埼玉県のことについてはまだまだ知らないことが多い。「福沢桃介」という名前を聞いても、初めは誰のことか分からなかった。インターネットで調べてやっと分かったのだからお恥ずかしい限りである。
「福沢」という姓のとおり、「福沢諭吉」の関係者である。諭吉家の養子になったからである。
明治元年、吉見百穴近くの荒子村(吉見町荒子)で、農業などをしていた岩崎紀一の男女各3人の6人兄弟の次男として生まれた。
紀一は養子で、桃介の幼少時に紀一の本家のあった川越に移住した。紀一は川越の八十五銀行の書記の仕事をしていた。桃介は川越中学校へ進学したが、小さいころから神童と呼ばれるほどの秀才で、学業、スポーツともに抜群。周囲に勧められて慶応義塾に入った。「諭吉」との関係が生まれるのは、入学後である。
視聴率は高くはなかったが、1985(昭和60)年のNHKの大河ドラマ「春の波涛」をご覧になった方もおられるだろう。
その主人公だった川上貞奴(さだやっこ)(松坂慶子)、オッペケペー節で鳴らした壮士芝居の川上音二郎(中村雅俊)に混じって、若き桃介(風間杜夫)も登場する。
桃介は「電力王」としてよりも、義塾時代からこの貞奴のパートナーとして知られた。
貞奴は1871(明治4)年、東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子として生まれた。生家の没落で、7歳で葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、亀吉の養女となった。「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷に上がった。日舞に秀で、才色兼備の誉れが高かったので、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名だたる元勲からひいきにされ、名実共に「日本一の芸妓」となった。
1894(明治27)年、音二郎と結婚、「日本初の女優」になり、1900(明治33)年、音二郎一座とパリの万国博覧会に出演、大人気となり、劇場は連日超満員。「マダム貞奴」と呼ばれ、「日本を代表する世界の大スター」になった。
ピカソは貞奴をモデルにデッサン、ロダンは胸像を創り、アンドレ・ジードはラブレターまがいのファンレターを送ったほどだった。
桃介はこれより先に貞奴と知り合っていた。1885(明治18)年秋、貞奴が一人で趣味の乗馬中、野犬の群れに襲われたのを偶然、桃介が助けた。眉目秀麗な桃介に貞奴も一目ぼれ、恋仲となった。塾生の桃介17歳、「小奴」と名乗っていた貞奴14歳の時だったという。
義塾でも成績優秀、駆け足が得意で運動会でライオンを描いたシャツを着ていた桃介は、諭吉の妻錦の目に留まった。諭吉も乗り気で、諭吉の4男5女の9人の子供のうち次女の房(ふさ)と結婚するため、在学中に福沢家の養子となった。
条件の一つが米国留学(3年)だった。この留学経験で桃介は実業家へ目を開かれた。
米国で知った水力発電に魅せられ、名古屋に大同電力(現・中部電力)を設立、木曾川水系の電力開発に乗り出した。日本初のダム式発電である大井発電所など7か所の発電所を建設、電気は関西方面に売った。この電力開発には反対もあったが、「電力王」と呼ばれたゆえんである。
日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、大実業家になった。「相場の神様」とさえ呼ばれたほどである。
名古屋で電気需要を起こすため、日清紡績や大同特殊鋼などの会社を興し、愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道)など鉄道にも手を出した。大同グループ、名鉄グループの創業者で、名古屋発展の功労者となった。全国でも70社の大会社を持ち、衆議院議員も1期務めた。
