道用水を確保する。
ここで取水された水は左岸の大久保浄水場から、さいたま、戸田、川越、志木など16市1町約380万人、右岸の朝霞浄水場からは東京23区の西部などへ供給されている。
水質保全のため、噴水でプランクトンの細胞を破壊したり、湖底3か所に設置したパイプから気泡を発生させ、水の対流を起こさせ、水質悪化を防ぐ曝気循環装置もある。4か所に設置された階段状の滝に、湖底から組み上げた水を流して水中に酸素を送って水質改善を図ることもできる。
水質悪化を恐れて、湖面でボートやモーターボート、ヨットなどの使用は許されていない。
彩湖周辺の自然環境も整備されていて、湖の北部のさいたま市南区側には「荒川彩湖公園」、湖の中部の戸田市側には「彩湖・道満グリーンパーク」が広がり、市民の格好の遊び場になっている。さいたま市側には「田島ヶ原サクラソウ自生地」もあり、シーズンにはサクラソウ祭りでにぎわう。
湖の中心部をまたぎ、戸田と和光市を結ぶ幸魂(さきたま)大橋は、埼玉県を代表する斜張橋で橋長約1500m。東京外環自動車道と国道298号線が通る。
この橋より南側は、野鳥と自然保護のため、立ち入り禁止になっていて、オオタカ、ハヤブサ、ノスリなどのタカ類、コミミズクなどのフクロウ類など貴重な野鳥を見かけることもある。野鳥観察にも使われている。
代表的なのは繁殖のため南から渡ってくる夏鳥オオヨシキリで、湖の周辺のアシ原で子育てをするため、「ギョギョシ ギョギョシ」とにぎやかだ。
植物に興味がある人なら、彩湖・道満グリーンパークの一角にトダスゲの保存地がある。彩湖自然学習センターもあるので、訪ねてみたら勉強になる。
さわやかな風に吹かれて、荒川の高い堤防の上から遠く秩父の山を望める。堤防から荒川や彩湖、公園、武蔵野線の鉄橋や幸魂大橋を眺めると、実に幸せな気分だ。見沼田圃と荒川第一調整池と、二つの首都圏屈指の大規模な水と緑の空間を持つさいたま市民らは、本当に恵まれている。
ふれあい鴻巣ウオーキング
鴻巣でもウオーキンングをやっていると知って、12年5月27日の日曜日初めて参加した。
「鴻巣の日本一を見る」という触れ込みに魅かれたからだ。この市にはいろいろ日本一があるようで、荒川の「日本一の川幅」と「日本一広いポピー畑」はいつか訪ねたいものだと思っていた。
鴻巣陸上競技場をスタート、西隣の吉見町の吉見観音(安楽寺)で折り返すこのコースでは、荒川を行きと帰りに渡る。行きは鴻巣市と吉見町を結ぶ長い「糠田橋」を越え、帰りは吉見町側からちょっと下流の「御成橋」の下をくぐって、鴻巣市馬室のポピー畑に至る。
「川幅日本一」は、御成橋からわずかに上流の橋と並行した直線距離で2537m。
御成橋に近づくと、歩道の上に「荒川川幅日本一まであと1km」、歩道橋に「この先600m」の表示があるし、橋のたもとの両側に「川幅日本一」の標柱が立っているうえ、日本一の旗も風に揺れている。橋のアプローチにも「川幅日本一2537m」と横書きされていた。
「川幅日本一」のオンパレードである。
川幅といっても、実際に川が流れている幅ではなく、左岸と右岸、つまり河川敷の距離である。田んぼや畑に利用されている。
両岸の中ほどに荒川が流れているが、川幅の広さに圧倒されて、「実に細いな」というのが実感だ。
ウオーカーから見れば、2537mは、時速5kmで歩けば30分の距離である。
吹上地域の大芦橋の下流には、荒川をまたぐ、これまた「日本一長い」水管(水道管)橋(1101m)(1984年建設当時)もある。赤く塗られていて、水管橋の向こうに沈む夕日は絶景だという。
「日本一広いポピー畑」は満開だった。栽培面積12.5ha。東京ドーム約2.5個分と広く、実に3千万本の鮮やかな赤やオレンジの花が咲く。
現役時代、羽田空港のクラブで、航空問題をカバーしていたことがあるので、飛行機に対する関心は人一倍強い。
所沢市の約50haの「県営所沢航空記念公園」は、県内最大規模の都市公園だ。日本で初めて「陸軍所沢飛行場」ができ、飛行場を使って初めて飛行機が飛んだ所なので、何回か来たことがある。2025(平成23)年はそれから100年になるというから、思い入れはひとしおだった。
航空発祥記念館も4月2日にリニューアルオープンしたというので、暇を見つけてまた訪ねてみた。
西武新宿線航空公園駅東口から歩く。日本で初めて飛行したアンリ・ファルマン機をイメージしたこの駅は関東の駅百選に選定されている。公園入り口近くに第二次大戦後日本で初めてできたターボプロップ「YS-11型」中型旅客機が目に入る。懐かしい機である。
公園に入ると、米軍払い下げの「C-46型」輸送機の近くに「所沢航空発祥100周年記念碑」が立っていた。
