ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

本多静六 勤倹貯蓄

2010年07月05日 14時54分30秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 勤倹貯蓄

静六は「東大教授」にして「百万長者」だった。造林学や造園学の権威というよりも日本史上最大の「蓄財の神様」として崇める人も多い。「私の財産告白」「私の生活流儀」「人生計画の立て方」(いずれも実業の日本社)の三部作などがあり、その蓄財法や処世術を分かりやすく後世に伝えている。

静六は25歳の時に
①25-40歳 主に蓄財 
②40-60歳 学を究める 
③60-70歳 社会へのお礼奉公 
④70歳以上 温泉に隠居、晴耕雨読
という人生計画をたてた。

その計画どおり、40歳で利息の方が、官庁の事務次官クラスだった東大教授の給料をしのいだ。60歳(1972=昭和2年)で教授を退官したのを機に、蓄えてきたほぼすべての資産を匿名で教育、公共の関係機関に寄付、85歳(1952=昭和27年)で狭心症のため静岡県伊東市で死んだ。

そのモットーは「勤倹貯蓄」だった。超低金利の今ではすっかり死後になった言葉だ。「4分の1天引き貯金」といって、通常収入の4分の1と臨時収入のすべてを貯蓄し、倹約して生活、投資に回す方法である。

もうひとつは、「一日一頁原稿執筆」。子供が生まれると、毎日1頁原稿を書くことを自分に課し、印税を養育費や後には埼玉県内の森林購入に充て、その著作は生涯で370冊に上った。

貯蓄だけでなく投資では、基本的には「先物買い」(成長を見込んでの長期投資)。「2割利食い、10割益半分手放し」(買値の2割の利益が出れば、売って利食いして定期預金に、2倍の利益=10割益が出れば半分を売って損をしないようにする)を原則とした。

オハコの山林にも投資、「財産3分投資法」(株式、預貯金、不動産に3分割投資)をとった。

処世のモットーは「人生即(すなわち)努力 努力即幸福」。「人生の最大幸福は職業の道楽化」だとして、公園の設計(造園)は造林学の余暇とみなしていたようだ。

1930(昭和5)年、現在は秩父市の旧大滝村の中津川地域の森林約2700haを県に寄贈して設けられた奨学金は、1954(昭和29)年から貸与を開始、12年でも年間約30人が利用しているという。

埼玉県の嵐山町(らんざんまち)は、1928(昭和3)年、嵐山渓谷を訪れた際、京都の嵐山(あらしやま)に似ていると、静六が「武蔵嵐山(むさしらんざん)」と命名したことに由来している。武蔵嵐山の名は東武東上線の駅名として残っている。

人生を改良するのはアイデアだと、寝床まで手帳を持ち込み、生涯、メモをとり続けた。

静六は埼玉県にも大きな足跡を残した。巨樹、いや巨人としか呼びようがない。

本多静六 その生涯

2010年06月27日 18時17分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 その生涯

遠山益氏の話を続けよう。

静六は1866(慶応2)年、現在の埼玉県久喜市菖蒲町の豪農、折原家の8人兄弟の6番目に生まれた。家は名主で、田畑は12町あったが、9歳の時父が脳出血で急逝。このため折原家は没落、中学校にも行けず、農業を手伝った。

14歳で東京・四谷の島村泰氏(元岩槻藩塾長)の書生になり、島村氏の勧めで、17歳で東京の官費の「東京山林学校」に入学した。

最初の試験には落第、悲観して古井戸に飛び込んだ。途中でひっかかり、「同じように投身した塙保己一は盲目ながら、6百余巻の『群書類従』などを書いた」という祖父の言葉を思い出し、這い出して、一命を取り留めた。

入学出来たと言っても、中学を出ていないので、52人中50番、ビリから2番目の成績だった。「東京山林学校」は駒場農学校と合併し、「東京農林学校」となり、さらに「東京帝国大学農科大学」と改称した。

