第7回全国ご当地うどんサミット2017 熊谷市
「第7回全国ご当地うどんサミット」が17年11月18,19両日、熊谷市の熊谷スポーツ文化公園にぎわい広場で開かれた。2日間で10万人がつめかけた。
札幌市から熊本の大津市までの全国の30店が参加、投票でアサリ漁獲高が全国一の三河湾のアサリを使った「ガマゴリうどん」(愛知県蒲郡市)が優勝、地元の「熊谷うどん」が2位に入った。
来場者は3枚つづりのチケット&投票券(1200円)を買い、好きなのに投票する。「ガマゴリうどん」は、「全国ご当地うどん」など全国大会で2度グランプリを得ている。1819票を獲得、「熊谷うどん」(1811票)を8票差でおさえた。
熊谷うどんは、熊谷産のうどん粉「さとのそら」と「あやひかり」をブレンド、収穫、製粉、製麺まで「すべて熊谷産」にこだわっているのが特徴。
県内からはこのほか、「加須うどん」(加須市)、「武州煮ぼうとう」(深谷市)、「濃トロ!肉牛うどん」(所沢市)が参加、「武蔵野うどん」は東京都世田谷区の店が出品した。東京都青梅市からは「トウキョウX肉うどん×熊谷小麦」と青梅のブランド豚と熊谷の小麦をブレンドしたうどんも参加した。
熊谷市で開かれたのは、埼玉県のうどん生産量(生めん、ゆでめん、乾めん)、小麦消費量(うどん、らーめん、そーめん、パン、マカロニなど)が全国第2位なのと、「麦栽培中興の祖」と呼ばれ、麦踏みを全国に広めた”麦翁”(麦王とも)権田愛三の出身地だからである。熊谷は、小麦の生産高が県内トップ(6730t 16年)である。市町村では北海道を除けば本州では1位。埼玉県は約1万9200tで全国6位。県内には23種類もの名物うどんがある。
麦踏みとは、したことのない人のために説明すると、春先に麦の芽を足で踏み、霜柱で浮き上がった土を押さえ,麦の不必要な生長を抑えて根張りをよくするためで、昔は春の風物詩の一つだった。
19年のラグビーワールドカップが同じスポーツ文化公園にある熊谷ラグビー場でも開かれるので、世界にうどんの魅力を広めたいという思惑もある。うどんサミットは同じ場所で3年連続で開かれるので都合がいい。「全国ご当地うどんサミット」はこれまで滋賀県東近江市、秋田県湯沢市で開かれてきた。
「日本三大うどん」という言葉がある。「讃岐うどん(香川県)」、「稲庭うどん(秋田県湯沢市)」、「水沢うどん(群馬県渋川市)」である。
「水沢うどん」は前橋支局にいたことがあるので、何度も口にした。讃岐と稲庭は東京で食べただけで、本物を味わったことはない。このため熊谷のサミットを心待ちにしていた。
JR熊谷駅から無料のバスに乗って、会場に着くと、子ども連れの家族が目立った。「第13回熊谷市産業祭」なども同時開催されていて、熊谷の故郷の味やB級グルメも楽しめた。
来年はどんな大会になるか楽しみだ。
日高市は、昔この地域にあった「高麗郡(こまごおり)」が、16年に建郡1300年を迎えるのを記念して、さまざまな記念事業を実施、まちおこしに役立てようとしている。
その一つに「にじのパレード」がある。14年10月4日、有名なマンジュシャゲの季節も終わった巾着田で、5月についで2度目のパレードが行われた。
「高麗郡」とは、1300年前の716(霊亀2)年、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)から日本に移住、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7か国に散らばっていた渡来人1799人を、朝廷が武蔵国に集め、新しい郡を創ったものである。唐・新羅の連合軍に破れ、高句麗が滅亡した約50年後だった。(続日本紀)
