文部省唱歌「青葉の笛」は、忘れられない名曲である。
一の谷の戦いで果てた平家の武将をうたったもので、歌詞の一番は平敦盛、二番は平忠度(ただのり)を偲ぶ。
この二人を討ったのがいずれも、今の埼玉県在住の武蔵武士だったのは、武士発祥の地、武蔵の国らしい。
「青葉の笛」を吹いていた敦盛のことは、熊谷直実のブログで書いたので、今度は忠度と埼玉県との関わりを書いてみたい。
埼玉県は昔の街道沿いに発達した歴史を持っているので、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と宿場が北上していく中山道のことが気にかかり、いろいろ本を読んできた。
「誰でも歩ける中山道69次 上巻」(日殿言成著 文芸社)を拾い読みしていたら、平忠度、つまり薩摩守忠度の墓が、深谷市にあるというので、14年1月下旬に出かけた。
江戸時代、中山道を行く旅人は知っている人が多かったようなので、「知らぬは・・・ばかり」だったのかもしれない。
更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは 「花や 今宵」の歌
明治39(1906)年に大和田建樹の詞で出来たこの歌は、「平家物語」の中でも名文で知られる「忠度都落」のエッセンスを見事に伝えている。
その書き出し
「薩摩守忠度は、いづくより帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎・・・」
の名調子は今でもよく覚えている。
「わが師」とは藤原俊成のことで、「千載和歌集」の選者だった俊成は、託された百余首を収めた歌の中から
行(ゆき)くれて木(こ)の下かげを宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし
を「詠み人知らず」として収録したのは、余りに有名な話である。
わが武蔵武士、岡部六弥太正澄が登場するのは「忠度最期」のくだりである。
その名も岡部駅(JR高崎線)で降りると、駅前に看板があり、錦絵付きで手短かに要約してある。
「六弥太は、落ちていく忠度に戦いを挑んだが、危ういところを駆けつけた従者の童(ここでは旗持・田五平となっている)が、忠度の右腕を切り落とした。覚悟を決めた忠度は念仏を唱えながら首を討たれた。箙に結び付けられていた短冊から忠度と分かった」
名乗りを上げた一対一の正々堂々の戦いではなく、名も知らぬ平家の大将に挑戦し、従者の助けを借りて金星を挙げたことが分かる。忠度41歳。短冊の歌は「花や 今宵」だった。
六弥太は、忠度の菩提を弔うため、自分の領地内で一番見晴らしのいい清心寺(深谷市萱場)にその供養塔を建てた。(写真)
清心寺の掲示板には、忠度の妻菊の前が京都からこの塔を訪れ、その際持ってきた杖を土に挿したら芽をふいて、紅白の花が重なる夫婦咲きとなり、「忠度桜」として知られた、とある。今ではその孫桜になっている。
六弥太は自分で創建した普済寺(同市普済寺)の北方の館跡の一角に葬られ、一族とともに五輪塔が立っている。
一方、戦いのあった兵庫県では、明石市に忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚と胴塚があるという。
比企尼と比企能員
平安時代の末期の源平合戦、鎌倉幕府の成立からその初期まで、武蔵武士は栄光の時代を迎えた。だが、その期間は短かった。
源平合戦における武蔵武士の活躍ぶりは「平家物語」に詳しい。武蔵国男衾郡畠山を「名字の地」とする畠山重忠の武勲、子の直家とともに源頼朝に「本朝無双の勇士」と紹介された熊谷郷の開発領主・熊谷直実の話などは、中学時代、週刊朝日に吉川英冶の「平家物語」が連載され、愛読していたこともあって、懐かしい限りだ。
武蔵武士の歴史を振り返って、面白かったのは、桓武平氏の流れを汲んだ「坂東八平氏」という言葉があるとおり、この地域はもともと平氏の地盤だったのに、源頼朝が平家打倒の兵を揚げると、一旦は平家寄りに動くものの、一斉に頼朝になびいていく姿だった。
なかでも秩父牧(馬の牧場)を基盤として発展した秩父平氏の一族の去就が戦局を大きく左右したとされる。
合戦では鎌倉幕府の成立に大きく寄与したのに、武蔵武士の幕府での政治生命は短かった。