音二郎が1911(明治44)年に死ぬと、桃介は貞奴を事業のパートナーとして呼び寄せ、房と離婚することなく、同居した。
名古屋市東二葉町にあった和洋折衷の豪邸は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界の接客にも使われた。今は同市東区撞木町に移築復元され、国の文化財に登録されている。
2度にわたる結核による療養、腎臓の摘出と身体の弱かった桃介は1928(昭和3)年、60歳で引退、約10年間財界評論家として、国民新聞に連載された「桃介夜話」などの著作を残した。
1938(昭和13)年69歳で死去。貞奴は1946(昭和21)年75歳で死去している。
参照 「鬼才福沢桃介の生涯」 日本放送協会 浅利佳一郎著 写真も
足尾銅山の公害と戦った田中正造に関心があるので、渡良瀬遊水地(谷中湖)にはよく出かける。県の北東端に位置し、この遊水地を一望できる「道の駅きたかわべ」の構内に一つの胸像が立っている。(写真)
これまで余り興味がなかったが、調べてみると、埼玉県出身の指折りの偉人のものと分かった。県北は塙保己一、深沢栄一、本多静六、荻野吟子ら、けたはずれの大物を輩出している。この胸像は幕末から明治初期、「日本解剖学の父」として知られた田口和美(かずよし)のものなのである。
私同様、知らない人もいるだろうから、輝かしい略歴を挙げてみよう。
1877(明治10)年、東大医学部初代解剖学教授、明治10年から15年にかけて、日本語で書かれた初めての体系的な解剖書「解剖攬要(らんよう)」全13巻14冊を刊行した。1887(明治20)年、47歳でドイツに私費留学、留学中の翌年、日本で初の医学博士の一人となった。
帰国後、1893(明治26)年、日本解剖学会初代会頭、1902(明治35)年、日本連合医学会(現在の日本医学会)初代会頭といった具合。
日本では「腑分け」と呼ばれた人体解剖は8世紀初頭の大宝律令以来かたく禁じられていて、江戸時代まで刑場で刑死者にしかできなかった。明治になって間もなく、病死者の遺体を刑場以外でも解剖できるようになり、その希望による「篤志解剖第1号」になったのが、美幾女という梅毒患者の遊女だった。
日本の近代医学史上特筆すべき出来事で、その解剖者の一人になったのが、和美だった。
和美は1839(天保10)年、現在の加須市北川辺町の漢方医の長男として生まれた。父親の教育もあって、1853(嘉永6)年、蘭方(オランダ医学)を学ぶため上京した。いったん帰郷して、佐野市で開業、30歳でまた上京して、東大医学部の前身「大学東校」に入学、美幾女の解剖に立ち会ったのは、その頃だった。
和美は、小塚原刑場の番人から罪人の死体を得ることに成功していた。明治3年から処刑された死体で身元不明なものはすべて解剖が可能になると、27か月間で49体を解剖するという熱の入れようだった。
明治3年から18年までに和美が解剖した体数は実に1699体を数えたという。「解剖学の鬼」と呼びたくなる人である。教え子には森鴎外や北里柴三郎らがいる。
和美は1904(明治37)年、喘息発作に襲われ、64歳で東大附属病院で死去した。わが国の解剖学を大成させた功績が讃えられ、葬儀には陸軍歩兵2個中隊の儀仗兵も参列した。
生前の意思で病理解剖が行われた。和美らしい最後だった。「道の駅」の胸像はレプリカで、東大解剖学教室から無償で永久貸与された本物は、加須市のライスパークの中にある北川辺郷土資料館に展示されている。
参照 「わが国 解剖学の父 田口和義博士」 北川辺町教育委員会