高麗郡は、1896(明治29)年に入間郡に編入され、1180年の歴史を閉じた。当時、1町14村あったという。
日高市だけでなく、飯能、鶴ヶ島、入間、狭山、川越各市の一部も含まれていた。
高句麗が残した文化の一つに「高句麗古墳壁画」があり、世界ユネスコ遺産に指定されている。
その壁画で最も有名なのは馬に乗って矢を射る騎射姿だが、虹のように七色の鮮やかな色彩の古代衣装も印象的だ。
騎射姿のほうは、「馬射戯(まさひ)」と呼ばれ、記念行事の一つとして騎射競技会として復元されている。
これと双璧をなすのが、高句麗の古代衣装をよみがえらせたこの「にじのパレード」である。
日高市や高麗郡建郡1300年記念事業委員会では、1300年記念式典を行う16年5月21日には、新しい郡に集められた1799人にちなんでその数を集めて大パレードをやりたいとPRを進めている。
10月4日の「2014秋 にじのパレード」には、第1回の高麗神社から舞台を移して、巾着田とその外周道路に、谷ヶ崎照雄市長以下ざっと200人が古代衣装をまとって参加した。
「高麗川マロン」というブランド栗が市の名物なので、市のマスコットキャラクターになっている「くりっかー」と「くりっぴー」を先頭に、市の幹部や市会議員の姿もあった。
目立ったのは、揃いの高句麗衣装に身を包んだ「よさこい」のグループで、大きな旗と鳴り物で人気をさらった。
沿道のコスモス畑は満開で、希望者には摘み放題で無料提供された。
日高市では、キムチ味、地場産野菜、高麗人参の使用を条件とする地元のB級グルメ「高麗鍋」を名物にしようと、毎年「高麗鍋コンテスト」を開いている。
パレードが集まった広場の屋台には、狭山茶や日本酒などのほか「まんじゅしゃげ」をもじった「まんじゅう」も売られていた。
予告の花火が上がり、ハヤシの太鼓が響く。「東西東西(とざいとうざい)、ここにかけおく龍の次第は・・・」で始まる伝統の口上が、奉納者や龍の名、流派の名などを披露する。「・・・椋(むく)神社にご奉納」で終わると、「ドーン」と白煙をたなびかせ、龍のような勢いで手作りロケット「龍勢」が打ち上がる――。
秩父市下吉田の”農民ロケット”の名で知られる龍勢祭(椋神社例大祭)は、江戸時代以前から400年以上の歴史を持ち、全国に5,6か所ある農民ロケットのなかで最大の規模を誇るという。
10年10月の第二日曜の10日。朝方まで残っていた前日の雨が止んだので、電話すると「やりますよ」との返事。JR熊谷駅乗り換えの秩父鉄道で皆野駅下車、バスに乗り継いで現地に着いたのはお昼前だった。
椋神社と道路を隔てた芦田山の麓に建てられた打ち上げ櫓の神社側には、多数の見物人が、有料と書かれた桟敷席にあぐらで座り込み、昼飯、酒盛りの最中だった。一升瓶やビール缶が並ぶ。その後ろには屋台も多く出て、秋祭りの雰囲気だ。7万5千の人出だったという。
龍勢は戦国時代の「のろし」から発展したとされる。それを次々に打ち上げるこの祭りは、実りの秋に神に五穀豊穣を知らせ、感謝する儀式だと言うからうなずける話だ。秩父地方では床の下の土から火薬の原料となる硝石を採集する硝石生産方法が盛んだった。
龍勢は、真っ直ぐに飛ばすため、「矢柄」と呼ばれる長さ約15mの真竹を使う。松の木を二つに割って中をくり抜き、火薬を詰めた筒を根元に取り付け、櫓に運んで点火、発射する。2~300mの高さまで上り切ると、「背負い物」という色とりどりの落下傘や唐傘が開いて、ひらひら、ふわふわと降りてくる。夜の花火とは一味違う楽しい昼間の煙火である。
驚いたことに27もの流派がある。プログラムによると、近くの山にちなんで「城峰瑞雲流」とか「開祖昇雲龍」とか「青雲流」、「秋雲流」と雲の名をつけた名前が多く、それぞれの幟がはためいている。