代数や幾何は落第点をとっていたが、天性の努力家で、卒業時には優等生で恩賜の銀時計をもらった。

在学中、大学の先生の仲介で、元彰義隊頭取、本多晋の娘、詮子と結婚。婿養子になり、姓が本多と変わる。学生結婚である。

24歳で卒業すると、ドイツへ私費留学した。賊軍の元彰義隊に十分な金があるはずはなく、横浜からマルセイユまでの船旅は、3等船室だった。

機関室の上でエンジンの音で眠れず、南京虫やダニに悩まされた。食事は最悪。それに船酔いが加わり、40日間地獄のような苦しみだった。

入学したのはドイツのドレスデン郊外のターラント山林学校。同じ年、ミュンヘン大学へ入学。25歳で大学から「ドクトルエコノミー」の博士号を取得した。

「エコノミー」の名がついているのは、ドイツでは森林を経済財と考え、林学は農学部ではなく、経済学部に属し、経済学や財政学も勉強させられたからだ。これが、後の蓄財に役だったのは言うまでもない。

1892(明治25)年、西欧を視察した後、帰国、「東京帝国大学農科大学助教授」となる。25歳だった。静六の祝賀会をしてくれたのが、同じ埼玉県の深谷市出身で、当時、JRの前身である日本鉄道の社長も務めていた渋沢栄一だった。

鉄道が東北の地吹雪に悩まされていた渋沢のために、26歳で我が国初の鉄道防雪林の設置に加わる。20代半ばで国家的事業に参画したわけだ。渋沢との交遊は終生続いた。

第1号防雪林の名残は今でも、青森県野辺地周辺のJR東北線に残っている。当時、育った林は駅で製材し、枕木や駅舎の建設に使った。駅に製材担当助役がいたという。静六の「ドクトルエコノミー」の勉強が実を結んだのである。

28歳で東京専門学校(現早大)の講師にもなるが、静六らの提案で千葉県清澄に我が国初の大学演習林ができた。この演習林の製材は、学校の先生の退職金に充てられた。造林の経済効果である。

32歳で「森林植物帯論」で我が国初の「林学博士」。33歳で東京府森林調査嘱託になり、府の奥多摩の水道林造成に関係する。同じ年、「東京帝国大学農科大学教授」に就任、34歳で日比谷公園設計調査委員となり、「造園学者」への道を開くことになる。

驚くのは20代の若さで、「我が国初」の仕事をいくつもこなし、新しい分野に挑戦していく意欲である。日比谷公園が開園したのは1903(明治36)年。日露戦争が始まる1年前だ。「阪の上の雲」時代の雰囲気が、静六の履歴からひしひしと伝わってくる。 (写真は秩父の森林科学館前にある銅像)



本多静六 明治神宮の森

2010年06月27日 13時43分39秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 明治神宮の森

遠山益氏の話を続けよう。

本多静六が残した造林で、最大の遺産は東京の「明治神宮の森」であろう。静六は1915(大正15年)、明治神宮造営局の参与に任命された。静六は東大の教え子たちと協議の末、「自然状態の森にしたい」と考えた。はっきりと言えば「ヤブのような森に」というのである。

モデルは仁徳天皇の御陵だ。前方後円のこの御陵は、江戸時代に前方が崩れて修復した以外は、一切手つかずで青々とした森に覆われている。

「明治神宮の森」は、昔からの森の延長と考えている人が多い。ところが実体は「100%の人工林」。世界でも珍しい人工都市林なのである。仁徳御陵も人工林で、長い年月を経ると、自然林と見紛う森になる格好の実例だった。

実生から育てるには時間がかかるので、全国から献木を受け付けた。関東近辺からは、大八車に巨大なクスを運んでくる姿も見られた。北は樺太、南は台湾と全国各地からの献木を中心に約12万本、365種が植えられた。約11万人の青年団員が勤労奉仕した。

現在は約250種に樹種は減り、逆に本数は17万本に増えているという。

当時の総理、大隈重信がイメージしていたのは、伊勢神宮や日光東照宮のような杉や松の針葉樹を主とした荘厳な森だった。

ところが、皇室の御料地(所有地)だった約70万平方mのこの地は、畑がほとんどで荒れ地のような関東ローム層の乾燥地で、調査の結果、針葉樹には適さないことが分かった。