新茶がおいしい季節になった。緑茶は、その風味に加えて、健康面の効用からたしなむ人が増えてきている。「カテキン」とは、タンニンと並ぶ緑茶の渋み成分のことで、コレステロールや中性脂肪を下げ、成人病、がん予防などで注目されている。
1929(昭和4)年に世界で初めて、緑茶から「カテキン」を結晶として抽出し、その分子構造を明らかにしたのが、桶川町(桶川市)出身の女性だったと知ったのは最近のことだ。
「カテキン」の発見に先立ち、緑茶にビタミンCが豊富に含まれていることを共同研究で明らかにし、32(昭和7)年、45歳で当時の東京帝国大学から日本で最初の農学博士の学位を与えられた。
理科系に強い女性は最近「リケジョ」と呼ばれる。その「リケジョ」のはしりの一人ともいうべきこの人は、家庭も子供も持たず、80歳の生涯を研究一筋に捧げた。
お茶博士・辻村みちよは1888(明治21)年、現在の桶川市に生まれた。尋常小学校の校長を務めていた父親の影響で、まず小学校の教員になった。向学心が強く、1909(明治42)年、東京高等女子師範学校(お茶ノ水女子大)に入学、理科を専攻した。
後に女性で日本初の博士(理学博士)になる保井コノの指導を受けて学に志した。卒業後7年教諭を務めた後、20(大正9)年、北海道帝国大学(北海道大学)農芸化学科の食品栄養研究室の無給副手(助手)になった。女子入学の前例がないと許可されなかったからである。
ここではカイコの栄養について研究、2年後に東京帝国大学医学部の医化学教室に移ってビタミンやイチョウのたんぱく質を研究した。関東大震災で同教室が全焼、23(大正12)年に理化学研究所に移り、緑茶の成分研究に取り組んだ。
鈴木梅太郎研究室で、三浦政太郎との共同研究で緑茶にビタミンCが多く含まれていることを発見、北米向けの日本茶の輸出拡大に寄与した。緑茶からタンニンを結晶で取り出し、その化学構造を明らかにするなどの研究成果も出した。
三浦政太郎は世界的ソプラノ歌手三浦環の夫として知られる。
みちよは戦後、お茶ノ水大学教授、同初代家政学部長、退官後は実践女子大学教授、同名誉教授を歴任、69(昭和44)年、愛知県豊橋市の姪の家で80歳で死んだ。
みちよを敬愛していた姪は、自宅の庭にお茶ノ水女子大と実践女子大の教え子らとともに、みちよが生前、色紙に揮毫した「滋味」という文字を石碑正面に配した顕彰碑を建立した。
この碑は、2013年11月、生誕の地桶川市の中山道沿いの中山道宿場館近くのポケットパークに移設され、その功績を市民に伝えている。(写真)
埼玉と北関東の群馬、栃木県との境界はてっきり利根川だと思っていた。
足尾銅山の鉱毒事件で知られる渡良瀬遊水地とその中にある渡良瀬貯水池(谷中湖)のことを調べていたら、利根川の北側(左岸)に埼玉県東北部の突端にあたる旧北川辺町(10年に加須市と合併)が突出していて、狭い谷田川を挟んで栃木県側の谷中湖に面し、西に群馬県、東に茨城県と接していることが分かった。
渡良瀬遊水池の池畔に立つと、その広大さに圧倒される。それもそのはず、この遊水地は、関東平野のほぼ中央部にあり、栃木、群馬、埼玉、茨城4県の県境にまたがる日本最大の遊水地だからだ。
この遊水地には、第1から3までの三つの調整池があり、谷中湖は第1調整池の中にある。
遊水地の総面積は33平方km(3300ha、東京ドームの7百倍)、周囲延長30km、総貯水容量1億7680万立方m。谷中湖は面積4.5平方km,周囲延長9.2km、総貯水量2640万立方m。
谷中湖は洪水防止と、現在の日光市の足尾銅山(旧足尾町)から群馬県の桐生、栃木県の足利、佐野市、群馬県の館林市を経て、渡良瀬川で流れ下ってくる鉱毒を沈殿・無害化させる目的でつくられた。