龍名には「龍頭 唐傘 煙火 獅子の舞」(舞天流)、「青龍煙火 破風翔龍秋彩の舞」(巻神流)と凝ったものから、「中島家御夫妻 金婚式祝の龍」(光和雲流)というのもあった。
奉納者は、「耕地」と呼ばれる各集落、地元の企業や農協などで、「秩父氏一族」というのもあって地域を感じさせる。
地元の小、中学校も寄せ書きやパラシュート装着で協力していて、「与五郎流」(奉納者・出世頭の会)では、中学生が堂々と口上を述べた。地域ぐるみの祭りなのだ。
奉納者たちは、打ち上げに先立ち、幟、矢柄を担いで成功を祈って、そろって神社に参拝する。名前は立派ながら、手仕事なので全部が打ち上げに成功するわけではない。爆音と白煙だけで終わるのもある。それもご愛嬌で、この祭りに繰り込まれている。プログラムからこのような名前を拾ってみるだけで、地域ぐるみの祭りの楽しい雰囲気がうかがえるだろう。
青空のもと15分間隔で30頭の龍が打ち上げられた。同じような農民ロケットの伝統があるタイのヤソトン市との交流も毎年あり、5、60人のタイの人々もタイ語で挨拶を書いて、小屋掛けして打ち上げを見守っていた。秩父山中の年中行事も国際化している。
戦国時代の狼火が祭りに取り入れられたらしい。
椋神社は、東征の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が道に迷った際、持っていた鉾の先から一条の光が走り、大きな椋の木に当たった。その下にいた猿田彦命(サルタヒコノミコ)が道案内して、戦に勝ったので、命を祀ったのが始まりという。秩父地方では、延喜式神名帳に「秩父まつり」で有名な秩父神社と並んで記されている由緒ある古社である。
秩父夜祭
秩父夜祭は毎年決まって12月2日と3日に開かれる。10年は木曜と金曜日だった。夜祭だから山車のぼんぼりと花火が売り物。2日は宵宮(前夜祭)、3日は大祭。
夜出かけるのが筋なのに、2日夜から3日朝にかけて雨との予報だったので、大事を取って2日の昼間から花火が上がるまでの昼間だけ見た。
秩父夜祭は冷え込みがきついのが相場なのに小春日和で、着込んでいったセーターを脱いだほど。陽も当たっていて、豪華絢爛な屋台や、屋台の後ろの舞台で女の子が演ずる「曳き踊り」もじっくり観察できた。
秩父夜祭は、京都祇園祭、飛騨高山祭ととともに日本三大曳山祭と呼ばれる。この歳になって三つとも実物は見たことがないので、まず地元の秩父を見ようという魂胆である。
西武秩父駅前の秩父観光情報館で秩父観光協会発行の「秩父夜祭をたのしむ」(100円)や夜祭のパンフレットなどの資料を手に入れ、まず近くの秩父神社に向かう。この神社もその前にある秩父まつり会館には前に来たことはある。
読んでみて驚いたのは、江戸・寛文年間以来三百数十年の歴史を誇る夜祭は、神社の例大祭そのものだと思い込んでいたのに、実は例大祭の「付け祭り」だということだった。
秩父地方は古代から、「知知夫(ちちぶ)絹」の産地として知られた。江戸時代には秩父絹として例大祭に合わせて「絹大市(きぬのたかまち)」が開かれ、3~4千両の取引があった。夜祭はこの大市の最終を飾る、江戸の商人をもてなす行事として発展したのだそうだ。
明治後期から昭和初期にかけて、平織りで裏表がないのが特徴の「秩父銘仙」は、女性の手軽なおしゃれ着として全国的な人気を集めた。秩父市の約7割が織物関係の仕事をしていた時期もあったという。
この絹による潤沢な資金が、“動く陽明門”と呼ばれるほど豪華な屋台や山鉾をつくれた背景にあった。全国的に知られる私の好きな「秩父音頭」には、「秋蚕(あきご)仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり」というくだりがある。夜祭はまさに蚕と絹が生んだ祭なのだ。