そこで、針葉樹ではなく、日本列島の森の原風景であるクスやシイ、カシを中心とする常緑広葉樹(照葉樹林)を主材にすることに大隈もやむなく同意した。

シイやカシなら、おなじみのドングリで、世代交代が可能で、その循環で人手をかけなくとも「天然更新」で原生林のような「永遠の杜(もり)」づくりが可能になる。

静六らは、なるべく早く境内の雰囲気をつくるためアカマツなどの針葉樹を植え、その下にシイ、カシ、クスノキなどの広葉樹を植えた。そのうち広葉樹が伸びて、森林を支配していった。

森林総合研究所の群落動態研究室長正木隆氏は、11年8月川口市のSKIPシティの講演で、「静六氏が考えていた森林の極相(永遠の杜)は常緑広葉樹を主体とした針葉樹との混交林だった」と語っていた。これは最近の研究成果とも合致する。

明治神宮の森は、人工林でありながら、このような理念に裏付けされた森なのである。植栽してから10年で90周年。神宮の森は静六や弟子たちが想定した林相状態に近づきつつある。

静六は、巨万の富を得ても、子孫には美田(遺産)を残さなかった。その代り、後世の我々に、いかにも日本的な美林を残したのだった。この森には年間1千万人が訪れる。

本多静六 初の林学博士 久喜市

2010年06月26日 20時47分02秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

本多静六 初の林学博士 久喜市

「本多静六」の名を聞いてすぐピンと来る人は、全国ではもちろん、生まれ故郷の埼玉県でも決して多くはない。

初めて知ったのはもう何十年前のことだろう。日比谷公園のレストラン「松本楼」のテラスの前に立つイチョウの古木――「本多静六の首賭けイチョウ」だった。

71歳までの勤務先の本社が大手町や銀座だったので、日比谷公園は勤務中のずる休みの場所だった。この楼では何度もカレーやコーヒーを楽しんだ。

現在の日比谷交差点にあったこのイチョウは、1901(明治34)年の道路拡張で伐採されようとしたのを、この公園の設計者だった静六が、「私の首を賭けても移させて」と「活着は不可能」と反対する東京市議会議長の星亨(ほしとおる)に懇願、今の場所まで450m移動させた話に、その名はちなむ。

行きつけのさいたま市中央図書館で図書館友の会と共催で「永遠の森づくりと本多静六」と題する講演会があるとのことで、予約して出かけた。

講師が、母方の曾孫で、細胞生物学の専門家として知られる遠山益(すすむ)氏(お茶の水女子大学名誉教授)というからなおさらである。

300冊以上の本を書き、「東大教授で億万長者」だったマルチ人間の静六は、04年頃から著作権が切れたのを幸いに、「蓄財」や「人生成功の指南役」としての本が10冊ほど復刻されていて、その道で読んだ人が多いかもしれない。

その二つには何の関係もなかった私にとっては、静六は、我が国初めての「林学博士」であり、日本の「都市公園の父」である。静六が初めて手掛けたのが、練兵場だった日比谷公園の設計だった。

遠山氏によると、公園の設計は赤レンガの東京駅などの設計で知られる辰野金吾博士が引き受けていた。建築家ではあっても造園学は知らず、困っていた博士は、当時、東京府の水道水源林の造成に関与していた静六に出会い、ヨーロッパの公園を見てきた静六にこの仕事を押し付けた。

静六も公園の設計はやったことはなかったの、1903(明治36)年に完成すると、各新聞とも「洋風都市公園の第1号」と絶賛、静六は造園学者として、日本の著名な公園のほとんどを占める70~80の公園の設計・改良を手掛けることになる。

私も全国の公園の多くを見て回った。さいたま市の大宮公園、埼玉県秩父市の羊山公園、会津若松市の鶴が城公園、水戸市の偕楽園、群馬県の敷島公園、長野県小諸市の懐古園、福岡市の大濠公園・・・などに静六が携わっていることを知ると、静六の手のひらを回っていただけだと悟った。

