ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

和同開珎その2 

2010年09月30日 16時14分13秒 | 古代 和同開珎 金錯銘鉄剣・・・


 

「和同開珎」の「日本最古の貨幣」としての名誉を奪おうとしている「冨本銭(ふほんせん)」とは、いったい何か。

「冨本銭)は、江戸時代から、その存在は知られていた。ところが、1999年、奈良国立文化財研究所は、奈良県明日香村の万葉文化館の建設に当たって飛鳥池遺跡から出土した33枚の冨本銭を分析研究した結果、「日本最古の流通貨幣である可能性が極めて高い」と発表した。

それまでは近畿地方を中心に5枚しか見つかっておらず、奈良時代に作られた「おまじない銭(厭勝銭)」ではないかとみられていた。「厭勝銭」とは、「富本」のような吉祥の文句を鋳出して、縁起物や護符にするもので、中国では漢代から、日本でも室町―江戸時代にあったという。

この33枚は不良品として破棄されたものと判断された。出土した土層が、「和同開珎」が造られた708年より前であること、追加発掘で鋳型や坩堝なども見つかり、出土した金属量から大量に鋳造された形跡が確認されたことから、「和同開珎」より古い銅貨と判定された。

もう一つ関連証拠があった。日本書紀の683年のくだりに「今より以降、銅銭を用いよ。銀銭を使うことなかれ」とあり、その後にも「鋳銭司」という記述があるのに、該当する銅銭がなく、大きな謎とされてきた。

「冨本銭」は、大きさ、形も「和同開珎」や唐の貨幣とそっくり、中央の正方形の孔の上下に「富 本」と縦に書かれている銅銭だ。孔の左右には、7つずつのボツボツ(点)が亀甲型についている。これは、「陰陽と木火土金水」の七星を表すという。

「日本最古の貨幣」の登場である。発表されると、マスコミも大々的に報道、「教科書が書き換えられる」と騒ぎ立てた。

問題は大量鋳造が確認されても、どの程度実際に流通したかである。「冨本銭」はその後、出土のニュースがほとんど伝えられず、全国的に流通したのかどうかは今後の発見に待つしかない。

それにひきかえ、「和同開珎」は全国500か所以上から出土、正倉院文書を初め、多くの文献に流通の記録があるとのこと。今のところ、「和同開珎」は、確実に広範囲に貨幣として流通した「日本最古の流通貨幣」であることは間違いないようだ。

ところで、貨幣がない場合の売買はどのように行われたのか。原始人同様の物々交換である。「和同開珎」も民衆の間で大量に全国的に流通したのではなさそうで、物々交換と併用されたようだ。

1300年前の話なので、「和同開珎」にも謎が多い。採掘された和銅の総量と、いつごろまで採掘されたのか。それを大和までどうして運んだのか。陸路か海路か。海路ならそのルートは。運ばれた銅はどこで鋳造されたのか。発見、採掘に当たったのは、帰化人なのか、日本人なのか――。現地を回りながら、さまざまな疑問が湧いてくる。

和同献上に続いて、749年には陸奥国から黄金が献上され、大仏建立を進める聖武天皇を喜ばせた。石見銀山を訪ねた際も思ったことだが、金、銀、銅・・・日本もかつては豊かな鉱物資源国だったのだなー。

和同開珎その1 秩父市黒谷

2010年09月29日 16時38分14秒 | 古代 和同開珎 金錯銘鉄剣・・・


昔、学校で習った頃は、「わどうかいほう」と読んでいたように思う。昔から論争が続いていたが、最近では「わどうかいちん」が一般的になっているようだ。おまけに、「冨本銭」とやらが大量に出土して、日本最古の通貨の地位も危うくなってきているとか。

1914年(大正3年)、秩父へ鉄道が開通、「上武鉄道唱歌」がつくられた頃には、「ここにとどまる暇あらば 和銅採掘その跡を 降りて見てこい黒谷(くろや)より」と歌われたという。

もうすっかり古く、怪しくなった知識をブラッシュアップするために、一度現地を見ようと、異常気象の猛暑が続いた10年の夏の日に秩父市の現地に出かけてみた。

まず、気になったのは「上武鉄道」、次に「和同開珎と和銅の字の違い」だった。

こういう時インターネットは便利だ。「上武鉄道」とは「秩父鉄道」の前身で、「黒谷」は「和銅黒谷」という駅名に変わったことが分かった。「和同」と「和銅」の違いは後回しにして、熊谷から秩父鉄道に乗った。

SL(蒸気機関車)も走っているのに「急行」もあって、「和銅黒谷」は急行も停まる。1400円でどこでも下車できるフリー切符があった。

「和銅黒谷」は「和同開珎」のまちである。駅のホームには「和同開珎」の大型模型があり、ホームから見える前の山(和銅山)の岩肌には、「和銅」の字が見える。駅の前には、「和銅バーベキュー」「和銅ぶどう園」、少し離れて「ゆの宿 和どう」の看板も目に入る。

