ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

黒山三滝 越生町

2015年05月20日 17時44分06秒 | 名所・観光


越生町には何度も出かけているのに、町の西南端にある黒山三滝には行ったことがなかった。

1950(昭和25)年には、日本観光地百選の瀑布の部で第9位に選ばれ、「県立黒山自然公園」にも指定されるなど県内有数の観光地として知られる所。この新緑の季節にはぴったりだろうと思って、15年5月18日の月曜日、早起きして電車とバスで出かけた。

東武東上線を坂戸で東武越生線に乗り換え、終点の越生で降り、バスに乗り換え終点の黒山で下車、1km坂道を登ると着く。

驚いたのは、「黒山鉱泉館」が閉館していたことだった。明治の初めに発見され、田山花袋、野口有情など文士らに愛され、「大正7(1918)年 田山花袋紀行の地」の記念碑が残っている。

帰りにバスを待ちながら地元のおばさんの話を聞いていると、バスの終点前にある「東上閣」も閉館、食堂やお土産品店も3,4店に減ってしまったという。

三滝は室町時代に修験道の修行の場として開かれた。三滝から山道をたどれば、修験道にはつきものの「役行者」の石像もある。

三滝は、越辺川(おっぺがわ)源流域の三滝川に、上に男滝(おだき)(落差11m)、下に女滝(めだき)(落差5m)の二つが2段にかかっていて、(写真)歩いて少々下流に天狗滝(落差14m)がある。

男滝、女滝の前には橋があって、橋柱に「三滝川」「夫婦僑」と書いてある。

三滝は幕末期から江戸では有名だったらしい。パソコンで検索してみると、越生の津久根出身で、吉原遊郭の副名主に出世した尾張屋三平が男滝、女滝を男女和合の神と見立てて、江戸に紹介、吉原を中心に信仰を集めた。三滝周辺は、信仰と遊山を兼ねた行楽地として栄えたという。

黒山のバス停近くには、渋沢平九郎の自刃の地の石碑がある。渋沢栄一の妻千代の弟で、栄一がパリ万博親善使節団の一員として渡欧する際、万一の場合に備えて「見立て養子」とした。

平九郎は振武軍に入り、飯能戦争で官軍と戦ったが破れ、故郷を目指して逃走中、敵兵に遭遇した。3人まで切り伏せたが、自らも傷つき、切腹して死んだ。22歳だった。

鎌倉時代、平泉に落ちのびようとする源義経主従が、富士山を望むその景観のあまりの美しさに何度も振り返ったことから、その名がある「顔振峠」(こうぶりとうげ 530m)にも近くハイキングにも好適だ。

植物好きな人なら、谷が狭く、湿っているため、暖地性のアオネカズラなどのしだ類の集落が見られる。県の天然記念物に指定されている。

自然に恵まれ、初夏は新緑、秋は紅葉が美しい。室町時代以来の由緒のあるこの景勝地を何とかよみがえらせてほしいものだ。

陸軍飛行学校から特攻機 桶川市

2015年05月11日 17時17分56秒 | 市町村の話題



5年もこのブログを書き続けているのに、埼玉県のことで知らなかったことが次々に出てくる。

最近、夕方のNHKのニュースを見ていたら、桶川市の荒川沿いにある現在の「ホンダ航空」の滑走路と同じ場所に、第二次大戦中、旧陸軍の桶川飛行学校があった。1945(昭和20)年2月以降は特攻隊の訓練基地として使用され、12人が鹿児島の知覧基地に向けて出発、11人が死んだという。

第二次大戦末期、特攻機の舞台になったのは、沖縄近辺の海域だった。

1945年、疎開先の鹿児島県隼人町で、隼人小学校に入学した私は、隣にある鹿児島神宮に毎朝、参拝に来る特攻隊員を見慣れていた。

毎朝、数十機が編隊を組んで出撃していくのを見送り、昼過ぎ1機だけが"戦果”報告のため帰ってくるのを見た。

特攻機の舞台だった沖縄周辺の海域からはるかに遠い埼玉県が、特攻機に関係していようとは、思ってもいなかったので、15年5月10日、さっそく飛行学校跡に向かった。

ここには、今にも崩れ落ちそうな木造の兵舎が残っていて、当時の写真や遺書が壁面に張られ、ビデオも上映されている。土、日、休日は「旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会」の有志が朝10時から午後4時まで詰めていて、説明に当たる。

その中の一人は、当時この飛行学校で整備員として勤務していた柳井政徳さんだ。大正15年生まれというから、90歳近い高齢なのに、今でも元気に質問に答えてくれる。

手ごろな資料も準備されていて、展示品やビデオ、それに説明を合わせると、ここから飛び立っていった12人のことがよく分かる。

JR桶川駅西口から東武バス「川越行」で10分。荒川を越す寸前の「柏原」停留所で降りると、親切な案内板があってすぐだ。

正式には「熊谷陸軍飛行学校桶川分教場」と呼ばれ、1937(昭和12)年、この地に開校した。

学徒出陣の特別操縦見習士官、召集下士官、少年飛行兵など約1500~1600人が教育を受けた。1945(昭和20)年2月以降は、特攻隊の訓練基地として使用された。

敗色がますます濃くなってくる時期で、まともな戦闘機は少なく、この12人は陸軍で初めて練習機による特攻となった。

2人乗りの「99式高等練習機」で、訓練は堤防上に立っていた吹流しをめがけて急降下、急上昇を繰り返すものだった。

戦闘機と違って、エンジンの出力が弱いので、速度も性能も低く、爆弾を積めば飛ぶのがやっとだったという。

陸軍は各地の飛行場で秘密裏に訓練していた模様で、桶川には6隊が来ていたようだという。昭和20年3月27日、知覧に向かう12人が決まり、「第79振武特別攻撃隊」と名づけられた。

昭和20年4月5日、12人は鹿児島の特攻機基地知覧に向かった。途中、各務原(岐阜県)、小月(下関)の飛行場に一泊、7日知覧着。

柳井さんら整備兵、整備員6人は、小月飛行場まで同乗、そこで別れた。

出撃は16日。うち1機は爆弾が落下したためいったん帰還、22日再出撃。1機は米軍機の攻撃を受け、離島のサンゴ礁に不時着、島民に救助されて知覧に帰ったが、飛行機がなく、終戦を迎えた。

12人の中に埼玉県関係者はいなかった。

戦後この兵舎は住宅困窮者用の寮として使われた。全員が寮を出た後、市が国から用地を買収した。関係者の保存への要望も強いので、市は15年2月、昭和初期の建造当時の姿で保存の方針を決めた。ところが、耐震診断で耐震指標値を大きく下回ることがわかり、12月1日から公開を中止し、当面は敷地内への立ち入りも禁止した。(写真)

市では当初、建物を取り壊す予定だったが、保存を求める署名が約1万4000人分集まった。桶川市教委が16年2月に市有形文化財に指定、5月末から解体工事を始め、戦前の姿に復元する。旧陸軍の飛行学校は、全国でも珍しい。

08年に開場以来、来訪者が多く、15年7月までで2万3000人に達した。