巨樹も好きで、いろいろ見て回った。静六にも「大日本老樹名木誌」の著書がある。人間にも巨樹としか呼びようのない大人物がいるものだ。静六もその一人。畏れ多くも静六と呼び捨てにしたのは、煩雑さを避けるためだ。

埼玉県の現在の久喜市菖蒲町の豪農折原氏の生まれながら、東京帝国大学農科大学の学生時代、彰義隊の首領(頭取)だった本多晋の婿養子になり、本多姓になった。

久喜市の菖蒲総合支所5階に記念館があり、関わった全国の公園70か所の写真や所在地、日比谷公園と青森県野辺地町の鉄道防雪林の400分の1模型などが展示されている。

記念館は、15年度に本田家から新たに資料約1100点が寄贈されたのを機に改装され、厳選された約15点が新たに展示され、19年1月新装オープンした。

静六が1902年(明治35年)に小笠原群島視察で発見した桑の巨木の標本も登場した。高さ約2m25cm、幅約95cm、厚さ約4cmの一枚板で、「日本最大の桑の木」と伝えられてきた。

妻で、日本で4人目の女性医師となった銓子(せんこ)と幕末の彰義隊の幹部だった義父の晋(すすむ)の資料も加わった。

 

 


 
 
 
 
 


塙保己一 新墓所 本庄市

2010年05月17日 15時19分11秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 新墓所 本庄市

埼玉新聞によると、塙保己一(1746~1821)の新しい墓所が、没後190年を記念して、命日のさる12年9月12日、出身の本庄市児玉町保木野に完成した。

遺徳顕彰会(会長・吉田信解本庄市長)が取り組んでいたもので、旧墓所から約200m東で、生家に近くなり、周辺は「塙保己一公園」として整備されようとしている。

新墓所は、旧墓所の台石などが老朽化し、脇のカシの木が墓碑を圧迫するようになったので、1921(大正10)年に建立された「没後百年祭記念碑」の隣に移された。今回同時に修復された百年祭記念碑は、渋沢栄一が揮毫している。

文政4年76歳で死去した保己一の墓所は最初、東京・四谷の安楽寺にあった。1897(明治30)年廃寺になったので、新宿区の愛染院に改葬された。その際、親族が分骨を受け、祖先の墓に並べて碑を建立した。

旧墓所は、1911(明治44)年、当時の児玉町教育会が没後90年祭を開いた祭、移転した。

新墓所周辺の新公園には、保己一が7歳で肝臓病で失明する前に見たホオズキの赤やユズの黄色を覚えていたという話にちなんで、ホオズキやユズも植えられることになっている。

塙保己一記念館は、旧児玉町八幡山の雉岡城址に1967(昭和42)年に建てられている。

新墓所は、皆が訪れやすい場所にあるので、生家、記念館を結ぶ塙保己一ルートとして、本庄市の新名所になりそうだ。

川越市にある県立の視覚障害児の特別支援学校には「塙保己一学園」の名前がついている。09年、「県立盲学校」から改名された。全国で偉人の名がついた特別支援学校はここだけだ。

幼稚部、小学部、中学部、高等部普通科、さらに高等部を卒業した生徒が進学する専攻科では、指圧、はり、マッサージなどの国家資格をめざす教育も行っている。

特別支援学校の中では県内最古。通学範囲は全県で、寄宿舎も完備、約100人が学んでいる。

卒業生が作詞した校歌には「刻む歩みに保己一のまこと心を受けつぎて・・・」とある。

塙保己一 群書類従

2010年05月16日 11時41分31秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 群書類従

 番町で目あきめくらに道を聞き

という有名な川柳がある。これは保己一のことを読んだものとして知られる。番町は、当時の江戸・表六番町(現千代田区三番町)で「和学講談所」があった所だ。

この「和学講談所」は、講談を語るところではない。「儒学、神道、歌道には専門家がいて、教えを受けられる。しかし、国史や律令などの国学=和学にはそのようなところがない」と、保己一が、時の老中松平定信に願い出、その許可を得て設立された研究所兼大学だった。「群書類従」の刊行も大きな仕事の一つとなった。