秩父鉄道とほぼ平行に走る国道140号線をちょっと西に歩くと、「和銅露天掘り跡 610m」の表示がある。緩い山路に分け入るとほどなく、露天掘りの跡とされる100mを超す二条の断層面が川のように残っている。

ここにも「和同開珎」の大型模型がある。 (写真)大型というのは、「和同開珎」は一文銅貨だから、本物は円の直径が24mmしかないからだ。真ん中に約7mmの正方形の穴が開き、時計回りに「和 同 開 珎」と表記されている。

銅山には一つのイメージがある。銅は「あかがね」とも呼ぶから、「赤色」に近い色を連想する。取材に行ったことがある栃木の足尾銅山や、小さい頃、新居浜市に住んでいたので別子銅山の印象が残っているからだろう。

地名からも分かるとおり、この山も跡地も木が黒々と茂って、あまり赤さを感じさせない。長い時間が経って、色を洗い流したのだろうか。

説明板などを読んでいるうちに、「和銅」とは自然銅(にぎあかがね)のこと。自然銅とは精錬の必要がない純粋な銅のことだ。1302年前、平城京遷都(710年)直前の708年(慶雲5年)、武蔵国秩父郡から和銅が献上され、喜んだ朝廷が、「慶雲5年」を「和銅1年」と改元したことも分かってきた。

「にぎあかがね」とは、「熟していて柔らかく、割合簡単に鋳造できる純度の高い銅」といった意味。「和同」は、年号とは別に、中国の「天地和同」とか「万物和同」などのめでたい言葉にちなんで、「和同開珎」の名がついたとのことである。

日本の年号が変わるほどの慶事が武蔵国で起きたのは、もちろん歴史を通じてこの一度だけである。

跡地からの帰途、和銅元年に創建されたという由緒ある村社「聖(ひじり)神社」に立ち寄った。村社の名が懐かしい。当時の元明天皇から賜った和銅製の百足(むかで)の雌雄1対と和銅原石2個が御神体として残されている。

昔から「銭神様」「お金儲けの縁起の神様」として知られる。金には縁のない身だが、猛暑の中わざわざ訪ねたのだから、何かご利益でもあるだろうか。

日本一の板碑(いたび) 長瀞町

2010年09月27日 17時26分49秒 | 中世
日本一の板碑(いたび) 長瀞町

「板碑(いたび)」と言っても、見たことも聞いいたこともない人が多いに違いない。何年前のことだったか、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」(さいたま市・大宮公園)を訪ねた際に初めて目にした。読み方はもちろん、何なのかも分からないままに、それが林立する姿に異様な感銘を受けたことだけを記憶している。

「県立嵐山史跡の博物館」(嵐山)で板碑の企画展があり、見に行ったこともあって、ようやく輪郭がつかめてきた。

「板石塔婆(いたいしとうば)」とも呼ばれる。中世、武蔵武士の活躍していた時代のもので、「石塔」の名は墓標を連想させる。

墓石ではなく、故人の供養などのために造立された。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代(14世紀)にピークを迎え、戦国末期まで。「中世に始まり中世に終わる」と言われる石像遺物である。

全国各地で造られたが、埼玉県は質量ともに日本一、“板碑のふるさと”とされる。埼玉の文化遺産の“華”、埼玉中世史の“核”と言えると書いている人もいる。

県の教育委員会は1975(昭和50)年から5年がかりで県内の全調査を実施、2万基を超す板碑を確認、報告書にまとめられた。日本最古や日本最大、最小のものも含まれている。

埼玉県にこんなに多いのは、原材になる緑泥片岩(りょくでい・へんがん・秩父青石)の原産地が小川町や長瀞町にあったためである。緑泥片岩は、ノミを使うと板状に割れ、扁平で文字などを刻みやすかったという。

板碑には中心部に、古代インド文字である梵字を使った本尊、供養年月日、供養内容、被供養者名のほか、偈(げ 仏教の教えを述べる4句からなる詩)が刻まれていることが多い。本尊のほとんどは阿弥陀如来で、武士の間で阿弥陀信仰が強かったことがうかがわれる。

板碑の一般的な大きさは、高さ60~70cmから1mほど。緑泥片岩の主産地でもある秩父の長瀞町野上下郷(のがみしもごう)に高さ日本一の板碑があるというので、10年の秋の彼岸に出かけてみた。

秩父鉄道の樋口駅から東へ国道140号線沿いに約600mのところにある。車がひんぱんに通るので、山側の峠道を選んだほうが安全だ。台上からの高さが5m37cmもある。なかなかの貫禄である。南北朝時代の1369年(応安2年)の作で、国の指定史跡になっている。

この大きな板碑には、この近くの仲山城主の13回忌に、出家した奥方と息子たちが追善供養のために立てたという記録がある。この城主は隣接する城の城主の腰元に恋慕したため、そこの城主に攻められ、討ち死にしたという。横恋慕が元でできた日本一の板碑である。