足尾銅山は明治維新後、古河財閥を築いた古河市兵衛が運営した銅山で、新鉱脈が見つかったため、20世紀初頭には全国の銅生産量の4分の1を産出、日本最大、東アジア一の銅山だった。
足尾銅山の公害は、排水中の鉱毒(硫化銅など)と精錬所から出る亜硫酸ガスによる。精錬用の薪炭向けに立木が切られたうえ、亜硫酸ガスの煙が山林を枯死させた。このためハゲ山に雨が降るとたちまち洪水が起き、それが繰り返され、鉱毒を拡散させた。
渡良瀬川沿岸では、1877(明治10)年代から稲や桑が立ち枯れたり、魚が住まなくなったりする現象が始まった。1896(明治29)年の大洪水の頃には、農産物の収穫が激減、被害人口は50万人を超えた。川沿いの住民の死亡率の増加、出生率の低下、死産、乳幼児の死亡率の増加も伴った。
埼玉県内で最大の被害を受けたのは、渡良瀬川が利根川に合流する地点に面する川辺と利島(としま)の隣接する二つの村だった。洪水になると二つの川が氾濫する。両村は後に合併して旧北川辺町になる。鉱毒被害が明らかになったのは、1887(明治20)年頃からで、桑や麦、ヨシズなどに使うアシの収量も激減した。
1896年(明治29年)の大洪水は両村など沿岸の村を鉱毒の水で覆った。これを機に「押し出し」と呼ばれる、被害激甚地の栃木、群馬、埼玉、茨城の農民数千人が東京に集団で上京して、被害の救済、鉱業停止を求める請願が1897(明治30)年から六回実施された。その度に警官が力づくで制止に当たった。
そのリーダーになったのが、栃木県佐野市出身の衆議院議員田中正造だった。1901(明治34年)、議員を辞し、東京・日比谷で明治天皇に直訴しようとしたのは有名な話である。鉱毒を告発、谷中村に移住してその遊水地化に死ぬまで反対を続け、今でも義人として慕われている。
両村は02年にも洪水に見舞われた。埼玉、栃木県では、堤防が弱くすぐ洪水になるこの両村や谷中村の堤を復旧するより、この両村を買収・廃村にして游水地化を検討した。
これに対し両村では、田中正造の指導を受け反対運動が展開された。利島村では青年を中心に「利島村相愛会」が結成された。同年10月、両村は村民大会を開き、①県が堤防を築かなかったら村民の手で築く②従って国家に対し納税・兵役の二大義務を負わないと決議した。
強硬な反対でこの問題は、12月の臨時県議会で「遊水地にしない」という知事の答弁で決着した。地元のこのような強硬な反対運動がなかったら、この両村も水没したかもしれないのである。
両村のすぐ上流域にある栃木県の谷中村(戸数450戸、人口2700人)の遊水地化計画は着々と進んでいた。両村は、遊水地ができると、堤防に囲まれた両村には洪水時に逆流現象が起こり、大被害を受けると反対した。
田中正造が反対運動に奔走中、1913(大正2)年に73歳で没すると、4万5千余人が葬儀に参列、その骨は行動を共にした関係村民らの要望で栃木、群馬、埼玉3県の6か所に分骨された。その墓地の一つは、北川辺西小学校(元利島村)の裏にある「故田中正造翁之墓」である。(写真)
この稿は、「新編埼玉県史 通史編 現代」、「埼玉平野の成り立ち・風土」(埼玉新聞社)、田中正造と行動を共にした相愛会の活動家石井清蔵氏の著作「義人田中翁と北川辺」などを参照。この著作は、神岡浪子編「資料近代日本の公害」(新人物往来社 昭和46年刊)に収録されている。
楽天が、時事新報に所属しながら、自ら描き広告まで編集する「東京パック」を創刊したのは1905(明治38)年4月のこと。日本海海戦の1月前だった。
「パック」とは、英語でどんな字を書くのだろうといつも思っていた。この雑誌の初刊を見ると、Puckとある。Packならすぐ分かるけど、すぐにはピンと来ない。
