さいたま市は、4年後の2017年、「第8回世界盆栽大会」を迎える。
1989年に開かれた第1回大会は、合併前の旧大宮市が主催、大宮ソニックシティを主会場にして、32か国から愛好家や研究者など約1200人が訪れた。さいたま市開催は2度目で28年ぶりになる。
世界盆栽友好連盟(WBFF)が設立されたのは、その時である。初代会長には、「蔓青園」3代目園主だった加藤三郎氏(故人)が選出された。加藤氏は、この大会でエゾマツの寄せ植えの剪定(せんてい)の実演を披露、拍手を浴びた。
加盟しているのは日本、インドの2か国と欧州、中国、台湾など7地区。オリンピック同様、4年ごとに開催される。
第2回は米国オーランド、第3回は韓国ソウル、第4回はドイツ・ミュンヘン、第5回は米国ワシントンDC、第6回はプエルトリコ・サンファン、13年の7回は中国金檀市で9月末に開かれた。
開催地は、理事会の各国と各地区の理事計9人の投票で決まる。第8回には12年9月、さいたま市がイタリアで開かれた理事会で誘致を表明、ついで台湾が立候補の動きを見せ、一騎打ちになりそうだった。
このため、大宮盆栽村の園主らでつくる誘致委員会の竹山浩委員長(芙蓉園2代目園主)らは豪州など海外の展示会に出かけ、プロモーションを展開、清水勇人さいたま市長も13年7月にロンドンで欧州地区理事らに支持を訴え、協力の約束を取り付けていた。
9月27日に開かれた理事会では、台湾がプレゼンテーションを辞退したので、全理事が賛成、さいたま市で2度目28年ぶりの開催が決まった。
第8回大会は、17年4月27~30日の4日間、前回同様大宮ソニックシティや大宮盆栽美術館、盆栽村など6か所が会場になる。
大宮盆栽美術館は、世界の盆栽ファンの聖地を目指す盆栽村の目玉施設として、10年に世界初の公立の盆栽美術館としてオープンした。
4日間の会期中、盆栽の剪定の様子をインターネット中継するイベントや一般展示、即売会などがあり、大会参加者1200人、約7万人の来場者と5億円を超す経済効果を見込む。
盆栽は「BONSAI」として欧州を中心に世界では人気が高まっているのに、国内では愛好者が減り、1965年設立の日本盆栽協会の会員数は、ピーク時の約1万5千人が今では約6千人に落ち込んでいる。
1923年の関東大震災で被災した東京・千駄木周辺の盆栽師が移住してできた、90年の歴史を誇る盆栽村も、戦前には30軒ほどあった盆栽園が現在6軒だけ。周辺を合わせても9軒だ。
大宮盆栽美術館の入場者数も12年度は5万人弱と人気は低迷している。
それでも樹種の多彩さと高い技術から高級盆栽として世界に知られている。経済産業省は「大宮盆栽」を「JAPANブランド育成支援事業」の一つに選び、さいたま市とともに12年度から海外展開への支援を始めた。
この海外展開に協力している東京都の盆栽関連輸出業者によると、「欧州だけで数百万、世界で1千万人を超える巨大マーケットがある」とのことで、土付き盆栽の輸出に必要な検疫体制も整った。
これまでの輸出が苗木中心だったのに、育てた盆栽そのものの輸出が可能になり、平均単価も最低10倍以上に跳ね上った。最高は何百万円もするのはご承知のとおりだ。
「大宮盆栽」の輸出は13年11月から本格的にスタートした。11月17日には盆栽村で日本貿易振興機構主催の輸出商談会が開かれた。
輸出額は2年後が1億、3年後が5億円が目標という。盆栽だけでなく、育てたり、剪定したりする技術の輸出も検討されているので、盆栽師の育成も課題になっている。
さいたま市国際観光協会は、14年3月14日から9日間、パリのルーブル美術館やオペラ座に近い雑貨店の約35平方mに盆栽4点を独自で出店、富裕層への売り込みを狙う。
さいたま市は17年を目指し、世界で活躍する盆栽の伝道師を育成するため「国際盆栽アカデミー(仮称)」の開設を目指している。
世界盆栽会議の開催は、大宮盆栽の輸出にも好影響を与えることは確実で、国内でも盆栽見直しの機運が高まることになるかもしれない。
大宮盆栽村 さいたま市盆栽町
さいたま市北区の盆栽町で毎年開かれる「大盆栽まつり」(5月3~5日)が、13年に30回を迎えた。
市民盆栽展やセリ市、盆栽、盆器、山谷草の即売会などが開かれ、愛好者でにぎわった。
「大宮盆栽村」と呼ばれるこの町の中には現在、開村当時からあり、国後島で手に入れたえぞ松で知られる「蔓青園」、著名人の来訪が多く、皇居の盆栽管理責任者を務める「九霞園」、ケヤキやカエデなどの「雑木盆栽」が多くそろっている「芙蓉園」、種類の違う植物や花木も使う「彩花盆栽」の「清香園」、庶民的な「藤樹園」、鉢の品揃えが豊富な「松涛園」の6園がある。
最盛期の1930年代には盆栽園は約30あった
江戸時代から現在の東京都文京区千駄木の団子坂、同区駒込の神明町などには、植木屋の盆栽業者が多かった。
