越生町には何度も出かけているのに、町の西南端にある黒山三滝には行ったことがなかった。
1950(昭和25)年には、日本観光地百選の瀑布の部で第9位に選ばれ、「県立黒山自然公園」にも指定されるなど県内有数の観光地として知られる所。この新緑の季節にはぴったりだろうと思って、15年5月18日の月曜日、早起きして電車とバスで出かけた。
東武東上線を坂戸で東武越生線に乗り換え、終点の越生で降り、バスに乗り換え終点の黒山で下車、1km坂道を登ると着く。
驚いたのは、「黒山鉱泉館」が閉館していたことだった。明治の初めに発見され、田山花袋、野口有情など文士らに愛され、「大正7(1918)年 田山花袋紀行の地」の記念碑が残っている。
帰りにバスを待ちながら地元のおばさんの話を聞いていると、バスの終点前にある「東上閣」も閉館、食堂やお土産品店も3,4店に減ってしまったという。
三滝は室町時代に修験道の修行の場として開かれた。三滝から山道をたどれば、修験道にはつきものの「役行者」の石像もある。
三滝は、越辺川(おっぺがわ)源流域の三滝川に、上に男滝(おだき)(落差11m)、下に女滝(めだき)(落差5m)の二つが2段にかかっていて、(写真)歩いて少々下流に天狗滝(落差14m)がある。
男滝、女滝の前には橋があって、橋柱に「三滝川」「夫婦僑」と書いてある。
三滝は幕末期から江戸では有名だったらしい。パソコンで検索してみると、越生の津久根出身で、吉原遊郭の副名主に出世した尾張屋三平が男滝、女滝を男女和合の神と見立てて、江戸に紹介、吉原を中心に信仰を集めた。三滝周辺は、信仰と遊山を兼ねた行楽地として栄えたという。
黒山のバス停近くには、渋沢平九郎の自刃の地の石碑がある。渋沢栄一の妻千代の弟で、栄一がパリ万博親善使節団の一員として渡欧する際、万一の場合に備えて「見立て養子」とした。
平九郎は振武軍に入り、飯能戦争で官軍と戦ったが破れ、故郷を目指して逃走中、敵兵に遭遇した。3人まで切り伏せたが、自らも傷つき、切腹して死んだ。22歳だった。
鎌倉時代、平泉に落ちのびようとする源義経主従が、富士山を望むその景観のあまりの美しさに何度も振り返ったことから、その名がある「顔振峠」(こうぶりとうげ 530m)にも近くハイキングにも好適だ。
植物好きな人なら、谷が狭く、湿っているため、暖地性のアオネカズラなどのしだ類の集落が見られる。県の天然記念物に指定されている。
自然に恵まれ、初夏は新緑、秋は紅葉が美しい。室町時代以来の由緒のあるこの景勝地を何とかよみがえらせてほしいものだ。