「和学講談所」は、定信が「温古堂」と命名した。論語の「温故知新」からとった名前である。「温古堂」はのちに、保己一の号に使われたりした。

「群書類従」の版木や保己一の使った質素な机など、保己一由緒のものを保存している東京都渋谷区の國學院大學に近い「温故学会」はその名にちなんでいる。

「五重の塔」などを書いた幸田露伴は、「日本では、古いものを秘伝と称して特定の人たちに特定の方法で、密かに伝える慣習があった。『群書類従』などの出版で、古くからの文化が広く開放され、すべての人がその恩恵を享受している。だれもが、それまで手の届かなかった文献をじかに手に取ることを可能にし、学問の普及に貢献した」と保己一の業績を評価している。

同じ埼玉県北の深谷市出身で、「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、1927(昭和2)年に建てられた「温故学会」の建物建設の先頭に立って尽力した。

その渋沢は「検校は一面から見ると、学者であり、知識人であり、また歌人である。しかし、別な面から見ると、実業家であり、同時に政治家でもあった」と、この郷土の偉人を評している。

渋沢の言うとおり、保己一は単なる学者や知識人ではなかった。41年を費やした666冊の「群書類従」の出版は実業であり、保己一はその編集長と出版社社長を兼ねていた。「和学講談所」では今で言う学長、あるいは総長だった。その金策に奔走する姿は中小企業の社長さながらであった。

盲人社会の階級を一歩一歩登っていったのも、旗本と同等と見なされていた検校になれば、信用が高まり、「群書類従」の金策が容易になるとの判断があった。老中に将軍にもお目見えがかなった。政治家保己一の面目躍如であった。

盲目のハンデを抱えながらこのようなマルチ人間が、埼玉の片田舎から出たことに驚くばかりだ。


塙保己一   雨富検校

2010年05月11日 17時13分24秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 雨富検校

保己一は人生で二度大きな挫折に見舞われた。その危機を救ったのは、保己一が江戸で入門した盲人の一座の頭領である雨富須賀一検校だった。

当時、盲人の男性たちは幕府公認の「当道(とうどう)座」といわれる組合を作って、あんまやはりの治療、琴、三味線の音楽の流し、高利貸しなどで生活していた。このような盲人が自活する組合は世界に類はなかった。

いずれも技術を修行して身につける必要があった。多くの幕府公認の階級があり、その最高位が検校。検校はそれぞれ弟子を持ち、一座を作っていた。

雨富検校は、茨城県の農家の出身、幼い頃病で失明、江戸に出てあんまとなり、検校に出世、家は現在の新宿区の四谷にあった。その本姓が「塙」だった。

人間には、得手不得手がある。保己一は、江戸に出る前から記憶力は抜群だった。しかし、生まれながらの不器用。あんまもはりも下手、琴も三味線も調子外れだった。


幕府は盲人の生活を保証するため、「座頭金(ざとうがね)」という高利貸しを許していた。その取り立てもできず、完全な落ちこぼれであった。

江戸に来て1年後の16歳の時、絶望して、近くの九段坂にある牛が淵の堀に身を投じようとしたが、「命の限り励めばできないことがあろうか」という検校の言葉を思い出し、思い直した。

検校は、保己一が学問好きで非凡な才能の持ち主であることは分かっていたので、「盗みとばくち以外、何でも好きなことをやれ。三年間面倒を見る」からと、好きな学問に打ち込むことを許した。

生きがいを得た保己一は、嫌いだったあんまやはりにも精を出し、代金の代わりに本を読んでもらった。学問好きなあんまは評判になり、検校の隣家の旗本は一日おきに本を読んでくれ、国学者に紹介してくれた。

こうして学問への道が開かれ、国文学、国史、神道、漢文、律令(日本の古い法律)、医学と範囲は広がっていった。

学問をしながら、「般若心経」を毎日、百回読むことを決め、18歳で普通の盲人たちの上に立つ「衆分」に昇進した。

目の見えない保己一の学問は、人が読んでくれるものを必ず覚えこむやり方で、絶えず聴覚を緊張させていなければならない。ただでさえ健康でない保己一はこのストレスのため20歳頃病気がちになり、良くならなかった。