辞書を引いてみと、英国の伝説上の人物の「いたずら好きの妖精」のこと。シェークスピアの「夏の夜の夢」にも出てくるという。
楽天に西洋漫画の誇張などの技法を教えてくれた豪州人ナンキベル(Nankivell)が、後に米国で編集長をしていた政治風刺漫画誌「Puck」にならってこの名をつけた。
楽天でまず驚いたのは、その4月15日に発行された「東京パック」の表紙である。初めてこれを見た人は、日本人が描いたとは誰も信じないだろう。バタくさいからだ。
東京パックも第一巻第一号(もちろん旧字体)も、書き方は、今のよう左から右ではなく、右から左である。
日本語は上からだけでなく、左右どちらからでも書ける。便利な言葉である。右からのアラビア、ヘブライ語もビックリだ。絵の下にそのタイトルが、これまた右から左に書いてある。
「露帝噬臍の悔(ろてい ぜいせい の くひ)と、ルビも歴史的仮名遣いでふってある。
小学校に入学したのが昭和20年。教育漢字と当用漢字しか知らない世代。その意味がすぐには理解できない。「噬臍」が、「何かへその話かな」とまでは分かっても、お手上げ。また辞書。暇なので辞書はよく引く。
漢和辞典には、「自分のへそを、かもうとしても届かないことから、悔いても及ばぬことの例え」で、「ほぞをかむ」との説明。「そうか、ほぞは、臍のことだったのか」。戦後のえせインテリの底の浅さである。
暇だから、本当にへそをかめないのかと、柔軟体操のつもりで試してみた。長年の暴飲暴食でせっせと築いた太い腹、やはり無理。腹が薄い人は、身体を屈めても、へそも後に下がってかめないのだろうか。今度聞いてみよう。
「露帝とは誰だったかな」。これは最近、NHKの「坂の上の雲」で見たばかりだから、ニコライ2世。これだけはすぐ正解。学生時代、マルクスやレーニンを人並みに少しばかりかじった名残だ。
日本に来ては、大津事件で巡査に斬りつけられ、最後は家族ともども銃殺される数奇の人生をおくった。フランスのルイ16世同様、王朝の最後は、積年の悪政の報いながら、無残である。
この表紙は、ニコライ2世が、腰を浮かして、前かがみになって、歯をむいてへそをかもうとしている。(写真)もう少しだが無理なのだ。その時、ロシア聖教の十字架付きの王座に左手を支えているだけで、身体は王座から離れている。「王座から離れる」、つまり失脚を暗示している。
この絵が、日本海海戦、ロシア2月革命以前に描かれたことに驚いた。海外生活の中で、凄いと思う時事漫画は多く見た。それでも、その時点ではなく、将来を見越した時局漫画を見たのはほとんど記憶にない。
これは、日本海海戦、ロシア2月革命(1917年3月 皇帝退位)の前に描かれた“予言の漫画”なのだ。
時局漫画というとおり、風刺漫画は、現在進行形、あるいは過去形で書かれることが多い。将来を暗示する時局漫画を見るのは初めてだ。
明治から大正にかけて、こんな素晴らしい時事漫画が一世を風靡していたのに、今の政治漫画のお粗末さは目を覆うばかりだ。本当の意味の風刺も批判も見当たらない。川柳も同じだ。
図書館には楽天の全集があるところもある。漫画を志す人には是非、見てほしい。「漫画とは何か」。浅薄なものではない。こんな繰り言を言うのは老人のひがみか。
職業漫画家第一号 北沢楽天 さいたま市大宮区
漫画に興味を持ち始めたのは大学時代だった。描く才は一切無いので読むだけなのによく「眺めた」ものだ。読むではなく眺めたというのは、まだ本格的な劇画やアニメの時代ではなかったし、コマ割り漫画や四コマ漫画より一枚物の漫画に興味を持っていたからだ。
60年代、文芸春秋が「漫画読本」を出していた。海外の作品も載っていて、日本と一味違う世界の漫画の世界を垣間見せてくれていた。古本屋を回ってせっせと集めては眺めたものだ。