ここには1911(明治44)年4月1日、幅50m、長さ400mの飛行場が完成した。その4日後の4月5日午前5時37分、徳川好敏大尉が操縦するフランス製複葉機「アンリ・ファルマン」が、1分20秒間、高度10mで800m飛んだ。次に米国製のライト兄弟機で日野熊蔵大尉が飛んだ。こんなに朝が早いのに数千人の見物人が押し掛けたという。
当時、飛行場は「空を飛ぶ夢のような乗り物」にお目にかかれるというので、周辺には桟敷が敷かれ、見物人でにぎわった。初物好きで、好奇心旺盛な日本人は昔からいたのだ。
その4か月前の10年12月19日、東京代々木練兵場(現代々木公園)で、この徳川大尉のファルマン機が日本で初飛行、次いで日野大尉はドイツ製のハンス・グラーデ機で飛んでいた。
所沢飛行場は、このフランス製2機、ドイツ製1機、米国製1機の4機でスタートした。国産機や飛行船の開発の拠点になり、翌年には初の国産民間機「奈良原式第2号機」、最初の国産軍用機「会式1号機」が完成した。
日本初の航空機事故もこの公園近くで発生、その記念碑が立っている。1913(大正2)年、東京・青山練兵場からこの所沢飛行場に帰還中、突風のため左翼が破損、操縦学生、木村鈴四郎・徳田金一両中尉が乗るフランス製ブレリオ機が墜落・死亡した。ブレリオ機は単葉機で、当時世界最高性能といわれた。
1916(大正5)年、大阪まで飛んだ国産飛行船「雄飛号」ができたのもここだった。
1919(大正8)年、当時最先端の航空機製造国だったフランスは機体のセールスを兼ねて、航空教育団(63人)を派遣、約15カ月、航空技術を指導した。陸軍航空学校も設置された。その団長で空軍将校のフォール大佐の胸像が所沢公園に残っている。2019年は100年に当たるのを記念して、教育団の子孫も来日、4月7日記念式典が開かれた。
食べたことはないが、「フォールカツレツ」がフランス人たちが通った「市内の割烹 美好」に残っているという。 当時、フランスで修業を済ませ、日本の西洋料理の先駆者として知られたシェフが、ここにいたことに驚く。
プロペラにちなんだ「プロペ通り」「ファルマン通り」「飛行機新道」という名の通りもあり、所沢銘菓「ファルマン」や焼き菓子「雄飛焼」もある。所沢は飛行機がらみの町である。
県内最大規模の都市公園だから、運動場、野球場、テニス場、子供冒険広場、日本庭園・茶室、ドッグランなどもある。桜の季節には約500本、フジ、アジサイ、ユリノキなど四季を通じて花木が楽しめ、子供たちや市民の憩いの場所だ。
日本一高いピラミッド型ひな檀 鴻巣市
11年3月、朝日新聞の社会面に掲載された「鴻巣びっくりひな祭り」の写真に魅せられて、鴻巣市役所ロビーに見物に出かけた。
エジプトのカイロに3年半ほどいたことがあり、カイロ郊外のギザのピラミッドには何度も出かけたので、ピラミッドと聞くと何となく親近感が湧くからだ。
家庭のひな檀というと確か7段と覚えている。このピラミッドは実に30段、底が一辺5メートル、高さは天井ギリギリまでの6.7メートルで、「日本一高いピラミッド型ひな檀」という。
市制施行60周年の15年の第11回では31段、7mになった。16年の第12回では県内外から寄せられたひな人形1830体が飾られ、JR鴻巣駅東口のショッピングモール「エルミこうのす」1階で披露された。
千葉県勝浦市が全国から集める約3万体には数では及ばないものの、ピラミッドの高さでは負けないというわけだ。勝浦の場合は、ピラミッド型ではなく、神社の階段や商店街など市内全域を利用している。
ピラミッドの高さでもライバルがあるようで、長野に高さ約6メートルのひな壇があるというので負けられない。
江戸の享保年間に大流行、余りの豪華さに奢侈禁止令にひっかかった「享保びな」も展示されていた。高さは子供の背丈ぐらい、120cmもあるもので、聞いてはいたが、初めて目にして、なるほどと納得した。
ひな人形というと近くの日本一と言われる人形の町岩槻(現在は合併してさいたま市岩槻区)を思い出すのが普通。ところが、「ひな人形と花のまち」をうたう鴻巣市は、人形作りの歴史では岩槻より古く、江戸時代から「鴻巣びな」として知られた。
特に着物の着付けの技術では関東一の評判で、江戸の職人達が鴻巣に修行に来たという。
鴻巣では市役所や駅前のトイレの男女用を分けるサインが男びなと女びなになっているのにも長い伝統が感じられる。市役所前の広場には、野菜や特産品の即売所や食べ物の屋台が立ち並び、「こうのすコロッケ」という昔ながらのコロッケの前には行列ができていた。
さいたま市岩槻区では5万人が見に来る「まちかど雛めぐり」が行われていて、おひな祭りのシーズン、埼玉県は忙しい。
県内では、この2市のほか越谷や所沢でもひな人形や節句人形が作られていて、10年の出荷額は全国首位、シェアも約5割と圧倒的だ。