その典型が比企一族である。
比企一族と源氏との関係は、比企尼(ひきのあま)が、頼朝が生まれた時から乳母になったことに始まる。
比企尼は、比企遠宗の妻だった。遠宗は源為義、義朝父子に仕え、義朝に頼朝が生まれると、比企尼は乳母になった。
頼朝が13歳で伊豆に流されると、遠宗は比企郡の郡司職を得て、比企尼と共に、比企郡に来た。遠宗は先に死んだが、比企尼は頼朝が33歳で平家追討の兵を挙げるまで20年もの間、比企一族とともに比企ー伊豆の遠い道を生活物資を背負って届けた。乳母とは単に母乳を与えるだけではなかったのだ。
頼朝の生母由良御前(実家は熱田大神宮)は、頼朝が12歳の時に死んでおり、熱田大神宮からは何の援助もなかった。頼朝を支えたのは比企の尼だけだった。尼は実の母のような愛情を注いだのだった。
恩にきた着た頼朝は、比企尼を鎌倉に呼び寄せ、尼の甥で養子の比企能員(よしかず)を御家人に取り立て、特に重用した。
北条政子が頼家を出産したのは、比企尼の邸だったほどの親密さだった。
能員の娘は、頼朝の長男頼家の側室になり、長男一幡(いちまん)を生むと、能員の妻は頼家の乳母になった。頼朝没後は外祖父として北条氏を上回る権力を持つようになった。
1203年、病弱な頼家が急病で危篤になると、北条時政は、頼家を廃嫡し、頼家の弟実朝に関西38か国の地頭職を、関東28か国の地頭職と総守護職を頼家の長子一幡にと家督を分与すると定めた。
この決定に不満を持った能員は、病床の頼家に時政の専横を訴え、時政追討の許諾を得た。
これを障子を隔てて聞いていた政子が時政に通報、時政は先手を打って、能員を仏事にかこつけて呼び出し、殺害した。
比企一族は、一幡の屋敷に立てこもったが、一幡とともに滅亡した。「比企氏の乱」「比企能員の変」である。
能員が仏事にかこつけて呼び出された際、平服だったことなどから、この変は北条氏側の陰謀だったのではないかと見る向きも多い。
頼家は将軍の地位を奪われ、時政のために伊豆の修善寺へ幽閉され、殺害された。
比企一族を殺戮した北条氏は、その後比企氏の怨霊に悩まされることになるが、当然のことであろう。
「武蔵武士」と言われて、思い出すのは、畠山重忠、熊谷次郎直実、それに、いくぶん時代が下がって太田道潅の三人であろう。
私にとっては、「坂東武士の鑑(かがみ)」と称えられた畠山重忠である。源義経の鵯(ひよどり)越えの逆(さか)落としで、椎の木を杖に愛馬「三日月」を背負って坂を下りる重忠の印象が強烈だからである。
日本の馬は、土壌や草にカルシウム分が少ないので、体躯が小さい。このため、後の日露戦争でロシアのコサック騎兵に対抗するため、秋山好古が苦労する話は、司馬遼太郎の「阪の上の雲」に詳しい。
実際、日本の野生馬を見ると、なるほど小さいので、「さもありなん」と思っていた。ところが、重忠の怪力ぶりは、事実ながら、重忠が逆落としに加わった史実はなく、後世の作り話と考えられるという。
それがなくとも、重忠の勇猛さは、源頼朝が武蔵から相模の国に入った際や奥州平泉攻めでも先陣を務め、義仲討伐では義仲との一騎打ちなどと戦功を挙げたことなどから明らかだ。頼朝の信頼も厚かった。
畠山重忠、熊谷次郎直実らの武蔵武士は、一の谷の戦では源氏の軍勢の重要な部分を占めた。一の谷の戦の後、武蔵国は頼朝の知行国となった。頼朝時代には、武歳武士は幕府の要職を占め、その体制を支えた。頼朝時代は武蔵武士の全盛時代だった。
重忠は音曲にも堪能で、鶴岡八幡宮で静御前が舞を披露した際、現在のシンバルに似た銅拍子で伴奏したことでも知られる。
ところが、北条時政の時代になって、武蔵武士の運命は暗転する。時政は頼朝に近く、現在の比企郡を支配していた比企能員(よしかず)を、自邸に招いて謀殺、比企氏一族を皆殺しにした。能員は、頼朝の後を継いだ頼家の庇護者だった。頼家は修善寺に幽閉され殺された。
能員は、頼朝の乳母の一人だった比企尼(ひきのあま)の甥で養子だった縁で、頼朝に重用された。比企尼は頼朝が旗揚げするまで、生活を支援した。能員の妻も頼家の乳母だった。能員の娘は頼家の長男を生み、能員は外祖父として権勢を振るった。
このような関係で、比企氏は北条氏を上回る権力を持つようになり、時政が危機感を持ったのが、比企氏の滅亡につながった。
