ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

利根大堰 行田市

2013年10月23日 17時03分13秒 | 川・水・見沼

利根大堰 行田市

湖沼などを入れると、滋賀県、茨城県、大阪府に及ばないものの、県土の中で河川が占める面積が3.9%と、埼玉県は川の占める面積が日本一と「川の県」である。


河川面積が広いのは、流域面積が日本一で、延長322kmと信濃川に次ぐ利根川が県北と県東の県境を流れ、埼玉県の「母なる川」荒川が貫通していて、その支流が数多くあるからだ。

流域面積とは、念のため、「河川の四囲にある分水界によって囲まれ、降水が川に集まる区域(広辞苑)」だから、河川面積とは違う。

県民には利根川より荒川の方がなじみが深い。私は若い頃、群馬県で仕事をしたこともあるので、利根川にも愛着があって、河川からの日本最大の取水量を持つ「利根大堰」にも興味を抱いてきた。

近くまで何度も接近しながら、行きそびれていたので、羽生市に出かけたのを機に、13年の夏の終わり、初めてこの大堰を訪ねた。

利根川と荒川は今も深く結びついていて、昔は荒川が利根川の支流だったこともあったことも分かって、二つの川への親しみが一層深まった。

利根大堰は、埼玉側は行田市、群馬側は邑楽郡千代田町にある。河口から154km、利根川のほぼ中間に位置する。全長692m、可動式のゲートが12門あり、サケなどが遡上する魚道が3基。約700mの「武蔵大橋」がかかっていて、両県を結ぶ県道が走る。

大堰の上流右岸に取水口が接していて、沈砂池を経て、江戸時代から300年の歴史がある農業用水「見沼代用水路」、「武蔵水路」、葛西用水などにつながる農業用水「埼玉用水路」、川底を潜って群馬県側へ導水する農業用水「邑楽用水路」、行田浄水場へつながる「行田水路」と5つの水路に送水する。

60億立方mを超す利根川の年間流出量のうち、約30%約20億立方mをここで取水する。その量が日本一なのだ。取水された水は、埼玉県と東京都の計約1300万人の水道水や両都県の約2万3300haの農業用水、隅田川の浄化用水などに使われている。

利根川には江戸時代につくられた8か所の取水口があった。都内からの需要も合わせて取水口を統合し、1か所から各地に水を送ることにした。2年半を超す工事を経て、68年4月に大堰からの取水が始まった。最大で毎秒134立方mの取水ができる。

運用から50年たった18年4月3日で累計取水量は900億立方mに達したという。琵琶湖の3.3杯になる。

私が最も興味を魅かれたのは、「武蔵水路」である。行田市から鴻巣市糠田の荒川まで14.5km、農業用水ではなく、水道水など都市用水を送っている。この水路で利根川と荒川が直接結びついているのである。

東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。埼玉県民の水道はてっきり荒川の水に頼っていると思っていた。さにあらず、大半は利根川というから驚きだ。

武蔵水路で荒川に入った水は、埼玉県用はさいたま市の大久保浄水場、東京都民用は、ちょっと下流の秋ケ瀬取水堰の上流で取水され、東京都の朝霞浄水場などを経て都内へ送られる。

「坂東太郎」の別名がある利根川は今、千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。

太平洋に向かったのは、江戸時代に行われ利根川東遷事業の結果である。それ以前は、埼玉県内では埼玉県内では荒川は利根川の支流で、利根川は東京湾に流れ込んでいた。

洪水防止と舟運のため利根川と荒川を切り離し、利根川を東に、荒川は西に移動させる大工事で、県内に「古利根川」「大落古利根川」とか「元荒川」などの名が残っているのは、そのためである。

武蔵水路は切り離された二つの川を、首都圏の水需要に応えるため再び結びつけたわけで、利根大堰から武蔵水路へ流れていく水を眺めていると、ある種の感慨を覚える。

完成したのが1967年で、老朽化し通水能力が3割方低下し、耐震性が不足しているので、通水しながら改築が進められている。


笑う埴輪 本庄市

2013年10月16日 18時10分57秒 | 博物館



古墳と言えば、ヤマト王権の所在地大和地方や宮崎県などが頭に浮かぶ。ところが、古墳時代後期には、鴻巣市東裏の生出塚(おいねづか)遺跡に東日本最大級、国内でも屈指の埴輪生産遺跡が発見されているとおり、古墳の中心地は東日本だったようだ。

県北の本庄市では、かつて2百基近くの古墳があったというから、古墳の付属品である埴輪の出土も多い。

その中でも1999年に古墳時代後期(6世紀後半)の「前の山古墳」(同市小島、現在は消滅)から出土した「笑う埴輪」3基は、12年にパリの日本文化会館で開かれた「笑いの日本美術史 縄文から19世紀まで」展に出品され、全国的な話題になった。

