“サツマイモの女王”と呼ばれた「紅赤」というサツマイモ (写真)を食べたことがありますか。
サツマイモと言えば川越が有名。ところが、この紅赤は、旧浦和市(現・さいたま市)で見つかった突然変異種。見た目がきれいで、美味なので、明治中期から昭和の初め頃まで東日本を制覇した。約JR北浦和駅に近い17号線に面する廓信寺の入り口に、「紅赤発祥の地」の立て札と看板(写真)が立っている。その前に北浦和図書館があることから、この図書館では紅赤を始めとするサツマイモの本や資料を集めている。地域図書館の一つの生き方だろう。
その北浦和図書館で10年12月、「第2回・紅赤ふれあいまつり」との名で、「紅赤復活! ~さいたまは紅赤のふるさと」という映画と講演、「埼玉のサツマイモ『紅赤』と山田いち」展が開かれるというので、さっそく出かけた。
開会に先立ち、図書館の二階で、サツマイモの権威である井上浩先生とお会いした。川越サツマイモ資料館の館長時代からの知り合いで、サツマイモの生き字引。「川越いも友の会」のメンバーで、サツマイモに関する著作も多い。映画でももちろん、登場された。この人を抜いてサツマイモのことは語れない。
この紅赤を発見したのが山田いちさん。サツマイモづくりの名人で、この人の努力がなければ紅赤が世に出ることはなかった。詳しいことは、「紅赤ものがたり」(青木雅子著 ケヤキ社)を読んでほしい。感動的な話である。
サツマイモの歴史をひもとくと、最も有名な青木昆陽を筆頭に、出てくるのは男性ばかり。なぜ女性のいちさんが登場するのか。早く畳職の父を失ったいちさんは長女だったから婿をとった。婿も廓信寺の畳替えなどを請け負うほどの腕利きの畳職人だった。いちさんは、自分の畑でサツマイモづくりが好きだった。
いちさんは、おいしいと評判の「八つ房」という名の種イモを近所の名人から拝み倒して手に入れ、植えてみた。3年目の1898(明治31)年に皮は赤く、身は黄色で、ホッコリとして甘く、熱の通りが早く、舌にとろけるようにうまいのが、見つかった。突然変異のたまもの。高値を呼んで紅赤が誕生した。
紅赤の普及に貢献したのはおいの吉岡三喜蔵だ。さつまいも栽培にかけてはいちさんに負けないほど詳しかった。この新しい芋に会い、種苗農家の家系を活かした。「あかイモ」と呼ばれていたのを、口紅の紅にあやかって「紅赤」と命名、種苗を売りに売った。
皮の色が鮮やかな紅で、身は黄金色。ホクホクとした食感と上品な甘さが特徴。油と相性がよく、大学いもや天ぷらにして食べられた。「きんとんが最高」という人もいる。
見た目がすばらしく、美味しいので、注文が殺到、大正から昭和の初めにかけて埼玉のサツマイモの9割、全国の生産高の約7割は紅赤だった。西日本の白いサツマイモ「源氏」をしのいだ。「紅赤」の埼玉の主産地は、江戸時代からのサツマイモの産地、川越だった。
いちさんは、1931(昭和6)年、紅赤の発見で毎日新聞が主唱する富民協会の第一回「富民賞」の5人の受賞者の一人に選ばれた。女性はいちさん一人。この時68歳、紅赤の発見から33年経っていた。
「女王」は気難しい。栽培が難しいのだ。土質を選び、肥料の加減が大変。蔓が伸びるのが遅いので生育が遅く、収穫量も少なく貯蔵も難しい。「幻のサツマイモ」になっていった。18年の栽培面積は三芳町が約4ha、川越、さいたま市で約0.5haずつ、生産量見込みは計約100tと少ない。
最近では、作りやすくて、収穫量も多く、味もいい「紅あずま」などに取って変わられ、県内で栽培農家は非常に少なくなった。しかしその味の良さ。天ぷらやきんとん、和菓子には欠かせないと紅赤にこだわる人もいる。
18年は、紅赤が浦和で発見されてから120年経ったのを記念して、川越のサツマイモ商品振興会、川越いも友の会、川越いも研究会、三芳町いも振興会の4団体は、120年にちなんで12月1日を「紅赤いもの日」と定めることを決めた。