「秩父の歴史」(井上勝之助監修 郷土出版社)によると、恋慕したのは仲山城の2代目城主の阿仁和兵衛直家。梅見の宴で、山を隔てた秋山城の稀に見る美女の腰元白糸を見初め、秋山城主の体面を傷つけた。

このため戦となり、仲山城は落城、直家は矢を受けて戦死、45歳だった。これより先、奥方は夢枕に立った弥陀のお告げで、愛児とともに直家の姉の嫁ぎ先能登に逃れていて、落命を聞いて尼になった。そして13回忌に二人の子らと立てたのが、この板碑である。

浮気で死んだ亭主のために、日本一の石塔を建ててやった奥方の器量の大きさを思う。

「武蔵野」 国木田独歩

2010年09月27日 11時18分19秒 | 文化・美術・文学・音楽


久しぶりにJR三鷹駅北口の「山林に自由存す」と書いた国木田独歩の石碑を訪ねた。(写真)「実篤」とあるから武者小路実篤の書だと初めて知った。

三鷹には何度も来たのに、この碑のことを突然思い出したのは、最近、国木田独歩に関する講演を聞いたからだ。それと、たまたま仲間と、野川沿いから東京天文台、深大寺をたどる道を歩き、名物のそばを食べた後、バスで三鷹駅に出たからである。

実に久しぶりだ。大学に入学して、野田宇太郎の「東京文学散歩」を手にして初めて訪ねたのが、この碑だった。もう半世紀以上前になる。

高校時代、受験勉強の合間に独歩はほとんど読んだ。高校生にも分かりやすいのと、「いつも驚きたい」という独歩の生き方に惹かれたたからだった。

埼玉県には桶川市に「さいたま文学館」がある。埼玉県で文学と言えば、すぐに思い浮かぶのは、田山花袋(群馬県館林市出身 記念館がある)の「田舎教師」ぐらいだが、ここでは少しでもゆかりのある人の作品をせっせと集めている。

この文学館で毎年度、「埼玉文学講座」をやっている。「読んでおきたい埼玉ゆかりの名作」の中の一編に独歩の「武蔵野」が入っており、10年9月初め、研究家の国士舘大学文学部の中島礼子教授が話をするというので喜んで出かけた。

専門家だけに、調べ尽くしてあり、話も講談のように面白かった。独歩の最初の妻「信子」が、離婚して、米国に渡る際、有島武郎の「ある女」のモデルになったという話は、文壇事情にうとい私には、驚きであると同時にいたって興味をそそられた。お読みになった方はよくお分かりのとおり、”進んだ女性“だったようだ。

「独歩」の号は「散歩」好きからきたというのは、言われてみれば当然ながら、初めて聞くと面白かった。

なぜ私が「武蔵野」に関心があるのか。武蔵の国、そのありかの武蔵野とはどんなところだったのかを知りたいからだ。

武蔵野は、古典文学では万葉集、伊勢物語、更級日記などにも顔を出している。更級には「蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末、見えぬまで高く生ひしげりて・・・」とあり、いくぶん当時のイメージが湧いてくる。

それでは、独歩の武蔵野とは――。中島教授の資料によると、「武蔵野」は、1898(明治31)年、「今の武蔵野」というタイトルで「国民之友」に発表され、1901年に「武蔵野」と改題された。

「今の武蔵野」を執筆したのは、「信子」と離婚した後、現在のNHK放送センター付近に住んでいた1897年頃。つまり明治中期の武蔵野なのである。独歩の「武蔵野の碑」は、独歩が散歩した東京都武蔵野市の玉川上水の桜橋のたもとにある。直接、埼玉県と関係はないのである。

「武蔵野」は、「『武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡(いるまごうり)に残れり』と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある」という書き出しで始まる。入間郡は、埼玉県にあり、入間郡、入間市としてその名を残している。狭山茶の産地として有名だ。

ちょっと読み進むと、「昔の武蔵野は萱(かや)原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜(よ)い」とある。昔は原だったが、今は林に変わっているというのだ。

独歩の描いた武蔵野は、人の手が入った平地林、野(畑)、路(みち)、農家など生活と自然が密接に入り組んだ生活の場としての東京の郊外だった、と教授は強調する。落葉樹からなる平地林は、堆肥や薪炭を供給し、防風林としての役割も果たしていた。

その美(詩趣)を独歩は、ツルゲーネフの「猟人日記」(二葉亭四迷訳)を通じて発見したのだった。今、独歩の足跡をたどっても、急激な都市化のあげく、その俤は一部の公園などを除けば、ほとんど残っていない。

武蔵野は古来、変貌に変貌を重ねてきたのだ。

新田義貞ゆかりの地 所沢市

2010年09月25日 14時26分48秒 | 中世



新田義貞――。1333年(元弘3)年、鎌倉幕府を攻め、切腹やぐらで知られる鎌倉・東勝寺で将軍北条高時とその一族280人余を自害に追い込み、幕府を滅ぼした。天皇親政の「建武の中興」に道を開いた武将なのに、知名度が低い。