心配した検校は、今で言えば転地療法のため、保己一に伊勢神宮への代参を勧め、5両を与えた。目の不自由な保己一のため父親が同行した。

伊勢の後、京都、難波、播磨、紀伊、大和、吉野へまわり、60日余。保己一はすっかり元気を取り戻した。学問の視野が広がったのは言うまでもない。

盲人社会では、昇進のために大金がいる。「衆分」「勾当」へと昇進の際、保己一の金銭の面倒を見てくれたのも検校だった。

保己一が、検校の本姓「塙」を名乗った理由がよくわかる。雨富検校は、保己一が38歳で検校になった翌年没した。

雨富検校と保己一の墓は四谷の愛染院に並んで立っている。(写真) 目は不自由でも具眼の士がいたのである。この項は主に、「埼玉の偉人 塙保己一 利根川宇平著」(北辰図書)による。


塙保己一 グラハム・ベル

2010年05月11日 10時01分47秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
塙保己一 グラハム・ベル

それではヘレン・ケラーはどうして保己一のことを知っていたのだろうか。

保己一についての著書が多い元埼玉県立盲学校長の堺正一氏は「奇跡の人・塙保己一 ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人」(埼玉新聞社)の中で、「電話の発明者として有名なグラハム・ベル博士が、ヘレンの母親に保己一のことを話して聞かせ、励ましたようだ」と推測している。

氏には、この他にも「今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ」(同社)などの著書があり、このシリーズもこれらの本によるところが多い。

ベル博士の本職は、実は聴覚障害者教育の専門家で、全障害をその教育に捧げた。その博士から明治の初め、文部省から派遣されていた伊沢修二という人が教えを受けていた。
1876年、博士が初めて電話の実験で通話した相手はこの人だったと言われるほど、博士と親しい間柄だったので、「日本には幼くして失明したのにめげず、大学者になった人がいる」と話していたのではないか。

博士は、ヘレンの家族ととても親しい仲で、ヘレンの最初の先生でもあったという。ヘレンの先生になった有名なサリバン先生がヘレンのうちに紹介されたのも博士の力添えによるものだった。

ヘレンは1937年の埼玉会館での講演で、「母から塙先生のことを聞き、先生を目標にがんばってごらんなさい」と励まされたと語っている。

伊沢は帰国後、文部省の編輯(編集)局長などを歴任し、教科書の編集責任者を務めた。

1887(明治20)年の文部省発行の「尋常小学校読本巻之三」には、保己一が弟子たちに源氏物語の講義をしていた際、風でロウソクの火が消えてしまった。弟子たちがあわてているのを察して、保己一が「目が見えるということは、不便なことですね」と言った有名な逸話が紹介されている。

ヘレンは、同じ講演の中でこの逸話を引用しているので、伊沢が編集したこの教科書の逸話のことも知っていたのではなかろうか。

伊沢は、国立東京盲唖学校の校長も務めた。西洋音楽を日本へ移植した人でもあり、「小学唱歌集」を編纂、東京師範学校や東京音楽学校の校長も歴任した

塙保己一 ヘレン.ケラー

2010年05月10日 13時13分22秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 

塙保己一 ヘレン・ケラー

病気のため一歳半で、目が見えず、耳も聞こえず、話すこともできなくなり、三重苦に苦しみながらも、ハーバード大学を卒業し、世界中の身体障害者の社会的地位の向上のために一生を捧げた「奇跡の人」、米国のヘレン・ケラー。1937年、一回目の来日で、浦和の埼玉会館で講演した際、次のようなことを話している。

「私は特別な思いを持って、埼玉県にやってきました。それは、私が心の支えとして、また人生の目標としてきた人物が埼玉県出身だったからです」。

この人こそ、「群書類従」666巻を編集・発刊した江戸時代の盲目の大国学者・塙保己一だ。埼玉県内の「県ゆかりの人物」の第一位に選ばれている人物である。

無知とは恐ろしいものだ。最近まで、名前は「はなわほ・きいち」と読むのだろうと思っていたし、ちょっとした図書館ならおいてある「群書類従」の意味も知らず、手にとったこともなかった。