祭で曳かれる山車(だし)は、国の重要有形民俗文化財に指定されている屋台4と笠鉾(かさぼこ)2の6基。祇園祭の山鉾32基、高山祭の屋台(春12、秋11各基)に比べると少ない。
屋台は豪華な屋根のある山車。笠鉾は屋根の上に、秩父では飾り金具が垂れ下がる美しい三層の笠をつける。1914(大正3)年に電線が架設されたため、引っかかるので、曳く時は笠をはずす。
秩父で一番大きい「下郷笠鉾」は、高さ7m、笠を付けると15・5m、重さ20t。下郷は6町会の連合体だといっても、曳くのは大変だ。
2日は、中心街の4つの屋台(宮地、上町、中町、本町)の曳き回し。後幕(うしろまく)の猩々(しょうじょう=酒飲みの伝説上の動物)が目立つ宮地、屋根の一番大きい上町、屋根の前後の両端を飾る鬼板が一番大きく、日本神話を題材にしている中町、後幕の達摩(だるま)が目立つので「ダルマの屋台」と言われる本町(もとまち)と、それぞれ特徴があって面白い。
秩父神社から目抜き通りに繰り出していくので、解説を読みながら見るとよく分かる。4つの屋台は左右に張り出し舞台をせり出すと、屋台芝居が楽しめる構造になっていて、3日の午後には歌舞伎を楽しめるという。
3日は、6台が一斉に出る。夜は秩父鉄道の踏切を越え、市役所前の御旅所(おたびしょ)へ向かう短い団子坂の「曳き上げ」で祭りは最高潮に達する。午後7時半から日本花火芸術協会加盟の花火師による4号玉やスターマインが、春はシバザクラでにぎわう羊山(ひつじやま)公園から約6千発、冬の夜空に打ち上げられる。山車と冬花火のコラボレーションだ。花火が上がるようになったのは大正時代からだという。
昼間見ていて面白かったのは、屋台の前面の柱にとりついて、扇子を振りかざしながら「ホーリャーイッ」「ホーリャーイッ」とかけ声をかける4人のイケメンの「囃(はや)し手」だった。聞けば、町内在住で20歳以上、町会への貢献者との条件があるそう。一生に一度だけしかできない。まさに夜祭の花形で、「一生一代の晴れ舞台」。
昼間の屋台には、幼稚園の子どもたちも大挙して長い縄にとりついていた。よちよち歩きの赤子も祭り衣装で走り回っていた。「祭りキチ」は大人に限らない。伝統は確実に継承されつつある。
曳き子は1台を曳くのに約150人。団子坂の曳き上げには400人近く必要だという。このため市街地の空洞化が進む中で、最近は曳き子に若い女性が急増している。
秩父神社の女神(妙見菩薩)と武甲山の男神(蔵王権現)が年に一度逢い引きする祭事とされる。秩父盆地はこの祭りで、一年を総決算し、来年への歩みを始める。
「秩父祭の屋台行事と神楽」は16年12月1日、東北から九州までの33の「山・鉾・屋台行事」の1つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機構」の無形文化遺産に登録された。これで無形文化遺産は世界で336件、日本からは歌舞伎や能楽、小川町の和紙、和食など21件が登録されている。
12月4日の秩父夜祭には、前年を13万人上回る33万人が詰めかけた。
秩父音頭まつり 皆野町
♪ ハアーアーア アーエー 鳥も渡るか あの山越えて 鳥も渡るか あの山越えて・・・♪
埼玉県を代表する民謡「秩父音頭」は、学生時代から好きだった。踊りも現地で一度は見たいものだと思っていた。
13年も8月14日に皆野町で「秩父音頭まつり」が開かれるというので、喜んで出かけた。45回を迎えるという。町の花にあやかって「合歓(ねむ)の盆」と名づけられている。