英国には19世紀半ばから週刊の風刺漫画雑誌「パンチ(Punch)」があることを知ったのも漫画読本のおかげだった。
北沢楽天 (写真)に興味を持ち始めたのは、「ポンチ絵(パンチの日本語なまり)」「おどけ絵」などの名で呼ばれていた「戯画」を、初めて「漫画」と名づけたことや、自ら「職業漫画家第一号」と名乗ったということを知ってからだった。日本の漫画の父とも言える人だ。この漫画の名前は葛飾北斎の「北斎漫画」を参考にしたらしい。
その弟子に「ノンキナ・トウサン」の麻生豊、「クリちゃん」の根本進、NHK「とんち教室」の長崎抜天、松下井知夫、西川辰巳といった漫画家たちがいたというから懐かしい限りだ。近代漫画の祖とされるゆえんである。「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫も憧れた存在だ。
大宮区の盆栽町にある「漫画会館」を初めて訪ねたのは何年前のことだろう。盆栽村に盆栽を見に出かける度に行ったので、もう何回目になるだろう。今回まとめて見返してみると、その偉大さがよく分かった。
漫画会館は、1948(昭和23年)に楽天が「楽天居」と呼ぶ居宅を構え、55年に79歳で没するまで水墨画を描いていた所で、死去後、夫人から大宮市に寄贈された。「漫画」を冠する全国唯一の公立美術館である。
生まれたのは、東京・神田駿河台。1876(明治9年)、由緒ある家柄の四男に生まれた。名は保次、楽天は画号である。北沢家は、1560年頃に大宮に築かれた寿能城の筆頭家老・北沢直信を始祖とする。
寿能城とは聞きなれない名前だ。岩槻城の支城で、見沼に面して築城された。豊臣秀吉の小田原攻めの際、落城、城に残った家来や妻子は見沼に身を投じて果てたという悲劇の城である。今は寿能公園になっている。
北沢家二代目は、刀を捨てて農民となり、大宮の開墾に当たった。紀州藩の「紀州鷹場本陣」として大宮宿の発展に尽くした家だった。
父親が役人だったので、神田金華小学校を卒業、肖像画を得意とした父親の血をひいて、図画に秀でていたので、麹町絵画研究所で2年間洋画を勉強した。
14歳で横須賀で5年間、日本画を習い、19歳で横浜の外国人居留地で米国人が発行していた英字週刊誌に入社、絵画記者としてデビューした。この社で、豪州の漫画家フランク・A・ナンキベルに西洋の漫画技法を教わった。少年時代の洋画、日本語、漫画の修行が後に花開くことになる。
転機は、1899(明治32)年、23歳の時だった。作品を見てその才能を高く評価していた福沢諭吉が、創設した時事新報社に招請、絵画部員として、35年から毎日曜日に1ページの「時事漫画」の欄を描き始めたのである。
この漫画は、政治批判、社会風刺を主とし、北斎漫画とは違う近代漫画で、日本の漫画の新しいページを開いた。
諭吉は、この若い漫画家に社中で最高の50円の給料を支払った。時事漫画は時事新報の売り物になった。諭吉は楽天を通じて、日本に近代漫画の種をまいたのだった。諭吉は「絵で世の中を動かせるのは漫画しかない」と励ました。
しかし、漫画が列強の問題に触れると、新聞も神経質になってきたので、日露戦争ただ中の1905(明治38)年に、楽天は漫画から広告まで一人が取り仕切る「東京パック」を創刊した。初めての大判サイズ(B4判)、カラー4色刷りの漫画雑誌で、月刊でスタートしたのに、月2回刊、週刊となるほど10数万部と爆発的な売れ行きを見せた。
外国人にも日本の国情を理解させるために、漫画には全部、英語と中国語で解説を加えたのが、大きな特色だった。
編集助手には、坂本繁二郎、石井鶴三、川端龍子らのそうそうたる画家がいたというから、その顔ぶれに驚く。