もちろん、「はなわ・ほきいち」と読むのだが、正しい読み方が分かったのは、たまたま、塙という人と接触する機会を得てからだった。

「保己一」の名は埼玉県の出身地に関わりがある。保己一は1746年、埼玉県北部の児玉郡保木野村の農家に生まれた。保木野は後に児玉町、現在は本庄市に編入されている。西側に神流川があり、川を越えれば群馬県だ。

保己一は幼名は寅之助(後に辰之助)、3歳から肝臓病で5歳で失明、12歳で母を失った。15歳でソーメン箱に着替えを詰めて江戸に出て、雨富須賀一(あめとみ・すがいち)いう検校(けんぎょう=盲人の最高位)の率いる盲人の一座に入門、「千弥(せんや)」と呼ばれた。

18歳で衆分という盲人の位に昇進すると出身地の名をとって「保木野一」と改名した。盲人一座では、衆分以上になると「◯◯一」という名をつける習わしがあった。30歳で検校に次ぐ盲人の高い地位「勾当」(武士と同格)に昇進する際、「保己一」に変えた。

「保己」とは、中国の文選(もんぜん)という書物の中にある「己を保ちて百年を休んず」という言葉からとったものだという。百年も長生きして、「群書類従」の編集・出版を成し遂げようという決意を表明したものだった。

勾当になると、性を名乗ることができるので、父の名の荻野(宇兵衛)を称するのが自然だったが、当時名古屋に同姓の平家琵琶の名手がいたので、雨富検校の実家の苗字をもらって、「塙保己一」とした。

それでは「群書類従」とは何か。「叢書」という言葉がある。「同じ分野に関する事柄を同じ形式や体裁に従って編集・刊行した一連の書物」と辞書にある。中国には、「漢魏叢書」などあり、日本でも平安時代、「秘府略」という一千巻の叢書を作ったことがあるが、今では二巻しか残っていないという。

中国の古典に「以類 相従(類をもって、相従う)」という言葉がある。「同じ種類のものは、その種類に従って分けてある」という意味だ。

「群書類聚」とは、「群書(いろいろな書き物)が集めてあり、同じ種類のものは分類してある」という意味になるだろう。「群書類従」とは、国史・国文学を中心とする国学の日本最大の叢書、文献資料集で、今流に言えば、一大データベースと言える。

保己一の生前に本になったのは、正編で、1273点の古い本や書き物が集められ、それが、神祗(じんぎ=神がみ)、帝王、律令、和歌、日記、武家、雑など25部門に分類され、その冊数は目録1冊を含め666冊。

「群書類従」に入れられたものは、「万葉集」や「源氏物語」のような大部で確実に後世に伝えられるものではなく、一般の人からは関心の持たれることは少ないが、文化的価値が高いもの、一巻、二巻からなる地味な零細本や珍本が多かった。

「年中行事秘抄」「皇太神宮儀式帳」などに混じって、「枕草子」「方丈記」「伊勢物語」「土佐物語」などポピュラーなのも入っている。

まだ、活字がない時代なので、山桜の版木に一字一字文字を刻み、それに墨を塗って手刷りするやり方。両面に彫った版木は、両面彫りで17,224枚に上った。

印刷に先立ち、公家や武家、神社、寺院などに秘蔵されている、奈良時代から江戸時代初期までの日記、記録、手紙、歌、物語などの古い本や書き物を探し、貸してもらい、読み、筆写し、写し間違いなどを校閲し、編集する・・・。

版木を作り、印刷して、宣伝、販売まで。多くの協力者を得たといえ、それを指揮したのが保己一で、40年余を費やした。これを盲目の身で成し遂げたのだから、ヘレン・ケラー同様、「奇跡の人」としか呼びようがない。

幕府の援助は得たものの、自らの資材をつぎ込み、多額の借金を重ね、塙家に残ったのは借金の山だった。保己一は、「群書類従」正編の刊行が完了した2年後に76歳で死んだ。

全国の盲人を統括する盲人社会の最高位「総検校」に上り詰めていた。10万石の大名格だった。墓は東京・四谷の愛染院と郷里の保木野にあり、郷里に生家と「塙保己一記念館」がある。