「太平記」には、狭くて細い「切り通し」に阻まれて鎌倉を攻めあぐねた義貞が、稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投じたところ、龍神がこれに応じて、潮が引き、砂浜を踏んで攻め込んだという逸話が残る。

 義貞の勢(せい)はアサリを踏み潰し

という有名な川柳さえあるのに、同時代に生きたライバルの足利尊氏や、戦前の教科書では尊王、忠臣で知られた楠正成にすっかりお株を奪われている感じだ。

この義貞、所沢市とはゆかりが深い。

上野国新田庄(こうずけのくに・にったのしょう=群馬県太田市)の無位無官の御家人だった義貞が5月8日に挙兵すると、文永、弘安の二度の元寇の役の論功行賞に不満を抱いていた武士たちが大挙して参集、利根川を越え、武蔵国に入った。

鎌倉街道を南下するうち、鎌倉を脱出してきた下野の御家人足利尊氏の嫡男千寿王と合流、武蔵国の御家人河越氏らの援護も得て、挙兵時には150騎だったのが、その勢20万7千騎(太平記 この数字は疑問視する向きもある)に膨れ上がっていたという。

5月11日、迎え撃つ鎌倉勢と最初に戦ったのが、所沢市の小手指ヶ原。古戦場跡には、所沢市北野の北野中学校近くの畑の中に石碑が立っている。 (写真)案内板の前に義貞が源氏の白幡を立てた「白幡塚」、近くに部下に忠誠を誓わせた小さな「誓詞橋」がある。その橋の名は国道の「誓詞橋交差点」に残っている。

その日は勝敗が決せず、一進一退、久米川(東京都東村山市)、分倍河原(同府中市)、関戸(多摩市)の合戦と続き、分倍河原で鎌倉勢は敗退する。

久米川の戦いでは、新田勢は、所沢市と東村山市にまたがる八国山に陣を張ったので、陣地跡に将軍塚(所沢市松が丘)、勢揃橋(同市久米)がある。鳩峰八幡神社(同)には「義貞の兜掛けの松」もある。

分倍河原の戦いを記念して、JR南武線と京王線の乗換の分倍河原の駅前に義貞の騎馬像があるのはご存じの方もあろう。もちろん、東武鉄道太田駅の北口駅前にもある。なにしろ挙兵からわずか二週間の早業で22日には、鎌倉幕府を滅ぼした英雄なのだから。

義貞の名前があまり知られないのは、室町幕府を築いた北朝方についた足利尊氏に対し、後醍醐天皇の建武の中興を支持する南朝方についたので、鎌倉幕府滅亡5年後に敗れて、今の福井市で戦死したからだ。30代後半だった。

歴史の表舞台に躍り出たのはわずか5年。悲運の武将だ。どこか、源義経を偲ばせる。

「どっこい、義貞は所沢では生きている」と感じたのは、山口観音を訪れた時だった。

義貞は鎌倉攻めの際、ここで戦勝祈願をしたので、その祈願文と伝えられるものが残っているほか、「義貞誓いの桜」の木と石碑や、義貞が奉納した「義貞公霊馬」もある。

「霊馬の像」には、「義貞公の白馬で、鎌倉攻めの時、供をして、山口観音で余生を送ったものです」という説明に続いて、「勝負する人に験あり」と特記してあった。

義貞は鎌倉幕府を実際に倒した武将として、小手指ケ原は、倒幕の戦いの始まりとなった古戦場として、もっと評価されるべきだ。観光資源としても十分、売り出すに値する。

群馬県の上州かるたには「歴史に名高い新田義貞」とうたわれている。

荻野吟子記念館 熊谷市

2010年09月17日 15時04分28秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
荻野吟子記念館 熊谷市

妻沼の聖天さまを拝観した後、利根川自転車道を経て、赤岩渡船まで来ると、「荻野吟子記念館」はもう目の前だ。

「荻野吟子って誰?」という人のために。一言でおさらいすると、1885(明治18)年、34歳で日本初の公認の女医になった人である。

赤岩渡船に乗っていると、親切な船頭さんから、「荻野吟子の生家の長屋門」が千代田町の乗り場近くに残っているとのパンフレットをもらった。

道しるべどおりに歩いて行くと、真言宗の古刹光恩寺があり、その右手に「生家の長屋門」(国の登録有形文化財)がある。瓦葺き、白塗りの長屋門(長屋の中央に門を開いたもの)である。光恩寺に移築されたのは、明治の頃である。その傍らの木陰に洋装の吟子像がある。

吟子の実家は、熊谷市側の対岸にあるのに、「なぜ」と聞いてみると、光恩寺の檀家は対岸にも及んでいたからではないか、とのことだった。

対岸の熊谷市側にもどり、堤防を下流にしばらく歩くと、土手の下に「記念館」が見える。記念館は、生家跡にあり、光恩寺の長屋門を模したもので、約1.5倍あって、その中に展示品がある。「生誕の地史跡公園」も隣に整備されている。(写真は記念館の銅像)