秩父鉄道の皆野駅で降りるとまもなく、「秩父音頭発祥の地」と書いた看板があって、植え込みの中に「秩父音頭家元碑」が立っている。
流し踊りコンクールが毎年開かれ、人口1万1千の町で、今年は15人から50人程度の大小77チーム約1500人が参加した。
出場チーム一覧表を見ると、近隣の長瀞町や寄居町のチームもちらほらあるが、ほとんどが地元。
中でも、皆野中は運動部がそれぞれ参加していて、子ども会、青少年育成会のチームも目立った。
盆踊りと言えば、中高年齢層の参加が多い。この町では、子供たちの姿も多く、秩父音頭のふるさとの伝統は若者に着実に引き継がれている印象を受けた。民謡の歌い手も、女子中学生ら若い女性が自慢ののどを張り上げる姿が多く見られた。民謡を肉声で聞くのはなかなかいいものだ。
町役場の「新鮮組チーム」を先陣に駅近くのバスターミナルを出発、午後5時ごろから高いやぐらが組んである役場庁舎前の「おまつり広場」に集結、輪になって踊る。(写真)
秩父音頭は、日本俳句会の長老、金子兜太(とうた)氏の実家で、今も街の中心部にある「金子医院」(以前は壷春堂医院)が中心になってできた。
その縁で、弟で家業を継いだ金子千侍(せんじ)氏が家元を務めている。
秩父音頭は、この地に伝わる盆踊りが基になっている。200年の歴史があるとされるものの、昭和初期には歌詞も踊りも卑猥そのものに堕し、踊りは「ボウフラ踊り」、歌は「助平唄」と言われた。警察も禁止していたほどだ。
これを再興しようと図ったのが、兜太氏の父親、医師で俳人(号は伊昔紅=いせきこう)の金子元春だった。上海の同文書院の校医をしていたが、故郷に帰ってきたばかりだった。
伊昔紅は、俳句誌「馬酔木(あせび)」を出した水原秋桜子と現在の独協中・高時代の同級生で、同人だった。当時の県知事とも大学時代、東京にあった埼玉県人の学生寮「埼玉誘掖会」で一緒だったことから、秩父音頭づくりも知事から依頼を受けたものらしい。
1930(昭和5)年、一般から新たに歌詞を募集、自分でも作詞した。節は「秩父木挽き唄」では右に出るものがないとされた名人吉岡儀作に唄わせて、粋な趣味人だった元春の父親の金子茅蔵が妹に踊らせて振り付けた。踊りの身振り手振りに生糸を紡ぐ糸車の様子などが織り込まれている。
この年の11月3日、明治神宮の遷座十年記念祭に招かれて「秩父豊年踊り」の名で奉納され、全国の注目を浴びた。翌日には愛宕山にあったNHK放送曲から全国放送された。
明治神宮には、男21、女10の31人が参加、男性は花笠を背にして踊ったという。
1933(昭和8)年、帯広市で開催された全国レクリエーション大会に「秩父音頭」として出場して1位、1950(昭和25)年の全国レクリエーション大会で民謡部門優秀1位に選ばれた。群馬の「八木節」、栃木の「日光和楽踊り」とともに、関東三大民謡の一つに数えられている。
秩父音頭の生みの親、金子元春の銅像は、桜で有名な美の山公園の山頂近くにある。
俳誌「馬酔木(あせび)」の同人で、皆野町の俳句会の主宰者だった元春は
♪ 秋蚕仕舞うて 麦蒔き終えて 秩父夜祭 待つばかり・・・♪
♪ 花の長瀞 あの岩畳 誰を待つやら おぼろ月・・・♪
♪ 炭の俵を 焼く手にひびが きれりゃ雁坂 雪かぶる・・・♪
♪ 一目千本 万本咲いて 霞む美の山 花の山・・・♪
を秩父音頭の歌詞に残している。
四番目の一目千本は、元春の最後の作品で、銅像の隣の歌碑に刻まれている。
歌い出しの ♪ 鳥も渡るか・・・♪ は別人の作である。このように何度も募集され、何番もある歌詞は合作になっていて、特に歌う順番は決まっていない。
「まちかど雛めぐり」 さいたま市岩槻区