ところが、1923(大正12)年の関東大震災で大打撃を受け、より広い土地と適した土壌(水はけのいい関東ローム層の赤土)、豊富な地下水を求めて、当時、「源太郎山」と呼ばれていたこの雑木林に白羽の矢を立て、集団移住、盆栽作りの理想郷建設を目指した。
1925(大正14)年に盆栽村が誕生した。「蔓青園」が開園したのは、この年である。白い幹が大きくうねる、推定樹齢2千年を超す真柏(しんぱく)の盆栽があるので有名。当初の盆栽園約20園のうち唯一今も続いている。
1928(昭和3)年には、盆栽業者と盆栽愛好家のための町を作るため,盆栽村組合(組合員20人)は、盆栽村に住む条件として、「盆栽を十鉢以上持つ」「二階家は建てない」「垣は生垣とする」「門戸を開放する」などの規約を決めた。
盆栽愛好家のほとんどは都内に本宅があり、盆栽村の家は別荘で、贅を凝らした造りだった。その中には、森鴎外の長男・於兎(おと)のしゃれた洋館もあった。
移住組ではなく、1929(昭和4)年開園したのが「九霞園(きゅうかえん)」。趣味が高じて盆栽師になった初代園主・村田久造は、1931(昭和6)年から,宮内庁・大道(おおみち)庭園の盆栽仕立場を手伝った。
終戦直後には,宮内省(宮内庁)の要請で,枯死寸前だった皇居内の盆栽の救済に当たった。二代目の村田勇さんも、皇居の盆栽管理の責任者を務めている。
初代は吉田茂元首相ら政界要人や,皇族・秩父宮家などの盆栽の管理・育成にも当たった。
1965(昭和40)年、「日本盆栽協会」発足で初代会長になる吉田首相は1955(昭和30)年、九霞園を訪ねたこともある。
国内で最も有名な盆栽の一つとされる吉田首相遺愛の欅(けやき)や池田首相の蝦夷松(えぞまつ)などの名品が園内に残っている。
初代は1937(昭和12)年のパリ万国博覧会に盆栽を出品、会場の最高の人気を呼んで、金大賞を受賞した。
1950(昭和27)年には日本盆栽組合(日本盆栽協同組合の前身)の組合長に就任した。
国際的にBONSAIの人気は高まり、1963(昭和38)年、西ドイツのハインリッヒ・リュプケ大統領が九霞園を訪問している。
大宮盆栽美術館
なにしろ、観光資源に乏しいさいたま市に公立では日本で初めて、いや世界で初めてという新しい施設が出来たというのだから、好奇心の塊としては出かけねばなるまい。
”生きた芸術品“盆栽を展示する「大宮盆栽美術館」である。観覧料の安値に魅せられて、10年3月28日の開館日、またママチャリに乗って出かけた。
大宮の盆栽村(通称)には何度も見物に出かけているので、勝手は分かっている。盆栽町(地名)の中ではなく、通り越してすぐの土呂町(北区)に出来ていた。
盆栽村に電車で行く場合は、東武野田線の大宮公園駅から歩くのが普通。ところが、美術館はJR宇都宮線土呂駅の方が近く、徒歩5分。大宮公園駅なら10分だ。
08年2月に閉館した栃木県下野市の高木盆栽美術館から5億円で購入した高級盆栽を中心に盆栽約120点をはじめ、盆器(鉢)、水石(鑑賞石)など660点を所蔵。屋内と屋外に、盆栽は季節に合わせて約50鉢を展示、盆栽を描いた江戸時代の歌川豊国らの浮世絵、歴史資料も見られる。
日本一とも言われる五葉松の「日暮し」(評価額約1億4千万円)も室内で見られる。めったに公開されないが、これが目玉である。一日中見ていても飽きないというので「日暮し」の銘がつけられている。
佐藤栄作、岸信介両元首相が所有し、日本盆栽協会による「貴重盆栽」認定第1号となった花梨(かりん)、大隈重信愛蔵の黒松もある。
盆栽の種類や見方が素人にも分かるように、壁に写真やイラスト入りで説明してある。館に行く通りには「日本の伝統芸術」と英語で書いたノボリがかかっているのに、「厳密に言えば盆栽が芸術として謳われるようになったのは昭和初期」という正直な記述もあって面白い。
ところで、この美術館は開館までにさまざまな話題を提供してきた。ケチの付き始めは、この盆栽を預けた地元の業者のもとで3鉢(購入時評価額計5700万円)が枯死したこと。
開館が迫ると、年間5万人が入場しても収入は約1000万円、運営費が1億2000万円ほどなので約1億円の赤字になることが大きく報道された。
開館当日には、館長に委嘱されていた大熊敏之氏(51)が突然、辞意を表明、清水勇人市長が面談してやっと撤回する騒ぎもあった。大熊館長はさいたま市在住、工芸デザイン史が専門で、富山大准教授、盆栽を美術的な観点から論ずる数少ない研究者という。
来館者は15年6月、開館以来5年3か月で30万人を突破した。16年月10月には来場40万人となった。17年度は4月に世界盆栽大会が開かれたため、前年度より27%多い9万6001人が来館、外国人は82か国・地域から前年度比37%増の6225人に上った。