記念館の資料によると、吟子の生まれた俵瀬地区は、渡船のある葛和田との間に、利根川が増水するたびに土砂が流れ込み、俵の格好をしていた島だったので「俵島」と呼ばれていた。当時、利根川には土手もなかった。今もその名が残る。

教育熱心な父・綾三郎は俵瀬村の名主で、葛和田河岸で船問屋との農業を営んでいた。長屋門があったので「長屋んち」と呼ばれていた。屋敷の敷地は約1800坪あったというから大変な豪農だった。2男5女で、吟子は5女で第6子。

1883(明治16)年、高崎線が上野~熊谷間に開通してから、利根川の水運は衰え、1889(明治22)年、荻野家は没落、この地を去った。

40歳の吟子がキリスト教徒として知り合った13歳年下の志方之善と再婚する1年前である。

記念館には

 人その友のために 己の命を捐(す)つるは
 是より大なる愛はなし

という吟子が愛唱し続けた聖書ヨハネ伝15章13節の文句が大書されている。

熊谷市の観光パンフレットの中に「三偉人ゆかりの地を訪ねてみよう!」というのがあった。いずれも埼玉県北が生んだ人で、本庄市の塙保己一、深谷市の渋沢栄一、熊谷市の荻野吟子である。

吟子の記念館にも、女医としてだけでなく、キリスト教徒、女性解放運動の活動家としての活動をしのんで訪れる人が絶えない。

荻野吟子 日本最初の公認女医 熊谷市

2010年09月16日 12時39分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

荻野吟子 日本最初の公認女医 熊谷市  

日本女医会などのホームページによると、日本の医師国家試験合格者の中で女性は、三分の一を占めているという。ちなみに、女性医師の数は約4万5000人で、その比率は2割以下だ。(10年の時点) 出産などの事情で家庭に入ったままの人が少なくないからだ。

ところで、日本で初めて医師国家試験に合格し医師になった女性の名前をご存知の方はどれぐらいおられるだろうか。

埼玉県出身の人だから、県にゆかりのある方は、知っておられる方が多いだろう。荻野吟子――。「男女共同参画」が声高に叫ばれている時代だけに、塙保己一、渋沢栄一と並んで、埼玉の生んだ三偉人の一人に挙げられている。

埼玉の明治の初め、男性にしか許されなかった医師の国家免許を初めて獲得、女性医師の道を切り開いた吟子の人生は、苦難そのものだった。

1851年(嘉永4年)、現在の熊谷市俵瀬(当時俵瀬村)の名主の農家の五女に生まれた。地図を見ればすぐ分かるとおり、県北の中の県北で、利根川を挟んで隣は群馬県だ。

今でも葛和田の渡し場には「赤岩渡船」と呼ばれる渡し船が残っており、群馬側に黄色い旗を揚げると、熊谷側に迎えに来てくれる。

勉強好きで隣村の寺子屋や私塾で学び、17歳で隣村の素封家に嫁いだ。ところが、夫(後の足利銀行初代頭取)は遊郭で淋病に感染しており、吟子は子供を産めない身体になって2年後、実家に返された。

治療のため、東京の順天堂病院に入院したが、もちろん医師は男性ばかり。「女性医師がいれば、こんな恥ずかしい思いをしなくて済むのに」。

同じような境遇にある女性たちのためにも医師になる覚悟を決めた吟子は、親の反対を押し切って上京、まず、井上頼圀(よりくに)という漢方医で国学者の私塾に入学、塙保己一が編集した「群書類従」などの書物を学んだ。

ついで、お茶の水女子大の前身である東京女子師範の一期生になり、医学校入学のチャンスをうかがった。

1879(明治12)年、女子の入学を認めていなかった好寿院という私立医学校に唯一の女子学生として入学できた。

はかま姿に高下駄、髪型は男子と同じショートカットで通学、男子学生の嫌がらせをうけながら抜群の成績で卒業した。父親も死去していたので、家庭教師をして、学資と生活費を稼いだ。

ところが、「医術開業試験」の受験は、女性だからと拒否された。この時思い出したのが、「群書類従」の中に昔の法令の解説書である「令義解(りょうのぎげ)」があり、その中に医療制度を定めた「医疾令(いしつりょう)」に女性医師についての規定があったことだった。

「医疾令」は散失してそっくり欠けていたのを、塙保己一らが苦労して復元したものだった。

井上先生らにも内務省衛生局への働きかけを頼み、女性への受験が認められたのは1884(明治17)年。吟子はただ一人合格して、翌年、日本最初の公認女性医師となった。35歳。医師を目指して14年、上京して11年が経っていた。

東京・湯島に「産婦人科荻野医院」を開業、「女医第一号」と新聞などに書き立てられたため繁盛したが、健康保険制度もない当時、受診できない女性も多く、社会の現状を目の当たりにした。