畠山重忠も時政による頼朝派の御家人つぶしの犠牲者だった。きっかけはささいなことだった。時政の後妻牧の方の女婿だった平賀朝雅(ともまさ)の邸で開かれた酒宴で、重忠の子重保(しげやす)が朝雅と喧嘩したのである。
朝雅はこれを根に持って、「重忠父子が謀反を企てている」と牧の方を通じて時政に讒言、時政はまず重保を謀殺、ついで何も知らず鎌倉に向かっていた小人数の重忠一行に、大軍を派遣して滅ぼした。重忠42歳の時だった。
大軍を率いたのは、時政の後継者の義時。義時は後に重忠の無実を知るが、すでに後の祭り。武家政治というと聞こえはいいが、武士とは人殺し集団だということがよく分かる。
熊谷直実は出家、太田道潅は55歳で主家の家臣に入浴中に謀殺されるなど武蔵武士の典型たちの末路はいずれも哀れである。
埼玉県嵐山町には、畠山重忠が住んでいたと伝えられる館が残っている。はっきりとした証拠物は見つかっていないものの、近くの寺院から重忠の曾祖父秩父重綱の名前を書いた経筒が発見されており、この地が畠山氏の拠点だったとされている。
嵐山町の菅谷館と呼ばれるこの平山城は、総面積約13万平方mの広大さで、都幾川と槻川の合流地点を望む台地上にある。「比企城館跡群菅谷館」という名で国の史跡に指定されていて、重忠の銅像がある。
一方、畠山氏は深谷市畠山にも住んでいたとされる。同地には重忠が生まれたという畠山館跡もあり、畠山重忠公史跡公園になっていて、重忠の墓、産湯の井戸なども残り、銅像も立っている。
畠山氏は桓武平家につながる「坂東八平氏」の一つ秩父氏の一族。本来は平家なので、重忠らは頼朝の旗揚げの際に、当初は敵対した後、頼朝に帰順、忠臣となった。
埼玉県北部の熊谷は「くまがや」と読むのか、「くまがい」と読むのが正しいのか、いつも迷っている。市のホームページをのぞいてみると、ローマ字で「kumagaya」と書いてあるから、地名としては「くまがや」と読むのだろう。
埼玉県の北部の雄「熊谷市」(人口約20万)は、夏には日本で最高気温を記録したこともあり、水がおいしいことで知られる。
自分の息子と同じ年頃の平家の若き公達平敦盛の首を討ち、出家した武人、熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね)は、熊谷の人たちも埼玉県人も、この地で生まれ、この地で死んだと思っている。墓所は熊谷市仲町の「熊谷寺(ゆうこくじ)」にある。
同じラン科の熊谷草も敦盛草も私の好きな花だ。もちろん「青葉の笛」もふと曲が浮かんでくるほど好きな歌である。
一の谷の 軍敗れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
JR熊谷駅前には「永崎の平和記念像」を創った彫刻家北村西望氏による騎馬像が立っている。熊谷市は直実のまちなのだ。
熊谷市立図書館が「郷土の雄 熊谷次郎直実」という本を出したという新聞記事を見て、さっそくいつものとおり、行きつけのさいたま市中央図書館に頼んで取り寄せてもらった。(写真)
立派な本である。編集後記によると、この図書館が直実物を出すのは四冊目とあるからなるほどと思う。そこで、かねて抱いていた疑問を電話で担当者に聞いてみた。「名前は“くまがい“読むようですが、なぜ地名と読み方が違うのですか。地名が名前になるのが普通のようですが」。
「熊谷と読む時と、熊谷次郎直実と名前を続けて読む時の読み癖の問題ではないでしょうか」との返事だった。音韻学には詳しくないが、「KUMAGAYA JIROU」よりも「KUMAGAI JIROU」の方が、確かに読みやすそうだ。
武士としては源頼朝に「日本一の剛の者」、あるいは「本朝無双の勇士」、出家して「蓮生(れんしょう、れんせいとも)法師」となってからは、師の法然上人に「坂東の阿弥陀仏」と言わしめた直実は、全国各地に寺を開き、「熊谷(くまがい)さん」として親しまれている。
武士時代の直実は、平治の乱では源義朝に従ったが、1180年の源頼朝挙兵当初は、多くの武蔵武士同様、平家方として参戦した。石橋山の戦いで、逃げる途中の頼朝を直実が助けたとされ、頼朝との深い関係が生まれた。
頼朝が勢力を盛り返すと、直実らは頼朝に帰順した。武士は強い方につくのである。