記念日を制定した8月30日には、現在の川越市にはサツマイモ関連のいも菓子やいも料理など約260種の商品があることなどを理由に、「川越地方のサツマイモ商品文化は世界一」という宣言も出した。
浦和のうなぎはてっきり、浦和の「う」とうなぎの「う」が頭韻を踏んだごろ合わせに過ぎないと思っていた。
しかし、暇になって地元のイベントなどに顔を出しているうち、「浦和のウナギを育てる会」の幟をよく見かける。もらったチラシなどを読んでみると、けっこう歴史も由緒もあることがだんだん分かってきた。
10年5月29日の土曜日、「さいたま市浦和うなぎまつり」が市役所前広場や駐車場で開かれるというので、出かけてみた。今年で9回目。本命の蒲焼きや弁当には大行列。蒲焼きの香りを鼻にしながら寿司商組合がつくったうなぎ寿司で我慢することにした。
寿司ならまだいい方で、うなぎヤキソバ、うなぎオニギリもあり、遠路参加した三島うなぎ横町町内会(静岡県三島市)はうなぎまんじゅう、浜名商工会(同県浜松市)はうなぎネギマ、うなぎのまち岡谷の会(長野県岡谷市)はうなだれだんごを出品していた。
うなぎ関係に限らず、浦和工場産の文明堂のカステラや舟和の芋ようかん、それに手焼きせんべいやこんにゃく、鴨川市物産交流協会はさざえの壺焼きを売っているという具合で、3万5千人のにぎわいだった。
もらったチラシの「浦和のうなぎの履歴書」によると、始まったのは1700年頃で約300年の歴史がある。
はるか昔、浦和付近は海。地勢変化で沼や湿地帯が残ったので、たくさんとれるうなぎを中山道を通る旅人に提供し、好評を得た。「蒲焼き発祥の地」と赤字で強調しているものの、確たる証拠はないようだ。現在、約30店ものうなぎ料理専門店が営業しているという。
このため、さいたま市浦和区では、“うなぎのまち浦和”を推進しようとしている。
「育てる会」のマスコットは、アンパンマンの漫画でおなじみだった故やなせたかしさん(日本漫画家協会理事長も務めた)がデザインした「浦和うなこちゃん」。
JR浦和駅の西口に小さなおにぎり頭の石像がうちわを手にして立っている。女性や子供たちに大の人気、記念撮影する人も多い。さいたま市の観光大使でもある。もちろんこの日も登場した。
やなせさんは「うなぎ小唄」と「ウナギヌラヌラソング」を作詞、作曲、歌まで吹き込む打ち込みようだった。「やなせたかしとアンパンマンコンサート」が特設舞台のフィナーレだった。
新聞で「皇女和宮降嫁150年記念前夜―切り絵とゆかりの品々でたどる旅」と題する展示が、桶川市の歴史民族史料館で開かれているのを知った。10年のことである。
出かけてみると、こんな大事(おおごと)だったのかと驚き、これまでの不明を恥じた。
桶川宿の当時の人口1444人、家数347軒、本陣1,脇本陣1,旅籠36の桶川宿に、朝廷と幕府の威信を賭けた総勢4万人とも伝えられる大行列が通過して一泊した。県内では本庄、熊谷宿に次ぐ宿で、桶川から戸田の渡しを越えて江戸・板橋宿を目指した。
日本橋から6番目の宿場で、当時の成年男子が一日に歩く平均的な距離10里(約40km)という立地の良さが、桶川宿がにぎわった理由だった。
仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の妹である和宮は、公武合体のかけ声の下、第14代将軍家茂に嫁ぐため京都から江戸に下った。1846年生まれだから下向の1861年から引くと、数えで16歳、満で15歳。今で言えば中学三年生の歳である。
江戸下向の際
惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも
と詠んだと言うのは有名な話だ。