「男女平等」の理想に共鳴して、キリスト教の洗礼を受け、「キリスト教婦人矯風会」に入り、風俗部長として婦人参政権の実現、廃娼運動、飲酒喫煙廃止運動にたずさわった。

39歳の時、13歳年下の同志社大学のキリスト教徒志方之善と結婚した。まもなく理想社会の建設をめざす夫とともに北海道に渡り、開拓を手伝い、医院を開業し、地元民の診療に当たったが、夫と死別した。

東京に戻り、本所で開業したが、晩年は生活に困るほど困窮した。1913年(大正2年)、肋膜炎を発病、養女に看取られ、脳溢血で死去した。62歳だった。

吟子のことは世間にあまり知られていなかった。医師である渡辺淳一による読売新聞の連載小説「花埋み」や、三田佳子主演の演劇「命燃えて」で脚光を浴びた。

吟子のことを調べているうち、驚いたのは、日本の公認女医第2号も、同じく県北の隣の深谷市出身だということだった。

吟子の二年後に合格した生沢クノという女性で、深谷、川越などで産婦人科を開業した。深谷の蘭医の娘として生まれ、81歳で亡くなるまで生涯独身。「おんな赤ひげ先生」と呼ばれ、治療費の代わりに数本のサツマイモを受け取ったという逸話が残っている。

クノが学んだ私立東亜医学校でも、女性は受け入れてなかったので、吟子同様、断髪男装で通った。一人別室で授業を聴講させられ、「別室先生」とあだ名された。クノが学んだ講師の一人が若き日の森鴎外だったという。クノが試験に合格したのは23歳だった。




渋沢栄一 旧渋沢庭園 東京・飛鳥山公園

2010年09月05日 17時45分28秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 旧渋沢庭園 東京・飛鳥山公園

東京都立飛鳥山公園を猛暑の盛りに訪れた.JR京浜東北線の王子駅沿いのこの公園に桜の時に来ることはあっても、真夏に来ることはまずなかった。

現役時代は通勤の通過駅だった。八代将軍吉宗が桜を植えさせ、庶民用の花見公園にしたこの公園(隅田川沿いの墨堤は武士用だった)には、上野の花見の後に近くの立ち飲み屋で「ちょっと一杯」とよく立ち寄った。

今度わざわざ来たのは、栄一のことを調べていて、彼の別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」がこの公園内にあったと知ったからである。

難しい名前だ。漢学に強い栄一らしく、中国の詩人陶淵明の詩の一節「曖々遠人村、依々墟里煙」によるものという。漢語林を見ると、「遠く人が住む村は霞み、寂れた村落の煙がぼんやり見える」という意味のようだ。

案内板によると、1879(明治2)年から、この地で亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは接待用別荘、後には本邸として使われた。

王子には、「名主の滝」などがあり、王子稲荷神社には関東一円の狐が集まり参詣したと伝えられる。落語「王子の狐」で名高いこの地は、当時は閑静で別荘向きだったのだろう。

公園の上中里駅寄りの角の敷地は約2万8000平方mの広大さで、日本館、西洋館をつないだ母屋など総建坪約1千900平方mのほか、茶室などがあった。

空襲で焼失、今では建物としては大正期の「晩香盧(ばんこうろ)」と「青淵文庫(せいえいぶんこ)」(いずれも国指定重要文化財)が残されている。

民間外交に力を入れた栄一が、インドの詩人タゴールや米国の第18代大統領グラント、中国の蒋介石などをもてなした場所である。

その庭園が無料で一般開放されている「旧渋沢庭園」である。鬱蒼と古木が茂っていて、夏の猛暑も遮り、快い風も行き交う。エアコン入らずの名所だ。

朝9時開門。私と違って、こんなことは熟知の近くの老人たちが、この涼しさとベンチや座り場を求めて、飲み物や本を手にやってくる。蚊取り線香を焚きながらで、本を読んで寝そべっている人もいて、「さすが」と恐れいった。

この地で、死ぬまで東京の養育園の面倒を見た栄一の「忠恕(ちゅうじょ)=まごころと思いやり=」の精神が、今なお生きているのをまざまざと見た。

庭園より一時間遅く開く「渋沢史料館」も素晴らしい。一階でビデオを見た後、二階に上がると、本で読んできたものの実物を見ることができる。

フランスを訪れた時のシルクハットをかぶった栄一の写真と、初めて作った株式会社「第一国立銀行」の錦絵が出迎えてくれる。

パンフレットによると、栄一は小柄で、私もこれよりちょっと大きいぐらいなので、親近感が増して来る。栄一の達筆ぶりに、いつも感心する。

関連の本も売っていて、私は、末子の渋沢秀雄著「渋沢栄一」(財団法人渋沢栄一記念財団)を買った。入門書としては一番読みやすく、面白い。これも米国仕込みの、倫理のかけらもない経済学者や財界人にも読んでほしいものだ。


渋沢栄一 世界遺産になった富岡製紙場

2010年09月04日 16時15分37秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 世界遺産になった富岡製糸場 