厳しい寒さに震えながら、12年ももう3月。ひな祭りのシーズンである。生産量・額とも日本一の人形の町、さいたま市岩槻区で「まちかど雛めぐり」(第9回)が開かれた。
♪お内裏さまと おひなさま 二人ならんで・・・♪を口ずさみながら、寒さがいくぶん和らいだ日に訪ねた。
神社やコミュニティセンターなど12か所の特別展示場のほか、人形店、飲食店、銀行など86の店で人形を展示したという。
雛めぐりには何度か来ているので、まっすぐ「お人形歴史館」に向かった。駅からちょっと遠いが、人形師でもある福田東久館長が、60年以上かけて集めたひな人形約4千体のうち2300体余飾られている。
最近各地で、全国に呼びかけて集めた、古いひな人形の数や飾る段数の高さを誇る展示が目立つ。ここのは量より質である。
圧巻は、館に1千体あるという「かみしも(裃)雛)」だ。館では「岩槻元祖かみしも一千体雛」と呼んでいる。約500体が展示されている。
幕末に岩槻・久保宿に住んでいた人形師橋本重兵衛が考案したと伝えられる岩槻の伝統工芸品で、かみしもを着ていて、目が大きく童顔なのが特徴。
かみしもを着ているのだから男の子である。衣装の赤色は魔除け。女の子が成長して、こんな裃を着るような立派な男性と結婚できるようにという願いを込めて、贈られた。
内裏雛と違って、男雛、女雛一対ではなく、一体でも飾る。冠や杓など持ち物はない。
岩槻人形が知られるようになったのは、江戸末期の文化・文政期。このかみしも雛によるところが多い。
着物に綿を使ったので、西陣などを使ったものより安く、明治、大正時代に関東中心に流行、埼玉、群馬県に多く残っているという。
珍しいのは、一対(二体)ある寛永年間に作られた「寛永雛」である。日本最古の座り雛とされ、国内に5体ほどしかないといわれる。
雛人形の源流ともいえるものだが、その小ささに驚く。女雛は両腕を開いた姿ながら、両手先がついておらず、着ている衣服も小袖に袴の略装で、男雛に比べ見劣りする。
「寛永雛」に続いて年代順に、女雛に両手先がついて、衣服も十二単衣になる「元禄雛」、面長で大型、豪奢、「贅沢すぎる」と幕府から取締りをしばしば受けた「享保雛」、丸顔の「次郎左衛門雛」、宮中の装束を忠実に再現した「有職(ゆうそく)雛」、面長で現在の雛人形につながる「古今雛」・・・と、岩槻の「雛めぐり」はその変遷を眺めているだけで楽しい。
段飾りも年代とともに豪華で段数も増えていくことが分かる。
岩槻の人形作りは、日光東照宮の造営とかかわりがある。寛永年間、三代将軍家光が造営のため全国から集めた工匠の中で、日光御成街道の宿場町だった岩槻に住み着いた者も多かった。数多く生えていた桐を使ってタンスなどの製品を作ったり、その際に出る桐の粉を糊で固めて人形作りをはじめた者もいた。
元禄年間、京都の仏師恵信が、桐のおが屑と正麩糊(しょうふのり)を使って、土製の人形より軽い人形づくりを伝えたともいわれる。
それが旅のお土産として人気が出て、岩槻藩の専売品に指定され、現在のような産地に成長した。
岩槻では3月3日に「おひな様パレード」、4月29日には「流しびな」、7~8月には「人形のまち岩槻まつり」、11月3日には「人形供養祭」が行われる。
江戸時代は徳川の譜代大名が城主として統治、埼玉県の初の県庁が置かれたこともある。05年、さいたま市と合併、区になった。
昔の日光御成街道沿いの城下町らしい町である。
17年の雛めぐりには、土、日曜日に東武野田線岩槻駅近くの愛宕神社の27段の階段に、家庭で使わなくなった人形約300体を並べた「大ひな段飾り」がお目見えした。
県内では、この市のほか鴻巣、越谷や所沢市でもひな人形や節句人形が作られていて、10年の出荷額は全国首位、シェアも約5割と圧倒的だ。