この展覧会は07年、「東京の森美術館」で開かれ、30万人が訪れた「日本美術が笑う」展を基にしたものだった。

13年8月末、久しぶりに本庄市を訪ねた帰りに、市立歴史民俗資料館を訪ねたら、この3基を中心とする笑う埴輪にお目にかかれた。

身長110cmを超すこの埴輪は、いずれも身体の前面に盾を抱えているので、「盾持人物埴輪」と呼ばれる。埴輪には人物のほかに、動物、家、家具などを象ったものもあれば、人物でも、力士、貴人、琴弾きなど多種多様の形のものがある。

盾持埴輪は、普通の埴輪の二倍の大きさ。盾で悪霊を古墳から守るため、顔は他の人物埴輪より大きく造られ、威圧的な風貌のものが多いという。大きくて恐い顔をしているのが普通なのだ。

3基の盾持埴輪で見て驚くのは、①丸い両耳が大きく突き出している②鷲鼻が突き出している③顎がしゃくれているーーことである。

それに、三日月型の目の目尻が垂れ、口が横に長く大きく開き、まるで笑っているような印象を与えるのだ。目尻が下がり、口角がちょっと上がっているからだ。

盾に隠されているので、腕や手は見えない。脚も円筒状になっているので無い。埴輪は、目はくり抜いてつくるので、瞳がない。これは世界的にも珍しい目の表現方法だという。

埴輪にはもともと歯が表現されないのに、どういうわけか、この3基には石などで歯を表現した跡があるらしい。本庄市の坊主山古墳や高崎市で出土した埴輪にも歯があるが、全国でも珍しいという。

「歯をむいて笑う」姿を表したのかなと思った。資料館でもらった「笑っている埴輪たち、集合」の図を見ると、歯はあっても笑っていない埴輪(高崎市)もある。

笑っているような埴輪は、盾持ちではないものの、群馬県太田市、茨城県高萩市でも出土している。

本庄市ではこの3基のほか、坊主山古墳の前述の歯付き埴輪、山ノ神古墳の埴輪(いずれも盾持ちではない)も明らかに笑っているようだ。

「全国的に本庄市内に最も集中している。本庄市は笑う埴輪の里だ」と、市立民俗資料館の館長を務めていた増田一裕氏は、本庄市のはにわ展の解説で書いている。この原稿の多くは、その解説によるところが多い。

本当は恐い顔のはずの埴輪が、なぜ笑っているのか、

思いつきながら、「笑う」には、面白、おかしいから笑うという以外に、「馬鹿にして笑う(嘲笑する)」という意味もある。「笑殺(笑って問題にしない)」とか「一笑に付す」「笑い飛ばす」という言葉もある。

古墳に忍び寄る悪霊など、恐い顔ではなく、「笑いの力で打ち払ってしまえ」という願いが込められているのかもしれない。

慣習を打ち破った、当時の前衛的な埴輪造りに聞いてみたいものである。1400年の時を経て、この謎への回答が迫られているような気がする。

「笑う埴輪」は、埴輪の「はに」、本庄市の「ほん」を取った本庄市のマスコット・キャラクターの「はにぽん」のモデルになり、市民にも親しまれている。

県内では1930(昭和5)年、熊谷市の野原古墳群から「踊る埴輪(男女立像)」が出土している。

左手を上げたポーズから「踊る埴輪」が定説になっていたが、最近、「馬子が馬を曳いている姿」説が有力になっているという。

本物は、重要文化財として東京国立博物館に展示されている。地元の県道深谷・東松山線にかかる押切橋南の小さな公園には「踊る埴輪」のレプリカが立ち、親しまれている。


自転車王国 

2013年10月16日 13時35分24秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング

 

会社通いを止め、家にいることが多くなったおかげで、これまで見向きもしなかった県や市の広報誌までたんねんに目を通すようになった。月刊の埼玉県の広報紙「彩の国だより」は、取り上げる記事の選択も編集もなかなかのもので、面白い。

その二面の「知事コラム」に「埼玉県は自転車王国と言える県かもしれません」という書き出しの小文が掲載されている。「保有台数は543万6千台で、東京都、大阪府に次いで第3位、保有率では1.3人につき1台で第1位。出荷額は第2位。自転車が一番活用されている県と言える」というのがその骨子だ。(出荷台数は第一位、上尾市には大手メーカーの「ブリジストンサイクル」がある)

理由として、平地面積の占める割合が茨城県に次いで多いこと、通勤、通学の足としての利用が多いことを挙げている。忘れちゃならないのは、埼玉県は過去十年間の快晴日数が日本一。サイクリングにはぴったりだ。

11年1月4日の毎日新聞によると、1世帯当たりの自転車購入額は、都道府県庁所在市や政令都市の中で、さいたま市が1万23円と全国トップとのこと。

私も自転車党なので思わず快哉を叫んだ。自転車党と言っても、だらしのない飲兵衛だったから、車を運転すると危険この上ないし、おまけに運動神経が鈍いので若いころから車を遠ざけているだけのことだが、自転車の記事には自然に目が行くようになっている。

10年2月1日の読売新聞埼玉版には、埼玉県が「ぐるっと埼玉サイクルネットワーク構想」を作成、現在約300kmの自転車道と自転車・歩行者専用道を総延長約700kmに延長するとトップで報じられていた。