列強だけでなく、時の権力者らも容赦なく風刺漫画の対象にした。政府と真正面から衝突することもあり、「東京パック」は何回か発禁になった。
1929(昭和4)年には、フランス大使の斡旋でパリで個展を開くため渡欧、レジオン・ドヌール勲章を受けた。
後進の育成にも力を注ぎ、東京パックで得た資金で志望の苦学生を養い、漫画家を養成した。門下生が多いのは、このためだ。
楽天は没後、大宮市(現さいたま市)の名誉市民第一号になった。
妻沼の聖天さまを拝観した後、利根川自転車道を経て、赤岩渡船まで来ると、「荻野吟子記念館」はもう目の前だ。
「荻野吟子って誰?」という人のために。一言でおさらいすると、1885(明治18)年、34歳で日本初の公認の女医になった人である。
赤岩渡船に乗っていると、親切な船頭さんから、「荻野吟子の生家の長屋門」が千代田町の乗り場近くに残っているとのパンフレットをもらった。
道しるべどおりに歩いて行くと、真言宗の古刹光恩寺があり、その右手に「生家の長屋門」(国の登録有形文化財)がある。瓦葺き、白塗りの長屋門(長屋の中央に門を開いたもの)である。光恩寺に移築されたのは、明治の頃である。その傍らの木陰に洋装の吟子像がある。
吟子の実家は、熊谷市側の対岸にあるのに、「なぜ」と聞いてみると、光恩寺の檀家は対岸にも及んでいたからではないか、とのことだった。
対岸の熊谷市側にもどり、堤防を下流にしばらく歩くと、土手の下に「記念館」が見える。記念館は、生家跡にあり、光恩寺の長屋門を模したもので、約1.5倍あって、その中に展示品がある。「生誕の地史跡公園」も隣に整備されている。(写真は記念館の銅像)
記念館の資料によると、吟子の生まれた俵瀬地区は、渡船のある葛和田との間に、利根川が増水するたびに土砂が流れ込み、俵の格好をしていた島だったので「俵島」と呼ばれていた。当時、利根川には土手もなかった。今もその名が残る。
教育熱心な父・綾三郎は俵瀬村の名主で、葛和田河岸で船問屋との農業を営んでいた。長屋門があったので「長屋んち」と呼ばれていた。屋敷の敷地は約1800坪あったというから大変な豪農だった。2男5女で、吟子は5女で第6子。
1883(明治16)年、高崎線が上野~熊谷間に開通してから、利根川の水運は衰え、1889(明治22)年、荻野家は没落、この地を去った。
40歳の吟子がキリスト教徒として知り合った13歳年下の志方之善と再婚する1年前である。
記念館には
人その友のために 己の命を捐(す)つるは
是より大なる愛はなし
という吟子が愛唱し続けた聖書ヨハネ伝15章13節の文句が大書されている。
熊谷市の観光パンフレットの中に「三偉人ゆかりの地を訪ねてみよう!」というのがあった。いずれも埼玉県北が生んだ人で、本庄市の塙保己一、深谷市の渋沢栄一、熊谷市の荻野吟子である。
吟子の記念館にも、女医としてだけでなく、キリスト教徒、女性解放運動の活動家としての活動をしのんで訪れる人が絶えない。
荻野吟子 日本最初の公認女医 熊谷市
日本女医会などのホームページによると、日本の医師国家試験合格者の中で女性は、三分の一を占めているという。ちなみに、女性医師の数は約4万5000人で、その比率は2割以下だ。(10年の時点) 出産などの事情で家庭に入ったままの人が少なくないからだ。
ところで、日本で初めて医師国家試験に合格し医師になった女性の名前をご存知の方はどれぐらいおられるだろうか。
埼玉県出身の人だから、県にゆかりのある方は、知っておられる方が多いだろう。荻野吟子――。「男女共同参画」が声高に叫ばれている時代だけに、塙保己一、渋沢栄一と並んで、埼玉の生んだ三偉人の一人に挙げられている。
埼玉の明治の初め、男性にしか許されなかった医師の国家免許を初めて獲得、女性医師の道を切り開いた吟子の人生は、苦難そのものだった。