14年6月に群馬県富岡市の「富岡製糸場」が、世界遺産に指定された。

2年間いた群馬県も、その後半世紀以上住んでいる埼玉県も、昔は養蚕県だった。「お蚕さん」と敬称がつくのも、2階建ての家の2階に蚕を飼い、家族と共存しながら暮らしてきた歴史があるからだ。

思えば、博徒・国定忠治が賭場に出入りできたのも、明治の初め秩父事件という新政府に公然と反抗する農民の反乱が起きたのも、お蚕のためだった。

「富岡製糸場」には、現・深谷市の偉大な先人二人が関わっていたことを、この機会に振り返っておきたい。

一人は、渋沢栄一で、もう一人は、栄一のいとこ尾高惇忠(じゅんちゅう)である。

明治の新政府は出来たものの、外貨を稼ぐ手だてがない。大隈重信や伊藤博文が目をつけたのは、当時の日本お家芸だった生糸製造である。

ヨーロッパの事情を知っていた栄一に、官営製糸工場建設が一任された。生糸生産の先進国だったフランスから来ていた政府の法律顧問から、技師ポール・ブリュナを紹介され、栄一は工場建設の契約書を結んだ。

その時、頼りにしたのが惇忠である。ブリュナとともに敷地選定から現場の実務にも当たり、1872(明治5)年、製糸工場の初代場長になり、4年間1876年まで務めた。

惇忠は、栄一のいとこで、栄一の実家の深谷市の血洗島の近くの下手計(しもてばか)に住んでいた。

独学ではあったものの、漢学を修め、その名を知られた秀才だった。父親から5歳の時から学問の手ほどきを受けていた栄一は7歳から、10歳上で17歳だった惇忠の所に毎晩1、2時間通い、15歳頃まで「論語」を手始めに漢学を学んだ。

栄一の読書の幅は広く、「三国志」なども読みふけった。「この師にしてこの弟子あり」という感じだった。

後日、栄一が企業倫理を重んずる「論語資本主義者」と呼ばれるようになった基礎はこの時に培われた。

栄一は10歳上の師を、日本の資本主義の始まりとも言えるこの事業の遂行に委嘱したわけである。栄一は19歳で、惇忠の妹千代と結婚している。

明治政府は、製糸場の操業開始の見通しがついた1872(明治5)年、製糸場で働く工女の募集を始めた。

ところが、外国人技術者が飲むワインを生き血と勘違いして、「生き血を吸われる」と5か月間も応募者はゼロ。そこで、惇忠は14歳になる長女の勇(ゆう)を第1号の工女とした。勇の住む下手計(しもてばか)村から5人の少女が行動を共にした。

それでも工女は集まらず、10月4日に操業開始した時も、第1次操業に必要な400人の約半分だったという。勇はフランス人女工から手ほどきを受け、1等工女になり、17歳で富岡を去った。

翌73年1月には工女は404人になり、出身地は13府県に及んだ。地元群馬が228人、入間(埼玉県)が98人と,両県で全体の8割を占めていた。

勤務時間は、季節によっていくぶん違うが、日の出から日没30分前で、朝7時に就業、9時に30分休み、12時に昼食、1時間休み、4時半宿舎に帰るといった具合だった。

毎週日曜日は定休で、休日は夏休み10日を含め年間76日。後の民間製糸工場で見られた「女工哀史」のような労働条件ではなかった。

この工場で働いた工女たちは、全国各地の工場でその技術を伝え、紡績日本の基礎を築いた。

深谷市は来訪者が増えたことから、下手計にあるを毎日公開している。また、惇忠の生家や栄一の生家「中の家(なかんち)」の周辺を整備、観光客誘致を図る。

同市では、この二人に製紙場の赤れんがを作った韮塚直次郎をくわえて、「舞台は富岡、主役は深谷の三偉人」というキャッチフレーズに、三人の顔写真を並べたポスターを駅などに掲げてPRに努めている。

富岡製糸場を通じて、富岡(群馬県)と深谷市の距離はグンと近づいた。

参照:「富岡製糸場事典」(富岡製糸場世界遺産伝道師協会編 シルクカントリー双書⑧ 上毛新聞社)など。

渋沢栄一 東京駅のレンガ

2010年09月02日 07時14分04秒 | 偉人①渋沢栄一

渋沢栄一 東京駅のレンガ

栄一は世界や日本のことに目を配りながら、郷土愛も強く、埼玉県や深谷市、血洗島のためにも奔走した。

JR深谷駅に降り立つと、ホームに「青淵深沢栄一生誕の地」と横書きで大書してある。「青淵」とは栄一の号。自宅近くの淵にちなんだもので、その碑が立っている。駅前に栄一の像が立っているのは当然だ。(写真)。

この駅は、堂々とした赤レンガづくりで、東京駅をしのばせる。「JR日本の駅百選」にも選ばれた。それもそのはず、深谷市上敷免にある「日本煉瓦製造株式会社」で作られたレンガを模して(レンガ風のタイルを貼って)造ってあるからだ。

