静六は「東大教授」にして「百万長者」だった。造林学や造園学の権威というよりも日本史上最大の「蓄財の神様」として崇める人も多い。「私の財産告白」「私の生活流儀」「人生計画の立て方」(いずれも実業の日本社)の三部作などがあり、その蓄財法や処世術を分かりやすく後世に伝えている。
静六は25歳の時に
①25-40歳 主に蓄財
②40-60歳 学を究める
③60-70歳 社会へのお礼奉公
④70歳以上 温泉に隠居、晴耕雨読
という人生計画をたてた。
その計画どおり、40歳で利息の方が、官庁の事務次官クラスだった東大教授の給料をしのいだ。60歳(1972=昭和2年)で教授を退官したのを機に、蓄えてきたほぼすべての資産を匿名で教育、公共の関係機関に寄付、85歳(1952=昭和27年)で狭心症のため静岡県伊東市で死んだ。
そのモットーは「勤倹貯蓄」だった。超低金利の今ではすっかり死後になった言葉だ。「4分の1天引き貯金」といって、通常収入の4分の1と臨時収入のすべてを貯蓄し、倹約して生活、投資に回す方法である。
もうひとつは、「一日一頁原稿執筆」。子供が生まれると、毎日1頁原稿を書くことを自分に課し、印税を養育費や後には埼玉県内の森林購入に充て、その著作は生涯で370冊に上った。
貯蓄だけでなく投資では、基本的には「先物買い」(成長を見込んでの長期投資)。「2割利食い、10割益半分手放し」(買値の2割の利益が出れば、売って利食いして定期預金に、2倍の利益=10割益が出れば半分を売って損をしないようにする)を原則とした。
オハコの山林にも投資、「財産3分投資法」(株式、預貯金、不動産に3分割投資)をとった。
処世のモットーは「人生即(すなわち)努力 努力即幸福」。「人生の最大幸福は職業の道楽化」だとして、公園の設計(造園)は造林学の余暇とみなしていたようだ。
1930(昭和5)年、現在は秩父市の旧大滝村の中津川地域の森林約2700haを県に寄贈して設けられた奨学金は、1954(昭和29)年から貸与を開始、12年でも年間約30人が利用しているという。
埼玉県の嵐山町(らんざんまち)は、1928(昭和3)年、嵐山渓谷を訪れた際、京都の嵐山(あらしやま)に似ていると、静六が「武蔵嵐山(むさしらんざん)」と命名したことに由来している。武蔵嵐山の名は東武東上線の駅名として残っている。
人生を改良するのはアイデアだと、寝床まで手帳を持ち込み、生涯、メモをとり続けた。
静六は埼玉県にも大きな足跡を残した。巨樹、いや巨人としか呼びようがない。