1851年(嘉永4年)、現在の熊谷市俵瀬(当時俵瀬村)の名主の農家の五女に生まれた。地図を見ればすぐ分かるとおり、県北の中の県北で、利根川を挟んで隣は群馬県だ。
今でも葛和田の渡し場には「赤岩渡船」と呼ばれる渡し船が残っており、群馬側に黄色い旗を揚げると、熊谷側に迎えに来てくれる。
勉強好きで隣村の寺子屋や私塾で学び、17歳で隣村の素封家に嫁いだ。ところが、夫(後の足利銀行初代頭取)は遊郭で淋病に感染しており、吟子は子供を産めない身体になって2年後、実家に返された。
治療のため、東京の順天堂病院に入院したが、もちろん医師は男性ばかり。「女性医師がいれば、こんな恥ずかしい思いをしなくて済むのに」。
同じような境遇にある女性たちのためにも医師になる覚悟を決めた吟子は、親の反対を押し切って上京、まず、井上頼圀(よりくに)という漢方医で国学者の私塾に入学、塙保己一が編集した「群書類従」などの書物を学んだ。
ついで、お茶の水女子大の前身である東京女子師範の一期生になり、医学校入学のチャンスをうかがった。
1879(明治12)年、女子の入学を認めていなかった好寿院という私立医学校に唯一の女子学生として入学できた。
はかま姿に高下駄、髪型は男子と同じショートカットで通学、男子学生の嫌がらせをうけながら抜群の成績で卒業した。父親も死去していたので、家庭教師をして、学資と生活費を稼いだ。
ところが、「医術開業試験」の受験は、女性だからと拒否された。この時思い出したのが、「群書類従」の中に昔の法令の解説書である「令義解(りょうのぎげ)」があり、その中に医療制度を定めた「医疾令(いしつりょう)」に女性医師についての規定があったことだった。
「医疾令」は散失してそっくり欠けていたのを、塙保己一らが苦労して復元したものだった。
井上先生らにも内務省衛生局への働きかけを頼み、女性への受験が認められたのは1884(明治17)年。吟子はただ一人合格して、翌年、日本最初の公認女性医師となった。35歳。医師を目指して14年、上京して11年が経っていた。
東京・湯島に「産婦人科荻野医院」を開業、「女医第一号」と新聞などに書き立てられたため繁盛したが、健康保険制度もない当時、受診できない女性も多く、社会の現状を目の当たりにした。
「男女平等」の理想に共鳴して、キリスト教の洗礼を受け、「キリスト教婦人矯風会」に入り、風俗部長として婦人参政権の実現、廃娼運動、飲酒喫煙廃止運動にたずさわった。
39歳の時、13歳年下の同志社大学のキリスト教徒志方之善と結婚した。まもなく理想社会の建設をめざす夫とともに北海道に渡り、開拓を手伝い、医院を開業し、地元民の診療に当たったが、夫と死別した。
東京に戻り、本所で開業したが、晩年は生活に困るほど困窮した。1913年(大正2年)、肋膜炎を発病、養女に看取られ、脳溢血で死去した。62歳だった。
吟子のことは世間にあまり知られていなかった。医師である渡辺淳一による読売新聞の連載小説「花埋み」や、三田佳子主演の演劇「命燃えて」で脚光を浴びた。
吟子のことを調べているうち、驚いたのは、日本の公認女医第2号も、同じく県北の隣の深谷市出身だということだった。
吟子の二年後に合格した生沢クノという女性で、深谷、川越などで産婦人科を開業した。深谷の蘭医の娘として生まれ、81歳で亡くなるまで生涯独身。「おんな赤ひげ先生」と呼ばれ、治療費の代わりに数本のサツマイモを受け取ったという逸話が残っている。
クノが学んだ私立東亜医学校でも、女性は受け入れてなかったので、吟子同様、断髪男装で通った。一人別室で授業を聴講させられ、「別室先生」とあだ名された。クノが学んだ講師の一人が若き日の森鴎外だったという。クノが試験に合格したのは23歳だった。