1996年、旧駅の老朽化で改築の際、耐震性から本物のレンガが使えず苦肉の策である。

この工場は栄一が郷土のために誘致したものだった。この地は、利根川が堆積した土砂に恵まれ、古くから瓦の産地として知られた。明治22年(1889)に完成、敷地約19万平方m、日産5万個の製造が可能。明治末期には国内最大級の年3500万個を製造した。

人手に変えて機械力を使った日本初の洋式レンガ工場で、ドイツ製のホフマン式焼き窯三基などを備え、明治35年には従業員461人、日本鉄道(現JR)大宮工場についで県内第二位の大工場だった。

工場から深谷駅までの4.2kmの専用鉄道も引かれ、ここから出荷されたレンガは、東京駅を初め、日本銀行、赤坂離宮(現迎賓館)、旧司法省の本館、丸の内煉瓦街、東大、慶大図書館など多くの建築物に使われた。

赤レンガは、欧米の近代文明の象徴だったから、盛んに使われた。だが、大正大震災で大被害をこうむると、熱は急激に冷めた。

初めて栄一の足跡を訪ねたのは、国の重要文化財に指定されているこの煉瓦製造会社の「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」などが、09年1月、初めて一般公開された時だった。この会社は06年まで約120年存続した。

「産業遺産」にはかねがね興味を持っている。英国の産業革命の発祥地マンチェスターをそのために訪ねたこともある。窯の中に入って、説明を聞くと、窯の頭上や壁面から粉炭を吹きこんで、約1千度の温度で焼いたとのことだった。

栄一の郷里への貢献の数々は、これまた数えきれない。秩父セメント、秩父鉄道、埼玉銀行の前身、武州銀行などの創立のほか、まだ交通機関が整っていなかった頃、埼玉県出身の在京大学生のために埼玉学生誘掖(手をとって指導する)会会頭として、東京・市ヶ谷に寄宿舎を設け、学資を貸与した。埼玉県人会会長に選ばれるのは当然ながら、旧制浦和高校の浦和誘致、埼玉会館の建設、郷土出身の塙保己一の遺徳をしのぶ温故学会会館(東京・渋谷)の建設にも力を尽くした・・・などなどである。

これほどの人物を、埼玉県はもう一度生み出すことができるだろうか。




渋沢栄一 青い目のお人形

2010年09月01日 11時28分33秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 青い目のお人形

♪青い目をした お人形は
アメリカ生まれの セルロイド・・・

1921(大正10)年にできた有名な童謡である。野口雨情作詞、本居長世作曲の当時の最高のコンビによるもので、小さい頃によく聞き、歌ったものだ。

栄一は、計4回渡米した。この訪問で、東京商工会議所会頭を務めていた栄一は、ルーズベルト、タフト、ウィルソン大統領と面会するなど多くの知己を得た。

身長150cm,小柄で太っていた栄一は、スピーチも機知に富んでいた。「グランド・オールド・マン」の愛称で呼ばれ、親しまれた。第4回目の訪問の際は、すでに82歳になっていた。

当時、米国では西岸で日本人移民排斥の動きがしだいに高まっていた。栄一の願いもむなしく、1924(大正13)年、排日移民法が成立した。

栄一の米国人の知己の中に、シドニー・エル・ギューリック博士がいた。宣教師で日本に20年も滞在していた親日家で、ニューヨークの日米関係委員会の幹事を務めていた。博士は、日米親善のため、「ひな祭り」の日に米国の児童から日本の児童へ人形を贈る計画をたてた。

栄一は、日本側の受け入れ組織、日本国際児童親善協会の会長に推され、1927(昭和2)年3月3日、東京青山の青年館で贈呈式が行われた。

出席した栄一はすでに88歳になっていた。送られた人形を抱く栄一の写真が残っている。その総数は1万2千体。日本全国の小学校や幼稚園に贈られた。答礼として、日本側からも各州に一体ずつ日本人形58体が送られた。

米国から送られたのは、歌のようなセルロイドではなく、素焼きのものが多かったという。当時のNHKは、親善人形を受け入れに合わせ、「人形を迎える歌」を創り、全国に放送したが、あまり人気がでず、数年前にできていた「青い目をしたお人形」の方が歌い継がれて、この二つが混同されたのだった。

栄一は中国とも共存共栄を唱え、三回訪中、蒋介石とも親しかった。国際連盟協会長も務め、このような功績でノーベル平和賞の候補に挙がったこともあった。

戦時中、送られてきた人形はどのような運命をたどったのか。敵国の人形だというので、文部省は「壊すなり、焼くなり、海へ捨てたりする」ことを勧めた。焚刑に処せられたり、竹槍で突かれたりと無残に処分される受難の憂き目にあった。

心ある人が隠して、戦争を生き延びてこれまで見つかっているのは300余体。米国に贈られた人形は44体が残っているという。

参考文献:「埼玉の先人 渋沢栄一」 韮崎一三郎著 さきたま出版会など