当時、「一所懸命」という言葉があった。「一か所の領地を命をかけて守る」という意味である。戦功の報酬は土地だった。直実も自分の領地を守り、さらに増やすため命をかけて戦った小武士の一人だった。
一の谷の戦いでは、須磨口へ進み、息子直家とともに平家の陣に先陣の名乗りをあげた。直家は左腕を射られたが、直実は息子をいたわりながら戦ったという。
出家した直接の理由は、鎌倉で開かれた流鏑馬(やぶさめ)で、射手でなく、的を立てる役を命じられ、頼朝と対立、領地の一部を没収されたのに立腹したのと、長年、直実を養育してくれた母方の義理の叔父との地元の領地争いで、頼朝の面前で意見を述べたのに、直実の意見が入れられなかったためともいわれる。
法然上人の弟子になり、法師になった後も、京都から熊谷に帰る際、浄土宗の教えである「不背西方(西方浄土のある西方には背中を向けない)」の教えを頑なにまもり、馬の背に鞍を逆さまに乗せて向かったという「東行逆馬(とうこうぎゃくば)」の逸話は、いかにも直情径行の直実らしくて面白い。
NHKの12年の大河ドラマ「平清盛」をご覧になった方は、平安時代の後期に平家とか源氏とかの武士が台頭、保元の乱、平治の乱を経て、平清盛が権勢を握るに至る過程をご承知のことだろう。
保元の乱で崇徳上皇側について敗れた源氏の源為義、子の為朝(ためとも 鎮西八郎)、この乱では平清盛と組んで、父や弟を敵に回した為義の子で、為朝の兄の源義朝(よしとも)の名も覚えておられよう。
義朝は、3年後の平治の乱では、平清盛の失脚を狙い、破れて長男義平(悪源太)とともに殺される。
その義朝の遺児が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝(三男)、後に頼朝に殺される異母弟の範頼(のりより 六男)、義経(九男)である。
まるで歴史のおさらいのようで申し訳ない。
「ふれあい鴻巣ウオーキング」のCコースを歩いていて、この源氏の面々の祖と範頼の旧跡があるのを初めて見て驚いた。
鴻巣市と比企郡吉見町は源氏の故郷なのだというのだから。
まずお目にかかったのが、「伝・源経基(つねもと)館跡」である。源経基とは何者か。
この館跡は、埼玉県指定史跡になっている。立て看板の説明によると
経基は、(平安時代初期9世紀後半の)清和天皇の皇子貞純親王の第六子で、弓馬の道に長じ、武勇をもって知られた。(臣籍降下で)源姓を賜って、「源朝臣(あそみ)」と称した。938(天慶元)年、武蔵介(むさしのすけ 後に武蔵守=むさしのかみ)となって、関東に下り、この地に館を構えた。
とある。清和天皇の孫というわけだ。
「城山」と呼ばれる山林で、森林公園になっている。発掘調査でも経基の館だという証拠は見つかっていない。
帰ってから調べてみると、「清和源氏」の中で、経基の子孫の系統が最も栄えた。ここに出てくる源氏の名は、いずれも経基の系統である。
Cコースの折り返し点は、吉見観音(安楽寺)。上る階段の脇に「蒲冠者(かばのかじゃ) 源範頼旧蹟」の石柱がある。
上ると立派な三重塔が立っていた。説明書には、「鎌倉時代、範頼は約18mの三重大塔と約45m四面の大講堂を建設した」とあった。
近くに範頼の館跡だと伝えられる「息障院(そくしょういん)」(写真)もある。この地には今でも、大字に「御所」という地名が残っている。
範頼は確か、義経とともに平家を滅ぼした後、頼朝に謀反の疑いをかけられ、伊豆の修善寺に幽閉されて殺されたはずではなかったか。
だが、吉見町のホームページなどによると、平治の乱で、一命を助けられた頼朝が伊豆に流され、義経が京都の鞍馬の寺に預けられた際、範頼は安楽寺に身を隠して、この地の豪族・比企氏の庇護を受けて成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館の周辺を御所と呼ぶようになった、と書かれている。
範頼の子孫は五代にわたってこの館に住んでいて、「吉見氏」を名乗った。
範頼については不明なことが多く、吉身町の東側の北本市には、「範頼は生き延びて、北本市石戸(いしと)宿で没した」という説もある。
石戸の東光寺には、大正時代に日本五大桜の一つとされた天然記念物に指定された「蒲ザクラ」の一部が残っている。お手植えのサクラで樹齢8百年。根元にある石塔は、範頼の墓と伝えられる。
埼玉県内には、このような源氏ゆかりの旧跡がいくつかある。