一行の総数は、「京都方約1万、江戸方約1万5千、通し人足約4千、警護の各藩1万・・・」という記録が残っている。嫁入り道具は東海道経由の別便で一足先に送られていた。
まさに長蛇の列で、一つの宿を通りすぎるのに4日かかったという。50kmにもなり、先頭が桶川に着いたときには最後尾はまだ熊谷だったという記述も、最初は「誇張だろう」と思っていたのに、信じられるようになった。
この大行列は、中山道69次、いや江戸時代の5街道始まって以来の出来事だったと言われるゆえんである。
なぜ中山道が選ばれたのか。中山道は大きな川がなく川止めの心配がないため、「姫街道」と呼ばれたとおり、それまでも京都の姫君の幕府へのお輿(こし)入れには、利用されていた。
今度は初めての皇女なので、長い行列が旅人や外国人が多い東海道より往来の妨げにならないことに加えて、警備がしやすいのも大きな理由だった。尊皇攘夷派の和宮奪還などもうわさされたからだ。
ほかに、東海道には「薩埵(さった)峠」(静岡市)や、浜名湖の「今切(いまぎれ)の渡し」など、「さった=去った」「切れる」と、婚姻には縁起の悪い地名があったのも理由の一つとされる。
染めた撚糸(より糸)で飾った和宮を乗せた輿(こし)の前後に、警護の藩士を含めて総勢ざっと4万人。これが1861(文久元)年10月20日、京都を出発、約530kmの道のりを24泊25日の日程で、11月15日に江戸に入った。
桶川宿に泊まったのは11月13日。本陣到着は午後2時、出発は翌午前nえむ時。早暁の出で立ちである。こんなに早く起こされる和宮もさぞ眠たかったろう。これに先立ち、県内の中山道宿で最も大きかった本庄宿は11日、熊谷宿は12日の宿泊だった。和宮ももうクタクタだったに違いない。
ひたひたと津波のように近づいてくるこの大行列を前に、桶川宿は戦争のような騒ぎだった。次の板橋宿までの宿は小休止だけで、直行することになっていたからだ。桶川で全部の人馬の乗り換え、荷物の継ぎ送りをしなければならなかった。
このため板橋までの間の上尾、大宮、浦和、蕨宿の人足はすべて桶川に集められた。人足3万6450人、馬1799頭に上った。桶川宿では人馬を提供する義務のある助郷(すけごう)59村に112村が加えられ、飯能、所沢からも人足が徴発された。
人足とは馬や牛でさえ「頭」と数えられるのに、「人足」は、人間を「頭」ではなく、足を二本で一本と数える方法。人口の「口」や人手の「手」と並んで人を数える漢字の面白さである。
人馬だけではない。和宮の泊まる本陣はもちろん改装。普通の参勤交代では最大でも3千人ぐらいなので、その十倍を超す一行の夜具布団、膳や椀は他の宿場からその人数に見合うよう借用料を払って調達した。
宿泊当日には、旅籠はもちろん、商家、農家などすべての家が宿所として徴発された。
通行の前後の三日間は公用以外の通行禁止、通りに面する二階の窓は目張りして、上から見下ろしてはならない、道端で正座して迎える、寺などの鐘を鳴らすのも禁止――など細かいお触れが出た。
関係の村々や沿道の人々にとって、江戸時代を通じて最大の出来事で、その負担や苦労も最大だった。
桶川には本陣遺構(写真)がある。県内の中山道筋で残っている本物の本陣はここだけ。建坪207坪のうち、和宮が泊まった上段の間、次の間、湯殿、御用所(トイレ)が保存されている。(非公開)
上段の間では、壁に吊り具をつけ、ハンモックのように寝具を吊るして、下から槍などで襲撃されないようにしていたというから大変だ。
近くに観光協会の「中山道宿場館」がある。当時の宿場をしのぶ資料がいろいろ展示されていて、その全貌が分かる。興味があるなら訪ねるといい。館員も親切で面白い。
この歴史的大イベントを記念して桶川市では、文化の日の桶川市民まつりで中山道で「皇女和宮行列」のパレードを再現する。和宮は16歳から18歳の女性を市民から公募する。