県内には川沿いに「荒川自転車道」と「利根川・江戸川自転車道」の二つの大規模自転車道があるが、これに支線や連絡路を整備、観光振興や通勤の後押しを狙うという。

国道や県道の植樹帯や歩道の一部を自転車道に転用し、拡幅や新規着工は最低限りに抑え、「それほど予算はかからない」よし。沿道の風景や各地のB級グルメを楽しむ市民サイクリング大会の開催なども計画しているとかで実現が楽しみだ。

「利根川・江戸川自転車道」は、二つの川の堤防を利用した、東京都江戸川区の旧江戸川河口から群馬県渋川市の吾妻川公園までの約170kmを結ぶ自転車道(このうち約88kmは埼玉県内)。河口から約80km上流の久喜・加須市境付近から約7.5kmは未舗装だったのが11年6月1日に完成した。

日本一長いサイクリングロードになり、渋川市から東京ディズニーリゾートまでがほぼ自転車専用道で結ばれる(一部市道)。東京からのサイクリストが熊谷方面へ乗り入れることも可能になる。

良いことばかりではない。県内では自転車に乗った人がけがする交通事故が毎年6千件以上発生、ここ数年12~29人が死亡していると、同じ日の毎日新聞にあった。10年の自転車事故の死傷者数は全国ワースト3位だった。13年の死者数は全国ワースト2位だった。

知らなかったが、13歳未満か70歳以上の人は歩道を走れるが、車道寄りを徐行する義務があるとか。


自転車のルーツ 本庄市の「陸船車」

2013年10月14日 18時38分19秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング

「自転車のルーツは本庄市にある」という話は、何度も読んでいたので、一度実物を見てみたいものだと思っていた。

本庄市立歴史民俗資料館に足を運んでみても、設計図だけで、昔展示していたという縮尺模型にもお目にかかれなかった。

こんな折り、さいたま市大宮区の県立歴史と民俗の博物館で、13年10月から1か月余、「埼玉じてんしゃ物語」という特集展示があり、「世界最古の自転車」といわれる「陸船車」の実物大模型が展示されているというので、さっそく見に出かけた。

この実物模型は、本庄市のまちづくり活動を進めているグループ「本庄まちNET」が11年11月に復元したものだ。

第一印象は、「陸船車」の名のとおり、自転車というより小さな船、小型ボートといった感じだ。車は二つではなく四つある。

サドルらしいものもなく、小さな柱が二本、歯車をかみ合わせた踏み木の前に立っているがどうして運転したのか。ハンドルらしきものもないので、どうして方向変換したのだろう、とまず思う。金属はどこにもなく、全部木製だ。

この「陸船車」は、1729(享保14)年以前に、現在の本庄市北堀で代々組頭を務めていた庄田門弥が発明した。後世「からくり門弥」と呼ばれたというから、木工製品つくりに長けた人だったのだろう。

当時の8代将軍吉宗も「千里車」と呼ばれたこの車に興味を持ち、献上させたという。

08年にこの「陸船車」に関する論文を書いて、脚光を浴びさせたのは、本庄市立資料館の館長を努めていた増田一裕氏である。

この論文は、市の文化財保護課で入手できる。読んでみると、「自転車とは何か」、つまり「自転車の定義」という難問に突き当たる。

氏は、自転車は「足を完全に地面から離したまま、人力を車輪に伝達して走行できる」ことが前提なので、「陸船車」はその定義に該当、自転車の範疇で理解することが可能だとしている。

広辞苑は別な定義で、自転車は、「乗った人がペダルを踏み、車輪を回転して走らせる車」としている。

残念ながらこの発明は、現代の自転車に至る系列にはならず、技術が断絶していて、興行用のからくり(製品)に変化しているので、氏は、厳密に言えば

門弥式陸船車は、「機能上、世界最古の自転車だ」という結論に達している。

この論文では、現代につながる世界最古の自転車は、フランスのピエール・ミショーが1861年以降に考案・制作、量産化した「ミショー型」だとしている。

前後二輪で、方向転換のハンドルが改善され、動力伝達のためのクランクペダル、ブレーキ装置がついている。「両足が完全に地上から離れたまま動かせる構造」になっているのはもちろんだ。

「陸船車」とは何の関係もないが、ざっと130年も後のことである。

「陸船車」」は復元後、実際に走らせて見たところ、座って小柱につかまり、踏み木を交互に踏んで、前輪駆動で走らせたと分かった。7歳の女の子でも動かせたという。機能だけでなく、見た目も自転車をこいでいるよう。

「陸船車」に触発されて、享保年間これを改造した“自転車”が二種類造られた。一つは「竹田からくり(芝居)」の興行用で、もう一つは彦根藩士平石久平次の三輪車。久平次のはペダル、ハンドル状の機構を持っていた。

なぜこのような「陸船車」が先導した、ヨーロッパに先立つ日本の技術が継承されなかったのか。

当時の日本の道路の路面状態の悪さに加え、1721年に幕府が発明を禁じ、藩の新技術を押さえ込む「新規御法度令」を出していたことを、理由に挙げる人もいる。